すでに日が暮れかけていた。
夕暮れの冷たい空気の中を、あかりに手を牽かれて、逃げるように暗い街路を走っていた。足元には水溜りが点在していて、昼ごろに一雨降ったのだろう。パシャリ、パシャリ、と踏むごとに靴下まで染み込んでくる。
そのまま滑り込むように地下鉄へと乗り込んだ。
ちょうど帰宅ラッシュにぶつかってしまったようで、車内はほぼ満員だった。あかりは腕を引っ張るままにヒカルを壁際に立たせ、あかり自身は向かい合って立ち、両腕を壁に突っ張った。まるで、と言うよりまさしくヒカルを満員の客から守る位置に立った。
正直男として恥ずかしいと言う気持ちはあるが、今はまだあかりの方が頭一つ大きいため自分があかりを守れるかと言われると微妙なところだ。
ごとん、と慣性とともに列車は動き出す。
二人の間に会話はない。まっすぐこちらを見下ろすあかりの視線に耐え切れず、ヒカルは視線を逸らす。そこにはあかりの腕しかなかった。
気まずい。
と言うか、あんな剣幕で病院に行こうと言っていたのに、なぜ普通に地下鉄に乗っているのだろう。本当に急病だと思っているなら、途中ですれ違った棋院のおとなの人に救急車を呼ぶよう頼めばいいのだ。
そもそもヒカルは、碁石を触っただけで発疹が出ることもなければ喘息が出ることもない。自分からそんな症状が出るとあかりに言ったことはないのに、どうしてあかりはあんなペラペラとアレルギー症状を並べ立てることができたのか。
ちらり、とあかりを横目で見上げれば、その顔は眩しい笑みを浮かべていた。
「あ、あかり?」
「ん、なあに?」
ニッコニコのまま首を傾げて聞き返してくる。その声にこちらのアレルギーを心配するような色はまるでない。
自分の顔の両側に突っ張るあかりの腕で左右の視界を塞がれ、今ヒカルに見えるのはあかりの笑顔だけだ。
……正直、怖い。
一体あかりは、何を考えているんだろう。
この笑顔は、まさか怒りを隠すための仮面なのだろうか。
「その、俺の、さ。アレルギーなんだけど」
でもあかりのことより重要なのは、自分のことだ。
自分にはホントはアレルギーなんてないのに、五年以上もあかりに嘘を吐き続けていた。
それが、多分ばれたのだろう。
だからあかりはこうして自分を追い込むようにしてこちらを見つめてくるのだ。
だったら、今のうちに自分から謝っておこう。そして許してもらおう。
嫌われたくなかった。
あかりに嫌われるのだけは嫌だと、叫ぶ自分が心の中にいる。
「俺本当は……」
「いいの」
あかりは人差し指でヒカルの口を押さえて、小さく首を振った。
「ヒカルはアレルギーなの。でも今日はちょっとしか触らなかったからたまたま喘息が出なかったの。それでいいじゃない」
ね? と言って、あかりはさらに笑みを深めた。
それは、まるで子供に言い聞かせる母親のような穏やかな口ぶりで、ヒカルはなんだか自分が駄々をこねている気分になってしまった。
ああ、そうか。ヒカルは思う。そう言うことか、と。
罪悪感はいまだに心の底に残っているけれど、恐怖や緊張は、安堵の溜め息と一緒にふわりと体から抜けていった。
「……わかった」
その声に普段の柔らかさが戻ったことに気づいたあかりは、殊更に明るい声で、
「それにしても塔矢君しつこかったねー。なんでそんなに私と打ちたがるんだろ」
「ライバルだと思ったからじゃねーの? やっぱ碁が強くなるには一緒に高め合う存在とか目標って大事だと思うし」
「じゃあ私にはヒカルがいるから大丈夫だね」
「……そう、だな」
ヒカルは、あかりの言葉に即答できなかった。
あかりに嫌われたくない、あかりと離れたくないと願う自分がいる。
だからこそ自分はあかりから離れるべきだろうとヒカルは思う。
だって、佐為は。
人類史上最も碁を愛したはずのあいつは、もう二度と碁を打つことができないのだから。
思い出される、最期の対局。
あの一局が、あの石の並びが、罪悪感とともにいつまでも心に残っている。
あんな一局を最期に消えてしまった佐為の無念を思えば、その原因である自分が何を思う、と言う話だ。
──ヒカルなんか私に勝てないくせに
──ヒカルなんかまだ私に勝てないのに!
