そもそも。
あかりに全てを譲ろうと思うようになったのは、あかりがプロとして通用するレベルに至ったのではないか、という疑念からだ。
強くなって、ワクワクするような手を打つようになったあかりに、全てを譲ってから遠ざけようと思ったわけだ。
それまではあかりがまさかプロを目指せるほど強くなるとは思っていなかったから、今まで誰にも碁について言っていなかった。じーちゃんくらいだ、あかりや自分が碁を打てると知っているのは。小学生が、誰にも教わらずにプロ級の腕を持っているなんて不自然にも程がある。だから、変な疑いや追及を避けるために、なるべくあかりの実力を表に出すべきではなかった。
一生隠して二人だけで碁を打っていくか、あかりをプロに導くか。二つの選択肢を乗せた天秤はヒカルの中でフラフラと揺れていて。
しかし、ついにあかりの実力を解禁した。あかりをプロに導くことに決めた。
理由は単純。
佐為が現れなかったからだ。
小学六年生の、正月あけの晴れた日曜日。冬の割に暖かかったことを覚えている。
前回なら、既に佐為と出会っていたはずだ。碁盤から現れた烏帽子の幽霊に驚いて、取り憑かれ、意識を失ったあの日と同じ日付を迎え、それでも佐為は現れなかった。
もしかしたら、という願いがあったのだ。シミが見えていないけれど、もしかしたら時期の問題なのではないかと。かつてと同じ日が来れば、ひょっとしたら、なんて。
まあ……万に一つ、程度の期待でしかなかったけれど。それでもその期待が外れたことはなかなかのショックで、だから結局自分が佐為と再会する可能性があるとすれば、
──お邪魔します!
──あらあかりちゃんいらっしゃい。いつもヒカルがお邪魔してごめんなさいね?
──大きくなったらうちから出さないので大丈夫です! ヒカルは部屋ですか?
──え、ええいるけど。
ドダドダドダドダ、ガツッ!
──いったあああ、くない!
──あかりちゃん大丈夫⁉︎
「……なにごと?」
「ヒカル!」
どばん、とドアを蹴倒すように開け放ったあかりの剣幕にヒカルの背筋がビクンと伸びた。
薄く滲んでいた涙を袖で雑に拭って、あかりへと椅子をくるんと回した。
ぜはー、ぜはーと荒い息を吐きながら手を支える膝は若干赤くなっている。
「な、なんだよ。どした? とりあえず座れよ、ほれそこに座布団」
「座ってる場合じゃないの!」
ずんずんと部屋を横切り直進してくるあかりの剣幕に、ヒカルは椅子に座ったまま腰が引ける。あかりの背に目を向ければ、母がドアからこちらを覗き込んで、なにごと? と口の動きとハンドサインで語る。
「あのね、私決めたの」
「な、なにを?」
すぅう、と大きく息を吸い、吐いて、あかりはキッとヒカルを強く見据える。
「私、プロになる」
「……碁の?」
「碁の」
「本当に⁉」
もちろんヒカルは喜んだ。どう説得すればいいかを考えていたところなのだから。しかし、はた、とヒカルは思う。
随分と飛躍している気がする。
もちろんヒカルは自分の全てを捧げるつもりなのだ、ゆくゆくはプロになる可能性だって高かっただろう。その後押しもするつもりだった。
けど、いくらなんでもちょっと急すぎやしないだろうか。
「うん。すごいいいと思う。でもどうしたんだよ? 昨日は他の人と打つの嫌そうだったろ?」
「……まあ、昨日は」
「そりゃな、あかりには才能があると思う。碁にひたむきに頑張れる真剣さとか、俺が出す詰碁の宿題も毎日解いてくれるし、そういうところ俺すげえって思う」
えへへ、とあかりは笑った。自分が頑張っていることを、ヒカルが気付いてくれていたのだ。勝手に頬が緩んでしまう。それを後ろから見るヒカルの母はあらー、と頬に手を当てる。うちの子ったらいつの間にこんなやり手になってたのねーなんて思いながら頭を引っ込めた。
ヒカルも、これ以上の追及はやめようと思った。何をきっかけに心境の変化が起こったのかは気になるところだが、下手につついてヘソを曲げられても困る。
急ではあるけど、自分にとっては都合がいいのだ。
それなら乗ろうこの流れに。そうヒカルは割り切った。
「プロを目指すのは、もちろん辛いことも多いと思う。でもあかりが自分から言い出したんだ。協力するし全力で応援するぜ、その代わり途中で飽きたから辞める、てのは無しな」
「ほ、本当⁉ 協力してくれる⁉」
「おーするする。任せとけって」
「絶対だからね!」
俺の目的のために、とはヒカルは口にしなかった。
私の目的のために、とはあかりは口にしなかった。
プロになるには勿論プロ試験を受けなければならないわけだが、それには平日に対局する必要が出てくる。学校を休む必要が出てくるのだ。
椿さんもプロ試験のために仕事辞めたって言ってたな、なんてヒカルは思い返す。
小学生の娘がいきなり『碁のプロになりたい』と言い出したところで、碁の業界について何も知らない両親からすれば『なにあかり、学校で将来の夢を作文に書く課題でも出たの? いいじゃない、そのためには今のうちにいっぱいお勉強しなきゃね』てなものである。
僕宇宙飛行士にないたーい、と同じ扱いだ。
そんなのでは、プロ試験のために学校を休ませてくれるはずがない。
──前回俺ってどうしたんだっけ?
