え?
どうして?
状況が理解できない。
なんでヒカルが囲碁部にいるの?
男子二人の前には折りたたみの碁盤が二面置かれていて、ヒカルの手元に碁石はない。黒と白、どちらも対局相手である三谷と先輩であろうメガネの人のそばにあり、ヒカルは普段自分と打つ時と同じように石を置きたい場所を指で指し示している。
碁石アレルギーの設定はここでも守っているようだ。
そんなことはどうでもいい。
なんでヒカルは碁が打てることを隠していないの?
ヒカルと対局できるのは自分だけの特権だったはずだ。
ヒカルの実力は自分たちの間の秘密だったはずだ。
なんで三谷くんに指導碁を打ってるの?
三谷に指導するのは自分だ。自分が教えて、導き、自分色に染めるのだ。そのつもりでずっとあの碁会所に通っていた。
混乱のあまり視界が歪む。息が上手く吸えない。バクバクと心臓が暴れて、思わず右手で制服の胸ぐらを握りしめた。
碁石が打たれる音に混じって、彼らの楽しげな声が聞こえる。
何を話しているんだろう。自分を差し置いて、ヒカルは何を。
あかりは目を血走らせながら屈み、扉に耳を近づける。一体ヒカルがどういうつもりなのか確かめなければならない。そばを通る男性教師の怪訝な視線は気にもならなかった。
「負けました……強かったんだなお前。途中から指導碁になってるし」
「僕もここまでで投了かな。これ六子くらい置かないと勝負になんないよ」
「ありがとうございました。筒井さんはまず定石集を置くところから始めようか」
「え、でも僕これ持ってないと不安で」
対局が終わったらしい。パチパチと矢継ぎ早に音がする。並べ直しているのだろう。
「進藤くんが大会に出てくれれば団体戦に出られるんだけどなあ。それどころか海王にだって勝てるかも」
「海王?」
三谷が尋ねる。
「囲碁部が全国でもトップレベルのとこ。元院生とかもいるようなレベルなんだってさ」
「院生ねぇ」
「で、進藤くんは……」
「うん、ごめんね筒井さん。さっきも言ったけど、俺大会には出ないよ」
「アレルギーねぇ」
いかにも疑っています、と言わんばかりの声色で三谷が呟けば、それを遮るように筒井が、
「まあ事情はあるものね」
となだめた。
「新入生から探すとか、性格悪いけど碁の強い友達もいるし、それにまあ大会は個人戦もあるしね」
「ごめんね筒井さん。出れない代わりにいっぱい対局しよう。対局しまくって実力アップだよ」
「確かに筒井さん対局自体に慣れてない感じあるな。碁の本片手に対局とか初めて見たわ」
「いや、だって開いてないと不安で」
わいわいと、男子三人で楽しそうに碁の話をしている。
ヒカルが、私以外の人と碁の話をしている。
私以外の人と。
ぶち、と口元から繊維質な音が聞こえた。
何事かと唇に触れると、指に真っ赤な血がついていた。無意識のうちに唇を巻き込んだまま歯を食いしばっていたみたいで、口の右端から顎へと血が垂れていた。
「そういえば進藤、新入生といえば藤崎はどうしたんだ?」
背筋が跳ねる。私の名前が出た。
「入学式で見たけど連れてこなかったのかよ、進藤と藤崎の対局見てみてーんだけど」
「藤崎? だれ?」
「進藤の友達の女子。めちゃくちゃ碁が強い。今打った感じ進藤と同じくらい」
「女の子かぁ。団体戦は男女別だからなあ。それでもそんなに強い子なら入ってくれると嬉しいんだけど。進藤くん声かけてくれないかい?」
「あー……」
しかしヒカルは数拍の間を置いた。バリバリと頭をかく音がする。何を躊躇うのか。明日連れてくるよと言えばいい。そもそもなんで今日私に声をかけてくれなかったのか。まるで私を仲間外れにするかのように。
「あかりは、今年プロになるから、部活は無理だなぁ」
……え?
「プロ? その藤崎って子は院生なの?」
「院生じゃないよ。プロの先生に直接教わってて、プロ試験は合格する実力あるって先生に言われてるから院生にならないでそのままテスト受ける形」
「マジかよ藤崎、プロに弟子入りしてたってことか?」
「二月からな」
「あ、最近か」
理科室から響く喧騒も耳に響かない。
あかりは頭が真っ白になって、まるで白痴のように何も考えられない。
「プロ試験受けるなら少しでも弟子入りしたとこのプロたちと打つべきだし、俺らと学校で遊んでる場合じゃないんだ」
「あー、まあそりゃそうか。碁会所のおっさんたちもまるで歯が立たないしな、そんなところで遊んでる暇はねーか」
「そっか。残念だけどしょうがないね」
何それ。
ヒカルは何言ってるの。
なんでそんなこと勝手に決めちゃうの?
なんで?
