碁石アレルギーとはなんぞや【完結】   作:Una

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第4話 笑顔

 夢の中は碁のことでいっぱいだった。

 佐為が打った棋譜を、脳が睡眠中だろうとひたすら繰り返す。

 無論ただ棋譜を送るだけではない、一手ごとに佐為と交わした検討へと派生し、分岐していく局面が並列で展開してく。

 分岐して、分岐して、分岐して。脳全体が佐為で埋め尽くされる。

 これが禁断症状の一種だとヒカルは理解している。碁を打つことに飢えた脳が、毎夜毎夜警告を発しているのだ。

 満たされない欲求を満たせと。

 早く碁を打てと。

 それもただ打つだけではない。

 脳全体に展開した盤面が収束していく。無限に等しいそれらが一枚一枚削がれ、定石ごとに集い……最後に残ったのは、序盤で終わったあの棋譜だった。

 それは、佐為と交わした最後の一局。自分としか碁を打てない佐為を相手に、ぞんざいに打った手筋。消えゆく佐為が消える最後の瞬間に望んだ対局を、自分はあしらうように流しながら打ったのだ。

 言ってみればこれこそが自分の罪の象徴。

 自分がもっとも打つべき相手は、あかりでも、塔矢アキラでもない、佐為だった。

 ただ打つだけではなく、佐為だ。佐為と打ちたくてたまらない。

 それはもう一生叶わない願望。

 途中で打ち掛けとなったこの対局は永遠に終わりがこない。それと同じように、自分の罰も永遠に終わらないのだ。

 

「……朝か」

 

 棋譜の奔流でかき回された重い頭を振る。

 体を起こすと、また自分は碁盤に突っ伏したまま寝ていたらしい。

 時計を見れば七時三十分。

 

「学校、行かないと」

 

 これでも一応小学校では優等生で通っている。

 勉強を先取りしてあかりに教えることで勉強の負担を減らしたり、宿題を代わりにこっそり終わらせたりしていると自然とそうなったのだ。いや、小学校の勉強で優秀だったらなんなんだ、という話ではあるが。

 それに成績が良ければ母さんに口煩く言われなくて済む。

 自分とあかりの成績が悪いと、あかりと碁を打つことも止められてしまう。というか一度テストの点数が悪くてあかりの家に行くことを禁止されかけたのだ。あかりちゃんに迷惑かけるんじゃない、などと言われて。それ以来あかりと一緒に勉強も頑張り、先生の受けもいいような言動を装ってきたのだ。

 

「行ってきます、佐為」

 

 誰にも聞こえない声で呟き、ヒカルは部屋を出た。

 

 

 

 

 

 ◯● ◯● ◯●

 

 

 

 

 次の日にはあかりは復活していた。

 朝、 洗面所で鏡の前に立つ。泣いたせいで少し目元がむくんでいたが、冷たいシャワーを浴びたおかげでそれも引いた。

 ぱあん、と両頬を張る。

 

「おっし!」

 

 落ち込んではいられない。

 ある意味ではチャンスでもあるのだ。

 ヒカルが夢中になる相手がいた。それはいい。いやよくないわ。全然よくない。が、現実は現実として受け止めなければならない。受け止めた上で戦いに備えなければならないのだ。現実逃避は勝利から最も遠い愚行である。

 同じクラスのサヤカも以前言っていたではないか。

 

『聞いてあかり。孫子は形篇にてこう語っているわ。是故勝兵先勝而後求戦、敗兵先戦而後求勝、てね』

 

 お前は一体何を言っているんだ。

 まごこって誰だよ、と思わないでもないけれど、サヤカの説明を聞けばなるほど、いいことを言っていると思う。

 つまり、戦いは戦う前の準備こそが大事ということだ。

 有名な言葉である、敵を知り己を知れば……はその一環だ。多分。

 現実逃避などしている暇はないのだ。

 髪をドライヤーで丁寧に撫で、寝癖を一本も許さない。姉が買うシャンプーと同じものを使っているため仄かな花の香りが鼻腔をくすぐる。髪を左右で束ねるゴムは色も吟味して、沈みがちな気分を上げる赤色を選んだ。準備に抜かりはない。見ていてくださいまごこ先生。

 

「あかりー、早く鏡あけてよ」

「はーい」

 

 姉が後から覗き込んできていた。昨日の今日だから、身嗜みを整えるのに時間をかけすぎてしまった。

 さくっと朝食を食べて、最後に忘れ物の確認をして外に出れば、ちょうどヒカルがインターホンを押すところだった。

 

