碁石アレルギーとはなんぞや【完結】   作:Una

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第29話 最期

「悪いことをしたんだ」

 

 瞳を涙で潤ませながら、震える声でヒカルは告げた。

 それをあかりは、口を挟まず、馬乗りの状態でただ聞くに徹する。

 長い時間をかけて、さまざまな戦略を重ねて、ようやくヒカルの心の扉が開こうとしているのだ。余計なことをしてまた心を閉ざしてしまう愚行は避けたかった。

 

「あいつは俺の師匠で、ずっと俺に碁を教えてくれて……あいつは、俺としか碁が打てなかったんだ」

 

 はっ、とヒカルが息を吐く。窓から入る夕日の中でもヒカルの顔色が悪い。

 

「それなのに俺はあいつのことを適当に扱って。碁が打ちたいって訴えるあいつの必死の言葉を無視して自分だけが! ……あいつの前でこれみよがしに碁を打って」

 

 あいつの方が打つべきだった。

 もっともっとあいつに打たせてやるべきだった。

 

「でもそれに気づいたのは、あいつが消えちゃった後で」

 

 唇を噛む。あかりに抑えられている両手を震わせながら強く握る。

 

「だから、もう謝れない。それでも謝りたくて、自分で自分に罰を与えてた。そうしたらいつかまた会えるかもしれないって思って」

 

 ヒカルの吐血のような告白を聞き、あかりは首を傾げて問う。

 

「ヒカルの言うあいつって秀策さんのこと?」

「秀策さん?」

「あ、ごめん。えっと、ヒカルが教えてくれる棋譜の人のこと。秀策流の打ち方でとっても強いから秀策さんって勝手に呼んでた」

 

 ヒカルは半ば閉じていた目を見開いてあかりを見上げた。

 

「なんで」

「あの棋譜ってほとんどがヒカルと秀策さんの対局だよね。それ以外のもあるけど、部屋に貼ってる棋譜はみんなヒカルが打ってるやつだよ」

 

 見れば、壁や天井に貼られている棋譜は、少なくとも目につく範囲ではどれも自分と佐為の対局のもののようだった。

 たくさんの対局を教えた。いくつもの棋譜をあかりの前で並べて見せた。

 その中にはもちろん自分相手だけではない。ネット碁の中で生まれた棋譜も何割かは含まれている。しかしその棋譜は、この部屋からは除かれているようだった。

 佐為が生み出した棋譜はどれも美しくて、実力差があるものだって佐為は指導碁を打っていたからあかりとの勉強にはもってこいで。でも、それらの棋譜の対局者について、あかりには名前を教えたことはなかった。

 だって、佐為とは何者だ、なんて聞かれても答えられない。自分の師匠、と言ったところでじゃあ四六時中あかりと一緒にいる自分が一体いつ他の人間から指導してもらう時間があるのか。そう聞かれたら答えられないから。

 

 それなのに。

 

「何で、わかるんだ? 俺と、あいつの対局だって」

「何で? って、何が? だって同じ人じゃない。見ればわかるよ」

 

 それは空は青いでしょ、とでもいうような、自明の理を子供に諭すような口調だった。

 あかりはその類稀なる感受性から、ヒカルが隠していたそれを一眼で見抜いていた。

 

「ヒカル、どんどん強くなっていってるよね。教えてくれた棋譜、初めは今の三谷くんくらいの強さだったけど、秀策さんの打ち方に影響されてってる。秀策さんも一時期から定石に古臭さがなくなって、ただでさえ強かったのがもっと強くなってる」

 

 部屋を見渡す。

 壁や天井に敷き詰めて貼られている棋譜は、よく見れば時系列順に並べられているようだった。

 あかりには、特に時系列や打った順なんて意識せず、思い出したものから並べて見せていたのに。

 まさかあかりが、こんなにも明確に佐為の存在に気付いていたなんて。

 

「羨ましいな、秀策さん」

「え?」

 

 あかりはどこか寂しそうに言った。

 

「ヒカル、秀策さんのことをずっと見てるよね。碁の打ち方も、ヒカルの中は秀策さんでいっぱい」

 

 それが羨ましいの。あかりに言われ、ヒカルは言葉に詰まる。自分にのしかかり、真上から落ちてくるあかりの言葉は、夕焼けに照らされてとても穏やかで、それなのに言葉にできない感情が込められて、ヒカルの胸が押しつぶされそうになる。

 

「私はね、ヒカル」

「……あぁ」

「ヒカルの中から秀策さんを追い出したくて碁を打ってるんだよ」

 