ガラリ、と。
気づけばあかりは理科室の扉を開けて入室していた。
視線は茫洋として表情はなく、幽鬼のような足取りでヒカルへと近づいていく。
「ふ、藤崎?」
「え? この子が今言ってた人?」
あかりの異様な雰囲気に三谷と筒井の二人は左右にはけて道を開けた。その先には当然ヒカルがいて、しかしヒカルは静かな表情でふらふらと近づいてくるあかりを見つめていた。
手が震える。
寒い、とあかりは感じた。春になって桜も咲いている季節なのに、寒くて歯の根が合わない。
なくなっちゃう。
あかりは思う。
自分が今まで、人生のほとんどをかけて築き上げてきたものが失われようとしている。
自分の自我の根幹を形成する何かが、なんの配慮もなく引き抜かれようとしている。
その喪失感に体が震える。
「どうしたんだあかり」
失くしちゃう。失くしたくない。
ヒカルと碁を打っていいのは私だけなんだ。
私だけだから、碁が好きなヒカルは私を遠ざけるなんてできるはずないって。
なんでだめなの。
なんで取り上げるの。
なんでそんなこと言うの。
私ずっと頑張ってきたじゃない。ヒカルの言う通り定石を覚えて、毎日何局もぶっ続けで対局もしたじゃない。ヒカルの指す場所にいくつもいくつも碁石を置き続けて、指の爪の形変わっちゃったんだよ? さやか達と遊ぶことも減らしたし、ヒカルが待ってるから毎日まっすぐ帰るようになったの。読む本もヒカルが教えた棋譜集か詰碁の問題集ばっかりで、みんなが読んでるようなファッション誌もあんまり持ってないんだよ?
頑張ったじゃない、私すごい頑張ったんだよ。
だって、ヒカルが私のことを見てくれさえすれば他に何もいらないから。
なのに、
「なんで」
あかりの胸に渦巻いている激情に、ヒカルは平素とまるで変わらない口調で、
「なんで、じゃないだろ。あかりはプロになるんじゃないのか?」
と言った。
その感情の籠らない声は、まるで、死刑判決を読み上げる裁判官のようだった。
「それじゃあ、もう俺と打つ時間はないはずだろ」
あかりは弱々しく首を振る。
「ヒカルと、打ちたい」
「俺と打って何になるんだ? プロ試験前には邪魔になるじゃないか」
「き、鍛えてほしい」
「それはプロの先生に打ってもらったほうがいい。俺があかりに教えられるものはもう何もないよ、全部あげた。あとはあかりの努力次第だ」
違う。そうじゃないの。考えあぐねながらあかりは言う。
「先生たちとは何子も置いて打つの。でも試験では互い先でしょ、だから」
「なら塔矢に打って貰えばいい。いつも碁会所で打ってるじゃないか」
なんで。
なんでそんな意地悪言うの。私はヒカルと打ちたいからずっとずっと頑張ってきたのに。
ヒカルの中から秀策さんを追い出すために強くなったのに。
「俺みたいな中途半端な素人相手にするより、研究会とかで勉強した方が絶対あかりにとってプラスじゃないか」
「でも、不安なの。プロ試験で緊張しちゃうから、ヒカルと打ちたいの」
「プロになってからの方がずっと緊張するぞ? 何せ生活がかかってるんだ。タイトルのリーグ戦に上がれるかどうかで年収は全然変わるんだ、あかりも知ってるだろ」
「それでも、打ちたい」
「プロになってからもか? プロと一般人じゃ日程が全く合わないぞ? あかりの実力なら対局も多くなるし、学校に来る時間すらなくなる。そうなったらどうするんだ」
「た、対局は休む」
ヒカルはため息を吐いた。
「最初に聞いたよな? プロを目指すなら中途半端はダメだって、途中でやめるとかはなしだって」
言った。言ったけど、それはヒカルがずっと自分と碁を打ってくれると思っていたからで。
声が震える。
「もうちょっとでヒカルに勝てるの。互い先で打てるようになる。だから」
そういった途端、あかりは気づいた。
ヒカルが心を閉ざそうとしている。
この問答では一切ヒカルは譲らない。頑なに本心を隠して、その心のうちを明かさないだろう。
なぜそんなことを言うのか。
なぜそんなに冷たいのか。
その意図も、目的も一切明かさないまま、ただただ正論であかりを頷かせようとする。
ダメだ。このままじゃダメだ。
そう思うのに、どうすればヒカルと打ち続けられるのかあかりにはわからなかった。
秀策さんのことはどうなるの、そうあかりは思う。
秀策さんをヒカルの中から追い出すには、ヒカルを碁で圧倒的に負かしてしまわないとダメなのに。それがもうすぐで叶いそうなのに。なのにヒカルはもう自分と打たないという。
あかりがプロになるから。
プロでない素人の自分と打つ時間はないから。
そんな理屈で、打たない自分を正当化し、あかりの今までの努力を無為にしようとする。
塔矢先生は言った、碁の悩みは強くなることでしか解決しないと。
しかし、ヒカルと自分の問題は、自分がこれ以上強くなっても解決しない。
むしろ強くなるべきではなかったとさえ思えてしまう。
それは、あまりに恐ろしい考えだった。自分の半生を丸ごと否定することになるのだから。
だが、認めよう。
自分が強くなって、プロになっても解決しない。
ではどうするか。
それならヒカルもプロになればいいじゃない。
あかりはそう思った。