ひゅっ、と。
窄まった喉からか細い空気が漏れた。
なんで。どうして。混乱が思考を占める。なにか声を出そうと思うも、痙縮した喉がそれを咎めた。そんなアキラを置き去りに、目の前の少女は言葉を並べる。視線を逸らし、申し訳なさそうに。
「私、あまり他の人と碁を打ちたくないの。塔矢君だけじゃなくて。今日ここに来たのも塔矢君と打ちたいからじゃなくて、聞きたいことがあっただけで」
「……聞きたい、こと?」
自分の顔から血の気が引くのを自覚しながら、アキラは震える声を辛うじて絞り出した。
うん。とあかりが頷くのを眺め、その聞きたいことを問われるのを待つ。
「塔矢君って、ヒカルとどういう関係なの?」
「……え?」
ヒカル?
「ごめん、言っている意味がよくわからない。ヒカルって?」
「……ほんとにわからない? 昨日私と一緒にいたあの」
「あ、ああ。あの、前髪が金髪の」
「うん。ね、どうなの?」
静かな、落ち着いた声である。でもそこに滲む鬼気迫る気迫は、つい先日交わした対局で感じたそれと同等のものだった。
嘘を許さない、と告げる強い視線を正面から受けて、ごく、と唾を飲み込む。しかし暖房のせいか、乾燥でカラカラになった喉を潤すことはできなかった。少しぬるくなったお茶を啜ってから口を開いた。
「関係、と言われても……多分初対面だと思うけど」
「嘘」
「いや嘘って」
むー、と如何にも私納得してませんと言わんばかりに頬をむくれさせるあかりに、アキラは苦笑を漏らす。
断られたショックもスルリと抜けた。
「本当に知らないよ。今聞くまで名前も知らなかったし」
「……そう」
うーん、と考え込むあかりのつむじを見ながら、今度はアキラから質問を投げかけた。
「僕とは打ってくれないの?」
「え? うん。私にはそんなことしている時間ないの」
そんなこと扱いされて、アキラは僅かに唇を噛む。
「それは昨日言ってた、一身上の都合ってやつと関係する?」
「うーん……そう、と言ったらそう、かな。うん」
「なんで昨日は打ってくれたの?」
「なんで、てヒカルが」
「彼が?」
ヒカルが、なんと言えばいいだろう。あかりは悩む。だって、ヒカルが碁を打てることは二人だけの秘密だからだ。そのことを言わずになんと説明すればいいだろう。
「……ヒカルが、打ってみろって言ったから」
「ふぅん? だから僕とどんな関係があるのかって聞いたんだ」
「うん。でも……」
今更な疑問があかりの脳裏に過ぎる。
「なんでヒカルは、塔矢君と打ってみろって言ったんだろう。本当に、初対面なんだよね?」
「うん。もしかしたら噂は聞いていたのかもしれないけど」
「噂って?」
「こういう言い方はしたくないけど、僕は塔矢名人の息子だから。たまにね、僕に挑戦したいって人がこの碁会所に来るんだ」
「へー? ……まあ、強いもんね塔矢君」
あまりわかってなさそうだった。自分に興味がないのかもしれない。それが歯痒かった。自分のもつものがなに一つとして目の前の少女の興味を引くに値しないのでは、なんて恐怖が胸の奥を黒く染めた。
「本人には聞かないの?」
「誤魔化されるの。いろいろ聞いてみたけど、結局笑って、いつも誤魔化すのよヒカルってば」
よくわかんないな、と思いアキラは質問を変えた。
「君はプロにはならないの?」
彼女がプロ試験をいつ受けるのかをアキラは知りたかった。事情があって自分と打たないというなら、一緒にプロ試験を受ければいい。それなら否応なく自分と対局せざるを得ないはずだ、と。しかし。
「プロ? 碁の? まっさかあ、考えたこともないよ」
あかりはへらりと笑って言った。これもまたアキラには衝撃だった。自分にとって、碁を打つことは即ちプロを目指すことと同義だからだ。むしろ、プロになりたいというモチベーションもなくてどうしてここまでの棋力を身につけるに至ったと言うのか。
「……碁を打ってきたんだよね? 囲碁歴はどれくらい?」
「え、うん。五年くらいかな」
「何のために? プロになりたいって気持ちはなかったの?」
「何のため……」
理由を問われれば、それはもちろん、ヒカルと一緒にいるためだ。
