ブリーフィングルームの照明は、帰還直後の目にはやけに白かった。
月面支部の内部は安定している。
重力も、空気も、音も――すべてが“正常”だ。
それが、かえって落ち着かない。
イズモは解析卓の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
端末には、さきほどまでいた元素消失域の観測ログが、無機質な数値と波形として並んでいる。
数字は正確だ。
だが、数字だけでは足りない。
イズモ「……世界が薄かった」
ミサトは、解析卓の反対側で腕を組んだまま頷く。
ミサト「報告書、読んだ。想定よりひどいわね」
イズモ「“壊れている”って表現じゃ足りない。
あれは、世界が成立しない状態だ」
カエデ「観測ログを補足します」
卓上にホログラムが立ち上がり、元素流量の推移が立体表示される。
酸素、鉄、ケイ素――回収した元素は、確かに循環へ戻されている。
だが、その中央に、ぽっかりと空白があった。
ミサト「……これが“穴”?」
イズモ「正確には、穴じゃない。
“定義されていない領域”だ」
カエデ「元素が存在する前提条件が欠落しています。
物質でも、エネルギーでも、情報でもない」
ミサトは眉をひそめた。
ミサト「つまり?」
イズモ「原因じゃない。
これは、削られた結果だ」
解析卓の表示を切り替える。
回収前と回収後の比較ログが重ねて映し出される。
酸素を入れれば、呼吸環境は戻る。
鉄とケイ素を補えば、構造は安定する。
だが、“穴”だけは変わらない。
イズモ「回収は効く。
でも治療じゃない。延命だ」
ミサト「……誰かが、意図的に流れを作ってる?」
イズモは一拍置いた。
断定はしない。
だが、否定もできない。
イズモ「自然発生なら、こんな綺麗な偏り方はしない。
元素の流れが、“使われている”」
カエデ「複数世界から、同一終端へ収束しています。
偶然の範囲を超えています」
室内が、少しだけ静かになる。
空調の音が、やけに大きく聞こえた。
ミサト「……クデュックが、向こう側にもできていたって言ってたわね」
イズモ「ああ。
あれは基地じゃない。現象だ」
ミサト「最悪のタイプね」
イズモは頷いた。
イズモ「クデュックは“回収する場所”だった。
でも今は、“流れが集まる場所”になってる」
カエデ「流れの設計者が存在する場合、回収行動そのものが誘導されている可能性があります」
イズモ「……俺たちが、流れを完成させてるかもしれない、ってことか」
その言葉に、ミサトの表情が硬くなる。
ミサト「それは……」
イズモ「分かってる。仮説だ。
でも、可能性としては切れない」
彼はログをもう一度見た。
自分が選別した配分。
六:二:二。
正しい判断だったと、今でも思っている。
だが、それが“誰かの想定通り”だった可能性は否定できない。
イズモ「次は、回収じゃ足りない」
ミサト「……何をするつもり?」
イズモは視線を上げた。
イズモ「流れを見る。
どこから来て、どこへ向かっているのか」
カエデ「観測範囲の拡張が必要です。
現在の制約では、全体像は掴めません」
ミサト「制約を外すってこと?」
イズモ「逆だ。
もっと強い制約をかける」
ミサトは少しだけ、意外そうな顔をした。
イズモ「人を減らす。
持ち込む元素を減らす。
干渉を、極限まで小さくする」
カエデ「観測者単独行動、もしくは最小構成での侵入を想定します」
ミサト「……帰って来られる?」
イズモは即答しなかった。
帰還は、保証できない。
イズモ「分からない。
でも今のままじゃ、いずれ“帰る場所”がなくなる」
ミサトは小さく息を吐いた。
ミサト「……了解。上に話を通すわ」
イズモ「頼む」
通信が切れると、ブリーフィングルームには再び静寂が戻った。
イズモは解析卓に手を置いた。
数値は動かない。
だが、確かに示している。
世界は、削られている。
そして、その削り方には――意図がある。
カエデ「イズモ」
イズモ「何だ」
カエデ「次の観測では、これまでより多くのものを“見ない”判断が必要になります」
イズモは苦笑した。
イズモ「……それが一番難しい」
観測者は、見たいものを見る存在じゃない。
見てはいけないものを、見ないと決める存在だ。
イズモは解析卓を離れ、出口へ向かった。
月面支部の廊下は、相変わらず静かだ。
だがその静けさの向こうで、
世界は確実に、次の段階へ進もうとしている。
次に行くのは、回収の現場ではない。
流れが生まれる場所だ。
その予感だけが、
はっきりと胸に残っていた。