真っ直ぐに自分を射抜く視線を受け、ヒカルは身じろぎもできずに立ちすくんだ。
どうしたのか、と行洋と緒方が怪訝そうな目を向ける。それらを受けてヒカルは、その顔を土気色に染めながら、笑った。
溜め込んで、今まで必死に堰き止めていた感情が、行洋を見た途端に溢れ出した。
「進藤くん?」
「俺、は」
行洋の言葉に返事をしようとするも、のどがいつの間にかカラカラに乾いていてまともに声が出なかった。
塔矢行洋は、今のヒカルにとって特別な存在だった。
なぜなら彼は佐為が最も執着した人だから。
塔矢行洋を一目見た時からずっとあいつは塔矢名人と打ちたいと訴え続けていた。
塔矢アキラでもない、桑原本因坊でもない。塔矢行洋だ。塔矢行洋こそが佐為の執念の到達点であり、自分の罪の象徴だ。
真っ青な顔色のままで笑みが深まる。
自嘲の笑みだった。
こうして行洋を目の前にすればまざまざと自分の罪深さが自覚できる。
だって自分は、この期に及んで『碁を打ちたい』などと望んでいるのだ。
碁を打ちたい。
自分がこの数年間積み上げてきた定石と戦略を、現代最強の棋士にぶつけてみたい。
あかりを相手にするときとは違う、全力を出し尽くす、ひりつくような真剣勝負を。
そんな自分の愚かしさにヒカルの顔にはつい笑みが浮かんだ。
一体何様のつもりだ。
まさか佐為を差し置いて、塔矢行洋と直に対局するつもりか。
ネット越しの対局しかさせられなかったくせに。
対局するチャンスを幾度も棒に振らせたくせに。
「俺は、碁を打ちません」
「何故だね」
ヒカルはむずがる乳児のように首を振り、思う。
まだ足りない。
苦しみが胸を締めつける。
でもこれじゃあ足りないんだ。
この苦しみをもっと与えて欲しい。
碁を前にして我慢しなければいけない苦痛と、あの塔矢行洋との対局を断る苦悩。
この苦しみの果てにきっと贖罪はあるはずだから。それを思えば笑みも深まろうと言うものだ。
ヒカルは自身の思考に浸り、そこに緒方が焦りを露わに口を挟む。
「しかし君、そちらの藤崎さんに指導していただろう? 碁を打たないとはどう言うことだ? 体調が悪いということならまた別の日にでも」
「打ちたくないんです」
佐為。
佐為、見ているか。見てくれているか。
断ったよ。あの塔矢行洋との対局の誘いを、はっきり断った。
今度の笑みは、喜びの発露だった。
罪を償って、お前が許してくれたなら、また出てきてくれるよな?
苦しめば苦しむほど、佐為と再会できる可能性が上がるはずだから。
佐為。佐為。佐為。
頼むから、お願いだからそうだと言ってくれ。
俺が罪を償い終えるのを待っているんだって、そうしたらまたお前と打つことができるんだって。
それともまだ足りないか? もっと罰を受けないとダメか? あの塔矢名人との対局を断った、それでもまだ足りない? そうに違いない。きっとまだ佐為は俺を怒ってるんだ。だから出てきてくれないんだ。足りないって。もっと罰を受けろって。足りない。足りない。もっと罰を、もっと苦しみを。
「ヒカル?」
「あか、り」
意識が飛んでいた。気づけばいつの間にかあかりがヒカルの俯いた顔を屈むようにして覗いていて、彼の視界を塞いでいた。
「大丈夫? 顔色悪いよ?」
「あ、ああ。平気」
「ねえ」
あかりはヒカルの両肩に手を添えた。
「本当に、打ちたくないの?」
あかりの表情は不安げで、でもその一方でヒカルの内面を覗き込むその鋭い眼光に、ヒカルは思わずたじろいだ。
まるでこちらを見透かしてくるような瞳。
この視線には見覚えがある。
前回の人生で、名人との2度目の対局の時だ。
新初段シリーズ。あの時は佐為に打たせて、十五目のハンデを自ら背負っての、不完全燃焼な対局で。誰にとっても後悔しか残らない一局だったし、誰の目から見ても不満の残るものだった。
