「……足りない」
「え?」
青い顔をしてそんなことを宣うヒカルに、あかりは間の抜けた返事しかできなかった。
「だから、その、お金がな、足りないんだ」
免状について、ヒカルは事務に手続きをしようと一人向かった、その帰り。一日対局しっぱなしで疲れているだろうからと手続き諸々を買って出てくれて、しかも自販機で甘いお汁粉を買ってもらった。あかりは事務室から見やすい場所で熱々の缶をすすりながら、ヒカルに頼もしさを感じつつ戻ってくるのを待っていた。
そこでこの発言である。
ヒカルは何を言っているんだろう、とあかりは思った。
お金が足りない? なんのために全勝で認定大会を終えたと思っているのか。
「な、ないってどう言うこと? 碁会所のおじさんたちにいっぱいカンパしてもらったじゃない。まさかヒカル、横領……」
「ちが、違うって。最初から免状の送料と参加費しか持ってきてなかったんだよ、あと電車賃」
「え、ちょっと待って。それ、私が一敗でもしてたらどうしてたの。何万円もかかるんでしょ」
「いや、あかりなら全勝するってわかってたし」
ヒカルの言葉のせいで、あかりの頬からふにゃっと力が抜けた。いかんいかん、と頰肉をこねて表情を戻す。
「えっと、ともかくお金は用意してるんだよね? なんで足りないの」
「そのな? 免状を送ってもらうには、日本棋院の会員にならないといけなくて、それには年会費? を払わないといけなくて」
「……いくら?」
えっと、と言いながらヒカルはポケットから紙を取り出した。
「あかりは中学生以下だから、ジュニア会員ってことで、千円」
「もう一円もないの?」
「ないわけじゃ、ないんだけど……これ払っちゃうと電車賃が足りなくなる、百円」
スッと、二人の目線があかりの持つお汁粉に集まった。
だから、お金貸してください、と。ヒカルは蚊の羽音のようなかすれる寸前の声で言った。
なんでもっと余裕をもってカンパ箱から持ってこないの、とか。任せろと言うからお金についてはヒカルに任せていたのに、とか。言いたいことはいろいろあるが、しょんぼりと落ち込むヒカルを見て気がそがれてしまった。
まぁ仕方ない。
ふぅ、と小さく息をつく。
ビクッと反応するヒカルを見て、その怯えた様子に心の奥から湧き上がる名状しがたいワクワクと背徳の入り混じった感情を強引に抑え込みながら、あかりはショルダーバッグから財布を取り出そうとして、その手が止まった。笑みが溢れる。
「あかり?」
「ご、ごめんヒカル。私、お財布忘れちゃってた」
もちろんバッグには二千円ほど入った財布が、ハンカチやティッシュ、加えてマグネット囲碁と一緒にキチッと詰められている。
「うん、忘れちゃったのはしょうがないね」
「え?」
「足りないものは足りないんだし、会費払って歩いて帰ろっか。しょうがないしょうがない」
「え、いやそれは、結構遠いしさ。電車賃も一人分なら足りるから、あかりだけでも電車でさ」
「は?」
「え?」
沈黙は一瞬のこと。崩れた表情をあかりは一瞬で立て直して、
「いいじゃない、二人で歩くのも気晴らしになるよ。六段認定のお祝いってことで」
「お祝いって言うならますますあかりを歩かせるわけには」
あかりは、ぷい、と顔を逸らして、
「いいの! 今日は歩きたい気分なの!」
「でも外もうすぐ暗くなるし、寒いしさ。勘違いしてた俺が悪いんだし」
こやつめ、とあかりはヒカルを横目で見る。
どうにもヒカルは、内罰的に過ぎるな、とあかりは思う。
否、内罰的と言うよりか、自分を罰する方法を探している、と言うか。
理由はなんでもよくて、とりあえず自分を辛い状況にもって行きたがる癖があるのだ。
それは普段の対局からも読み取れるヒカルの思考で、あえて複雑で読みにくい、自分にとっても利が少ない手を選ぶ傾向にある。
