碁は手談とも言われる。
碁を打てば、言葉を交わさなくとも相手の心が、為人がわかるという。
三谷という少年は、口こそ生意気で挑発的であったが、その手は意外なほど素直だった。
塔矢アキラの様なこちらを見縊る様な意図もなく、越智の様なツンケンした攻撃性も感じられず。
いまだ腕は未熟であるため、自分が持つ狙いを手順として表すことができていないが、それでも伝わってくる意思は実に心地いいものだった。
素直で、まっすぐこちらに向かってくる愚直な気質。
それを向けられる事は、あかりにとってとても心地いいことだった。
それでも、三谷という少年が持つ素直さがあかりの中にいくつかの感情を生む。
こう打ったらどう返すの? という好奇心。
ほらそれじゃあダメだよ、という嗜虐心。
もっとこの対局を続けたい、導いてみたい、という不思議な感覚。
それらを統括して一言で表すなら、楽しい、の一言に尽きる。
序盤を越えて中盤に入る頃には、正直一刀の下に斬り捨てる事は可能だった。
こちらが手加減している事はもう気付いているだろう、しかしその事に怒らず、応酬の中から何かを学び取ろうとするひた向きさがある。
一手ごとに、目の前の少年の成長が見て取れる。
相手を導く。それは言い換えれば相手を自分の色に染めるということなのだと、あかりはこのとき初めて知ることができた。
自分の打った石の意図を真剣に考え、それに応えようと必死に頭を絞るその眼差しは、自分と打つときのヒカルには見られないものだ。
もしかして、とあかりは考える。
もしかしたら、ヒカルは自分と打ちながらこんな楽しい気持ちになっているのだろうか、と。
「負けました」
「ありがとうございました」
一応、というべきか。せっかくなので整地まで打ち切って、七目半の差であかりの勝ち、という結果に終わった。しかし実際の実力差がこんなものではないと、三谷を含め店内にいた全員が気付いている。
指導碁など打ったことのないあかりには、相手に気づかれずに手加減をするという技術など身についていないのだ。
「じゃあちょっと並べてみよっか」
「……ああ」
大雑把に石を左右にどけて、黒白交互に石を置いていく。
「ここでちょっと地にこだわり過ぎたね。ここは小さく生きるだけで十分だったの。だからその分中央に盛り上げていけば、全体的にはこっちが得するんだよね」
「……でもよ、ここでツケたら白はこっちに行くかなって」
「うーん、そういう手はない、かな。そこはこっちをキるのがすごい大きいし」
あーだこーだと続く小学生二人の検討を、周りの大人は黙って聞いていた。三谷がこの碁会所でもそこそこに強い位置にいる事は皆知っていたが、その三谷を相手に指導できる小学生、という存在の実力を見定めようと解説に耳を澄ませていた。
「と、こんなところかな」
「……なあ」
何? とあかりが小首を傾げて返せば三谷は照れ臭そうに視線を逸らして、
「お前、名前は? 俺は三谷」
「私? 藤崎あかり」
「藤崎は、どうやってこんなに碁が強くなったんだ? もしかして、プロに弟子入り、とか?」
プロ云々は冗談めかした口調だったが、その眼差しは真剣そのものだった。
こうやって聞かれるのは、塔矢アキラに続いて二人目である。
一度目の時はしどろもどろになってしまったが、二度目ともなればシミュレーションもある程度はできているのだ。
「勉強は本が基本だね、棋譜並べとか詰碁とか。秀策の棋譜なんて結構並べるよ。あとたまにお小遣いで碁会所行ったりだね」
碁会所を利用したのはまだこれで二回目だけれど。
「本、か……」
それからしばし、何か考え込んでから三谷はカンパ箱に百円玉を放り込んでから席を立った。
「ありがとうございました」
「うん、ありがとうございました」
頭を下げたところで横から、
「よし、次は俺だ」
「いやいや、順番なんて決めてないじゃろ、次は年齢順でワシだ」
次に誰が打つかを巡って争い始める大人たちを尻目に、三谷は受付に一番近い隅の席まで離れた。
腰を降ろし、ふぅ、と息をつく。
そこに、席亭のおじさんがお盆を持ってやってきた。
「お疲れ様三谷クン、はいお茶とお饅頭」
「え、饅頭はもうもらったって」
「いいからいいから」
疲れたでしょ? と言われて、三谷はお言葉に甘える事にした。饅頭にかじりつけば、甘味が疲労した脳を優しく労った。
