自分の言葉がキツくなっている自覚はあった。
こんな最悪の気分で人と会話するべきではないとも思っていた。それでも、あかりの口は止まってくれなかった。
端的に言って、あかりは非常に、腹が立っていたのだ。
「……遠いから打ちたくない? でも、大会に出るんだよね? そっちの方が、その」
「うん。大会の方が碁会所行くより面倒だよ。でも、一身上の都合でね、私はプロになるの。そのために、いっぱい大会に出ないといけないの」
「なぜ? プロになるならプロ試験を受けるだけでいいじゃないか」
なんだかめんどくさくなってきたなぁ、とあかりは思い始めた。
「お父さんとお母さんを納得させないと、プロ試験に受けることもできないじゃない? 何日も学校休まないといけないんだから。だから、プロ試験に合格できるくらい実力あるよって証明しないといけないの。塔矢君にはわからないかもしれないけど」
その理屈は、確かにアキラには理解しがたかった。周りの人間からいつプロになるのかと言われ続けている子どもだから。囲碁があって当然の環境で育ったアキラにはとても理解できないものだった。
わからない。なぜあれほどの実力を持ちながら、彼女の両親はプロ入りを認めないのか。
「……ボクはそれに協力できる。ボクのお父さんは知ってるよね? お父さんから君のご両親に君の実力を説明してもらえれば、きっと納得してもらえる。だから」
だから、代わりに自分と打って欲しい。そう続けるつもりだった。
「えー……それ、意味ないと思うよ」
「な、なぜ? 意味ないことはないだろう」
「だってお父さんもお母さんも、塔矢名人なんて知らないもん。名人がうちに来ても、着物着た変なおじさんが変なこと言ってるーくらいにしか思わないよ」
アキラは、あかりの言っている言葉の意味がわからなかった。
知らない? 塔矢行洋を? 日本囲碁界で文句なく現代最強のプロを? まさか、これだけの実力を持つ少女の親が囲碁について無知なのか? 自分の碁は我流だと以前この子は言っていたが、ひょっとしてそれは真実なのか。
というかこの娘、塔矢行洋を変なおじさんとか言ったか今。
「それに私には、自分でやらないといけない目的があるの。他人の力を借りちゃうと目的を独り占めできないじゃない? だからできるだけ自分だけの力でやり遂げるの」
あかりの後で、ヒカルは口元を引きつらせていた。
以前自分はアキラを突き放した。わざわざ中学校まで来たアキラに対して、お前とは打たないと宣言して、カーテンを閉めて拒絶した。
それに比べればまだマイルドだし、この程度で傷つくような男ではないと思うが、それでもヒカルはあかりの肩を突きながら小声で言う。
「あかり、おいあかりってば。もっとオブラートに包んで。言葉のトゲすごいから。ツンツンにもほどがあるから」
そいつはお前のライバルになるんだから、とは言えなかった。
「ヒカルはちょっと黙ってて」
背後からこそこそと声をかけられるも、あかりは振り向きもせず黙らせた。
今日は、ヒカルとのデートのつもりだったのだ。
囲碁に関わることでしか外出できないけど、それでも二人でいろんなところを回るつもりだったのだ。絶対今日を楽しい1日にする。そう決心していたのだ。
それがまず、あの越智とかいう少年のせいでケチがつき。
ついでアキラがやってきてこの問答である。
その後ろにヒカルを連れて。
そして、またヒカルは、あの形容し難い目で塔矢アキラを見るのだ。
それは越智を見つけた時にも見せた瞳で、そのせいで彼に対しても必要以上に冷たく当たってしまった。
──どうしてヒカルは、彼らに対してあんな切なそうな目を向けるのだろう。
──なんでヒカルは、私には見せない瞳を彼らに向けるのだろう。
あかりは自覚している。自分の今の行動が、嫉妬による八つ当たりだと。
そんな感情が顔に出ていたのか、アキラが明らかに傷ついた顔をしたのをヒカルは見た。自分の思いが空回りしていることを自覚し、無意識に近づいていたあかりから体を放し、一歩、力ない足取りで下がった。
その目は親と逸れた迷子のように心もとなく、途方に暮れていた。
そんな目を、ヒカルは初めて見た。
いつだってこいつは、鋭く前を見据えて突き進んでいた。それは佐為を追う時もそうだし、プロになってからもそうだ。
その瞳に宿っていた炎のように強い意志に惹かれて、自分はあいつを追いかけることを決めたのだ。
なんでお前が、そんな弱々しい目をするんだ。
自分でも驚くほどにショックを受けたが、その直後、アキラがこちらをキッ、と睨みつけてきた。
それは、強い瞳ではあった。
