電話で塔矢先生へと連絡をとる。
色々と相談、連絡があるためだ。
使えるアパートの空き部屋はないか、後援会の中に不動産を扱っているかたはいないか。
もちろんなぜそんなことを知りたいのかと聞かれるが、理由は言えない。大丈夫です悪いことには使いませんから。
無理だと断られてしまった。
仕方ないので緒方先生にも連絡してみる。
緒方先生はマンション住まいですよね? 同じ階に空き部屋なんてありませんか。それか先生は都合のいい愛人いませんか? しばらく部屋を貸してくれそうな感じの心が広い包容力のある女性。いないですかそうですか。
では愛人にマンション貸してたりしてませんか? そんなノリで私にもどうか一部屋、いえ違います先生の愛人になりたい訳ではありません、大丈夫損はさせないです、理由はちょっと言えません、でも悪いようにはしないです。
メタクソに怒られた。
解せぬ。
損はさせないと言っているのに。
はーぁ、とため息が漏れた。
今日も今日とて部活に出る。三谷と筒井さんの二人相手に相変わらずの多面打ちだ。筒井さんはヨセには自信があるようだけれど、残念ながら基本的に中押しなのでヨセまで盤面が行かない。
穏やかな日々だった。
何か言いたげな二人の目線が痛いが誰がなんと言おうと穏やかな日々だった。
4月の下旬、桜も徐々に散り始めた頃である。
ここ2週間ほどあかりの姿を見てなくてちょっと怖いなと思っていても、この穏やかな日々は嘘ではない。休みがちなのはきっと碁の勉強が忙しいのだろう。なんせプロ試験の前だものな、とヒカルは一人頷く。
三谷と筒井さんの二人と打つ碁は、ヒリヒリすることも冷や汗が出ることもない。ワクワクもドキドキもない実に平穏なものだった。
三谷と筒井が口ぱくとハンドサインで何か会話している。
筒井が小さくヒカルを指差して、
──あなた、先日、話、聞けた?
三谷は右手を左右に激しく振り、
──無理無理無理無理。怖い。藤崎、最近、会う、なし。あなた、先輩。聞く、頑張れ。
筒井は両手の人差し指を交差させて、
──だめ。自分、部外者。あなた、以前、付き合い、ある。君、聞く、OK。
──無茶言うなよ。
──というか実は藤崎さんのことちょっと好きだったんでしょ。
──な、何言ってんだよ、そんなわけねーだろ。
──またまた、藤崎さん可愛かったじゃない、優しく教わってたら好意の一つや二つ抱いてもしょうがないよ。
──いやどう見たって進藤とデキてるじゃん、二人揃って碁ばか強いし俺が入り込む隙なんかねーよ。
──いやいやそうやって諦めれば傷つかないし楽かもしれないけど、得られるものもないよ、まずは自分の気持ちに正直になって前に進んでいかないと。
──いやいやいや今人生相談的な雰囲気出すのやめてくれる? というか藤崎ヤベェやつじゃん、筒井さんは藤崎に告白されたら付き合うのかよ?
──ははは。
あかりに碁を教え始めた頃のことを思い出す。
こーやって逃げる、は正直笑ってしまった。小学校低学年だったあかりは笑われたことにむくれて不貞腐れてしまったが、なんとか宥めて碁のルールの基本を教えたのだった。
あれもこんな晴れの日だったように思う。
まさかあの状態からプロ試験受けるまで行くなんてなぁ。しみじみとヒカルは過去を振り返る。
佐為は見てくれているだろうか。
塔矢と打つ機会を手放した。塔矢先生との対局だって投げ捨てた。あかりとの対局すら他者に譲った。
それでもまだ、佐為は帰って来てくれない。
やっぱり素人相手の指導碁すら許されないってことなんだろうか。
そうかもしれない。
佐為の怒りと憎しみを思えば、指導碁だろうとなんだろうと碁に関わるだけで嫉妬の対象だろうから。
いや、とヒカルは首を振って否定した。
だって、自分は辛いんだから。アキラやあかりと打つチャンスを棒に振ることは、碁を忘れるよりずっと辛いことだから。きっと佐為もそのことはわかってるはずだ。
「進藤くん」
誰に呼ばれたのかと思った。
室内の三人が碁盤から顔を上げて視線を交わし、お前が言った? 違うよ筒井さんじゃないの? 違うよー、なんてやりとりを無言で回した後、再び「進藤くん」と声がした。
碁の集中が途切れていた三人はその声の発生源に同時に気付き、視線をそちらへと揃って向ければ、窓の外からこちらを睨みつけるおかっぱ頭の少年がいた。
今度は誰だよ、そんな思いを瞳に乗せて三谷と筒井がヒカルを見れば、ヒカルは驚きに目を見開いて、
「塔矢、なんで」
「え、もしかしてあの塔矢アキラ、くん? そういえば囲碁雑誌で見たことあるような」
「あー、そう言えば去年の号で見たかも」
なんで、塔矢がここにいる。
窓からこちらを睨むその様子は、かつての人生でも見た光景だ。もっと打とう、ライバルとして高め合おう、そんな誘いをよその中学校に乗り込んでまで正面から告げてきたあの日のことを、ヒカルはつい先日のことのように覚えている。
しかし、どうして?
