大会に出るにあたり何が必要かとか、出場資格とか、そのあたりの情報をヒカルは全く持っていない。
かつての自分は身一つで棋院に乗り込んで、なぜだか緒方に庇ってもらって院生試験を受けることができたわけだ。プロ試験も院生であったために特に手続きもなく受験できてしまい、しかもそのままストレートで合格。そんな経歴の自分は、アマの大会があることすら知らなかったのだ。
「へー、図書館に碁の本って置いてるんだね」
「将棋とか麻雀の本もあるんだな」
碁のプロになる! とあかりが宣言してからすぐ、二人は図書館に来ていた。
『趣味』の項目でまとめられた本棚には詰碁や定石について書かれた書籍が並べられているが、今自分たちに必要なのはそこではない。雑誌コーナーへと向かって、図書館で定期購読されている囲碁雑誌『囲碁ワールド』をあるだけ棚から引っこ抜いて円形テーブルに座った。
「あ、表紙の人も『塔矢』だって。すごい偶然だね。『塔矢名人、天元に挑戦』」
「……それ、塔矢の親父な」
「えっ! あ、確かに目元が似てるかも!」
そこかよ、と苦笑しながらヒカルは、あかりが見つめるものとは別の、一番新しい囲碁ワールドを手に取った。
開けばまず倉田さんのインタビュー記事があった。飛ばす。
次に天元戦第一局の棋譜が載っていた。飛ばす。後で読もう。
死活の問題が載ってるページはあとであかりに解かせようと決め、後半に差し掛かったところに目当ての記事を見つけた。
津々浦々催し案内、とある。日本各地のイベントや大会について大雑把な内容の説明が記載されているのだ。
「段位認定戦、てなに? 段が貰えるの?」
「アマチュアの人が、プロと打ったり詰碁解いたりして自分が何段か測ってもらうんだ」
「んー? それ、何段になったらプロになるの?」
「いや、プロとは関係ないんだよ。ただアマ何段って免状……つまり賞状をもらえるんだよ」
かっこいい! とあかりは思うも、あれ? と首を傾げた。
「プロになれないの?」
「なれないな。プロ試験とは別物だから」
「じゃぁいらないね」
「いらないけどさ、でもハッタリにはなりそうなんだよな。あ、最後の方に免状の取り方書いてら」
どれどれ? とあかりが椅子ごと体を寄せてくる。左から紙面に顔を寄せてくる距離感の近さに、ヒカルはドギマギしてしまった。確かに精神年齢は自分の方が上だが、身長はあかりの方が頭一つ分大きいのだ。小学校を五年繰り返した程度で培った精神性など、身長差から感じてしまう大人っぽさの前には何の役にも立たなかった。
なんか距離近くね? いきなりじゃね? 昨日からちょっとおかしくね? というかあかりってこんなに大人っぽかったっけ? まだ小学生じゃん!
身長差マジックである。
あとヒカルは気づいていないが、あかりが姉からこっそり借りた香水をうっすら使っていることもドギマギの原因であったりする。
「『認定問題の得点が表1の合格基準点に達していれば、その棋力の免状・認定状を取る資格があります』……認定問題?」
「えっと、あーもっと前のページだな。段級位認定コーナー。へー、免状って横670ミリ? でか」
「ちょっと問題解いてみようかな。ヒカルその本貸して」
すすっと雑誌をスライドさせてあかりの前に置く。級位コースは難なく解いていく。段位コースの最後の問題に多少苦戦するも、結局全部の問題でヒカルと同じ答えに辿り着いた。
「5ーCで切って白がツケるでしょ、そしたらA–7にホウリ込んで。白はいくつかあるけどB–6でダメヅマリを突いてコウに持ち込める。だから答えは5ーC!」
「うん正解。最後は結構難しいのによく解けたな。これを何回か葉書で送って、点数に応じて段位認定になるのか……時間かかるなあ。満点なら六段で、免状料金22万⁉ そんなにすんの⁉」
しーッ、と隣で新聞を読んでいたお爺さんに叱られる。二人はごめんなさーっと頭を下げてから声を潜めて、
「……ねぇヒカル、これと認定大会ってなにか違うの?」
「……さぁ? 雑誌には大したこと書いてないな」
うーん、と二人そろって首を捻る。よくわかんね、と諦めてページをめくっていく。
「あ、子ども大会ってあるんだね。全国子ども囲碁大会。次の日曜日だって」
「そういえばチラシ貰ったな。でも参加できないぞ、それ全国大会だから。地方予選を勝ち上がってきた人たちが集まっての大会なんだよ」
「そっかー、残念」
「それにお前はもうそんなレベルじゃないから。相手の才能潰すことになるから、子どもの大会には出るべきじゃねーよ」