 え、とヒカルの口から意図せぬ声が漏れた。

 

「どういう、ことだ?」

「私は碁が好きだったわけじゃないの。碁のプロになるのだって私にとっては手段でしかないの」

「手段? 何のための?」

「ヒカルを振り向かせるための」

 

 それはとても真っ直ぐな言葉だった。

 自身の抱いている感情を何一つ偽らずに言葉にして相手に伝えようという真摯さがあった。

 私を見て。

 お願いだから私を見て。

 そんな真摯で、切実な願いがその言葉には込められていた。

 

「ヒカルはずっと秀策さんしか見てないじゃない。対局してる時だってちゃんと私を見てないでしょ」

 

 そんなことは、とまで口にして、しかし最後まで言い切ることはできなかった。

 あかりの言う通りだった。

 自分は対局中も、食事中も、トイレでも、寝ても覚めてもずっと佐為のことしか考えてなかった。

 打たせてやりたかったという後悔と。

 もっと打ちたかったという未練と。

 その象徴である佐為との最後の対局が、ずっと脳裏をチラついているのだ。

 

「秀策さんを追い出すにはどうすればいいのかなって、ずっとずっと考えてた。でも、多分、碁をどれだけ打っても無理だよね。私がヒカルより、それか秀策さんより強くなってヒカルを負かしても、ヒカルはそんなこと関係ないもんね」

 

 だから、とあかりは言う。

 

「だから碁はもういいかなって思ったの」

「そんな、だって、せっかくそんなに強くなったのに」

「強いのはヒカルだって同じじゃない。ヒカルが打たないなら私も打たない。意味がないから」

 

 どうすればいい、ヒカルは悩む。

 あかりにはプロになって欲しい。絶対にプロになってからも活躍できるはずだから、あまりにももったいない。それにあかりをライバルと認識した塔矢だって可哀想だ。

 

 でも、それを覆させるには、自分がちゃんとあかりと対局しなければならないのだろう。あかりを見て、あかりの打つ手の一つ一つからあかりの意図を探ろうと頭を巡らせて。

 

「どうしてヒカルは私と打ってくれないの?」

「どう、して」

「どうすれば私を見てくれるの?」

 

 どうすればいいのだろう。

 そんなこと、ヒカルだってわからない。

 

 私を見て、とあかりは言った。

 自分もあかりのことをちゃんと見て、考えてやりたいと思う。

 佐為のことをよく見ず、考えなかった結果が今だから。

 

 でも。

 

「ごめん、無理だ」

 

 あかりから目を逸らしてヒカルは言う。

 理屈じゃないのだ。自分でどうにかできるものではないのだ。

 自分の中を占める佐為が。

 佐為の無念さが、ずっと自分を離さない。

 きっと自分は、あの対局を最後まで打ち切るまで、本気で碁に向き合うことはできない。

 

「頭から離れないんだ。何をしていたって目の前から消えてくれないんだ」

「何が?」

 

 今も瞼の裏にチラつく。

 佐為の必死に消滅を訴える顔が。

 自分に向かって叫ぶ悲痛な声が。

 そして、

 

「あいつとの、最後の一局が。ずっと頭に残ってるんだ」

 

 だから、ヒカルは教えることにした。

 佐為が遺した最後の一局を。途中で終わってしまった、ヒカルの後悔の象徴を。

 

 この程度の手数ならあかりなら余裕で追えるだろうと、あかりのベッドに横たえられたまま、口頭で棋譜で読み上げることにした。

 

 あの対局を教えることがあかりを説得できる材料になるとは思えないけれど、それでも、自分の中にあるものを全てあかりに晒したいと思った。それがせめてもの誠意だと。

 

「右上スミ小目」

 

 この数年間、人生をやり直し始めてから毎日毎日、頭の中で棋譜を再現し続けたそれを、あかりを下から見上げながら読み上げた。

 

「17の四ツケ」

 

 読み上げるヒカルの声が徐々に震えていく。

 佐為がこの対局を、どんな気持ちで打っていたのか、想像するだけで身が震える。

 

「9の三ヒラキ」

 

 読み上げる一手一手が自分の罪を責め立てる。

 もっと打ちたかった。もっと碁を楽しみたかった。

 お前のせいで。ヒカルのせいで。あんなに言ったのに。もうすぐ消えるって何度も言ったのに。

 そんな恨み言が聞こえてくる。

 世界の誰よりも碁を愛した佐為の呪詛が、その石の流れに宿っている気がする。

 

「18の五ハネ」

 