手加減をしている、と言うことではなく。まるで茨の道を歩むことを、自分に強いているような悲壮感が滲み出る手ばかりなのだ。
最近は特にそうだ。
自分の実力がヒカルに近づけば近づくほど、ヒカルからは切なくなるほどの悲しみが滲み出るのだ。
おそらくは『秀策さん』に起因する感情なのだろうけれど。
なんとかしなくてはならない。
そう思うも、一体どうすればいいのか、判然としないままひたすら対局を積み重ねる毎日なのだった。
「どうかしたのか、君たち」
押し問答になっているヒカルとあかりの頭上から、大人の声が降りかかってきた。
振り向けば、彼がピシっと着こなしている白いスーツがまず目に入った。スッとした顔貌にメガネを乗せて、見る相手によっては冷たい印象を相手に与えるたたずまいだ。
軽く事情を説明(と言うほどでもない、金がないから帰れないと言うだけのことである)すると、緒方はふむ、と顎をなで、
「じゃあ俺の車で送ってやろう。少し狭いが、子供の君たちなら乗れなくはない」
そんな申し出にヒカルは一も二もなく頷いてしまった。あかりはむぅぅと膨れっ面である。
それでも客観的にはありがたい申し出であることには変わりないので、仕方なく、いやいや、渋々、あかりは不満を顔に出さずに緒方にお礼を言った。
「礼には及ばんよ。代わりに、君たちにちょっとお願いがあるんだ」
「お願い、ですか?」
あかりが首を傾げて問うと、緒方はもったいぶった口調で告げる。
「塔矢名人が君たちに興味を持ってね」
緒方に先導されて駐車場に向かえば、そこには真っ赤なスポーツカーがデデンと鎮座していた。リアにはRX–7の文字が刻まれている。日本棋院の雰囲気にあまりにもそぐわない。母親が運転する軽との迫力の違いに、あかりは何かコメントするべきなのかと迷い、
「赤なんですね」
「ん?」
「車」
「好きな色なんだよ」
じゃあなんでスーツは白いんだろう、とあかりは思った。紅白饅頭かな。
後部座席は圧倒的に狭かった。ファミリー用ではないのだから当然だろうと言わんばかりの気遣いのなさである。あかりはヒカルと一緒に後ろの席に乗ろうと思っていたが、そのスペースのなさから小柄なヒカルだけを後部座席に押し込み、あかりを助手席に座らせることになった。
シートベルトを締め、アクセルが踏まれる。駐車場から出て左折したところであかりが口を開いた。
「私が、塔矢名人と打てばいいんですね?」
「ん? ああ。君だけではなく、後ろの彼にもお願いしたいところだがね」
「え」
「君たち、名前は?」
戸惑いながらも二人は名乗り、
「あの、なぜヒカルもなんですか? 今日大会に出たのは私だけですよ?」
「ああ、俺が見ることができたのは最後の一局だけだったが、見事なものだったよ。あれが藤崎さんの実力だと言うならプロ試験も十分に合格圏内だろう」
「はぁ、ありがとうございます」
「そんな藤崎さんに指導しているのが進藤君なんだろう?」
ちらり、と流し目でヒカルを見やる緒方の視線に、ヒカルはびくりと背筋を震わせた。
「な、なんで、ですか?」
「子ども大会でのやりとりを聞いていてね。アキラ君は藤崎さんに注目しているようだが、俺からすれば進藤君、君の方が興味深い」
ニヤリと笑う緒方の目は、如実にこちらへの執着を語っている。逃さんからな、と語るそれは猛禽類の眼光である。
まさかあれを緒方に見られていたとは。観客席にいたのに、なぜプロの彼がこちらを気にするのだろう。
「実はアキラ君は、今日の認定大会に参加するつもりだったんだ」
「えぇ? 塔矢が?」
「な、なんのためですか? 塔矢君って今年にでもプロ試験受けられるんですよね?」
驚く二人の声を聞き、ふ、と緒方は笑った。なんのため、か。
