※技術が上がったので大幅改変しました。2026/02/26
月は、いつ来ても静かすぎる。
地球の青白い縁を背に、クデュック月面支部は無機質な影を落としていた。
外殻装甲に刻まれた細かな補修痕が、ここが「平時」ではないことを雄弁に物語っている。
イズモは、転送プラットフォームの中央に立ったまま、しばらく動かなかった。
帰ってきた――はずだった。
だが、足元に感じる人工重力の安定感が、どこか信用できない。
イズモ「……本当に戻ったのか?」
カエデ「座標固定を確認。時空位相のズレは許容範囲内です。お帰りなさい、イズモ」
耳元で響くカエデの声は、いつも通り穏やかだった。
それが逆に、胸の奥に小さな違和感を残す。
イズモは深く息を吸い、月面支部の内部を見渡した。
広い。
そして、静かだ。
かつては人とAIが絶えず行き交い、元素回収の準備に追われていたはずの通路に、今は必要最低限の稼働音しかない。
イズモ「……人が減ったな」
カエデ「元素消失事案の増加に伴い、人的リソースは地球側へ優先配備されています」
淡々とした報告。
だがその裏にある意味を、イズモは理解していた。
――余裕がない。
元素消失。
それは単なる物質の欠損ではない。
原子番号を持つはずの存在が、世界から「なかったこと」にされる現象。
酸素が消えれば呼吸が止まり、鉄が消えれば文明が崩れる。
人類が元素に支配されている限り、元素消失は文明そのものへの死刑宣告だった。
イズモ「今回のクデュックは、どの程度だ?」
カエデ「第一報では、複数元素の同時欠損。発生地点はパラレル領域と推定されています」
イズモは眉をひそめる。
イズモ「……またか」
元素消失が単一世界で完結しないことは、すでに証明されている。
世界は一つではなく、消えた元素は“別のどこか”へ流れ込む。
それを回収するのが、エレメントハンター。
そして、その判断と観測を担うのが――イズモだった。
通路の先で、ホログラムが立ち上がる。
見慣れた女性のシルエット。
ミサト「帰還、お疲れさま。休む暇はなさそうね」
イズモ「……見た目通りだな」
ミサトは軽く肩をすくめた。
ミサト「状況は最悪よ。クデュックで発生した元素消失、地球側の解析班でも手に負えない」
イズモ「通常の回収班は?」
ミサト「派遣済み。……全滅はしてないけど、成果ゼロ」
その言葉が、静かに突き刺さる。
イズモ「……現地の環境が、従来と違う?」
ミサト「ええ。消失した元素の反応が、通常のQEXと一致しない」
QEX――元素異常が生み出す擬似生命体。
だが今回は、その前提すら崩れている。
ミサト「だから、あなたを呼び戻した」
イズモは目を閉じ、短く息を吐いた。
イズモ「観測者として、ってわけか」
ミサト「そう。戦力じゃない。判断役として、ね」
その区別は、イズモにとって痛いほど明確だった。
彼はもう、最前線で殴り合う存在ではない。
世界が壊れないために、壊れかけた場所を“見て”、切り捨てる役目。
イズモ「転移先は?」
ミサト「パラレルワールド。条件付きよ」
イズモ「……条件?」
一瞬、ミサトの表情が曇る。
ミサト「未成年限定。理由は不明」
イズモ「……また厄介な」
カエデ「年齢制限は、時空安定係数に関係している可能性があります」
イズモ「つまり、大人が行くと壊れる、と」
ミサト「端的に言えばそうね」
月面支部の静寂が、重くのしかかる。
イズモは、自分の手を見下ろした。
戦うための手ではない。
判断するための手だ。
イズモ「……準備を」
ミサト「了解。詳細はブリーフィングルームで」
通信が切れ、ホログラムが消える。
カエデ「覚悟はよろしいですか?」
イズモは、小さく笑った。
イズモ「覚悟なんて、とっくに置いてきたよ」
それでも歩き出す。
世界が壊れない理由を、誰も知らなくていいように。
クデュックの奥で、
静かに異常は進行していた。