解析室は、これまでで一番静かだった。
緊急警報も、崩壊兆候もない。
ただ、膨大なデータだけが、黙々と流れている。
赤城リツコは、端末から目を離さずに言った。
リツコ「……正直に言うわ。
今回の件、私の専門外だと思ってた」
カエデ「ですが、最終的に必要だったのは“理論の翻訳”です」
リツコ「ええ。
11次元なんて単語が出た時点で、逃げたくなったけどね」
リツコは苦笑し、ホログラムを操作した。
そこに映し出されるのは、今回の事件で取得された全ログ。
元素流量、位相変動、11次元ポータル反応、
そして――多世界アンカー起動時の座標データ。
ユノ「……この点、変じゃない?」
ユノが指差したのは、時系列マップの一角だった。
ユノ「世界が安定した瞬間、
時間座標と空間座標が、微妙にズレてる」
リツコ「ズレてるんじゃないわ」
リツコは即座に答えた。
リツコ「重なってる」
スクリーンが拡大される。
そこには、三つの座標系が同時に表示されていた。
時空間座標
地球相対座標
位相座標(世界識別子)
リツコ「今まで私たちは、
“どこにあるか”と“いつあるか”しか見てこなかった」
カエデ「しかし今回のアンカーは、
“どの世界に属しているか”を同時に固定しています」
ユノは、ゆっくり息を吸った。
ユノ「……座標が三次元じゃない」
リツコ「そう。
最低でも四つ必要」
イズモは、壁際で腕を組んだまま黙っていた。
彼は、ここでは指揮を取らない。
これは、引き継ぎの場だ。
リツコ「つまりね」
リツコは振り返り、二人を見た。
リツコ「今回イズモがやったことは、
偶然11次元に踏み込んだ英雄譚じゃない」
リツコ「世界を、座標として扱えることを証明したの」
カエデ「……再現可能、ということですか?」
リツコ「ええ」
彼女は、静かに断言した。
リツコ「感情や犠牲を必要としない、
純粋な工学問題に落とし込める」
ユノの表情が、少しだけ緩んだ。
ユノ「じゃあ……
私が“外側”に行った意味も、無駄じゃなかった?」
リツコ「むしろ必須よ」
ユノのログが、画面に展開される。
“観測者の外側”にいた存在だけが取得できた、
位相境界の実測値。
リツコ「これがなければ、
世界間の距離は理論値のままだった」
カエデ「……実測された時空間−位相対応表」
リツコ「そう。
これを使えば――」
リツコは、新しい設計図を呼び出した。
そこに表示された名称。
多世界座標固定型ポータル装置(試作1号)
ユノ「……転移装置?」
リツコ「正確には、
“迷子にならないための装置”ね」
リツコは淡々と説明する。
リツコ「時空間座標で“いつどこに行くか”を決める。
地球相対座標で“基準世界”を固定する。
そして――」
彼女は最後の項目を示した。
リツコ「位相座標で、
“帰る世界”を指定する」
カエデ「……パラレルワールド間転移」
リツコ「ええ。
事故じゃない。
暴走でもない。
選択可能な移動」
室内に、静かな感動が広がる。
ユノ「……これなら」
ユノは、イズモを見た。
ユノ「もう、誰かが犠牲になる必要、ないね」
イズモは、ゆっくり頷いた。
イズモ「違うな」
リツコ「……何が?」
イズモ「俺が前に出なくていい、じゃない。
俺が“前に出るしかなかった状況”が、
やっと終わっただけだ」
ユノ「……逃げるわけじゃないんだ」
イズモ「逃げるなら、11次元に行った時点で逃げてる」
カエデ「では、あなたは今後も――」
イズモ「やるさ。
ただし次は、俺一人の仕事じゃない」
イズモは、解析図を指差した。
イズモ「これは技術だ。
属人化した奇跡じゃない。
だから――」
イズモ「**俺は現役のまま、土台を残す**」
彼は三人を見渡した。
イズモ「これからは、
技術として引き継がれる段階だ」
カエデ「あなたが切り開いた道です」
イズモ「だからこそ、
誰か一人の物語にしちゃいけない」
ユノは、小さく笑った。
ユノ「……相変わらずだね」
イズモ「悪いか?」
ユノ「ううん」
彼女は、はっきり言った。
ユノ「救われた側としては、ありがたい」
リツコは、端末を閉じた。
リツコ「結論は一つね」
三人の視線が、重なる。
リツコ「世界は、
壊れなかったんじゃない」
リツコ「壊れない方法が、やっと定義された」
解析室の外で、
月面支部の人工太陽が静かに明るくなる。
世界は、今日も続いている。
それは奇跡じゃない。
犠牲の上に成り立つものでもない。
座標を持った選択の結果だ。
そしてその先に、
まだ誰も行ったことのない世界が、
無数に待っている。
――人が、
帰る場所を失わない限り。
完