でも以前の、自分に向けられていたものとはかけ離れていた。そこには憎しみすら宿っていた。初めて向けられた感情に思わずヒカルはたじろぐ。そんなヒカルに、アキラは叫ぶように言う。
「君は、藤崎さんと打つんだろう?」
「え、は?」
なぜそれがわかる? ヒカルは混乱で咄嗟に言葉が出ない。
「藤崎さんが他の人と打たないと言うのは、君と打つためか? それとも君が縛り付けているのか?」
「ちょ、ちょっと塔矢君。違うよ、こないだも言ったでしょ? ヒカルは碁を打てないの」
こないだってなんだ? と思うも口を挟む暇はなかった。
「嘘だ」
アキラが間髪入れずにあかりの言葉を否定したからだ。
「ヒカル君は正確に君と越智君? さっきの人との実力差を把握してたよ。越智君が投了する前に、対局が大差で終わりかけてると一目で理解していた。ボソっと言ってたけど、即落ち二コマ、だっけ?」
それにアキラは、ヒカルの口から直接自分は打てない、とは聞いてない。『フリースペースに来たのは藤崎さんと打つためか』とアキラが聞いた時、本当に自分が打てないならその旨を口にした方が会話としては自然ではないか。わずかな違和感ではあるが、自分については何も言わずただ『越智と』と答えたのは、まるで自分が打てるのは当たり前の前提とした受け答えのようにアキラには思えるのだ。
「なぜ打てることを隠すのかは知らない。でも、ボクが藤崎さんと打つのを邪魔しないでくれ」
それは、命令ではなくむしろ懇願に近かった。
なぜこれだけ必死になるのか、その理由をヒカルは知っている。だからヒカルはあかりに、打ってやれよ、と言葉をかけようと思った。あかりの実力向上のためにも、切磋琢磨するライバルは絶対に必要だと思うから。
しかしあかりは、ヒカルの思惑を知った上で無視した。
アキラとも、越智とも、二度と打つつもりはないのだ。
それより何より、今はヒカルが秘密にしたいと思っていることを隠さなければならない。
自分とヒカルの間だけの秘密だ。
私たちの間に、入ってくるな。
「あのね、塔矢君。ヒカルが打てないと言ったのはね、ヒカルが碁石を触れないからなの」
「触れない?」
「ヒカルは碁石アレルギーなの」
「……なんでそんなくだらない嘘までついて」
あ、やべ、とヒカルは思った。アキラの目つきがさらに鋭くなる。
「何よ、嘘じゃないもん」
「ヒカル君は、さっき碁石を片付けていたじゃないか」
ばっ、とあかりは振り向いた。ヒカルを見、碁盤を見て、碁石が片付いていることを確認してからまたヒカルを見た。
その目には困惑がありありと浮かんでいる。
じわりと冷や汗がにじむのをヒカルは感じた。
越智がトイレに駆け込んだ時、つい院生時代の癖が出てしまった。負けた側がショックを受けて、石を片付けずに立ち去ることはままあるのだ。
加えて越智への心配と碁石の片付けとで迷う越智の祖父への気使いとか、碁を愛し続けると言う誓いから碁石を雑に扱うことに対して忌避感すら覚えていることとか、碁石が少なかったことも相まって、ささっと碁石を片付けてしまったのだ。
どうしよう、とヒカルは迷う。
後ろめたさが今更のように襲ってくる。
自分の決めた贖罪のために、ずっとあかりに嘘をつき続けていたのだから。
怒るだろうか、失望されるだろうか。
嫌だ、とヒカルは感じた。
それは自分の心の底から湧き出た、紛れもない本心だった。
あかりに、嫌われたくない。
がし、とあかりに両肩を掴まれる。決して痛くはないそれにヒカルはビクンッと過剰に反応した。そんなヒカルに、あかりは若干腰を落としてヒカルと視線を合わせて、
「ヒカル、碁石触ったの⁉」
「……あ、うん」
ヒカルは正面から迫るあかりの剣幕についと目を逸らし、か細い声で辛うじて相槌を返した。
それを聞いて、あかりは再びアキラへと向き直る。
「ごめん塔矢君、ヒカルを病院に連れて行かないと!」
「え?」
それはアキラとヒカル、どちらの声だったのか。
言葉に詰まる二人を置いてけぼりに、あかりはまくし立てる。
「ヒカルは碁石に触るとね、1時間で全身真っ赤になって、2時間で喘息出てゴホゴホってなって、三時間で呼吸できなくなって死んじゃうの! だから三時間以内に病院でステロイドジョーチューってのをしないといけないの! ほらヒカル行こ!」
もちろんヒカルにそんな疾患はない。しかしあかりの勢いに飲まれて、ヒカルは本当に自分が危篤状態にあるのではないかと言う錯覚に陥った。
ヒカルはあかりに腕を掴まれ、引きずられるように駆け出した。その途中でヒカルはちらりと横目で塔矢アキラを盗み見ると、既にあかりの勢いから心を立て直していて、憎々しげな視線をこちらに向けていた。