銀子ちゃんを可愛い可愛い×5するだけの話(+短編集)   作:銀推し

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クリスマス記念短編。ですが内容はクリスマスとは一切関係ありません。
原作15巻以降の話となります。15巻のネタバレを多分に含む為15巻読了後に読む事を強く推奨します。
序盤に一番重要なあれこれをバッサリカットしていますか、そこは仕様なので各自脳内で思い思いに補完しながら読んで貰えると幸いです。





短編 限界突破空銀子

 

 

 

 それは……去年の暮れ頃の事。

 あの日、私は八一の元を去った。

 

 勿論それには理由があった。どうしてもと言わざるを得ないような理由が。

 本当は離れたくなんかなかったけど、それでも私は、私の心はそうする事を決断した。

 自分で決断した以上、その選択は間違っていなかった……って、そう思っていたいけど。

 

 それでも悔いはある。

 それはあの時、私の方から一方的な形で八一との繋がりを断ってしまった事。

 あの時、八一に言うべき言葉は沢山あったはずで、伝えるべき想いも沢山あったはずだった。

 

 八一に不安を抱かせないように、ちゃんと事情を説明したりとか。

 これはどうしようもない事だからって、そんな言い訳をしたりとか。

 ずっと貴方が好きな気持ちだけは変わらないからって、そんな未練がましい言葉とか。

 だから、どうか私を待っていて欲しいって……でも、そんな言葉なんてとても言えなくて。

 

 心配は掛けたくないのに、それでも心配して欲しい気持ちもあって。

 自分の弱さなんか見せたくないのに、全てを打ち明けて甘えちゃいたい気持ちもあって。

 そういうのがごちゃまぜになった結果、私は書き残した想いを届ける事がどうしても出来ずに。

 そのまま一方的に連絡手段を断ち切って、逃げるように八一の元を去った。

 

 私は八一の恋人だったのに。一切事情を説明しないで姿を消して音信不通になって。

 ハッキリ言ってとても身勝手な真似だと思う。後から謝って許されるような事ではない。

 きっと八一はとても悲しかっただろうし、とても不安だっただろうし、私に対して怒りとかそういう気持ちも湧いたんじゃないかと思う。

 

 ううん。怒るどころか……これは。

 これは、フラれちゃっても、おかしくないって。

 身勝手な私に愛想を尽かして、愛情が消え失せてしまってもしょうがないとすら思っていた。

 

 だから私はずっと怖かった。

 ずっとずっと、不安の渦の中にいた。

 八一の事も。当然ながら自分の身体の事も。そして将棋の事も。復帰の事も。何もかも。

 

 そうでなくとも入院中は心が弱くなる。私は過去何度も経験しているけど慣れるものじゃない。

 私はどうなるんだろう。いつ八一の元に戻れるんだろう。もしかしたらもう戻れないのかな。

 というか戻ったところで。八一はもう私の事なんか忘れて、新しい彼女と楽しくやってるんだろうな……って、そんな悲観的な妄想に取り憑かれた事も一度や二度ではない。

 

 だから療養中はずっと辛かった。苦しかった。

 先行きの見えない不安や、愛しい人に会えない寂しさで心が押し潰されそうだった。

 

 

 ──けれど。

 

 

「………………」

 

 そんな時。私の元に届いた……あの本が。

 だからこそ、あの本が……私の心に響いた。

 

 私が療養をしている間、どうやら八一の方は棋書を書いていたらしくて。

 完成したその本が私の元に届けられて。その本を読んだ時……私は。

 私は、嬉しくて。嬉しくて……涙が止まらなくなってしまった。

 

 だってあの本の中には……将棋の事だけじゃなくて八一の想いがあったから。

 私だけに向けたメッセージが、いなくなってしまった私への想いが綴られていたから。

 

 あの本のおかげで、私は離れていても八一の想いを受け取る事が出来た。

 そこには私が不安に感じていた事や、ずっと怯えていた事なんて笑っちゃうくらいに無くて。

 