小学六年生に過ぎないあかりでは、碁を打ってる時と、あと学校の宿題をしている時くらいしか、ヒカルと繋がりを保つ方法を思いつけないのだ。でもそんなことを言ってしまえば秘密が秘密でなくなってしまう。
「どうやってそんなに強くなったの? 師匠は?」
そんなもの決まっている。ヒカルだ。全部ヒカルだ。ヒカルのために碁を覚えて、ヒカルが教えてくれるから強くなったのだ。
でも、もちろん言えない。
なんだか言えないことだらけだ。
「えっと、その……自己流? 我流っていうの? そんな感じ?」
「なんで疑問形」
「あ、秀策! 本因坊秀策の棋譜はいっぱい並べたよ! あと詰碁でも勉強したけど、師匠って言われたらやっぱり本因坊秀策、かな」
「ふうん」
アキラは半目になってあかりを見つめ、
「ヒカル君は碁を打つの?」
ビクン、とあかりは体を震わせ、
「……ううん? 打たないよ? 碁石に触ったこともないよ。ほんとだよ」
絶対嘘だ。アキラは思った。
先までの受け答えは、全てあの『ヒカル』という男の子が碁を打てることを隠してのものだ。きっとこの子は、ヒカル少年とのみ碁を打ち続けていたのだろう。棋譜並べだけで自分に迫る実力を身に付けたなんて不自然にもほどがある。いや、小学生二人で、というのもおかしな話だけども。
同時にアキラは確信する。この子が外で対局をしないという理由や、昨日言っていた一身上の都合というのは、ほぼ間違いなくあの少年のことだ。
先程、彼女は言った。「他の人とは打ちたくない」と。
他、とはどの範囲を指しているのか。
もし彼女が碁を学んできた五年間、本当に棋譜並べと詰碁だけで学んできていて、誰とも対局したことがないというなら、それは『人と打ちたくない』『誰とも打ちたくない』となるはずじゃないか。
つまりこの子が言う『他の人とは』というのは、『ヒカル以外の人とは』という意味なのだ。
そうか。
ぎゅ、とアキラはテーブルの下で、半ズボンの裾を巻き込むように拳を握った。
──あの男の子がいるから、藤崎さんは僕と打ってくれないんだ。
あかりは話を逸らそうとした。アキラからただならぬ気配を感じたのと、これ以上ヒカルについて突つかれるといろいろばれるかもしれないと思ったからでもある。すでに遅い。
「碁のプロって、つまり碁を打ってお金を貰うってこと?」
そこからか、という若干の呆れとともに、アキラは喜びも感じた。ヒカル少年に関すること以外であかりの興味を引ける話題かもしれないからだ。
「そうだね。一回の対局で低くても十二万円。タイトルのリーグ入りすればそれで500万円以上、かな」
「五百!」
碁を打つだけで! とあかりは目を見開いた。とはいえ、小学生であるあかりには五百万という額がどれほどの価値を持つかは正確には量れていない。
「もちろんリーグ戦はすべてのタイトルで行われてるから、八大タイトル全てでリーグ入りすればそれだけお金が入る」
「タイトル?」
「うーん、大会の名前、て考えればいいかな。名人戦ってタイトルで優勝すると二千八百万」
「二千八百ぅ⁉」
「全部のタイトルで優勝すると総額で一億二千万円だね」
ガタッとあかりは立ち上がる。一億二千万。一億二千万!
「わっ、どうしたの?」
「いいこと思いついたの!」
「いいこと?」
「関門捉賊!」
なんて? とアキラが聞き返すより早く、あかりは吐き捨てた言葉をそのままに、衣紋掛けから外した自分のコートを抱えて碁会所から飛び出した。
カンカンと音を立てながら階段を駆け下りる。途中で真っ白なスーツを身に纏ったそっち系なヴィジュアルの男の人とすれ違ったが、そんなものに構っている場合ではない。
サヤカが以前言っていた。
『関門捉賊。ただ留意すべきことにこうも語っているわ。故用兵之法、十則囲之、五則攻之、倍則分之、敵則能戦之、少則能逃之、不若則能避之』
そうだ。
敵を倒すには、圧倒的な力でもってヒカルを囲ってしまえばいいのだ。囲って、自分以外の何も目に入らない環境に置いてしまえばいい。ヒカルが塔矢君とも関わりを持てないように閉じ込めて、あの目を独占してしまえばいいんだ。
現代の力の代表、すなわち財力でもって。
──見てて、ヒカル。
──ヒカルのために、私は碁のプロになる。