そんな一局を終えた直後、名人だけが佐為の意図を見抜いてくれた。
あの眼差しと、あかりがこちらを見つめるそれは、とてもよく似ていた。
見抜かれる。漠然とそんな不安を覚えた。
まさか、とヒカルは思い至る。まさかもう自分の中にある佐為のことまで見抜いているんだろうかと。
元々あかりはこう言ったことに非常に目敏い。嘘やこちらが隠した本心、初対面の相手がどんな性格かを見抜く術に長けていることは、この数年でわかっている。
かつての塔矢名人と同じように、自分との対局を通して佐為の存在を認識しているのかもしれない。
一瞬、全てをぶちまけてやろうか、そんな衝動がヒカルの中に湧き上がった。
逆行のことも、佐為のことも、佐為に対して自分がやらかした仕打ちも。
今までアレルギーだなんだと嘘ついてきたことも、全て。
それができたらどれだけ楽になるだろうと思う。
もちろん、そんなことできるわけないけれど。
そもそも信じてもらえないだろうし、仮に信じてもらえても、嘘をついていたとあかりに知られたら、きっと嫌われてしまうから。
「……打たない」
ヘラりとした笑い顔のまま、心を閉ざすように視線を足元に落として、血が出るほどに両手を握りしめてヒカルは答えた。
沈黙が降りる。二人のただならない雰囲気に、緒方と行洋のみならず先まで行洋の指導を受けていた高齢の客達も、一体何事かと二人の小学生に注視していた。うち何人かはあかりを見て以前アキラと対局した女の子だと気づくも空気を読んで沈黙を守った。
本当は打ちたいんじゃないのか、と問いかけるあかりの視線にヒカルは心を閉ざして沈黙を守った。
5秒ほどの攻防を経て、あかりが一言、
「そっか」
それだけを告げてあかりはヒカルの肩を解放した。
行洋に背を向ける形でヒカルと向き合っていたあかりは、ヒカルの肩を解放して緒方へと向き直った。
「緒方先生、送ってもらったのに悪いんですけど、ヒカルはちょっと体調が悪いみたいで」
「あ、ああ。まあ先生だって無理にとは言わない。多忙ではあるが日程を合わせて」
「なので私が代わりに打ちます」
キッ、と鋭い目つきで緒方を見上げ、ついで和服の袖の中で腕を組む行洋を見つめた。それで勘弁してくれませんかと。ヒカルは見逃してくれませんかという意思を込めて。
緒方は判断に困り、あかりと行洋を交互に見やる。行洋は巌の如き表情を変えぬまま頷いた。
「よかろう。君とて興味深い打ち手だ。座りたまえ。進藤くんはどうするかね? 横になりたいなら向こうにソファがあるし、なんなら先に君だけでも緒方くんにご自宅まで送らせるが」
「……いえ、俺もここで見ていきます」
席に着く。向かい合えば、その背筋の伸びや頬に刻まれた皺などからそこらへんのおじさんとは一線を画す存在であることがわかる。
「石を3つ並べたまえ」
「3つ、ですか? たったの」
「アキラとはいつもそれで打っている」
む、としてあかりはこここんと黒石を三つ碁盤に並べた。
「お願いします」
「うむ……いくぞ」
バチッと白石が行洋の手から打たれた。
びくりとあかりの背筋が伸びる。
碁石を持たないヒカルとの対局では味わえない、気迫とでも呼ぶべきものを感じ取って、あかりはまるで行洋の指先が光っているかのように見えた。
気圧されるな。
塔矢行洋がすごい人だなんて、前から知っていたじゃないか。
行洋の手に答えるようにあかりもパチリと黒石を打つ。
それに間髪入れずに行洋が打つ。
凄まじい気迫。
これが塔矢行洋。神の一手に一番近い人。
碁の勉強をするうちに、図書館や碁会所で囲碁雑誌に載せられたいくつもの塔矢行洋の棋譜を見た。
ヒカルや秀策さんとは違った強さ。繊細さと力強さを両立させた打ち筋。何より驚くのはその読みの深さ。相手の思惑を読み切った上でその流れに乗り、しかし繊細な筋で流れを少しずつ変えていき、気づけば流れを完全に自分のものに変える。そして急所を見極めれば洪水のような圧倒的な力強さでねじ伏せる。流水のような気風の持ち主だ。
