ブリーフィングルームは、月面支部の中でも妙に新しかった。
壁面パネルには最新の遮蔽材が使われ、床には微細な振動吸収層が敷かれている。
ここだけは「いつでも壊れる前提」で作られている――そんな印象があった。
イズモは席につくと、正面のホログラム投影台を見上げた。
淡い光が立ち上がり、月面と地球を繋ぐ通信回線が同期する。
ミサト「始めるわ。今回の案件コードは――タイプ・クデュック」
表示されたのは、地図ではなかった。
地球の地表でも、月面でもない。
黒い背景に、いくつもの薄い層が重なるような、奇妙な模式図。
カエデ「位相マップです。パラレル領域の接合点を可視化しています」
イズモ「……見た目が嫌なやつだな」
ミサト「嫌でも、そこに行く。クデュックは“元素消失の入口”になってる」
ホログラムが拡大され、赤い点がいくつも灯る。
その中の一つが、わずかに脈動していた。
ミサト「ここ。月面支部の観測域と重なる地点で、複数元素の同時欠損が確認された」
イズモ「同時欠損……?」
ミサト「酸素、鉄、ケイ素。局所的だけど、組み合わせが悪い」
カエデ「呼吸環境の崩壊、構造材の脆弱化、地盤形成の不安定化。文明基盤への攻撃に等しいです」
イズモは眉間を押さえた。
“狙っている”と考えたくなるほど、的確な選択だった。
イズモ「回収班が成果ゼロの理由は?」
ミサト「現場が、現場じゃないから。……彼らが踏み込んだ瞬間、位相がずれた」
ホログラムに、複数のログが走る。
転移座標、帰還ログ、そして途中で途切れた生体反応。
ミサト「転移したチームは戻ってきた。だけど――同じ場所に行けなくなった」
イズモ「場所が逃げる、ってことか」
カエデ「正確には、観測対象が“観測に適応している”可能性があります。人が近づくほど、位相がずれる」
イズモ「……観測者泣かせだな」
イズモがそう言った瞬間、ミサトの視線がわずかに鋭くなる。
ミサト「だから、観測の専門家が必要なのよ」
イズモは黙って頷いた。
この仕事は、腕力では解決できない。
ミサト「次。転移装置――エレバイルの使用許可を出す。ただし条件がある」
ホログラムに、新しい項目が浮かび上がる。
転移条件:未成年のみ
付帯条件:単独行動禁止
付帯条件:回収対象は指定元素のみ
付帯条件:帰還時に観測ログ全提出
イズモ「……未成年限定、はやっぱり確定か」
ミサト「ええ。地球側の理論班も理由を掴めてない。ただ結果だけが出てる」
イズモ「大人が行くと?」
ミサト「位相が崩れて帰って来ない。もしくは、帰って来ても“別の場所”になる」
その言葉に、イズモの背中が冷える。
帰還できないというより、帰還の意味が崩れる。
カエデ「年齢は肉体ではなく、精神構造――自己同一性の可塑性に紐付いている可能性があります」
イズモ「つまり、“まだ形が固まりきってない方が通れる”」
ミサト「そういう仮説ね。……そして今回、未成年で、なおかつ戦力になり得る人員がいる」
ホログラムの中央に、三つのファイルが並んだ。
碇シンジ。
式波・アスカ・ラングレー。
真希波・マリ・イラストリアス。
イズモは一瞬、言葉を失った。
イズモ「……冗談だろ」
ミサト「冗談ならよかったんだけど。あなたも知ってるでしょう。彼らは未成年で、戦力で、しかも“異常”に慣れてる」
イズモ「慣れててほしくなかった類の異常だ」
カエデ「エヴァンゲリオンのパイロットは、精神負荷と極限環境への適応が高い個体群です」
イズモは、苦い笑いを漏らした。
“個体群”という言い方が、彼らの人生の雑さを象徴している気がした。
ミサト「今回の目的は二つ。第一に、指定元素の回収。第二に、位相崩壊の原因の観測」
イズモ「パイロットは戦力。俺は観測」
ミサト「そう。あなたは“介入しすぎないため”に行く」
その言葉は、優しさでも信頼でもなく、命令だった。
イズモはよく知っている。
世界を守るために必要なのは、いつだって“手を出さない勇気”だ。
イズモ「……で、単独行動禁止?」
ミサト「ええ。今回は特に危険。現場が逃げるなら、孤立した瞬間に死ぬ」
カエデ「転移先での連絡断絶も想定されます。私がバックアップ回線として同行することを推奨します」
イズモ「お前が?」
カエデ「はい。ウェアラブル端末として振る舞います。現地での観測・解析・記録が可能です」
イズモは少し考えた。
カエデが同行するのは助かる。
だが同時に、それは“帰るための杭”でもある。
イズモ「……分かった。お前は必須だ」
ミサト「決まりね。次に装備。現場は酸素欠乏の可能性がある。呼吸系の冗長化を組む」
ホログラムに装備リストが走る。
酸素ボンベ、簡易循環マスク、QEX反応センサー、元素回収カートリッジ。
イズモは、ひとつの項目で視線を止めた。
回収対象:酸素(O)
鉄(Fe)
ケイ素(Si)
イズモ「……指定元素だけって、危険じゃないか。現場で別の元素が必要になる可能性は?」
ミサト「ある。でも持ちすぎると、観測対象が逃げる。余計なものを持ち込むほど位相がズレる」
イズモ「持ち物が“ノイズ”になる、ってことか」
カエデ「観測干渉の最小化。合理的です」
イズモは舌打ちしたくなった。
合理的であればあるほど、人間が死ぬ。
ミサト「最後に――あなたに一つ、確認」
イズモ「何だ」
ミサト「あなたは今も、自分を“戦力”だと思ってる?」
イズモは少し黙った。
答えは簡単ではない。
戦力として生きるのは、楽だ。
殴ればいい。倒せばいい。
けれど観測者は違う。
見て、記録して、判断して、時に切り捨てる。
そして誰にも知られない。
イズモ「……思ってない。思いたくない」
ミサト「ならいい。今回の命令は“回収”じゃない。“制約の中で生きて帰ること”よ」
イズモは笑った。
乾いた笑いだった。
イズモ「難しい方を選ばせるな」
ミサト「選ばせてない。命令」
通信が一瞬だけ乱れ、ホログラムが揺らぐ。
月面支部の照明が、わずかに暗転した。
カエデ「外部位相ノイズ増大。クデュック発生点が拡大しています」
イズモは立ち上がり、手袋をはめ直した。
指先が、妙に冷たい。
イズモ「……時間がないな」
ミサト「ええ。出撃準備を始めて。転移ウィンドウは四十分後」
イズモ「了解」
通信が切れる。
ブリーフィングルームに残ったのは、機械の低い稼働音と、カエデの静かな呼吸だけだった。
カエデ「緊張していますか?」
イズモ「そりゃな」
カエデ「未知は、恐怖ではなく情報不足です。観測すれば、未知は小さくなります」
イズモは苦笑した。
イズモ「観測しても、小さくならない未知もあるんだよ」
カエデ「……それでも、観測しますか?」
イズモは、扉の向こうにある月面支部の廊下を見た。
静かで、遠くて、現実味のない通路。
そしてその奥で、世界が壊れかけている。
イズモ「する。観測者の仕事だ」
歩き出す。
命令と制約を抱えたまま。
次に開く扉の先は、
“同じ世界”ではない。