えー? とあかりは眉に皺を寄せた。
「でも私塔矢君に負けたよ? ヒカルにも勝ったことないし……私って本当に強いの? 今回は無理でも、子どもの大会から経験積んだ方が良いと思う」
確かに、とヒカルはしょぼんとしたあかりを見て思う。
あかりには勝ちの経験がほとんどない。指導碁で思わぬ手を打たれてヒカルを負かしたことはあるが、そうなれば次の局から置石を減らして打つわけで。五年間打ってきてあかりが勝ったのは恐らく五回にも満たない。
「そっか、勝ちの経験を積む必要はある、か? 自分に自信を持たせて相手に踏み込む訓練は必要だし」
かつて自分が佐為に指摘されたように。
「でもそれって碁会所でいいしなあ。塔矢に並ぶ実力で子ども大会に参加しても……というかこれ、直接棋院の人に聞きに行った方が早いな。今月の日程しか書いてないし。年間予定表と出場資格のもっと詳しいの欲しい」
「棋院? てなぁに?」
なんと言ったらいいかとヒカルはしばし考え、
「囲碁の、お役所? 学校の職員室みたいな。プリント出したりとか、わかんないことあったらそこ行けば大体教えてくれるはず」
「へー! じゃあ行ってみようよ! どこにあるの?」
「市ヶ谷。地下鉄乗らないとだめだな」
「え、地下鉄? 私お母さんと一緒でないと乗れないよ」
大丈夫だって、とヒカルは自分の胸を叩いた。
「ちゃんと俺が案内してやるから」
棋院までの道案内などお茶の子さいさいである。何度も何度も通った道だ。
◯● ◯● ◯●
翌日曜日。
子ども囲碁大会の当日である。
どうせ棋院に行くなら、一緒に大会も見学したほうが効率いいよね、というあかりの発案で、あれから2日たった日曜日、あかりは家に迎えにきたヒカルと一緒に出かけて行った。
「はい切符。なくすなよ」
「あ、ありがと……」
電車に乗る、という日常的なことも、小学生二人だけでとなるとちょっとした冒険感がある。ちょっとだけ不安を感じていたあかりだったが、ヒカルが当たり前のように切符を買ってきてくれたりだとか、どのホームに並べばいいかを何の迷いもなく判断して先導してくれたりだとか、さりげなく見せてくれるヒカルの頼もしさに不安はあっという間に消えて、道中の9路盤での目隠し碁も楽しむことができた。
対局も三局目を終えたところで市ヶ谷の駅に付き、3番出口から地上に出た後もはぐれないようあかりと手を繋いで日本棋院へと迷いなく進む。
「ここだ」
白い建物だった。
入り口の上部には『日本棋院会館』の文字があり、子連れの大人が中へと吸い込まれるように入っていく。
その流れに沿って二人も棋院の中に入った。
「いっぱい人いるんだね」
「ああ、皆参加者と、あとその親御さんだな。プロも注目してるんだから、親の気合の入り方も違うわ」
「プロが? なんで? 子どもの大会でしょ?」
「この大会で勝ち上がった人からタイトル取った人もいるんだって。だからプロ側も、才能ある子どもを真剣に探してるんだってさ。しかもこの大会で優勝すると、大人も参加するアマチュア本因坊戦にも参加できるんだと」
ヒカル物知りー、なんてあかりは感心しているが、これは数日図書館に通って囲碁雑誌を読み耽った成果である。
受付に参加者ではない旨を伝えて、矢印看板に従って大会会場になっているホールへと向かう。決して狭くないその空間には敷き詰めるようにテーブルと碁盤が並べられている。壁際で目を閉じて立っている子どももいれば、父親らしき男性と対局している子どももおり、会場の緊張感がピリピリと伝わってくる。そこにマイクを持った、スーツに日本棋院の腕章を付けた男性が会場に入ってきた。
ぽんぽんとマイクを叩いてから、
「皆さん、本日は全国子ども囲碁大会にご参加いただき、誠にありがとうございます」
開催のあいさつが告げられ、続いて一人ずつ参加者の名前が呼ばれていく。会場の前には大きなトーナメント表が貼られており、名前を呼ばれた子から順にクジを引いて、書かれてある数字を係の人に告げていく。
最初は相田、次が赤城、磯部。五十音順でどんどん呼ばれていく。
そこで、ヒカルは懐かしいものを見た。
今時珍しい丸メガネに、小柄な自分よりもさらに小さい背丈。髪の色は薄目で、何よりわかりやすい、キノコのような髪型。
「遠藤くん、越智くん、加藤くん……」
越智、と呼ばれた時に立ち上がったそのキノコカットが列に並ぶ。間違いない。
「越智じゃぁん……」
あいつもこの大会に出てたのか、と。ヒカルは遠目にも一目でわかる、懐かしのキノコヘアを見ながら思った。