相手の石から意思や思惑を敏感に感じ取る力がなければ成立しない打ち筋。
その壁はあまりに高い。自分は今、ヒカル相手に二子でいい勝負するようになってきて、もうじき石を置かずに打つことになろうかというレベルまで来ている。そんな自分でも塔矢名人を相手にすれば、たった三つの置き石がとても心細く思える。
いや、とあかりは内心で首を振る。
心細いのは相手が塔矢名人だからというだけじゃない。
その最大の理由は、ヒカルのあの目の意味を理解したことだ。
以前ヒカルがアキラに向けていた、悲しみと焦りと後悔をない混ぜにしたような瞳。
その時はわからなかったけれど、今じっと正面からあの瞳を見つめることができたおかげで大まかにだが理解できた。
ヒカルの中にあるのは罪悪感だ。
秀策さんに対してヒカルが罪悪感を覚えていることは感じていた。その秀策さんへの感情をアキラくんや塔矢名人を通して思い出しているのだ。
そうか、とあかりは思う。
だからヒカルはあんなにも内罰的なのだ。自分が悪いことをしたと思っていて、ずっと自分を罰しているのだ。碁を打たないのも、打てることを秘密にしているのもそう。
そして、私と距離を開けようとしていることも。
多分秀策さんに何か悪いことをしてしまって、そんな自分が許せなくて罰を与えているんだと思う。
碁だけじゃなかった。ヒカルに碁を教えたのだけじゃなくて、あの不思議な瞳も、内罰的なのも、みんな秀策さんだった。
私が本当に戦うべきはアキラくんではなかった。塔矢行洋でもなかった。秀策さんなんだ。
対局が進む。
三子の貯金はあっという間に尽きて、対局も折り返しというところでジリジリと陣地が削られていく。それになんとか抗おうと守りを固めるも、一部を厚くしすぎて手が回らなかったり。
わからない。
どうすればいいの?
どうすればヒカルは私を見てくれるの? 頑張りが足りないの? ヒカルと打つ以外にもいっぱい碁の勉強してるよ?
敵はあまりにも強大だ。しかも勝ち筋がまるで見えてこない。
それに、気づいてるよヒカル。もしかしたらってレベルだったけど、最近のヒカルの碁からなんとなくわかる。今日だって帰りを別々にしようとしてた。
私が碁のプロになるのを応援してくれているの、本当は私と離れるためだってこと。
だったら私は、なんのために碁を打っているんだろう。
「よそ見かね」
あかりは顔を上げた。
「友人の体調が気がかりなのはわかるが……それだけじゃない、君は何を気にしているのかね」
「は、いえそれは……」
「悩みがあるようだが」
そこまで見抜かれたか、とあかりは恥ずかしくて俯いてしまった。
「棋風やどう打つべきかを悩むのなら、まず課題を事前に決めて検討したい打ち筋を設定しておき……つまり、打たなければ始まらないということだ。悩みとは循環論法になってしまうが、碁に関する悩みは実力を付ければ解決するものだ」
「……はい」
行洋は気遣わしげに眉を下げて、
「集中できないようならここで打ち切りにしてもいいが」
「いえ」
あかりは顔を上げた。
「すみませんでした。最後まで打たせてください」
ピシッと、あかりが一際高い音を立てて石を置いた。
雰囲気が変わったあかりに行洋は満足げな表情で頷き、あかりの手に答えた。
そうだった、とあかりは思う。
結局自分は前に進むしかないのだ。
碁盤を見る。集中できていなかったなんてなんの言い訳にもならない、惨憺たる有様だった。
勝ち筋なんかまるで見えなくて、その上相手はとんでもない強敵で。
それでも、私は前に進まないといけないのだ。
一月末に人生左右するレベルの試験があったのですが見事に失敗して留年リーチやばいけど現実逃避で投稿します。