消える数日前に投げつけられた言葉が、今も耳に残っている。
消えゆく自分を自覚しながら、悲鳴のように叫んだあの時、佐為はどれほどの絶望を覚えていたのだろう。焦燥と苦悩に満ちたそれを、自分はまるで相手にせず、ふてくされて碁を打つことを拒絶した。
眉をしかめる。
自分のような罪人が、あかりと離れたくないだなんて……なんて、おこがましいことを考えているんだろう。
「ヒカル? どうしたの?」
「……あかり」
「なに?」
「絶対、プロになろうな」
あかりは一瞬キョトン、とした顔を見せた後、すぐ笑顔になって、
「うん!」
と頷いた。
◯●◯●◯●
「おっと」
バタバタと連れ立って駆けていく二人組の子供に、緒方は二人を避けながら記憶を辿った。
「確か、見学してた子たちだったな」
途中から男の子の方は会場から出て行ってしまっていたが、大会が終わるまでずっと女の子の方を待っていたのだろうか。
大会が終わり、棋院の担当者との挨拶も済ませ、名人と二人で帰ろうとしていたところだった。子ども二人が来た道を見やれば、棋院に来た客が自由に対局できるように開放されているスペースから出てきたようだ。部屋として区切られている場所ではなく、観葉植物や棚などで軽く仕切られているだけで、それらの隙間からそこに誰がいるかは苦もなく把握できる。
そこには見知った顔がいた。
見慣れたおかっぱ頭に、通っている小学校の制服姿だ。
「先生、アキラくんですよ」
「アキラ?」
緒方は対局スペースに歩を進める。当然行洋もその後を追い、入ってきた二人の姿にアキラは、あ、と呟いた。
「お父さん、緒方さん」
「どうしたアキラ、わざわざ棋院まで。大会に興味でもあったのか?」
「あ、いえ。大会ではない、です」
父親の問いかけに、アキラはバツの悪い顔で視線を泳がせた。そこで緒方が、
「そう言えば、今子どもが二人ここから走って行ってしまったようだが、何か知っているかい?」
「あっ」
アキラはあからさまな反応を見せた。それを自分でもわかったのだろう、アキラはしまった、と言う顔をしてすぐに俯いてしまった。
それから数秒、沈黙の時間が三人の中に流れる。
「アキラ、私たちはもう帰るが、お前はどうする?」
「……少し、棋院の方に用事ができました」
「用事?」
緒方は怪訝な顔をした。行洋も同じような顔をしているだろうと思う。
もしかして、と緒方は思い、
「もしかしてアキラくん、ようやくプロ試験を受けるのかい?」
「いいえ」
これだ、と思って問い掛ければ、しかしアキラは首を横に振る。
俯いていた顔をあげ、アキラは今まで父親にも見せたことのない強い瞳で行洋を見据える。
「それより先にやらなくてはならないことができました」
「それは? プロ試験より優先することとは?」
緒方が右にずれ、塔矢親子の会話の邪魔にならない位置から二人を見やった。
今までアキラは、どちらかと言えば気遣いのできる母親に似ていて、勝負師としてはどこか物足りない、礼儀正しくおっとりとした空気を纏った人間だった。
緒方はニヤリと笑う。
それがどうだ。今朝塔矢名人を迎えに来た時にはなかった、鋭利な日本刀を思わせる冴映えとした空気は、まさに今目の前にいる日本最強のプロ棋士、塔矢行洋とそっくりではないか。
なにがあった。そう思うと同時に緒方はあの二人を思う。一体彼らは何をしたのだろう。
「アマの大会に出たいと思います」
「アマ?」
「はい。とりあえずは来月の段級位認定戦に出ようかと」
「段位?」
親子の会話に、緒方はつい口を挟んでしまった。それくらい予想外だったのだ。
間違いなくプロ並、プロ試験を受ければ合格確実と言える棋力を持ちながら、なぜアマの段位認定を求めるのか。
同じ疑問を行洋も抱いたのだろう、珍しく目を見開くと言う感情の発露を見せ、
「なぜだ?」
と端的に疑問を口にした。
それに対して、アキラはグッと両手で拳を作り、一つ呼吸を挟んで言った。
「どうしても、打ちたい相手がいるんです。その相手が、次の段位認定戦に出ると言っていたんです」