よしよし、とあかりは上機嫌に笑いながら歩いていた。
4月3日、中学校の入学式の朝である。
あかりの心を表すかのように晴れ晴れとした青空と眩しい朝日があかりと隣を歩くヒカルを照らす。
買ったばかりの新品の制服は袖を通すだけで心が踊る。
初めての制服にまるで自分が少し大人になったように感じる。ウキウキをそのままにあかりはヒカルに声をかける。
「なんだか久しぶりだね、こうして二人で歩くの」
「そうだっけ?」
「1週間ぶりくらいじゃない?」
「あー……」
女流アマ大会が3月の26日。その後すぐ春休みに入り、一緒に登校することがなかったのだ。中学への入学準備もあって碁会所に通うにも日程が合わず、しかも土曜日に予定されていた研究会も塔矢名人は地方の棋戦のために関西へと行ってしまい中止になっていたのだ。
「まあ電話もしたしね。その時も言ったけど、改めて報告するね」
「うん」
「無事お母さんとお父さんを説得して、プロ試験を受けられるようになりました!」
いえーい! とピースサインをヒカルに向ける。
やはりこういうことは直接ヒカルに言いたいのである。
「ありがとね、ヒカルが協力してくれたおかげだよ」
「そんなことはねーよ、あかりの頑張りだよ」
「やっぱり? やっぱりそう思う?」
えへへ、と頬がゆるむ。
実際うまくやったと自分でも思う。
塔矢先生にテレビの出演スケジュールを聞いて、居間のテレビのチャンネルをその時間にこっそり合わせていたり。
日中、母はテレビをつけっぱなしで家事をするので、登校前に録画していたケーブルテレビの囲碁チャンネルのビデオ(塔矢先生宅からお借りしたもの)を流しっぱなしにしておいたり。
囲碁雑誌も塔矢先生や緒方先生が表紙になっているものを中心にいろんなところに広げておいたり。もちろん新聞でその手の記事や日曜版の棋譜や詰碁が載ってる紙面も逐一探して食卓に広げておいた。
一家団欒の食事時もおりに触れて囲碁囲碁ヒカル囲碁プロ囲碁。なるべくさりげなさを装いながら碁に関する話題を家族の会話のネタに提供した。
そういった地道な根回しを1ヶ月以上積み重ねた結果、全国大会に出ることを伝えると今までにないくらい関心を寄せてくれるようになった。
日本棋院が電車ですぐ行ける距離にあることも良かった。これが東京の外だったら母さんも面倒くささが勝ってしまっただろうことを考えると自分は運がいいとあかりは思う。
運に恵まれたとか、自分の棋力が上がったのはヒカルのおかげだとか、そういった要因はあるにせよ、母親から承諾の言葉をもぎ取ったのは確かに自分の力だと思う。
本当は大会に優勝してプロになる宣言をした方が格好良かったし一番スムーズだっただろうけど、そこは塔矢先生のフォローのおかげもある。
「ともかく、さ」
ヒカルが曲がり角の先に見える中学校の校舎を見ながら言う。
「これからあかりはプロに向けて本格的に動き出さなくちゃいけないんだよな」
「もちろん!」
あかりはグッと両手の拳を握る。やるぞ ! というやる気に満ちた少女を見て、ヒカルは思わず笑った。
「もう、何を笑うのよ」
「ごめんごめん」
そう言って、ヒカルは俯き気味に、
「頑張れよ」
と告げた。
あかりは軽く首を捻った。
そこは、頑張ろう、じゃないのか、と。
しかしさっさと前を歩くヒカルに追い縋ることに気を取られ、あかりは違和感に蓋をした。
玄関前に張り出されたクラス分けによれば、ヒカルとあかりは別のクラスになってしまったようだ。
廊下に置かれた看板に従ってヒカルと別れて自分のクラスに向かったあかりはちょっとしょんぼりした。
小学校の時は六年間同じクラスだったのに。
せっかくいい気分だったのに水を差されてしまった。
クラスごとに体育館へと向かい、並べられた席に着く。途中で三谷を見かけたので手を振ると目を見開いて一瞬硬直し、目を逸らしながらも会釈してくれた。
