観測アンカーの振動は、じわじわと弱まっていった。
固定された輪郭が、また少しずつ溶け始める。
世界は戻ろうとしているのではない。
ただ、留まりたくないだけだ。
イズモは歩きながら、呼吸補助の流量を微調整した。
肺に入る空気は冷たく、乾いている。
それでも「空気として成立している」だけで、ここでは贅沢だった。
カエデ「位相固定率、六十八%まで低下」
イズモ「……アンカーの持続、想定より短いな」
カエデ「元素構成の欠損が大きすぎます。留めるための“地盤”がありません」
イズモは遠方の揺らぎを見つめた。
さっき消えたQEXがいた地点のさらに奥。
空間の密度が薄い場所ほど、揺れが激しい。
イズモ「流入源に近い。そこだな」
カエデ「はい。酸素・鉄・ケイ素の流量が、あの方向へ偏っています」
イズモは腰の端末に指を当てた。
観測場の地図は、通常の地形図ではない。
“どこに地面があるか”ではなく、“どこが世界として成立しているか”の地図だった。
そして、その中心に――穴がある。
穴というより、定義されていない領域。
イズモ「……クデュック」
カエデ「こちら側にも、同名の終端が形成されています。現実のクデュックと共鳴しています」
イズモは短く息を吐いた。
最悪だ。
だが同時に、分かりやすい。
イズモ「なら、やることは一つだ」
カエデ「はい。“回収”ではなく、“循環の再接続”」
イズモは頷き、歩幅を上げた。
揺らぎの中心に近づくほど、世界の音が消えていく。
風は吹いているはずなのに、頬に触れない。
遠くの岩が崩れたはずなのに、音がしない。
視界の端で物体が動いても、動いたという情報だけが遅れて届く。
現実が、遅延している。
イズモ(……ここで判断を間違えると、戻れない)
彼は戦場で何度も「間に合わない」を見てきた。
だがここは戦場じゃない。
間に合わないのは、命ではなく――世界だ。
カエデ「前方、反応増大。QEX複数。小型群体です」
イズモの視界に、淡い光点がいくつも灯る。
虫の群れのように、空中を漂っている。
だが羽ばたく音はない。
光点が近づくにつれて、イズモは気づく。
それらは“虫”ではない。
元素の欠片に、形が仮固定されただけのものだ。
イズモ「……触れたら削られるタイプか」
カエデ「はい。接触で微量の元素を奪います。防護優先を推奨」
イズモは足を止めた。
無理に進めば、装備が先に壊れる。
呼吸補助が止まれば、ここでは終わりだ。
イズモは腰のカートリッジを一つ引き抜く。
鉄回収用。
ただし使い方は、回収ではない。
イズモ「散布モード」
カエデ「了解。鉄元素を微量散布。周辺の定着率を上げます」
カートリッジが短く唸り、目に見えない粉雪のようなものが空間に放たれる。
瞬間、光点たちの動きが鈍った。
イズモ(……“食うもの”が外に出た)
群体は散布された微量の元素に引き寄せられ、進路が逸れる。
イズモはその隙に、揺らぎの中心へと距離を詰めた。
中心部は、空間が“空間であること”をやめていた。
そこには穴があった。
黒い穴ではない。
白い穴でもない。
穴という概念だけが存在する場所。
視線を向けた瞬間、吐き気がした。
見てはいけないものを見ている気がする。
だが見なければ、仕事にならない。
カエデ「流入源です。複数世界の元素が、ここに落ち込んでいます」
イズモ「落ち込んで……消える?」
カエデ「消失という表現が最も近いですが、実際は循環喪失です。どこにも行けず、どこにも定着しない」
イズモは端末を起動し、観測アンカーの出力を上げた。
振動が増す。
世界が、少しだけ息を吹き返す。
だが同時に、視界の端が削れる。