 それをこうしてあかりに教えることは、自分の罪深さを曝け出すようで、心底怖かった。

 罪深さと、愚かさと、傲慢さを人に見せることが、恥ずかしくて恐ろしくて、でもそれもまた罰になるだろうかなんて、そんなことを思いながら。

 

「8の三ツケ……ここまで、だ」

 

 ヒカルの体感では数時間にも及ぶ苦痛の読み上げは、その実ほんの数分で終わっていた。

 

「ここで、気づいたらあいつは消えていた。それからはずっと後悔してた。もっとあいつに打たせるべきだった、俺が打ちたいなんてわがまま言わなければよかったって」

 

 そして、何より。

 

「あいつに恨まれてるのが、辛い」

「恨む?」

「打ちたい打ちたいって言うあいつを蔑ろにして、わがまま言うなってあしらって。打たせないで、あいつの目の前で俺だけが碁を楽しんでた。あいつは俺を恨んで、怒ってる。だから俺の前から消えたんだ」

「怒ってるからいなくなったの?」

「そう、だよ。だから俺は自分に罰を与えてるんだ。佐為が許してくれるまで」

「でも」

 

 あかりが、佐為とヒカルの対局の棋譜を完全に覚えている少女が、首を傾げながら言った。

 

「でも相手の秀策さん、とても楽しそうだよ?」

 

 楽しそう? 

 

「今までの棋譜でも、今教えてくれたやつでも、ずっと秀策さん楽しそうだよ」

 

 何を、ヒカルはカッと頭に血が昇った。

 何を言っているんだ。そんなはずないだろう。

 佐為は俺のことを恨んで、憎んで、俺が他の人と打たせなかったから仕方なく俺と打っていただけで、だから、

 

 

 ──ああそうだヒカル

 

 

 ふ、と。

 あかりの言葉が呼び水となって、かつての記憶が溢れ出した。

 

 

 ──ねェヒカル、あれ? 

 

 

 それは、佐為と言葉を交わした最後の日。

 寝ぼけていて、極小となっていた脳のリソースを盤面の展開予測に費やしていて、か細い佐為の声を聞き逃していた。

 

 

 ──私の声とどいてる? 

 

 

 でも、確かに自分は聞いていたのだ。

 囲碁漬けのイベントと寝心地の悪い薄い布団、数時間の新幹線での移動。疲労が溜まった体と寝不足の頭が、佐為の言葉を聞き逃したまま忘却して、しかし脳の奥深くにひっそりと刻まれていた。

 

 

 ──ヒカル

 

 

 忘れてなんていなかった。

 思い出せなかっただけなのだ、佐為が消えてしまった衝撃で。

 最後の瞬間、俺は夢現で。

 それでもあのとき。

 確かに佐為は、こう言った。

 

 

 

 ──楽しかった

 

 

 

「──あ」

 

 自分は一体、どれほどの遠回りをしていたのだろう。

 佐為を探して広島まで行って、東京の秀策の墓も巡って。

 挙句に時間まで巻き戻して、小学生からやり直して。

 

「あ、ぁぁぁ」

 

 贖罪なんて自己満足のために塔矢との関係を壊して、あかりとの繋がりも蔑ろにして。

 本当に大きな遠回りで、多くのものを犠牲にした。

 そのほとんどはもはや取り戻すことができない有様で。

 

 それでも。

 

 思い出した佐為の言葉があまりにも衝撃的で、ヒカルはただ声をあげて泣いた。

 それが何の涙か、ヒカルにはわからなかった。

 

 楽しかったと。

 

 あんな仕打ちをした自分に最後に遺した言葉が、楽しかったの一言だった。

 

 恨まれてると思ってた。

 憎まれてると、怒っていると思ってた。

 でも佐為はそんなこと思っていなくて。

 

 自分なんか存在しなければいいと思っていた。

 自分の意思なんかない、佐為に言われた通りに石を置く人形であればよかったと思っていた。

 でも佐為は。

 自分なんかと共にいた時間が、佐為にとって楽しい時間だったのだと。

 

 その事実にただただ感情が溢れて、涙となってヒカルの心を揺さぶって。

 あかりも、気付けばヒカルの腕を解放していて。

 いまだ小柄なヒカルの体を抱き上げて、そのままヒカルの頭を抱き寄せた。

 

「……辛かったんだね」

 

 あかりの肩に顔を埋めながら、ヒカルは嗚咽を漏らしながら頷いた。

 

 そのまま、日が暮れ部屋が暗闇に満ちるまで、ヒカルはあかりに体を預けたまま泣き続けた。

 

 

 

 

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