そんなもの、一つしかあり得ない。
「もちろん君と打つためさ」
「え、怖い」
あかりはシンプルに引いた。
だよなぁ、と緒方はため息をつく。
「まあそう言ってやらないでくれ。アキラ君にとって、自分と対等に打てる相手と言うのは貴重なんだ。今回は流石に俺と先生とで止めたがな。アキラ君がアマの段位を取る意味はないし、他の参加者の成績に影響が出る。君たちが何段を受けるのかもわからない状態でどうやって申し込むつもりだ、と言ったら不服そうに取り下げてくれたよ」
緒方は苦笑して、
「そうは言っても無断で受けにくる可能性も考えて、受付を軽く張っていたわけだ、対局の予定もあったしな。加えて、実際どの程度のものか直接この目で見ておこう、と言うのもあった」
「またそんなストーカーみたいな」
「ストーカー? なんだそれは。別にアキラ君みたいにつけ回していたわけじゃないぞ、一階の喫茶店で、対局前にコーヒーをゆったり飲んでいただけだ。君たちやアキラ君が来たら声をかけられるようにな」
塔矢一門はこんなんばっかか、とヒカルはかつての塔矢の剣幕をフラッシュバックさせた。
目の前で信号が赤になった。ゆっくりと車が停止する。まだ6時になったばかりだというのに、辺りは薄暗く、信号の赤色が無闇に目についた。サイドブレーキを上げ、緒方が口を開く。
「そこで、君たちが受付で揉めているのが目に入ったわけだ」
「あー、そんな感じだったんですね。今日はありがとうございました、何度もお世話になって」
あかりが頭を下げる。いいさ、と緒方は笑い、信号が青に変わったのを確認して車を発進させた。
「その代わりにこうして、こちらのお願いを聞いて貰ってるわけだからな」
そのまま都内を走り、風景がヒカルにも見覚えのあるものになってきた。
着いたぞ、と近場の有料駐車場に車をとめ、緒方の後を着いていけば、そこは当然と言うべきか、塔矢名人の経営する碁会所だった。
3人で階段を昇り、自動扉から中に入れば、そこには着物を着た壮年の男性が客相手に指導をしていた。巌のような無表情のままに碁石を並べるその様はそれだけでただものではない圧力をあかりに叩きつけた。
それはあかりの持つ感受性の高さがそうさせたのかもしれない。
雑誌やテレビ越しでは決して伝わらない、本物を目の前にしたからこそ感じ取れるオーラとでも言うべきものを正面から受けて、あかりは一歩後ずさった。
「どうしたかね緒方君」
男性、塔矢行洋が、入店した緒方を一瞥し尋ねた。
「棋院で縁ができまして、アキラ君が気にしている子たちを連れてきました」
「……無理やりではないだろうね?」
「はは、もちろんです。電車賃がないとのことで、車で送ってあげる代わりに、と言うことで」
「ふむ」
名人は指導を区切りのいいところで切り上げ、ヒカルとあかりの二人を正面から見据えた。
「君たち、名前は?」
「ふ、藤崎です」
「進藤です」
「アキラと互角に打った少女というのは君かね、藤崎君」
声を荒げているわけではない。むしろ静かで落ち着いた声音だ。それなのに重々しく、有無を言わせぬ迫力がある。カクカク、とコマ送りのようにあかりは頷いた。
「君とアキラの対局は見させてもらった。その年で、素晴らしい実力だと言える」
「先生、今日の認定大会でも、六段を全勝で獲得しました」
「そうか。もしかしたら島野君といい勝負をするかもしれないな」
それにしても、と名人はヒカルに目を向ける。
「それだけの腕を持つ子どもを育てたのもまた子ども、というのはにわかには信じがたい」
塔矢行洋が、近場の碁盤の席を引いた。
「座りたまえ、君の実力が知りたい」
その言葉はどこまでもまっすぐに、青い顔で立ちすくむヒカルへと向けられていた。