そうか、同じ中学だったのか、とあかりは頷いた。
入学式が終わり、その流れで部活紹介が行われた。
野球部、バスケ部、サッカー部などメジャーなスポーツのクラブがほとんどで、文化系といえる非スポーツものの部活は新聞部と文学部、美術部の三つだけだった。
おかしい、その中に囲碁部がない。
どういうことだ、とあかりは教室へと戻る廊下を歩きながら首を捻る。確か姉はあると言ってたはずなのに。
入る気は流石にないけれど。
プロ試験を受けようという自分が入ってもね。
本格的に動かないといけないな、なんてヒカルに釘を刺されたばかりだ。
とはいえ、三谷くんとの対局は続けたいな、とあかりは思う。
三谷も大分強くなった。碁会所で一番強いという神崎さんにも最近は勝ち越し、ごくたまにふらりと立ち寄るダケさんと呼ばれるおじさんとの対局にも辛勝した。
そのおじさんは確かにそこそこ強かった。数ヶ月前の三谷では手も足も出なかっただろう。まるでスポンジのように定石を身につけメキメキと腕を上げる三谷を育てるのはとても楽しかった。
だけど、流石にあっちの碁会所に通うのはもう時間的に厳しいかもしれない。
教室で自分の席に着き、担任の先生の挨拶を聞き流しながら、
「あ、そっか。学校で打てばいいんだ」
思いついた。
三谷とは同じ学校にこれから通うことになるのだ。
それなら放課後に開いた教室や図書館なんかで打てばいいし、なんならヒカルも誘って三人で囲碁部に行こう。囲碁部に籍を置けば三谷と打つ場所を確保できる。中学校の大会に参加するわけにはいかないけれど。
「まあ、週に何局かだけって感じになっちゃうけど」
やはりプロ試験前にはヒカルと多く打っておきたい。最近では二子での勝ち星も増えてきた。そろそろ互い先でもいいかもしれない。
「なんて、調子に乗れることでもないんだけどね」
どうにもこの頃、ヒカルの対局は不満が残るものが多い。
対局中、ヒカルからまるで覇気を感じないのだ。
それはもしかしたら対局中に塔矢くんから向けられる殺気とも言えるような迫力に慣れてきたからかもしれないし、アマの大会で実力のある人たちとの真剣勝負をいくつも越えてきた成果かもしれない。
そういった、自分が成長したから、ということもあるにはあるだろう。
なんか最近やる気なくない? とヒカルに聞いたこともあり、その時ヒカルはそう答えたのだ、あかりが成長したからだろ、と。
しかしやはり、それ以上に問題はヒカルにあるとあかりは思う。
対局に身が入っていないのだ。
だからこちらの勝ち星が増えているのだ。
ふぅ、とため息が漏れる。
ヒカルがどういうつもりなのか、やっぱりよくわからない。
ヒカルが私から離れようとしているのは薄々感じていた。
しかし自分から離れてしまえばヒカルは誰とも碁が打てなくなるではないか。
ヒカルが囲碁を止めるなんてありえない。
それにも関わらずヒカルが自分から離れようとするのは、私が下手だからではないか、とあかりは思っていたのだ。打ってもつまらないからではないか、と。
確かに今まで自分はへっぽこだった。初心者同然で、大して強くもなく、対局の中で同じようなミスを何度も繰り返して、布石の段階で終わってしまうことも多くあった。
でも時間をかけて、少しずつ実力を身につけてきた。
ヒカルとの対局は全てノートに棋譜を残して毎日毎日読み返している。ノートの冊数は数え切れないくらいで、押し入れの下にヒカルの写真と一緒に詰め込んでいる。ヒカルの写真に囲まれながらヒカルと積み上げてきた棋譜を振り返ることが楽しくて気持ちよくて、もうほとんどの棋譜を頭に思い浮かべられるくらいだ。
ヒカルが見せてくれた秀策さんの棋譜も同様だ。
他にも、読み込んだ詰碁の問題集は新しいものが出るたびにチェックして、お小遣いで買えたものは読み込みすぎてページに手垢が残るくらいだ。表紙が外れてしまったものもある。
