「今日は碁会所に行くぞ」
「碁会所?」
ヒカルの言葉にあかりは首を傾げた。
子ども囲碁大会の翌日、授業が終わっての放課後である。今日は二人とも掃除も委員会もなく、何も言わずに並んで帰路についた。クラスメイトからすればそれはいつもの光景で、初めこそ二人が連れ立って歩く様をからかっていたヤンチャ坊主どもも、今ではギリリと歯軋りしながらあかりの手を引くヒカルを睨むようになっていた。
「また塔矢君と打つの?」
歩きながらあかりが聞く。じゃあ昨日打つべきだったのか? と。
それに対してヒカルは首を横に振った。
「別の碁会所。塔矢のところはなんつーか、お客さんがみんなお行儀良すぎてさ」
何せあの塔矢行洋がオーナーを務め、たまにその門下も客の相手をしに来るような場所なのだ。そんな場所に、バッチンバッチン碁盤を凹ませながら打つようなイキリ客などいようはずもないのである。
「あかりはもっと、威圧してくるような相手にも平常心を持って打つ練習が必要だと思うんだよ」
「威圧、ねぇ」
「あかりは怖い大人と打った経験てないからさ」
「まあ、ないよね」
そりゃね、と二人でうなずいた。
俺もそれで苦しんだなぁ、なんてヒカルは思い出す。ヒゲゴジラこと椿さんは別に威嚇しようと声がでかかったわけではないが。
それでも、相手の意図せぬことでこちらが萎縮してしまうことはあるのだ。
「塔矢と打った時も、勇足というかさ。普段通り打てればもっといい勝負できてたと思うし」
「……うん」
「だからもっといろんな相手と打って、勇足にならない訓練とか、逆に手が縮こまったりしないようにするとかさ」
歩く先は自分たちの家ではない。途中で横道に逸れ、住宅街から離れていく。
「あと置き碁も打っておきたいよな」
「いつも打ってるじゃない、ヒカルと」
「いや、逆だよ。お前が相手に置かせるんだ」
え、とあかりが強くヒカルの手を握り締めた。
「で、できるかな私に。相手は大人なんだよね?」
「できるさ。あかりなら」
それにな、とヒカルは続ける。
「劣勢になった時に地を奪い返す技術を身に付ける必要があるのは、塔矢と打って感じただろ?」
「……うん。中盤のノゾキが、すごいこっちを格下に見てたよね。その時のリードを守り切れば勝てたのに、結局削られて、取り返せずに負けちゃった」
「普段打ってても、布石はしっかりしてるし、リードを守る力も十分身についてる。あと足りないのは強引にでも地を奪う力と、相手の強引さを咎める力だ」
そう言った点は、正直自分は弱いだろうな、とヒカルは思っている。佐為と打っていた時は、自分の拙い力碁など容易く捻り潰されていたし、実力差がありすぎて佐為から強引に詰められる場面だってろくになかったのだ。
そのまま自分はろくに対局もしないまま五年が過ぎて、そろそろあかりに教えることも少ないと感じているのだった。
「だから格下の相手に石を置かせて、ハンデを負った状態で打つのはすごい勉強になったし、碁会所の客ってみんな大体我流だから思いもしない手を打ってくることもあるし」
「ふぅん。楽しかった?」
「そりゃ……」
ヒカルは、あかりへと振り向いた。
あかりは、ヒカルをじっと見つめていた。
その目がにこりと微笑む。ヒカルは思わず後ずさる。その手をあかりが引いて、問う。
「で、どこの碁会所に行くの?」
「あ、えっと……」
何か言ってくれよ、と思うも、先を促されればそれに答えるしかない。
二人の足は繁華街へと入っていった。居酒屋などの飲食店が多く目に入る。そこを出入りするのはスーツを着たサラリーマンが主で、あかりには少しハードルが高い場所だった。
「ここだ」
周囲の空気に気後れしていたあかりには、ヒカルに示された場所がギャングの巣窟にしか見えなかった。
塔矢アキラと対局した碁会所とはまるで違う、細くて急な下りの階段。ポストやら電光掲示板やらがガムテープで補強されていたりして、その雑さがアンダーグラウンドな雰囲気を感じさせる。
「こ、ここ? ヒカル、なんだか怖いよここ」
「大丈夫だって。ほれ行くぞ」
カンカンカン、とヒカルは軽い足取りで降りていく。その背中にくっつくようにしてあかりも降りれば、そこには『囲碁さろん』と書かれた扉があった。その周囲の壁にはヒビが入っていて、ビルの古さを如実に表している。尻込みするあかりの手を引いて、ヒカルは扉の中へと突入していった。
「おやいらっしゃい。二人? 打つなら子どもは五百円だヨ」
受付には細身の老人がいた。口髭の豊かな、穏やかな口調の男性だった。子どもの間で碁が流行ってるのかい? なんて嬉しそうに呟くその雰囲気にあかりは少し安堵する。
店内を見渡せば、やはり古い建物らしく、ビニル素材の床が剥がれたり歪んだり。換気扇も随分と古い型で音が少しうるさい。
碁を打っている客は六人。皆対局中だった。
「あれ、子どもだ」
「……そうだな」
すぐそばの、扉に一番近い席で、自分たちと変わらない年齢の子供がおじさん相手に碁を打っていた。
オレンジがかった癖っ毛と、猫のような吊り目が特徴の少年だ。おじさんが吐き出すタバコの煙も意に介さず、パチリパチリと調子良く碁石を打っていく様子は実にこの場に馴染んでいて、あかりにはひどくその少年が大人びて見えた。
「……負けました」
とはいえ碁の実力は年相応の、実に微笑ましいものだった。終盤に差し掛かったところで少年から頭を下げて対局は終わった。あかりからすれば少年の指す手はどれも素直で、彼の実直な性格が透けて見えるようだった。
「おじさんの方も楽しそうに打ってたね」
「え、そうか?」
小声でヒカルにそんなことを話しかける。まるで息子とキャッチボールする父親のような心境でこのおじさんは打っているのだろうとあかりには感じ取れたのだ。
しかし。
「ほれ、百円だぞ」
「クソォ……はい」
「え?」
その光景に、思わずあかりは声をあげた。
負けた少年が、勝った大人の人に百円玉を差し出したのだ。
つまり、賭けている?