 俺は君の事が大好きだよって、八一はそう言ってくれていた。

 寂しいよ、早く会いたいよって、八一はそう言ってくれていた。

 でも心配しなくていいからねって、八一はそう言ってくれていた。

 いつまでも待っているよって、八一はそう言ってくれていた。

 

 あの本の中には、八一からのそんなメッセージで溢れていたから。

 

「……八一」

 

 私はそれが、とても嬉しくて。

 とってもとっても嬉しくて。

 

 ……嬉し、すぎて。

 

「……やいち♡」

 

 嬉しさが爆発して、私は。

 あの本を読んだ結果、私は以前よりも更に八一の事が好きになった。

 ……などと、その程度の話では済まなかった。

 

「やいちぃ……♡」

 

 あの本を読んだ結果……私は。

 私は、八一の事を好きになり過ぎた。

 そう、好きになり過ぎてしまったのだ。

 

 好き。好きなの。とにかく八一が好き。ずっと好きだったけど今はそれ以上だ。

 もうね。大好きとか、すっごい好きとか、そういうレベルじゃないから。

 

 あまりに嬉し過ぎて好き過ぎて、私の愛は限界を越えて溢れ返ってしまった。

 とっくに満タンまで溜まっていた心の容器の、0から100までのメモリを安々と振り切って。

 となればその先は200か。あるいは1000か、はたまた10000か。

 

 ううん違う。その先に上限なんてものはない。溢れ返るってのはそういう事だから。

 その先に際限なんてなくて、ただただ八一への好きが無限に溢れ出しちゃう、ような。 

 

 そんな、空銀子が出来上がった──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──出来上がった、らしい。

 というのは、後から聞いた話であって。

 

 銀子ちゃんと再会した当初、俺はそんな事など知る由も無かったわけで。

 というか、再会した当初は正直そんな事なんかどうでもよかったわけで。

 

 ──再会。

 再会。そう、再会だ。

 会えなくなって、一度は音信不通になって。それでも再び巡り会えた──再会。

 

 去年の暮れ頃より音信不通になって、そして今。

 その間には語るべき話が沢山、紆余曲折、あるいは二転三転、そんな表現は多々あれども。

 

 ともあれ、色々あった末に空銀子は帰ってきた。

 そうなんだ。そうなんだよそうなんです。なんと銀子ちゃんが帰ってきたんだ。

 去年末より、体調悪化が原因による療養という形で表舞台から姿を消して、俺目線では殆ど行方不明になっていた銀子ちゃんはそれでも俺の下に戻ってきてくれた。

 

 という訳で……ほんの数日前、俺は念願叶って遂に銀子ちゃんと再会を果たした。

 向こうからブロックされて、ずっと着信拒否状態で連絡の取りようがなかった俺のスマホに突然『駅まで迎えに来て』とのメッセージが入って。

 これはまさか夢かと、あるいはたちの悪いイタズラじゃないかと半信半疑ながらも大慌てで駅に向かったら、そこには銀子ちゃんがいた。普通にいた。久しぶりに聞いたその声が奏でる第一声は「遅い」だった。

 

 でまぁ何が言いたいかというとね、その時には全然気にならなかったんだよ。

 だってその時はほら、言ってみれば感動の再会シーンみたいな感じだったわけだしさ。

 当たり前だけど俺は久々に目にしたあの子の姿に感極まっていた。驚きと感動と嬉しさとで泣きそうだった、というかちょっと泣いた、普通に泣いた。

 俺とあの子は子供の頃からずっと一緒、そして今では恋人なんだ。それぐらい大切な存在と数ヶ月以上も離れ離れになっていたんだ、そりゃそうなるのが極自然な話と言えよう。

 