「三谷クン、これいるかい?」
「どれ?」
ぬるめのお茶を一気飲みしたところでそんなことを言われ、湯呑みを置きながら顔を向ければ、おじさんはビニールヒモで縛られた雑誌の束を見せた。そこから一冊抜き出して、
「去年の囲碁雑誌なんだけれどネ。ほらタイトル戦の棋譜と解説載ってるし、詰碁の問題もほら。あと付録の詰碁集もあるヨ」
広げられる雑誌を覗き込んでみる。
白10のノゾキは流行形。黒1のツギなら白2のスベリが相場。右上の黒が強くなったので、黒aと受けずに黒3など大場に受ける展開──
三谷の胸が一度跳ねた。
「これ、くれるの?」
三谷はおじさんを見上げる。普段はクールを気取っているが、この時は口元が綻ぶのを抑えきれなかった。
三谷は今まで碁の勉強といえば碁会所で打つばかりで、基本的な定石を覚えて以降は碌に勉強というものをしていなかった。それでも碁は打てるし、大人相手にも結構打てる様になってきたし、正直碁の勉強なんかより実践だろ、と思っていた。
でも、これで勉強すれば、もしかしたら俺はもっともっと、あの娘みたいに。
「これで勉強するといいヨ。あと定石については一冊本があればいいんだケド」
「……うん。じゃあ、貰ってくよ」
三谷は席を立って、雑誌の束をランドセルに上からごそっと突っ込んだ。
「じゃあ、今日は帰るよ」
「頑張ってネ」
「……藤崎!」
「え、何? 三谷君」
ランドセルを背負った三谷があかりの側に近づく。誰から最初に打つのか決められず、結局二面打ちをする事になった様だ。盤面を見ればどちらもあかりの白が優勢だ。相手のおっさん二人にはまだ自分はどちらにも勝ったことがないのに。
「明日も来るのか?」
「えっと」
あかりはチラリと背後に立つヒカルを見て、
「うん、そのつもり」
「分かった。またな」
「ま、またね」
後向きに手を振りながら、三谷は碁会所から帰っていった。
別に、負けた事にふてくされているとか、そういうことではない様だ、とは思う。
「大丈夫、だよね?」
あかりの声に、多分、とヒカルは答える。
「むしろちょっと嬉しそうだったけど。なんでだ?」
「さあ……」
「まあ、またなって言ってたし、明日も来るだろ。それよりほら集中しねーと、多面打ちなんだから」
「う、うん」
この後、三面打ち・四面打ちまで無敗で終えたあかりは、カンパ総額九千百円獲得するに至った。カンパという事で、お客さんたちが気前よく一局につき千円ずつ払ってくれたのだ。こいつらあかりにデレデレしすぎじゃねーかなとヒカルは若干イラッとしたが、また明日も来ると約束して碁会所を後にした。
◯⚫◯⚫◯⚫️
碁会所から帰宅し、自分の部屋に入ってすぐ三谷はおじさんから貰った囲碁雑誌を開いた。
緒方と芹沢のリーグ戦の棋譜があり、記載されている数字の順に石を並べていく。
途中で止めて、次は自分ならどこに打つか、を考えながら。
それは、知識の宝庫だった。
今まで自分は、経験から得た教訓を基に打つ場所を決めていた。
自分が持つ思考は、言ってみれば断片的で、行き当たりばったりなところも多かった。
しかし、雑誌に書かれている棋譜や定石集は、そんな自分にはまさに蒙を啓くというに相応しい閃きを与えてくれた。
断片的だった知識が、体系だった理論に統括され。
感覚的だった曖昧な理解が、明確な言葉の教訓として具体化し。
知識と情報が有機的に結合していく爽快感。
その夜三谷は、いつまで起きているのかと呆れた母親が扉をノックするまで雑誌を読み耽っていた。
そうして、次の日。
学校が終わり、ランドセルを背負ったまま三谷は碁会所へと向かっていた。
足が自然と早くなる。
自分が学んだことを、一刻も早く誰かを相手に試したい。
そんなワクワクで胸が躍り、しかし碁会所にいく前に、と三谷は繁華街の角を曲がった。
そこにはショッピングモールがあった。
通路を突き進む。
そのモールには家具屋があり、家電の量販店があり。しかし三谷はそんなものに興味はない。大型テレビの前を素通りし、VHSのプレーヤーを無視し、新型MDプレーヤーに一瞥もしないで、奥にある本屋へとまっすぐに向かっていった。
財布の中には千円札が3枚。
三谷は、昨日言われた定石集が欲しかったのだ。