あかりとずっと打ち続けていればいいと思っていた。
口元から血を垂らしたあかりが部室に乱入し、結局何もせずに踵を返して出て行ってしまって。
それ以上対局を続ける気には流石になれず、囲碁部初日の活動はそれで終了ということになった。
物言いたげな二人の視線を丸っとスルーして、ヒカルはまたなと告げてさっさと部室である理科室を出た。
もしかしたら物陰にあかりが待ち伏せているかもしれない、と思っていたがそれは杞憂だった。
なんとなく、自分の部屋に帰りたくなくて、ヒカルは祖父の家にある倉へと向かった。
2階の小窓を開ければ、春の陽気を程よく吸ったかぜがヒカルの前髪を揺らした。
カバンを床に放り投げ、適当に腰を下ろした。
あかりは碁は初心者で、中学の三年間囲碁部にいてもさして実力が上がることがなかった。
だから、油断していたのだとヒカルは思う。
あかりは自分が想定していたよりもはるかに熱意を持って碁に打ち込んでくれて、自分如きが持っていた囲碁の技術を、知識を、ノウハウをついに全て吸い尽くしてしまった。
元々は、自分への罰のつもりだったのに。
碁を愛し、碁を側に置き、常に碁を考え、そして打たない。
それは、佐為と同じ環境に自分の身を置くため。また、初心者に碁を教えることで、自分の中に残った佐為の残滓を自覚するため。
それはとても辛い日々で。単に碁を忘れるよりもずっとずっとキツくて。
それなのに、あかりの実力が自分に近づくにつれて。拮抗した対局ができるようになるにつれて。
すっかりあかりと碁を打つことが楽しくなってしまった。
佐為をあんなにぞんざいに扱っておきながら。
自分の生で現世に戻れた佐為に苦痛だけを与えて、楽しいことなんて何一つしてやれなかった自分が、碁を楽しんでしまっていて。
あかりは強くなりすぎた。
一手一手がヒリヒリとする緊張と失着の恐怖に揺れる緊迫感。自分の全霊を賭しての判断を要求してくる混戦。あれを、あかりとの対局で味わえるようになってしまった。
なんて有様。
自分を罵倒する声が聞こえる。
お前は佐為に何もしてやれなかったくせに。佐為から多くを奪って苦しめておきながら碁を楽しむだなんて。なんの資格があってお前はそんなマネをするのか。
身の程を知れ。
お前など、素人相手に面白くもない指導碁もどきをしているのがお似合いだ。
肺の奥から鉛色の溜息が漏れる。
潮時だ。
もう自分から教えられることは全て捧げた。
あかりにはもう自分の代わりになる師ができた。なんとあの塔矢名人だ、碁の師としてこれ以上は望めない人選だ。
しかも塔矢アキラというライバルまであかりにはできた。日々の対局で切磋琢磨し、互いが互いを高め合う理想的なライバル関係だ。
しかも両親からプロ試験を受ける許可まで得ることができて、金銭的な問題も無くなった。
あかりのあの実力だ、プロにさえなればどんどん活躍していくだろう。一年目から棋戦でリーグ入りを果たすかもしれない。
順風満帆。
あかりの行先に不安など一つもない。
あかりが進藤ヒカルにどんな感情を抱いているのかおおよその予想はついている。しかしそれは、碁を打つ楽しさとプロの世界で揉まれる忙しさの中に埋もれてすぐに忘れてしまう程度のものだろう、そうヒカルは考えていた。
「頑張れあかり」
小窓からの差し日しかない暗い倉の中で小さく呟く。
声には満足感が漂っていた。
自分が佐為から奪ったものを、その全てを伝え切った満足感。
「頑張れよ、あかり」
震える喉から溢れるその呟きは、もちろん、誰にも届かない。
あかりは塔矢名人の経営する碁会所へと向かう道を歩いていた。
ぼうっと考え事をしていたあかりは、いつの間にか碁会所の前へと辿り着いて『囲碁サロン』の看板を見上げていた。
考えるのはもちろん、先ほどの理科室でのヒカルとの会話だ。
ヒカルは言った。プロが一般人と打つ時間はないだろうと。だから打たないと。
へっ、とあかりは鼻で笑った。
「じゃあヒカルもプロになればいっぱい打てるって理屈だよね」
単純な話だ。
私ってあったまいー、とあかりは自画自賛である。
ヒカルの唐突な突き放しに泣き寝入りするほどお上品に育てられちゃあいねーのである。
行動あるのみ、兵は拙速こそを尊ぶのだ。
なぜ逃げようとしているのかは知らない。でもそんなことは捕まえてから吐かせればいいことだ。
「その理由によっては、私がプロ入りを諦めるって方向もありだけど……うーん」
悩ましいところだ。
それだとヒカルを閉じ込める部屋を用意できないし、囲碁と秀策さんのことで頭がいっぱいのヒカルの心を独占することはできない。
とはいえとりあえず取るべき方針の一つとして頭の片隅に置いておくべきではある。ヒカルと碁を打てないとそもそもお話にならないのだから。
