転移は、唐突に終わった。
光が消えた直後、イズモは自分の身体がどこにあるのか分からなくなった。
立っているはずなのに、重力の向きが定まらない。
上下の感覚が、数拍遅れて追いついてくる。
イズモ「……」
息を吸おうとして、喉がひりついた。
空気が、軽い。
カエデ「酸素分圧、基準値を大きく下回っています。呼吸補助を起動します」
耳元で微かな作動音がして、肺に人工的な空気が送り込まれる。
それでも胸の奥に、空虚な感覚が残った。
イズモは周囲を見渡した。
地面は存在している。
だが、定着していない。
岩は岩の形をしているのに、表面の質感が抜け落ちている。
砂を踏んでも音がしない。
足音が、世界に拒否されて消えていく。
イズモ「……世界が、薄いな」
カエデ「元素構成比が不安定です。存在はしていますが、保持されていません」
遠くに山のような影が見えた。
だが輪郭が曖昧で、視線を合わせるたびに揺らぐ。
近づこうとすると、距離の感覚そのものがずれる。
イズモ「逃げてる……いや、留まれないのか」
カエデ「観測対象が、自身の存在確率を下げています。観測されるほど、位相がずれる構造です」
イズモはゆっくりと一歩を踏み出した。
地面が、遅れて応える。
ここは破壊された世界ではない。
世界が、世界であることを諦めかけている場所だ。
イズモ「……これが、元素消失の終端」
カエデ「はい。複数世界から流入した元素が、ここで循環を失っています」
そのとき、地形がわずかに盛り上がった。
揺れではない。
変形だ。
大地が裂け、その隙間から何かが這い出してくる。
生物の形をしているが、生物ではない。
ワニに似た輪郭。
だが鱗はなく、体表を流れるのは赤黒い光――鉄元素の異常反応。
イズモ「……QEX」
カエデ「確認。鉄・ケイ素主体の元素異常体。酸素欠乏型です」
QEXは口を開いた。
だが、音は生まれない。
音を構成する元素そのものが、足りていない。
イズモは距離を保ったまま、回収カートリッジを構えた。
イズモ「動かすな。こいつが動くほど、周囲の元素が削られる」
カエデ「誘導ビーコンを推奨します」
イズモは足元に小型ビーコンを投げた。
淡い光が灯る。
QEXはゆっくりと、そちらへ向きを変える。
動きは鈍い。
だが近づくほど、周囲の地形が希薄になる。
イズモ(……このままじゃ、回収する前に世界が消える)
イズモは腰の端末に指を滑らせた。
クデュック観測場の補助機構を起動する。
イズモ「観測アンカー、展開」
次の瞬間、空間に微かな振動が走った。
音ではない。
衝撃でもない。
重さ。
目に見えない何かが、世界を押さえつけた感覚。
揺らいでいた遠景の輪郭が、わずかに定まる。
カエデ「位相固定率、上昇しています。観測場との同期を確認」
イズモ「……留まったな」
クデュックは、単なる基地ではない。
元素を回収するための“場”。
そして――世界を一時的に留めるための重り。
イズモは回収カートリッジを起動した。
引き剥がされる感覚が、腕に伝わる。
カエデ「酸素元素、回収開始。三十……五十……」
QEXの形が、少しずつ崩れていく。
苦しむ様子はない。
ただ、存在の密度が下がっていくだけだ。
イズモ「……全部は取らない」
カエデ「はい。過剰回収は位相崩壊を招きます」
イズモは出力を調整する。
人が生きるために必要な分だけ。
それ以上は、切り捨てる。
イズモ(それでいい)
世界は、完全には救えない。
だが、生き延びる余地は残せる。
回収が進むにつれ、QEXは輪郭を失い、やがて地形に溶け込むように消えた。
イズモは息を吐いた。
イズモ「……一体目は、これで終わりか」
カエデ「周辺位相、安定傾向。ただし――」
言葉が途切れる。
カエデ「更なる元素流入を確認。複数反応です」
イズモは視線を上げた。
空間の奥で、世界が再び揺らぎ始めている。
観測場の固定は、永続ではない。
イズモ「……時間を稼ぐしかないな」
カエデ「観測アンカーの持続時間は限定的です」
イズモは、再び歩き出した。
ここは戦場ではない。
だが、放置すれば確実に世界が死ぬ。
元素消失域。
侵入は成功した。
だがこれは、
破壊でも、勝利でもない。
ただ、
世界を壊さないための作業が、始まっただけだった。