──参りました。
終局。一進一退の攻防の末、ヨセに入っては互いにミスなどなく、中盤でひっくり返された差が最後まで響き、結果3目半の差でアキラに軍配が上がった。
辛勝である。
あかりのつむじを見ながら、アキラはいつの間にか張り詰めていた息を吐いた。
冷や汗をかきながらも思わぬライバルの登場に心が踊った。強引に取られた左下を取り返すために中盤で随分と無茶をした。そこの受け手の緩手が勝敗を分けた。
だが、端的に言って、すごく楽しかった。
「ありがとうございました。すごく強いんだね」
それは塔矢アキラの心からの賞賛だった。こんな素晴らしい対局を終え、火照る頬の熱のままにさらに言葉をかけようとして、アキラは凍りついた。
「え?」
打っていた相手が、涙を流していたからだ。
「……う、ぐすっ」
アキラからの賞賛は、あかりからすればなんの意味もないものだった。
負けてしまった。
自分は、『とうやあきら』に及ばなかった。
これで自分はヒカルに見限られてしまう。ヒカルにたくさん教えてもらったのに負けてしまったのだ。きっとこれからヒカルはこの人に教えるようになるだろう。
「う、ひっく……」
「あかり、泣くなよ。いい一局だったぞ?」
あかりは泣き止むことができない。この一局だけは、絶対に負けるわけにはいかなかったのに。これが最後の優しさだと思うと、ヒカルが優しくすればするほど涙が溢れて止まらない。
「す、すみません。今日はこれで」
「え、ええ。あ、これあげる」
アキラは呆然と、市川に辞去する二人の後ろ姿を見送ってしまった。アキラと一度も言葉を交わさなかった少年は、少女の頭を背伸びして撫でながらするりと店の外へと連れ出していった。
「あらら」
「アキラ先生の相手はまだ早かったね」
市川と広瀬が二人の消えた扉を見ながらそんなことを言う。アキラは混乱状態の脳で情報処理が追いつかず、しばらく動くことができなかった。
普段から大人に囲まれ、人当たりのいいアキラは、女の子を泣かせる経験などなかったのだ。
夕日で赤く染まる道を、二人は連れ立って歩いていた。
その足取りは遅く、空気も重い。その原因であるあかりが俯く隣で、ヒカルはなんと声をかければいいのかわからず一人おろおろしていた。
佐為がいたら助言の一つもしてくれたかな、なんて未練たらしいことを思う。
「ごめん、なさい……」
「ど、どうした? なにがごめん?」
「……負けちゃって」
……?
なんだそれ。
「あー、いやそんな謝ることじゃねえだろ。あかりもすごい強くなってるってわかったし。さっきも言ったけどさ、塔矢アキラはもうプロ並、というか、下手な低段よりよっぽど強いよあれは。そんなやつに三目半だ、むしろ自慢していいぞ?」
俯いたままのあかりの横でヒカルは首を捻る。なぜそこまで落ち込んでしまうのか、普段から自分に指導碁打たれているのに。
「ヒカルは、とうや君と打つの?」
ヒカルに渡されたハンカチで涙を拭いながらあかりは思い返す。
『とうやあきら』について語る時も、本人を前にした時も。ヒカルの目に見たことのない感情が見えた。
悲しみとか、焦りとか、後ろめたさとか。いろんな感情が混ざった不思議な目。
ヒカルが見せたあの目はなんなのだろう。
ヒカルにあんな目を向けられる『とうやあきら』は、一体どんな関係なのだろう。
嫌だ。
『とうやあきら』を見るヒカルを目の当たりにして、初めてあかりは自分の感情を自覚した。
独占したいのだ。
私の知らない目で他の誰かを見ないで欲しい。
ヒカルの目が他所に向いてしまうのが嫌なのだ。
ずっと自分だけを見て欲しいのに、ヒカルは碁を打つ時以外はいつも遠くを見ている。何かに耐えるように、懐かしむように、何かを探しているように。
今日、とうや君に見せたような目で。
ヒカルが探していたものは、とうや君なのかもしれない。
一度も自分に向けられることのなかったヒカルの目は、とうや君に向けられることになるのか。