「ひ、ヒカル? 私、その、賭け事は」
「大丈夫。あかりに賭けはさせないよ」
完全に尻込みしてしまったあかりに、ヒカルは安心させるように肩を軽く叩く。
「おじさん、はい五百円。打つのはこっちだけ、俺は見学」
「はいヨ。今お茶入れるからネ。饅頭食べるかい?」
「あ、いただきます」
「ちょっと、ヒカル悪いわよ」
いいからいいから、なんて笑う席亭のおじさんはお茶を入れるためか受付の中へと戻る。
「ああ、ちょうどいいから三谷クンと打ったらどうだい? 子どもが揃うなんて珍しいからネ」
おじさんの言葉に、三谷と呼ばれた少年が、その猫目をこちらへと向けた。たった今碁石を片付け終えたところだった。
「何、打つの?」
「え、えっと」
「打つのはこっちな」
躊躇うあかりの背をヒカルが軽く押し出す。
「負けたら百円な」
「いいぜ、払ってやるよ俺が」
「ヒカルっ!」
「でもその代わり」
ごそっ、とヒカルは背負っていたランドセルから小さな段ボール箱を取り出した。手のひらにギリギリ収まるか、というくらいの縦長の大きさだ。
「負けたらカンパ代ここに入れてくれよ」
「……? 何が、その代わり、なのかわかんないんだけど。なんだよカンパって」
「大会参加費のカンパ。棋院でやるアマの大会」
「いや、それって賭けと何が違うんだよ」
三谷が眉根を寄せ、訝しげな顔を見せる。ヒカルは箱を掲げて、
「賭けじゃねーよ。大会に参加したい子どもに、実力を認めた周りの大人が自主的にカンパしてくれるだけだから。目指すは来月ある段位認定大会の参加費1万と送料五百円」
「なんだそりゃ。賭けじゃないってのなら負けたらどうすんだよ? 払うってお前言ったよな?」
「あかりが負けたら、俺が迷惑料として千円払うよ。まあそんなことないだろうけど」
ぴくり、と三谷の眉が上がった。ふぅん、と笑って、
「そんなに強いんだ、そいつ」
「まあね」
「いいよ、打とうぜ」
その展開に慌てるのはあかりだ。
「ちょ、ちょっとヒカル。私賭けるなんて聞いてないって」
「賭けじゃないって。あくまでカンパだから。お金は大会にしか使わないし、なんなら受付のおじさんに預かってもらおう。小遣い稼ぎじゃないから、な?」
「うー……確かに、お母さんにおねだりするには1万円って高すぎるけど。また宇宙飛行士がとか言って、出してくれるとは正直思えないし……うん、わかった。ヒカルが言うなら打つよ」
二人のやりとりを聞いていた、三谷と対局していたおじさんが席を立ち、先の百円で缶コーヒーを自販機で買ってから三谷の後に回った。
「打つなら席に着きな、嬢ちゃん。でもこの坊主は結構やるぞ? まだ小学生だけどな」
「おじさんに今負けたけどね」
三谷の言葉に、お茶を運んできた席亭のおじさんが、
「そりゃ神崎さんはここで一番強いからネ。ほぼ毎回ここの大会で優勝してるもの、三谷クンじゃまだまだだヨ。ほらお茶。あとお饅頭」
「ありがとうございます」
「おじさん、俺は?」
「三谷クンはさっきあげたでショ」
ちぇ、とわざとらしい舌打ちをして、三谷は手元にあった碁笥から黒石を握った。
「互い先でいいよな」
「う、うん……8個。私が白だね。お願いします」
「お願いします」
二人が頭を下げる。静かに対局が始まる。店内の客がなんだなんだと集まって、二人の周りを取り囲んだ。それに多少狼狽しつつも、手を進めるうちにあかりはだんだんと囲碁の世界に没入していった。