碁石アレルギーとはなんぞや【完結】   作:Una

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第28話 泣顔

 息を切らせて、膝に手を当て呼吸を必死に整える。

 顔を上げれば、そこには藤崎と記された表札があった。

 あかりの家である。

 車が2台ともない、つまりあかりの両親はどちらも仕事に出ていると言うことだ。

 

 つまり今藤崎家にはあかり一人しかいない。

 

 ゴクリ、とヒカルの喉が動いた。

 飲み込む唾液の粘度が高くて、乾いたのどに張り付き逆にむせた。

 ここまで全力で駆けて来たから、ではない。  

 藤崎邸から放たれる、ともすれば黒くも見える威圧感に、ヒカルは知らずのうちに緊張していたのだ。

 

 ちなみに、ヒカルの後を全力で追いかけていたアキラは途中の交差点で力尽きて足を止めてしまった。幼少から囲碁に熱中していた彼と前世ではスポーツ少年として暴れていたヒカルでは走り方からして差があるのだ。

 

 2階を見上げる。

 あかりの部屋にはカーテンがかかっていて、あかりがいるかどうかわからなかった。

 

 藤崎邸が醸し出す威圧感は、どうやらその部屋の窓から放たれているように感じられる。

 

 入りたくない、入るべきではないと、動物としての本能が全力で危機を訴えている。

 意味がわからない。

 最近ではめっきり頻度が減ったが、小学5年生までは頻繁にお邪魔していたのだ。今更緊張しているわけでもあるまいし。

 

 あかりと、話をしなければならないのだ。

 気後れなどしてどうする。

 

 息を落ち着かせ、震える指を伸ばし、インターホンを、押した。

 

 ……。

 返事はない。

 

 いないのだろうか。

 

 もう一度スイッチを押そうとして、それを制するように玄関が開いた。

 ビクリと指が痙攣する。驚きすぎて変な声が出た。

 玄関から現れたのは、ジャージ姿のあかりの姉だった。

 一本に髪をまとめたポニーテール以外、あかりによく似ている。

 

「あれ、ヒカルくん。うちに来るの久しぶりだね」

 

 言いながらあかり姉は玄関の横に立てかけられていた自転車の鍵を外していた。

 

「あ、はい、お久しぶりです」

「私はこれから部活だけど勝手に上がっていいよ」

 

 あかりー、ヒカルくん来たよー、とあかり姉は家の中に向かって叫ぶ。そのまま自転車に軽く飛び乗り、じゃねーと一言告げて学校へと向かってしまった。

 

 あかり姉の背中を見送り、ヒカルは考え込む。

 入って良いらしい。

 姉のおかげで、あかりにも自分の来訪は知らされた。

 ならいいか、とヒカルは玄関のドアのぶを握り、

 

「お邪魔しまーす……」

 

 ギィ、と蝶番が音を立てる。

 昼間なのに薄暗い玄関と、そこから伸びる居間への廊下と階段。見慣れたはずのそれらが、2階から侵食する黒い気配のために不気味なホラーハウスへと変貌していた。

 あかりの家族はこんな家で暮らしていて精神に異常をきたさないのだろうか、そんなことをヒカルは思う。

 それとも、この威圧感はもしかして自分にしか認識できないのかもしれない。

 それは、あかりが自分に対してだけ拒絶の意思を抱いているから。

 

 拒絶、なのだろうか。

 自分だって佐為が突然消えてしまった直後は、勝手に自分から離れやがってと独りよがりにも怒りを感じていた。

 

 傲慢な、と今では思う。

 

 自分に、佐為に怒りを覚える資格なんてないのに。

 それはあかりと自分の違う点だ。

 

 あかりには自分を怒る資格がある、と今のヒカルは思っている。

 あれだけそばにいて、時間を共有しておきながら、これからプロ試験を受けなければならないという段階で、自分の都合で放り出したのだから。

 

 階段を上がる。一段ずつ上がる度にヒカルの身にまとわりつく圧が、まるでタールの海に浸かっているかのように重くなっていく。

 それを乗り越えてヒカルはあかりの部屋の前に立つ。

 ドアには『あかり』と書かれた可愛らしいデザインの表札が掛けられている。

 また、喉が鳴った。緊張で若干呼吸が早くなるのを自覚する。

 意を決しヒカルはノックしてみた。

 

「あかり?」

 

 やはり返事がない。

 もう一度ノックする。それでもやはり返事はない。中からも音は全くしない。

 その代わり、ドアが一人でに開いた。

 もちろんヒカルはドアノブに触っていない。

 ゆっくりと視界に広がっていくあかりの部屋は、カーテンが締め切られた上に照明も完全に消えていてヒカルの目にはほとんど中を見通せない。

 

「は、入るぞ?」

 

 開けてくれたということは入っても良いということだろう、そうヒカルは判断し、半開きになったドアを押して中にそっと踏み込む。しかし照明のスイッチの位置がわからない。壁をどれだけ手探りしても辿り着けなかったので、仕方なく、記憶にある部屋の間取りを思い出して窓を覆うカーテンへと足を進める。

 扉の正面、ベッドが置かれている壁に窓があったはずだ。

 暗闇になれれば、カーテンの縁からかすかに差し込む夕暮れの日差しが毛布の桃色を照らしていた。

 

「あかり、寝てるのか? いや、ドア開けたよな」

 

 あかりはもしかしたらベッドで寝ているのかもしれない。

 カーテンを開けるにはベッドに乗らないといけない。割と幅の広いベッドで、寝相が悪い私でも落ちないで済むんだ、なんてあかりは笑っていた。

 

