「ここまでだな。目算はできているかね」
「……はい」
対局が終わった。当然のようにあかりの敗北である。
三子置かせてもらって最終的に12目差がついてしまった。
悔が残る一局だった。
集中が欠け、後半から挽回を図るも序盤で崩れた布石が足を引っ張る。我ながらどうしてこんなところに石を置いたのかと首を傾げるところが多々あり、なんとかヒカルの真似をしてそれらを利用しようと嵌め手じみたことを試みるも塔矢行洋の読みの前には敢えなく見透かされ、結局ジリジリと差を広げられて終局となった。
勝てたとは言わない。だけど、とあかりは目尻を拭う。
もっと良い碁を打てるはずだった。
せめてもう一局打たせてもらえないか、そんなことが頭によぎるも相手は多忙な現役トップのプロである、とてもそれは望めないだろう。こんな恥ずかしい碁を打ってしまって、自分に指導してくれたヒカルの顔にも泥を塗ることになってしまう。それが何より悔しかった。
「序盤については自分でもわかっているだろう」
「……はい」
「だが中盤以降は私の攻めによく耐えた。例えばここの石の厚みを活かして攻めに転じようとする姿勢も良かった。そのためにこちらは深く荒らそうにも警戒を深めなければならなかった」
パチパチと行洋が手を並べ直す。
「特にここは良くサバいた。このシノギの一手でこちらは黒を切断できなくなった、結果右辺は白が若干損をした形になったな」
「ただそこで地をこだわりすぎた結果右下の手入れが遅れました」
「そうだな。だが手を抜くわけにもいくまい。せめて中央まで戦場を広げてマギレを求めるのがせいぜいだろう」
一通り検討が終わり、ありがとうございましたと頭を下げてあかりは石を片付ける。あかりの頭頂部を眺めながら腕を組み何事かを考えていた。その視線に気づいたあかりが顔を上げて、
「あの?」
「藤崎くんは、碁の勉強は普段どうしているのかね? 進藤くんの指導を受けていると緒方くんから聞いたが」
「えっと」
どうしよう、とあかりは戸惑った。普段であれば秀策大好きアピールしとけば納得してもらえるのだが、すでにヒカルとのやりとりがバレてしまっているのだ。
どうしよう、とあかりはヒカルを振り返れば、ヒカルにちょいちょいと手招きされた。
「ヒカル、ど、どうしようか」
ヒカルは断固たる口調で、
「なんとしても誤魔化さないとダメだ。俺が指導してるって緒方さんにバレたら全力で追い詰めてくるぞあの人」
「そうなの? 緒方先生って親切なおじさんじゃない、そんなこと言っちゃダメだよ」
お前こそおじさんって言ってやるなよ、とさらに小声でヒカルはあかりを諌めた。
うーむ、と唸る。
緒方のしつこさや強引さは前回の人生で何度か味わった。特にsai関連の話題ではなんでそこまでという剣幕で詰め寄られたことがあって、ヒカルからすればあれはちょっとしたトラウマであり緒方への苦手意識が植え付けられた一件であった。
「まだ緒方さんだって確信持ってるわけじゃないだろ多分。マグネット碁挟んで話してるところを見ただけで指導してるなんて。つっても俺が碁を打てるってところはバレてるから、まあ二人で練習してる感じで」
しょうがないか、とヒカルが行洋へと声をかける。
「さっきは言い損ねましたけど、別に、俺があかりを指導しているわけじゃないです。対局して、検討して、棋譜を一緒に並べたりくらいで。あとは碁会所に一緒に行ったりとか」
「ふむ……他にプロから指導を受けたりはしていないのかね? 弟子入りしてなくとも家に呼んだりだとか」
「……ないですね。じいちゃんが碁が得意なので教わりましたがそれくらいです」
ヒカルの言葉を聞いて行洋は再び考え込み、そして一言。
「ならば、うちの研究会に来ないか」
ヒカルのみならずあかりも、緒方も揃って「えッ」という顔をした。
研究会への勧誘、つまりは塔矢門下に入らないかという誘いである。
行洋からすればもちろん未来を担う若者を正しく導きたいという想いもある。自分と同じ手の読み方、共感性とでも言うべきそれを持つ少女をもっとも適切に指導できるプロは自分だろうという考えもある。似通った理論を持ち、かつ碁の道に迷う少女を導きたいと願った。
が、それと同じくらい自分の息子を思っての提案だった。