イズモ(……長くはもたない)
アンカーは万能じゃない。
固定はできても、補えない。
欠けた元素が多すぎれば、世界の形は維持できない。
イズモは回収カートリッジを並べた。
酸素、鉄、ケイ素。
イズモ「全部は無理だ。順番を決める」
カエデ「優先順位を提示します。生存基盤:酸素。次に構造維持:鉄とケイ素」
イズモ「……酸素だけ取れば、人は息ができる。けど世界が崩れたら意味がない」
カエデ「はい。構造が崩れると、酸素も保持されません」
イズモは目を閉じた。
短い時間で選べ。
イズモ「配分は――六:二:二」
カエデ「酸素六割、鉄二割、ケイ素二割。了解」
イズモは回収カートリッジを起動した。
空気が引き剥がされる感覚。
肺が、胃が、内側から引かれる。
だが引かれているのは自分ではない。
世界から、必要な分だけを選び取る。
カエデ「酸素回収開始。四十……五十……」
視界の揺らぎが、ほんの少し落ち着く。
空気に“重さ”が戻る。
風が、頬に触れた。
イズモ(……息ができる)
続けて鉄とケイ素。
回収量は少ないが、効果は大きい。
地面の質感が戻り、遠景の輪郭が定まる。
だが――穴は消えない。
穴は、相変わらず“概念だけ”でそこにある。
イズモ(塞げない……これは回収じゃなく、傷口だ)
カエデ「警告。位相固定率、急低下。アンカー限界です」
イズモ「……分かってる」
回収を続ければ、固定が崩れる。
固定を優先すれば、回収が足りない。
二択ではない。
三択だ。
――撤退。
イズモは口の奥で、苦いものを噛んだ。
ここで全部を救おうとすれば、何も残らない。
救える分だけ救って、引く。
それが観測者の仕事だ。
イズモ「……撤退準備。ログは全部持って帰る」
カエデ「了解。帰還座標を確保します」
イズモは最後にもう一度、穴を見た。
そこに敵意はない。
ただ、世界が成立しないという事実だけがある。
イズモ「……これが“原因”じゃない」
カエデ「同意します。これは結果です。原因は別にあります」
イズモ「原因を見つけるために、また来る」
カエデ「はい。ですが次は、より厳しい制約が必要です」
イズモは頷いた。
ここは、人間が踏み込める場所じゃない。
踏み込めてしまうのがおかしい。
帰還は、転移よりも静かだった。
光が揺れ、重力の向きが戻り、
次の瞬間、月面支部の人工照明が視界に入った。
耳が、いきなりうるさくなる。
空調の音。
機械の稼働音。
人の気配。
イズモは片膝をついた。
呼吸補助を止めると、空気が“重い”。
イズモ「……生きてるな」
カエデ「帰還完了。回収量、規定範囲内。観測ログ、全保存済みです」
イズモはゆっくり立ち上がり、掌を見た。
何も握っていない。
それでも、確かに何かを持ち帰った感覚がある。
命を救ったわけじゃない。
世界を修復したわけでもない。
ただ、
壊れ方を記録し、壊れすぎないように選別した。
ミサトの通信が割り込む。
ミサト「帰ってきたのね。状況は?」
イズモ「回収はした。けど塞げない穴がある。……クデュックが向こう側にもできてる」
ミサト「……最悪ね」
イズモ「ただ、分かったこともある。これは原因じゃない。結果だ」
ミサト「原因の当たりは?」
イズモは、少しだけ間を置いた。
イズモ「“誰か”が、流れを作ってる。自然発生じゃない」
その言葉に、通信の向こうが一瞬静まった。
ミサト「……続きはブリーフィングで。すぐ来て」
イズモ「了解」
通信が切れる。
イズモは、月面支部の廊下を歩き出した。
さっきまでいた“薄い世界”が、まだ瞼の裏に残っている。
そして確信だけが残った。
次は回収じゃない。
流れの設計者を見つける話になる。