 そのベッドにあかりが寝ているかもしれないのだからと、ヒカルはすり足で慎重にベッドがあるはずのところまで近づく。カサリ、カサリ、と紙を踏む感触が靴下を通して指に伝わる。膝がベッドのふちにあたり、そっとベッドの上を端から弄る。

 

 指先に膨らみが感じられない。毛布は綺麗に整っていて、ぬくもりもない。あかりはベッドに寝ていないようだ。

 

「よっと」

 

 ヒカルは四つん這いでベッド上を這い、シャッとカーテンを開けた。

 夕日が顔を直撃して思わず目を顰める。

 

 それと同時にヒカルは一瞬で重力を見失い、気づけばベッドに仰向けの状態で、夕日に照らされたあかりの顔を見上げていた。

 

「あか、り?」

 

 一体自分がどんな力を受けて仰向けになったのか全く見当がつかない。ベッドに叩きつけられた衝撃から覚めれば、自分はあかりに両の手首を上から押さえつけられている。加えてジーンズに包まれたあかりの細い脚が自分の腰骨と脇腹を挟み込んでいてまるで身動きができない。

 

 抵抗できない自分を真っ直ぐ目を逸らさず見下ろしてくるあかりの顔は、明順応を終えていないヒカルの目にもどこか嬉しそうに映る。

 

 その表情に背筋が凍る。

 

 あかりに見つめられることに耐え切れなくて、ヒカルは目を逸らした。夕暮れの日差しにようやく慣れた目に入る部屋に、ヒカルは体をビクリと一瞬震わせた。

 

 部屋は囲碁一色だった。

 

 先まで歩いていた床に広がっていたのは碁の雑誌や新聞だ。ここ1年の記事が並べられ、掲載されていた最新の棋譜が見やすく並べられている。

 

 本棚にも、枕元にも囲碁関連の書籍がこれでもかと積まれていた。

 どれもこれも残酷なほどに読み込まれ、本としては冥利に尽きるだろうが、ページに手垢の跡がつくだけでなく、ものによっては背表紙すら掠れてタイトルがほとんど読み取れないものまであった。

 

 視線を彷徨わせれば押し入れが開いていた。

 あかりはヒカルに対し、ここだけは開けてくれるなと口酸っぱく言っていた。その中をヒカルは初めて見た。

 ガサガサと押し入れから雪崩のように崩れて部屋に転がったのは、ノートだった。

 何冊も何冊も、表紙には日付が書かれており、一番古いものは5年前。バサバサと床に落ちて広げられたページに書かれていた内容は、ヒカルが以前あかりに出したオリジナルの詰碁の問題だったり、あかりに教えた佐為のネット碁の棋譜だったり、自分とあかりとの対局の棋譜だったり。その押し入れの奥にはヒカルの写真が所狭しと並んで貼られている。

 

 壁のみならず天井に至るまで棋譜が隙間なく貼り付けられている。一枚一枚は手帳ほどの大きさだ。それらが一つの棋譜から分岐する手筋まで細かく時系列順に並べられている。一枚一枚に赤ペンで注釈が事細かに書き込まれていて、よく読めばどれも見覚えのある内容だ。

 全て、ヒカルがあかりに教えた内容だった。

 壁も、天井も、まるで悪霊退散の御札のような棋譜で埋め尽くされているのだ。

 

 塔矢はこれを情熱と呼んだ。だがこれはそんなものではないとヒカルは思う。

 まるで怨念だ。

 未練を残す幽霊の残す無念。

 

 自分の教えを一言も漏らさず書き込み、何度も何度も読み込んできたのだ。

 頑張っていた。あかりはずっと、ずっと、小学一年生の頃から頑張ってくれていた。

 それを自分は、捨てさせようとした。あかりを捨てようとした。

 

 これだけの思いを抱かせたのは、自分だ。

 自分があかりを、碁のことしか考えられないように変えてしまった。

 その怨念とも呼ぶべき思いの根幹には、進藤ヒカルがいるのだ。

 自分にとっての佐為のように。

 そんなあかりを、自分は突き放そうとした。

 

 その罪悪感に押しつぶされそうになって、その重荷から逃げたくて、ヒカルは思わず、

 

「……ごめん」

 

 と呟いた。

 

「何が?」

 

 あかりは、相変わらず嬉しそうだった。その狂気が垣間見える笑みがさらにヒカルの罪悪感を刺激した。

 

「俺の勝手で師匠を辞めようとして、佐為……あいつのときと、同じ」

 

 あかりを前にして、ヒカルの頭の中は罪悪感と後悔でぐちゃぐちゃだった。

 思考もまとまらず、ただ自分の中に渦巻く重苦しい感情を何も考えずに吐露していく。

 

「あいつがいなくなって、辛くて、なのにあかりに同じことして……あかりだって」

 

 

 

 

 

 

 ……? 

 ヒカルは何を言っているんだろう? 

 そうあかりは思った。

 別に私はヒカルを師とは思っていないんだけど。

 私にとってヒカルは将来の伴侶であり、ターゲットであり、捕食対象だ。

 あいつというのが誰かわからないし。同じことって何のことだ。

 でもなんか大事そうなことを言ってるし、とりあえず深刻そうな顔で頷いておく。

 

「……そう、だね」

 

 それを聞いて、ついにヒカルの目から涙が溢れ出した。

 ちょっとまずったかもしれない、とあかりはヒカルを拘束したまま内心焦っていた。

 

 本当はどこか自宅の外に場所を確保してからここまで追い詰めたかったのに。

 親が帰ってくるまでせいぜい5時間。これでは完璧に洗脳できないかもしれない。

 急がなくては、あかりはヒカルの泣き顔にゾクゾクニコニコしながら巻きで洗脳を進めることに決めた。

 

 図書館で洗脳の仕方は勉強したしいけるいける。

 

 

 

 

 

 

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