もしかして、また自分を誘いに、なんて意味のわからない期待が一瞬だけ胸の底から勝手に湧き上がって、それを自嘲と共に飲み込んだ。
「話がある」
アキラの声色は、驚くほどに冷たかった。声を聞いた囲碁部の三人が揃って背筋を凍らせた。
ビクビクとヒカルが窓へと近づいていくと、アキラは声を落としてこんなことを尋ねる。
「藤崎さんはどこにいる?」
「え?」
どこ?
「碁会所じゃないのか? なんでそんなことを聞くんだよ」
「なんで、だと? 君が……君がそれを聞くのか」
低く、唸るようなその声にヒカルは困惑する。どう言うことかと混乱して返事を返せない。
その背後では筒井と三谷がまた無言で会話している。ほらやっぱり藤崎さんは人気あるんだよ、ヤベェやつどうしで気が合うんだろキレ過ぎだろ。
初対面の二人にヤベェやつ認定されたアキラは苛立ち混じりに、
「藤崎さんはあれから研究会にも碁会所にも来ていない」
「……え?」
「何を戸惑っているんだ? 君が、そうさせているんだろう、もう碁を打つなって。暴力で言うことを聞かせているんだろう?」
何を言っているんだ。ヒカルは心から混乱した。アキラの言っていることがまるで理解できない。日本語と認識できるかも怪しい。
「ま、待ってくれ塔矢。なんのことだよ、俺はずっとあかりのために」
「彼女のために、なんだ。わざわざ研究会にまでついてきてずっと監視をしていたのが彼女のためとでも言うのか? ずっと見張って、そんなに彼女が碁を打つことが気に入らないのか?」
監視? そんなつもりはない。ただ自分は、佐為のようになりたかっただけで。
「そんなつもりは……だ、大体暴力ってなんの話だよ」
「口元から血を流していた。2週間前のことだ。口元をティッシュで抑えながら、プロ試験を受けないかもしれない、と悲痛そうに言って走り去ってしまった。それ以来藤崎さんとは会えていない。あんな悲しそうな藤崎さんなんて」
く、とアキラは無念そうに視線を切った。もちろんその出血は囲碁部の活動場所として使う理科室に入る前からのことであるので、アキラの勘違いであることは囲碁部三人はわかっているのだが、アキラの剣幕にそれを言い出せずにいる。
「たいして碁を打たない君には理解できないだろうが、彼女は才能があるんだ。その才能にあぐらをかかず、日々修練を重ねていた。あれほどの熱意を持って碁に打ち込む姿勢はプロの方たちだって感嘆するほどだ」
語るにつれて、アキラの視線に苛烈さが増す。
「それほどの情熱を、藤崎さんは捨てるつもりだ」
「捨てる?」
「プロ試験も受けないかもしれないと言っていた」
ガン、と。
アキラの言葉はヒカルに衝撃を与えた。
プロ試験を、受けない? どういうことだ。だってあかりは、プロになるために頑張って来たんじゃないのか。
どうして。
「だから、君のせいだろう」
驚愕に目を見開く。
「な、何言って」
「僕の前から去る直前、彼女は君の名前を言っていた。以前も君は、僕と藤崎さんの対局を邪魔していたじゃないか」
「邪魔なんて……するわけ、ないだろ」
混乱のせいで常にない弱々しい口調のヒカルの態度をどう捉えたのか、アキラはその瞳に憎悪すら滲ませる。それを見て三谷はドン引きしながら筒井に顔見てごらんなさいキチガイの顔ですわとジェスチャーを送る。
「俺は邪魔なんてしてない。ずっと、あかりのために」
あかりのため?
本当に?
