「今日はありがとうございました」
真っ赤なスポーツカーの後部座席に詰め込まれ、二人はヒカルの自宅へと送られた。
「研究会は毎週土曜日の午後1時からだ。あと、アキラは基本的に学校が終われば碁会所にいるだろうから、時間があれば会ってやってくれ」
「はい、わかりました」
窓を閉め、二人を置いて車が走り出す。低くエンジン音が響く車内で緒方が口を開いた。
「正直意外でした」
「何がかね?」
「あの二人を研究会に誘ったことです」
緒方は右にウインカーを立てる。視線を右に向けながら、
「今日の藤崎の一局は粗が目立ちましたし、進藤に至っては対局もしていません。二人ともを誘う理由が私には……」
私は誘おうとは思ってましたが、と緒方は言う。
「藤崎くんは問題ない。先の対局こそ集中できていなかったようだが、終盤での粘りは大したものだったよ。私の攻めを凌いで終局まで至ったのだから、守りについてはなかなかだ。上手相手との対局に慣れているようだった」
上手。それがおそらく進藤と名乗った少年であることはなんとなくだが想像できる。
「まあ、そうですね。それに今日彼女は認定大会で五局も打ったあとですし。後ほど私が見た棋譜を並べましょうか」
「ああ頼むよ」
沈黙。先の信号が黄色から赤に変わる。静かにブレーキが踏み込まれ、二人がのる車は穏やかに減速する。
「しかし進藤はなぜ? 先生との対局も断って実力も不明瞭、やる気もあるのか分からないではないですか」
「やる気?」
「碁石アレルギーなどと訳のわからない嘘で碁は打たない、研究会はただ見てるだけなら参加する? 参加したくないならそう言えばいい。プラスチックもガラスもマグネットも碁石に限り駄目って、そんなアレルギーがありますか。幼稚園児でももう少しマシな嘘つきますよ」
「確かに打たない言い訳にしてはお粗末すぎるな」
ふ、と行洋は笑った。
「まあ精神的なトラウマで碁石に触れないという可能性もなくはないな」
「はは、それなら打つ場所を指で示すなり口で言うなりすればいいではないですか」
笑い、緒方がガチャガチャとサイドブレーキを下げる。アクセルが踏まれ、静かに加速する背もたれに身を任せながら行洋が、
「まあ彼自身あんな言い訳でこちらを騙せているとは思っていないだろうが、やる気はあるようだったよ」
「はぁ……?」
「進藤くんは碁を打てないように振る舞ってはいるが、本人は対局を渇望していることがその目つきから見て取れた。友人である藤崎くんが対局する間も凄まじい集中力で盤面を見ていたよ。言葉にできない、空気というか気迫は隠しきれていなかった」
気づいていたかね? と尋ねられ緒方は、はぁ、と自分の師に対して気の無い返事をしてしまう。自分にはそうは見えなかったが、あの塔矢行洋が言うのであればそうなのだろう。
「ではなぜ彼はあのような稚拙な嘘を?」
「打たない、というより打ってはいけないと考えているのではないかね。必死に我慢しているような、そんな目だった」
行洋は腕を組み、
「何か理由があって打ってはいけないと思っているのだ。自分にそんな資格はないと。私にも経験はあるよ。先輩棋士に大敗して自分に碁の才能などない、こんな不出来な人間が棋士を名乗るなど烏滸がましいのではないかと悩んだ時期が」
「先生が、ですか?」
彼の悩みはそれとは違うだろうが、と行洋は前置きして、
「よほどのことがあったのだろうが、それでも碁から離れることも、忘れて生きる決断もできない。本当に打ってはならないのなら藤崎くんとも打たずにいれば良い。それができず、なんらかの言い訳で自分が碁に関わることを正当化するのは、結局未練があるのだ」
かつての私と同じように、と行洋は思う。否、自分だけではないし、囲碁棋士に限った話でもない。道を極めんとする者は須く壁にぶつかる。挫折もする。そこからどれだけ早く立ち直れるかが才能の有無の境界である、と行洋は考えている。
「先も言ったが、打たねば解決しないのだ。どこを探したって答えは自分の中にしかない。その点で碁打ちは恵まれている。打てば、自分の中に答えを見出すことができるのだから」
逆に、と行洋は続ける。
「逆に、打たないと言い続ける限り彼の悩みが解決することはないのだがね」
ふぅ、と行洋はため息を吐いた。
「だからこそ彼は打つことになる。解決したいと彼自身が願っているのだから」
そういうものですかね、と緒方は微妙な表情で頷いた。
ただいまー、とあかりが玄関扉を開いた時にはちょうど藤崎家は夕飯時だった。
「おかえりあかり、手を洗ってきなさいすぐ夕食だから」
「はーいっ」
洗面所を経由して食卓に入れば、すでに父と姉が味噌汁とおかずになるトンカツをテーブルに並べていた。ただいま、と二人に声をかけてからすぐにキッチンに向かい米をつがれていた茶碗をお盆に乗せて持っていく。