そのくらい碁に生活のほとんどを捧げて、塔矢名人にプロ試験合格並というお墨付きをもらえるくらいまで実力を身につけたのだ。
ヒカルに満足してもらうために。ヒカルにこちらを見てもらうために。
それなのにだ。
それなのにヒカルは離れようとする。最近になっては特にだ。
この程度の実力ではまだヒカルは満足してくれないのだろうか。
電話口でも言っていたのだ、プロ試験を受けられると報告した時に。
もう俺とは打たない方がいいな、と。
全くふざけている。
その時は、何言ってるの? と言い返した。打つに決まってるじゃない、と。
けれど、もしかしてあれは本気だったのだろうか。
なぜ最近になって。
最近、具体的にはここ3ヶ月ほどで、何かあっただろうか。
「あっ」
教室なのに、ことさら大きな声が出てしまった。
ここでもう一つの可能性を思いついた。
天啓とも言うべき閃き。
もしかしてヒカルは、私がプロ試験を受ける上で、ヒカルとの時間が邪魔になると思っているのではないだろうか。
ヒカルの態度が顕著になったのは、プロ試験を受けると決めて、アマ六段を獲得したころからだ。
プロ合格という夢が現実的な目標となった時期だ。
私がプロ試験合格をより確実なものにするために、私との対局を我慢するということではないか。碁が大好きなのに、私のために我慢すると。
「そんなこと気にしなくていいのに。むしろどんどん打って欲しいのに」
まったく。と、あかりはニンマリと笑う。
あやつめ、乙女心というものをまったくわかっていない。
プロ試験を間近に控え不安に思う女の子が目の前にいるのだから、むしろ側で支えてくれないとダメではないか。
「これは一度、じっくり話し合わないとだめだ」
うん、と一人頷き、ぶつぶつ聞こえる独り言に隣の席の男子から異常者を見るような目で見られたところでチャイムがなり、その日の日程は終わった。
その足であかりは囲碁部の活動場所を探すことにした。そのためにヒカルの在籍する1組を覗いたが、なぜかヒカルは自分を待たずにすでに教室から出ていたようで、中には数人の女生徒がキャイキャイと雑談に興じているだけだった。
「どこ行ったんだろ。まあいいや、とりあえず囲碁部探そ」
場所を確認してからヒカルや三谷を誘った方が話が通りやすいだろう。そう思い目の前の廊下を歩いていた、メガネをかけ白衣を着た女の先生に声をかけた。
「すみません、囲碁部ってどこで活動してますか? 今日の部活紹介で出てなくて」
「ああ、囲碁部? ずいぶん耳が早いのね」
「え?」
「囲碁部作ろうって頑張ってる子がいてね、今年三年生になるんだけど。その子が新入生二人連れて、場所を貸してくれないかって言うから理科室の鍵を貸してあげたの。そのことでしょ?」
正確にはまだ部活じゃないんだけどね、と先生は教えてくれた。
「理科室ですね、ありがとうございます」
「理科室は二階の西側だからね」
「はい、失礼します」
頭を下げてあかりは階段を降りて理科室へと向かった。
新入生までいるのか、とあかりは小さく笑った。
人に教えることは、楽しい。
自分であれば碁会所でやったように多面打ちもこなせる、先輩と、新入生二人と、三谷くんを入れて四人だ。四人を同時に指導していくのは、とてもとても楽しそうだ。ワクワクする。
そう考えるあかりの足取りは軽やかで、スキップするように理科室の引き戸の前へとたどり着いた。
とりあえず今日は挨拶だけしておこう。
明日からもう二人新入生を連れてきますって。
扉をノックしようと拳を握り、叩く寸前であかりは凍りついた。
扉の、格子で4つに区切られた覗き窓から見られる理科室の光景に目を見開く。
呼吸が浅くなる。じんわりと冷や汗が背中を薄く覆ってシャツを濡らす。
理科室では、黒髪でメガネをかけた人と、癖っ毛な茶髪という特徴的な三谷の背中があって。
その二人の前には、碁盤を挟んで向き合っているヒカルがいた。