ヒカルは自分の思考に体を凍りつかせ、手で顔を押さえた。
自分は、本当にあかりのことを思っていただろうか。
「何が彼女のためだ。確かに、藤崎さんが碁を始めたきっかけは君だったんだろう。そのことは彼女から聞いた」
そうだ。俺は佐為になりたくて。佐為と同じことをして、同じ立場になって、佐為の苦しみを少しでも味わいたくて。そのためにずっとあかりに碁を教えて、鍛えてきた。
ずっと。人生が巻き戻ってから、小学生の頃からずっと。
俺が佐為と共にいた時間よりも長く。
「これからプロになる彼女とは、君は会う機会が減るだろう。だからと言って、藤崎さんから離れたくないからって碁を辞めさせるだなんておかしいだろう。君のその態度がずっと彼女を苦しめていたんだ」
離れたくないから? 違う。俺が離れたくなかったのは佐為とだ。ずっと佐為と一緒にいるんだと、それが当たり前なんだと考えていて。
当たり前だった。
それが当たり前じゃなくなって、初めて自分の罪深さを知って。
それからはずっと佐為のことばっかり考えていて。
最後の、途中で終わってしまった対局が、後悔と名を変えてずっと心にこびりついていて。
寝ても覚めても、夢の中でも佐為のことしか考えてなくて。
「君は自分のことしか考えていない。自分の都合の良いように藤崎さんを扱っているんじゃないか。そして自分から彼女が離れようとすればそれを邪魔して! 少しでも藤崎さんの立場に立って考えれば、君と言う人間が彼女にとってどんな存在か自分でわかるだろう!」
その言葉は言い換えれば、お前はあかりの才能を損なう足枷でしかないと喝破していた。
でも真相は逆だ。
あかりが、自分から離れることを厭ったのだ。
自分が、佐為との別れを認められなかった時のように。
ああだめだ。ヒカルは愕然とする。
ほとんど塔矢の言う通りだ。
なぜ気づかなかったのか。
あかりのためと口にして。あかりのためと本気で思っていて、その実自分はずっと佐為のことしか考えてなくて。
あかりの立場になって考えれば、自分は一体何をしているのか。
あかりにとって自分はなんだ?
6年以上、ほとんどつきっきりで碁を教えた。学校の勉強だって率先して教えた。碁石アレルギーなんて嘘を何も言わずに肯定してくれて、いろんな相談に乗って、両親からプロ試験を受ける許可を得るための作戦も一緒に練って。
佐為のような立場を心がけてきた。
自分にとっての佐為のように。
じゃあきっと、あかりにとっての自分は、自分にとっての佐為なのだ。
気づけばヒカルは走り出していた。
胸に湧く衝動がヒカルの足を突き動かしていた。
理科室を飛び出し、真っ直ぐに玄関へと向かう。
節穴か、とヒカルは自身を罵倒する。外靴を投げるように玄関に放り、走りながら踵を靴にねじ込む。
少し考えればわかることだったのに。
自分だって、佐為がいなくても森下先生がいるんだから良いだろ、なんて到底認められるわけがないのに。
俺が辞めても塔矢先生がいるだなんて、なんて的外れな考え。
そんなつもりはなかった、なんてただの言い訳だ。
あかりのことなんてまるで知ろうともしないで、ただ自分の贖罪のために利用して。その皺寄せをあかりに全ておっ被せて。
俺はいつも配慮が足りない、そうヒカルは思う。
自分のやりたいことばっかりで。周りの人のことを何も考えていない。
あかりがプロにならないと考えるのも当然だ。
自分だって、佐為がいないのにどうしてプロを目指そうと思えるものか。
どうしてもっとあかりの側に立って物事を考えられなかったのか。
佐為が消えてしまった時の苦しみは、今もジクジクと心の中で乾きもせずに血を垂れ流し続けている。
佐為に会いたい。謝りたい。あの続きを打ちたい。佐為に許してもらいたい。もっと他の人と打たせてやりたい。
そんな怨念とも言うべき願望が今も色褪せず心のほとんどを占めていて。
校門を抜け、左に曲がり、信号も無視して駆け抜ける。
俺があかりから離れようとしている理由を、あかりは誤解しているかもしれない。
俺があかりを嫌いになったから、とか。あかりと打つことが楽しくないから、とか。
俺が人前で打たないことが、あかりに罪悪感を抱かせていたのかもしれない。
もっと俺に他の人と打って欲しいと考えていたのかもしれない。
違うんだあかり、そうじゃないんだ。
全部全部、俺の贖罪のためのわがままなんだ。
あかりは何も悪くない。
それなのにあいつは一人罪悪感を抱いて苦しんでいるのかもしれない。
そう思うと、いてもたってもいられなかった。
あかりが自分と同じ苦しみを味わっているのかと思うと、とても耐えられなかった。
この時、恐らく佐為が消えてから初めて、ヒカルは佐為のことを忘れた。