まず自分がすべきことは、ヒカルが自分から逃げられないように囲い込んでしまうことだ。
その上で自分と打たない理由を吐かせて解消させるなり、プロになることを無理矢理にでも承諾させるなりすればいいのだ。
囲い込むのはプロになってお金をがっつり稼いでから、と考えていたけどそれはあまりに悠長な甘い考えであったとあかりは反省する。
「だってヒカルは私から逃げるつもりなんだもんね。のんびりしてちゃダメだよね」
もしかしたら高校はどこか別の県の全寮制の男子校に入学してしまうかもしれない。どころか中学のうちに別の学校に転校してしまう可能性だってある。
冗談ではない。もたもたしてはいられないのだ。
ヒカルの実力は間違いなくプロ級である。
研究会で何人ものプロやプロ級と言われるアマの大会上位常連の人と対局してそれに気付いた。
その気にさえさせればヒカルは今年中にもプロになれる。
じゃあどうすればヒカルをその気にさせることができるのか。
うーん、とあかりは腕を組み、そして思いつく。
暗いところに閉じ込めてずっと「あなたはプロになる」と囁き続ければいいんじゃないかな、と。
うん、と頷きつつ、では場所はどうしてやろうか、と思考を巡らせる。
今、例えば家に帰って電話したところでヒカルが家に来てくれるとは思えない。
母も日中は割と外出することが多いし、その日程も今のカレンダーに書いていくれている。決行日については問題ない。
問題は場所だ。
自分の部屋でもできないことはないけれど、緒方先生に頼めばどこかマンションの一室でも借りてくれないかな、なんてことを思い、
「でもそこまでヒカルを呼び出す手段がないんだよね、そこも含めて緒方先生か塔矢先生に相談しないと」
「藤崎さん?」
声をかけられて、振り返れば制服を着こなした塔矢アキラがいた。
「あ、塔矢くんこんにちは。海王中だったっけ、似合うね制服」
「あ、うんありがとう、藤崎さんも制服だと大人っぽく見えるね……その」
「どうしたの?」
言い淀むアキラにあかりが首を傾げると、アキラは口のあたりを指差して、
「それ、血?」
「あ」
そういえば、ここに来るまで考え事をしたせいで拭うのを忘れていた。
ずっと口や顎を汚したままここまで歩いてきたのだと思うとあかりはたまらなくなってポケットのティッシュで口元を乱雑に拭った。
「取れた?」
「うーん、乾いちゃってるみたいだね、拭くだけじゃ無理だよ」
「えー」
「碁会所で水道借りよう、というかここに立って何していたの? いつも先に上がってたのに」
あー、とあかりは言い淀む。
時間にしてほんの3秒。その間にあかりの脳細胞がかつてないほどスパークする。初めてアキラと対局した時よりもはるかに思考を回転させたせいで頭に熱がこもり意識が一瞬飛ぶ。おかげですでに瘡蓋になっていたはずの口の傷から再び出血が始まる。傷口から溢れた血の雫が顎に伝って足元のアスファルトに血痕を残した。
「なんとなく? 入り辛くて」
「……何か悩み事? 顔色も悪いし、僕でよければ相談に乗るよ?」
「……ごめんね、塔矢くん」
「え?」
言葉を詰まらせ、血を拭うティッシュで口元を隠しながらあかりは俯き視線をアキラから逸らす。
「私、もうここには来れない」
「……え?」
キョトン、とした表情を浮かべたアキラは、その時あかりの言葉の意味がよくわからなかった。意識が言葉の意味に追いついてようやく、
「どういうこと?」
「もしかしたらだけど、プロ試験も……受けない、かも」
「どうして!?」
アキラからすれば驚天動地の事態である。
あかりを生涯のライバルと定め、あかりと打つためなら女装して女流の大会に参加しようとまで思い詰めたのだ。ともにプロ試験を受けて、プロとして競い合う未来を確定したものとして考えていたのだ。それをプロ試験の直前ともいえるこの時期にそんなことを言われ、アキラの動揺はマグニチュードで言うと8.0を超える。
「な、何があったの? ご両親からは許してもらえたんだよね?」
「うん。お母さんじゃなくて……ヒカルが」
ヒカル? あの、よく研究会に顔だけ出して何も言葉を発さずお茶だけ飲んで藤崎さんと帰る前髪金色の彼のことか。
「進藤くん? 彼が、何か言ったの?」
「……やっぱり、なんでもない!」
そう叫んで、あかりはアキラから逃げるように背を向けて駆け出した。思わずアキラはその細い手首を掴む。
「待って!」
「離して!」
腕を振り払ってアキラの手を解く。叫ぶようなあかりの剣幕にアキラは動きを止めてしまい、あかりはその隙に駆け出して行ってしまった。
男女の修羅場を展開する中学生を見る好奇の視線に囲まれながら、アキラはしばし呆然とその場に立ち尽くした。