首を捻って考えるも思い出せない。というより、もしかしたら学校を休むという話をろくにしていない気がする。
何も説明しないままプロ試験を受けたし、そういえば合格した後、確定申告も母さんにやってもらっていたんだった。
「甘えすぎだなあ」
「何が?」
「あ、ごめん独り言」
「ふぅん?」
座布団にぺたんと腰を降ろしたあかりが、こてん、と首を左に傾げた。
ヒカルは椅子の背もたれに顎を乗せながら思う。
何でもかんでも母さんに任せきりで、そのくせ全くありがたみを理解していなかった。我ながら赤面ものだ。
さすがにあかりの両親を不安にさせるのはどうかと思う、頻繁にあかりの家に上がらせてもらっている身としては。
じゃあ、不安にさせないためにはどうすればいいか。
「碁について知ってもらう、てのが一番かなぁ」
「誰に?」
「あかりの母さんに。プロ試験って、二十人とか三十人って数の受験生全員と碁を打つんだよ、何日もかけて」
「へぇ」
でな、と前置きして、
「それって平日にも打たないといけないから、学校を何日も休まなきゃいけないんだよ」
「え、ずる休みしちゃうの?」
「いや別にズルじゃないって。公欠、て言ってもわかんないか。つまり、やむを得ない理由で休む時はちゃんと学校も許してくれるんだよ」
「へー!」
「でも、それにはちゃんと理由がないとダメだし、親から連絡してもらわないとダメなんだよ。ずる休みなのかわからないから」
なるほどー、とあかりは笑った。
「じゃあお母さんに言えばいいんだね! 言ってくる!」
「え、言ってくるって」
「サヤカは言ってたわ、『兵聞拙速、未睹巧之久也』! 行ってきます!」
「なんて?」
ダダダ、とあかりは部屋から飛び出て行った。ドドド、と階段を駆け下りてドデデとコケて、心配して慌てる母さんの言葉を遮ってうちの電話を借りていた。
『お母さんお母さん! あのね、私ね、碁のプロになる! ……うん……うん、いや違うの、将来の夢とかじゃないの。うん違う、学校の勉強はしないの、うんだからね、そうじゃなくてね、学校を休んで碁を打つの……なんでって、プロのね、試験がね……ちがうの、宇宙飛行士は関係ないの』
だめくさい。
しばらくして電話を切る音がして、来た時とは打って変わった、しょんぼりとした足取りであかりは戻ってきた。
座布団の上に、今度は体育座りになって、この世の終わりが来たような顔を膝に埋めてポツリと一言、
「……だめだった」
でしょうね、以外の言葉が思いつかない。
「そりゃあ、あかりの母さんはあかりが碁をそこまで打てるなんて知らないだろ。小学生がいきなりプロって言ったって信じてもらえないって」
「そこまでと言うか、全然知らないと思う。折り畳みの碁盤はいつも隠してるし」
「あ、ああそっか。でもこれからは隠す必要ないぞ。でな、作戦があるんだ」
「作戦? なになになに?」
近いから座れって、と迫って来たあかりの肩を押した。
「大会に出よう」
「大会?」
「そ。大人も参加するような大会で勝ちまくって、優勝トロフィーとか貰いまくってあかりの父さん母さんが見える場所に飾ってやるんだ。あかりはこんなに強いんだぞ、プロにもなれるくらいだぞーってアピールしていけば、話をちゃんと聞いてくれるようになると思う」
「わぁ! いいねそれ!」
だろー? とヒカルも上機嫌になって、あかりと二人手を繋いでくるくる回った。
「ヒカル、私頑張るよ!」
ヒカルを独り占めするために。
「ああ、頑張れよ! 俺もどんどんあかりを鍛えてやるから!」
あかりを遠ざけるために。
そして願わくば、一縷の望みを繋ぐために。
贖罪の果てに、もしかしたら、佐為が自分を許してくれるんじゃないかと。
そうしたらきっと、佐為がまた会ってくれると、自分と碁を打ってくれると、ヒカルは願っている。