いただきます、と口に箸を運んでいると1週間ぶりに顔を合わせた父があかりに声をかけた。
「あかり、楽しそうだけど何かいいことあったか?」
ウキウキした雰囲気が出ていたのか、それとも単に娘に話しかける話題に困ったからか、父は当たり障りのない話題で年頃の娘との会話を試みた。
「んー? うん、実はね?」
あかりは両親に今後について報告をすることにした。
「囲碁のイベントに出て優勝したの。そこで碁の先生とお話できてね、先生がやってる碁の教室に来ないかって誘われたの」
「……碁? って、あの黒白の石を並べるあれか?」
「うんそれ」
姉が目を見開いて、
「あんた囲碁なんてやってたの? 今日はヒカルくんと遊びに行くって言ってたじゃない」
「だからヒカルと碁のイベントに行ったの。と言ってもヒカルは見てるだけだけど」
「まあ、ヒカルくんは碁とか将棋って感じじゃないわよね。いつも数字の5って描いてるシャツ着てるけど」
母が味噌汁のお椀から口を離して、
「というかあかり、優勝したの? 子供の大会?」
「ううん、大人も出る大会だよ。来週くらいに大会の人から賞状送られてくると思う」
「へぇえ、あかりが碁をやってたなんて知らなかったわ」
「ん? あかり、みんなに秘密にしてたのか? 優勝するってことは結構やってるんだろ?」
どのくらいの規模の大会か知らないけど、と父の問いかけにあかりは頷く。
「今まであんまり人に言ってなかったの。でもこれからちょっと本気でやろうかなって」
「中学校から囲碁部でも入るの?」
姉の問いかけにあかりは首を振って、
「プロになりたい」
キョトン、とあかり以外の三人が箸を止めた。
母が、
「プロって、碁のプロ? 碁にプロってあるの?」
「あるよー。だから、今日プロの先生がプロになるために研究会に来ないかって言ってくれたの。と言うか前に言ったじゃない」
「何を?」
「碁のプロになりたいって。電話で。覚えてないの?」
あー、と母は記憶を掘り返した。そういえば進藤さん家から電話してきたことがあったな、と。
と言うかプロ? あまりにも現実感がない、小学生相手に何を言っているのだろうそのプロの先生とやらは。
まあ、大会でいい成績をとった小学生相手にやる気を出させるためにお世辞を言ったのだろうと母は納得した。
「学校の囲碁部じゃダメなの? 葉瀬中にあるんでしょう?」
あるよ、部員一人しかいないけど、とは姉の談。
「それでも大会には出れるんでしょう? わざわざプロの、研究会? てのに行かないでも、学校の先輩に教わればいいじゃない」
と言うか、お世辞を真に受けてプロの先生とやらの家に突撃されたらたまらない。
しかしあかりは大層不満そうに唇を尖らせて、
「プロと学校の先輩じゃ全然違うもん」
「でも月謝とかかかるんでしょう? 月いくらくらいなの?」
「お金はかからないよ、塾とか習い事と違うから」
ますます胡散臭い。
「週に一回、土曜日だけだから。お願い!」
そう言って両手を合わせておねだりしてくるあかりを見ながら、母は夫と目線を交わす。
「……まあ、いいんじゃないか?」
「あなた」
「土曜日だけだろ? 部活に入るよりむしろ時間は使えるだろ」
「そうだけど、普段からヒカルくんと遊んでばかりなのよ?」
母の言葉にあかりが口を挟む。
「ヒカルとは一緒に勉強もしてるもん。宿題だって忘れたことないし」
「でもねえ」
母親としては碁やら将棋やらの趣味に時間を費やすくらいなら学習塾にでも行ってほしいと言うのが本音だ。
「いきなりプロって言われてもねえ」
「目指すだけならただじゃないか」
「勉強する時間が減るって言ってるのよ」
「勉強はするさ。な? あかり」
「も、もも、もちろん!」
嘘くさい。
けど、まあいいか、と母は折れた。
「成績悪かったら辞めさせるからね?」
「うん! あ、あとね、プロ試験も受けたいんだけど……」
「小学生が受けれるものなの?」
「受けるなら何歳でも受けられるみたい。小学生からプロになってる人も少ないけどいるって聞いた。ただ、それが2ヶ月くらいかかる試験で、週1で学校休まないといけないの」
それを聞いて母は閉口した。
「それは残念だったわね」
つまり諦めろ、と言うことだ。プロだかなんだかの言葉を真に受けて1ヶ月も学校を休むなどお話にならない。
その母の意図が伝わったのか、あかりも拗ねたようにむぅぅと唸った。
思う。やはり説得するには賞状やトロフィーをいっぱい取って母に見せつけてやらないとダメだ、と。
そんな二人の間で父は視線を右往左往させ、姉はジャニーズが歌って踊るテレビに釘付けだった。