それが、なにより悔しい。
「俺が? いーや? まさかぁ」
顔をあげた。
「俺は、塔矢とは打たねえよ。というかそもそも碁を打てないんだって、碁石アレルギーなんだから」
「……うん」
そんなの全部嘘だ。あかりは思う。
そのわざとらしいほどに明るい声はなんだ。
というか碁石アレルギーてなんだ。ほんと今更だけど。
なんで嘘をついて、周りにも碁を打てることを隠して、打ちたいはずの『とうやあきら』と打つのを我慢するのだろう。
直接聞いても教えてくれない。何を探してるの? と聞いたことは数知れない。けれどヒカルは、一度もその問いかけに答えてくれなかった。こうやって、聞いていて辛くなるほど明るい声で誤魔化すのだ。
でも、いつか、きっと。
これからもっと、もっと強くなって、『とうやあきら』にも勝てるようになれば、きっとヒカルは私を見てくれるようになってくれる。
そんなあかりの懊悩などまるっと無視して、ヒカルは当たり前のようにこう言った。
「あいつと打つのはあかりだよ」
アキラは先の一局を、片付けずに眺めている。
一手一手を思い返し、そこに込められた熱を噛みしめていた。そこに、白い影が碁盤を覆う。
「よう」
「あ、緒方さん」
碁盤から顔をあげると、同門の先輩であるトッププロ、緒方がいた。
相変わらず色は白い。
「棋譜並べか?」
「いえ」
お茶を運んで来た市川が口を挟んだ。
「さっき打った一局ですよ」
「さっき? アキラが打ったのか?」
見れば、碁笥は白だけがアキラの手前に置かれている。黒は対面だ。誰かと対局した直後なのだろうが、これが今打たれたものだとするなら。
「相手は誰だ? お客かい?」
「まあ、そうです」
「子供ですよ、かわいい女の子でした」
小さな男の子も付き添ってましたけど、などという言葉は緒方の耳には入らない。
子供だと? そんなバカな。
驚愕とともに改めて碁盤を見れば、どこもかしこも危うくて、どうにも手順がわからない。これだけの接戦を演じて、結果は盤面で二目。ほぼ互角だ。
「互先か?」
「はい」
アキラと互角の棋力を持つとはつまりプロ級ということだ。アキラの棋力は塔矢行洋の英才教育のもと、門下のプロやセミプロに長年揉まれてきたが故だ。アキラと同年代の子供を持つプロなどがいれば話題にもなろうに、そういった話は一切聞かない。
「何者だ?」
緒方の呟きにアキラが答えた。
「わかりません。あかり、と呼ばれていましたが」
それだけの情報ではなんとも言えない。
「……連絡先は聞いていないのか?」
「いえ、聞ける空気ではありませんでした」
「その子、対局後に泣いちゃったんですよ」
塔矢アキラに負けて泣く、とはまた随分な話だ。
「……楽しかったんです」
「ん?」
「僕はあの子と、もっと打ちたいって思ったんです。でも泣かせてしまいました。もう彼女と打つ機会はないかもしれません」
碁打ちにとって敗北は当然のことだ。敗北無くして上達はないし、自分より歳上のプロばかりを相手にしてきたのだ、負けて悔しいという経験を味わったことがなかった。敗北も勝利も次の対局のための糧であり、重要なのは一手一手を適切に判断できたかであり、できなかった場合自分に足りないものはなにかの検討である。
アキラにとって勝敗は実力向上の目安であり、勝敗そのものに価値を見出していなかった。
だから、自分に負けたあかりが何を泣くことがあるのか、全く理解できなかった。
「これほどの棋力を持つなら、いずれプロになるだろう。随分と攻撃的な棋風だが、それだけの情熱を持っているともとれる。一度負けたくらいでやめる程度なら、そもそもここまでの棋力を持ち合わせていないさ」
「……はい」
泣かせてしまった自責の念に、自然と下を向いてしまう。
もう一度会いたい。
そうしたら、泣かせてしまったことを謝って、もう一度彼女と打つことができればいいと。あの子と打ちたい、という生まれて初めての情熱を胸に、アキラは熱の源である碁盤を見ながらそんなことを思うのだった。