「お、おはようヒカル!」

「おはよ。その、大丈夫か?」

「え? う、うん! もう全然平気! ごめんね、昨日のうちに検討したかったのに」

「体調悪かったんならしょーがねーよ。あかりには出来る限り無理させたくないしな。無理を押して勉強したって意味ないし」

 

 ほわ、と胸が暖かさで満たされる。

 ヒカルが自分のことを思ってくれている。そう思うだけで嬉しいと感じる藤崎あかり小学六年生の冬である。

 

「行くかー」

「おー! ……そういえば今日って宿題あったっけ?」

「今日締め切りのはないな。明日までに算数のドリル提出だけど」

「あーそうだったね」

 

 ヒカルと会話しながらあかりは横目で標的の隙を窺う。

 聞きたいことは山ほどあるが、それを直接聞いたとして、果たしてこやつは正直に教えてくれるだろうか。

 

「ねぇヒカル」

「んー?」

「塔矢君ってさ」

 

 ピク、とヒカルは一瞬背筋を震わせた。わかりやすいなぁ、なんて思う。

 

「いつヒカルと会ったの?」

「いやいや、あれが初対面だよ。言ったろ?」

 

 あ、心の扉が閉じる音がする。

 ヒカルはいつもの仮面のような笑顔で。何かを覆い隠す、見るのも辛い笑顔だ。

 難敵だ、とあかりは心の中でため息を吐く。

 知ろうにもヒカルに直接聞いたところでこうして誤魔化されてしまうだけだ。

 この顔を見るのは私も辛い。

 

「……そっか」

「おう」

「そういえば昨日の対局の中盤でね、私ツイだところあったじゃない?」

「あー、そこだな。その前に右上の隅にオイておかないとな。そしたら白はオサえてーで、そこでまず三子は違うな」

「だよねー」

 

 しかたない。

 しばらくは、ヒカルに直接聞くのはやめにしよう。

 むしろヒカルに聞くことを戦いと捉えれば、聞くための準備を入念にしなければならない。

 しかしヒカルに聞かずにどうやって情報を得ようか。

 敵を知るにはどうすればいいかとサヤカに聞いてみたところ、サヤカ答えて曰く、

 

『用間有五、有因間、有内間、有反間、有死間、有生間』と。

 

 なんて? と聞き返せば、ようするにスパイは五種類あるよ、とのこと。

 そのうち、敵側の人間から仕立てたスパイを内間というそうだ。

 そうだ。

 ヒカル本人から聞き出せないなら、ヒカル側の人間から聞けばいいんだ。

 

 

 

 

 というわけで、放課後。

 あかりは駅前まで歩いて来ていた。

 

「ここがアキラ君の碁会所ね」

 

 とかいってみたり。一日振り二回目である。

 学校が終わってそのまま来たのだ。もちろん背中にはランドセル装備である。

 本当ならヒカルと図書館に行って算数の宿題を終わらせて、その流れで週刊碁の棋譜をチェックする予定だったのだが、あかりは予定が入ったと断って碁会所まで来たのだ。

 こういえば授業もサボれるんだよ、などといういらないことを宣った姉の言葉を鵜呑みにして、あかりは「今日女の子の日だったのごめんね!」の一言でブッチしたのだった。その意味をもちろんあかりは知らない。ヒカルがその意味を知っていることも知らない。世の中知らなくていいことは沢山あるのだ。

 あかりがそんないらない恥をかいてまで碁会所までやってきた目的はもちろん塔矢アキラである。

 通りから囲碁サロンの看板を見上げ、よしっと気合を入れ、

 

「……あ」

「え? あ」

 

 声が聞こえて振り返れば、そこには泥棒猫がいた。違った塔矢アキラだ。

 昨日と同じおかっぱだ、間違いない。

 

「こ、こんにちは塔矢君」

「う、うん。こんにちは。えっと、藤崎、さん?」

「あれ」

 

 私名乗ったっけ、

 

「受付に名前書かれてたから」

「受付? ああ、あのお姉さん」

「あそこにあった中で女の子の名前は一つだけだったから。藤崎あかりさん、でいいんだよね?」

「……うん」

 

 またヒカルか、とあかりは頬を緩めた。

 常々そうなのだ。掃除当番や日直だとか、なにかとヒカルは自分の世話を焼いてくれる。任されていたゴミ捨てがいつの間にか終わっていたり、先生に出すクラス分の宿題ノートの束が職員室に運ばれていたり。そういったことを、ヒカルはこっそりやって、しかも誇らない。当たり前のように手伝って、一緒に帰ろうと誘ってくれるのだ。

 それを思い出して、あかりは嬉しくなってしまってえへへと笑った。

 そしてその笑みは、アキラを赤面させるには十分な愛らしさを湛えていた。

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