このままではアキラの暴走が止まらないだろうと。今日だって本当は認定戦に出たかったと言い、未成年なら女流の大会にも出られないかなと言い。
それならと、行洋はその目当ての少女を研究会に誘ったのだ。
もちろんその提案はあかりにとってもメリットの大きい、win-winなものだ。
研究会に参加すれば塔矢名人をはじめとした多くのプロと対局する機会が得られる。彼らの検討を横で聞くだけで勉強になるだろう。
それに先輩プロ棋士と交流を持っていれば何か仕事を多く振ってもらえるかもしれない。ヒカルを監禁するための費用を作るためにプロを目指すあかりにとって仕事を斡旋してもらえるか否かはとても重要なポイントである。
さらに緒方が笑みを浮かべて提案をしてきた。それはいい考えですね、と。
「先生、藤崎くんはご両親が碁の業界に関して全く知識がないそうで、プロ試験を受ける説得もできないと。つまり碁のプロに指導を受けている、というのはご両親を説得する大きな材料になるでしょう。なあ藤崎くん?」
それもごもっともだ。
でもなぁ、とあかりは眉を寄せた。
秘密にしているとはいえ、あかりは自分のことをヒカルの弟子だと自認している。塔矢名人の言葉に頷いてしまえばそれはヒカルへの裏切りになるのではないだろうか。
ヒカルと二人で碁を打つ時間を失うだろうことも、塔矢門下に入ることで生じる大きなデメリットである。
どうしようか、とあかりがうんうん唸っているとヒカルがこんなことを言ってのける。
「いいじゃないかあかり、参加させて貰えば」
また此奴は。
そうやって私をさりげなく遠ざけようとしよる。
しかしそこに、さらに緒方が続けて、
「進藤くんもどうかな、参加しては」
え、とヒカルは目を見開いた。うわこっち来た、と小さくつぶやいたのがあかりにも聞こえた。
緒方の目には絶対に逃がさんという強い意志が浮かんでいるのが見える。それにヒカルも気づいたようで、声に若干の怯えを滲ませながら、
「お、俺が参加しても何もできませんよ」
「そんなことはないだろう」
行洋が間髪入れずに答える。
「藤崎くんの実力は十分に伝わった。その彼女と対等以上に碁を打てる進藤くんも相応の実力があることはわかる。子供二人で高めあったと言うのが信じられないほどに」
「いえ、あかりが自主的に頑張って強くなったからで、俺のしたことなんてほんと横から口出ししていただけで全然」
恐縮しているように塔矢名人の提案を断ろうとするが、しかしはた、とヒカルは何かに気づいたように言葉を止める。
「あの」
ヒカルが伺うように上目遣いで尋ねる。
「俺、参加しても碁石に触れません。ただ門下の皆さんが対局しているのを横から見ているだけになります。それでもよければ」
「触れない?」
碁石アレルギーなんです、と言って通用するとはあかりには思えない。ここで緒方から一言碁石に触ってみろと言われれば終わりだ。そのことにヒカルも気づいたのだろう、一瞬口籠ってしまうもそれでもヒカルは強引に、
「碁石アレルギーだからです」
はあ、とあかりの口からため息が漏れた。
相変わらず自分を苦しい環境に置きたがるのね、と。
塔矢名人や緒方先生などの対局を目の前で見せつけられてそれでも碁を打てないと言う状況に自ら置こうとしている。
本当は碁が大好きなくせに。打ちたくてたまらないくせに。そうやって秀策さんへの罪悪感を刺激する環境に身を置きながら碁を我慢しなければならないと言う塔矢名人の研究会は、まさにヒカルが望んだシチュエーションなのだろう。
ぐ、とあかりは拳を握る。
あかりの根っこにある感情は独占欲だ。
ヒカルを独占したい。ヒカルの中にいる秀策さんを消し去ってしまいたい。
でもそれ以上に、私はヒカルに苦しんでほしくないのだ。
前に進むべき、と塔矢名人は言う。
碁が強くなれば解消されることも多いと。
そうだ、今考えるべきは大金を得る手段を手に入れることだ。
なんのために碁を打つのか、なんてふわふわした悩みなんか抱いている場合ではない。
碁が強くなって、できるだけ早くプロになってお金を稼ぐのだ。
そうしてヒカルを閉じ込めて、ヒカルの身の回りから罪悪感を思い出させるものを一切取り除いてしまえばいい。自分から辛い環境に身を置こうとするヒカルを救うのだ。