あかりは茜に染まる自室で一人、物思いにふけっていた。
ベッドの上で壁にもたれ、膝に抱えた枕に顔を埋めている。実はこんな光景はかなり珍しい。普段であれば、夕食の時間まではヒカルを部屋にあげて碁を打っているのが常だ。あかりの母はそれを微笑ましく思っているが、父などはたまに帰宅した時に玄関ですれ違う前髪金色の少年に昔からヤキモキしていたりする。
そんなことはつゆ知らず、今あかりが考えているのはヒカルのことだ。
ヒカルは一体何を考えているのだろう。
碁は、あかりにとってヒカルとのつながりなのだ。唯一と言ってもいい。ヒカルと関わりを持てる唯一の絆。碁を打っているときは、自分を見つめてもらえるのだ。
碁が強くなれば、いつか振り向いてもらえると思っていた。
それなのにヒカルは、これからは他の人と碁を打てという。
ヒカルにとって自分の存在はそこまで軽いものなのだろうか。
碁は、ヒカルにとってそんなに軽い存在なのだろうか。
じわりと涙で滲む視界で、ローテーブルに置いている、ヒカルから譲ってもらった折り畳みの碁盤を見ながらあかりはずっと悲観的な思考に嵌まり込んでいた。
ヒカルは部屋で棋譜を書いていた。
あかりとアキラの対局である。
前の世界では存在しなかったものだ。
机に座り、二色ボールペンで書いていると、書き込んでいたノートにポタリと水滴が落ちた。
水滴は自分の瞳から落ちていた。
知らず、涙が溢れていた。
ぐしゃり、と指がてんかんのようにノートを握りしめてしまう。
「あ……」
書き直さないと。
ぐちゃぐちゃになったページを切り取り、また一手目から書き込もうとしたところで、心が折れた。
「あ、う……うぁぁ」
涙が止まらない。大切に扱っていたあかりとの棋譜ノートに降る雨に頓着できない。
机の上で頭を抱えて、ヒカルは吐き気を催すほどの嫉妬で頭を掻き毟った。
羨ましかった。
自分もアキラと打ちたかった。
ずっと追いかけてきたのだ。得意だったサッカーもやめて、小馬鹿にされた目で笑われて。囲碁部も辞めて。それでも、負けたくない、ライバルとして認められたい、それだけを思って碁を打ち続けた。
自分にとって、塔矢アキラとの因縁が全てだった。
過去に戻って、本因坊秀策の棋譜をはじめとしたあらゆる棋譜を勉強して、現代の棋士を研究して、それを咀嚼してあかりにもわかるように説明して。そんなことを繰り返した今の自分は、おそらくあの頃より力が付いている。それを試したい。俺はこんなに強くなったぞとあいつに向かって叫びたい。
自分を見て欲しい。
自分はここにいるんだと、お前を追ってここまで来たんだと、全力をぶつけて伝えたい。
この無念さを、佐為も味わっていたのか。
これからあかりは塔矢を通じて多くの棋士と知り合うことになるだろう。プロになる力は十分にある。華々しくプロで活躍するだろう。
それを俺は隣で見続ける。嫉妬と無念さに身を焦がしながら。
それが、それこそが、自分への罰。
時を超えて、佐為のいない人生をやり直す意味だ。
だから、そのために。自分の全てをあかりに捧げる。コネも、時間も、ライバルも、碁打ちとしての力もなにもかも。
自分は、あらゆるものを捨てるべきなのだ。
だって、佐為は。何も得ることができないまま逝ったのだから。
ふらり、とヒカルは席を立った。
部屋の真ん中には、祖父からもらった碁盤がある。
かつて倉の奥に鎮座していた、佐為が住んでいた碁盤だ。
あかりに折り畳みの碁盤をあげてから、霊が出るからと渋る祖父に無理を言って譲ってもらったのだ。
「ごめん……ごめんな、佐為……」
覚束ない足取りで近づき、倒れるように床に座り、碁盤にすがりつく。
溢れる涙を拭いながら、ヒカルは碁盤を見つめ続けた。
血のシミが浮き出てくることを願いながら、ずっと碁盤を撫でていた。