 んでそれはつまり、同様に銀子ちゃんの方もそうなっているのが自然な話というわけで。

 再会直後はそんな感じだ。感極まって平常時よりもハイなテンション……というか、それまでの想いが溢れ出ちゃうというか、とにかく平然としている事なんて出来ないだろう。

 感動の再会シーンではそれが自然な事、そういう高まった雰囲気が当たり前だと思ったから、その時の俺は違和感に気付かなかったんだ。

 

 しかしそれから数日経って、今日。

 再会の感動や熱も徐々に収まってきて──今、俺はようやくそのおかしさに気付いた。

 いやおかしいっていうか、これをおかしいと表現してはいけないような気もするんだけど──

 

 

 

「八一」

 

 という事で。

 こうして今、俺のすぐ隣にいて、俺の名前を呼んだこの子が空銀子ちゃんである。

 

 とにかくね……いる。ここにいる。いるんだよ。

 あの再会は夢や幻ではなかった。その事に俺は今でもホッと一安心な気持ちで一杯だ。

 ぶっちゃけると最近はそんな夢を見る事も多かったから。夢の中で銀子ちゃんと再会して、目を覚ましてそれが夢だと気付いて急激にテンションが落ち込むなんて事も日常茶飯事だったから。

 だから夢の世界の話じゃない、現実の空銀子がここにいる事、それだけで大きな幸せを感じる。

 

「八一」

 

 でこの通り、俺の名前を呼んでいる。可愛い。

 というか喋っているじゃん。可愛い。というかそもそも動いているよね。可愛いなぁ。

 

 可愛い。そう、可愛いのである。

 空銀子と書いて可愛いと読む。随分ぶりに見た銀子ちゃんはやっぱり可愛かった。ただ動いているだけでこんなにも可愛いのだから堪らない。

 しかしそれもそのはず、だってここにいるのは再会するまでの期間俺の心の支えだったスマホの中の空銀子画像や動画データなどではない。生だ、生の空銀子なのだ。

 生はスゴい。生の空銀子はそこにいるだけで伝わってくる情報量が桁違いだ。そのどれもが空銀子が可愛いという圧倒的事実のエビデンスとなっている事は言うまでもない。

 

「八一?」

 

 というか髪がね、髪が伸びているんだよ。

 今ここにいるのはロング銀子ちゃんだ。入院中に散髪する機会が無かったからなのか、ずっと伸ばしていたのであろうその美しい銀髪は胸元辺りにまで差し掛かっている。

 まるで一時期その髪を伸ばしていた小学生時代を彷彿とさせる今の銀子ちゃん。長らく会っていなかった事実も重なって、ここに来てのイメチェンにはまた違った可愛さと新鮮な驚きがあるというものだ。

 

「……八一」

 

 ……という、言わば外面における変化が。

 そうした変化や発見がある事は、久しぶりに顔を合わせた以上ある程度当然なんだろうけど。

 

 それよりも顕著に……というか、より深刻だと感じてしまうのは。

 外面よりも、内面の変化にこそあって。

 

「……やいちぃ」

 

 聞こえた──ほら、今の、分かるかな?

 まず声がね、甘ったるいんだよ。普段のハリのあるシャキっとした声じゃなくなっている。

 

「やーいーちぃ」

 

 これはつまりあれだ。銀子ちゃんの甘えモード時特有のふにゃふにゃ声なのだ。

 その名の通り甘えモード時だけの特別有料DLCボイスなはずなんだけど、再会して以降の銀子ちゃんはどうしてかこの有料ボイスがデフォルト装備になっちゃってる。

 そもそもがこの反応もおかしいっちゃおかしい。俺が知る空銀子であれば「ちょっと八一、シカトすんな」とか言ってくるはずであって。

 こんな猫撫で声で、こんな物欲しそうな声で俺の名前を連呼する時点でもうおかしい。

 

「ねぇねぇ、やいちぃ」

「ん、なに?」

「やっとこっち向いてくれた。なんでさっきから無視するの?」

「ご、ごめんごめん。無視していた訳じゃないんだけど、ちょっと考え事をしててさ」

「もうっ」

 

 銀子ちゃんはぷぅっとほっぺたを膨らませる。

 可愛い。とても可愛い表情なんだけど、しかしその仕草もハッキリ言ってらしくはない。

 いやもう全く以てらしくはない……んだけど、そんなのはまだまだ序の口で。

 

「ねぇ、やいち」

「どうしたの?」

「……えへへ」

 

 そこにいたのは、なんと。

 

「やいち……すーき♡」

 

 蕩けそうな笑顔で愛の言葉を囁く、空銀子が。

 

「っ、……うん」

 

 対して俺は思わず喉を詰まらせる。

 ちょっと気持ちの準備が出来てなかった。どうしようもなく心臓がドクンと跳ねてしまった。

 

「すき♡」

「うん」

「やいち。……すきだよ♡」

「……うん」

 

 その言葉に、ドクンと跳ねた心の奥が次いでじんわりとあたたかくなってくる。

 たとえ離れ離れになっていても、お互いの気持ちに一切の変化なんて無かった。

 その事がとにかく嬉しいし、一方で安心したというのもまた事実。

 

「けどまさか……まさかここまでとは……」

「うん?」

「いやだってまさか銀子ちゃんがこんなに……銀子ちゃんは……俺が好きなの?」

「うん。だーいすき♡」

「そっかぁ……」

 

 とまぁこの通りね、すぐに「好き」が来る。来るんだよ。

 この銀子ちゃんは俺に向かって「好き」と言葉にするのに一切の躊躇が無い。マジで無い。だからほんの少しでも油断しているとすぐに「好き」が飛んでくる。

 空銀子がこんなに明け透けな性格になっているなど誰が予期出来ようか。だって空銀子といえばとても意地っ張り、かつ恥ずかしがり屋さんなのがデフォルトの性格だったはずなのに。

 驚くべき内面の変化、まるで甘えモード時のスイッチが入りっぱなしになっているみたいだ。

 

「好き」

「うん」

「好き♡」

「うん」

「すーき♡」

「うん」

「好きぃ……♡」

 

 こんなんである。大体ずーっとこんなんである。

 可愛い。とても可愛い……が、これはちょっと世の中には出せない空銀子だ。

 なんなら外を歩かせるのすらも怖い。それ程に今の銀子ちゃんはキマっちゃってる。

 

「好き。すーき♡」

「あのさ、銀子ちゃん」

「なに? 好きだよ♡」

「あ、うん。好きは分かったから……」

「うん。好き」

「あの……」

「八一。好き♡」

 

 ……好きの圧が、スゴい。

 

「すーき♡」

「……うん。好き、だよ。俺も」

 

 根負けした俺が好きと返せば、銀子ちゃんは可愛らしく「えへへぇ♡」と頬を緩める。

 可愛い。とても可愛いがそれ以上にとんでもない銀子ちゃんだ。今の会話なんて全部の語尾に「好き」がくっ付いちゃってるし。

 

「やいちぃ……すーきぃ……♡」

「ん?」

 

 すると「好き」ばっかりになった銀子ちゃんは俺の右手をその両手で持ち上げて。

 

「えへ……すき、すきぃ……♡」

「お、おぉう……」

 

 この手の甲にすりすりと、愛おしそうに頬ずりなんかをしてくるではないか。

 これは……これが、これが今の空銀子なのだ。目を疑うような光景だが正真正銘の現実だ。

 俺が知っている以前の銀子ちゃんであれば勿論こんな事はしない。こうも簡単に「好き」などとは言ってくれないし、こんな愛玩動物のような愛らしい真似なんかも然りだ。

 これが長期療養の影響なのか。果たして入院中にこの子の身に何があったというのか。

 

「……あ、あのさ銀子ちゃん。好きはとりあえず置いといてさ」

「やだ。置いとかない。好き」

「あの……うん、分かった。分かったから。好きなのはもう十分に伝わったから」

「うん。好きだから、好きなの」

「そうだね。好きなんだね。銀子ちゃんは俺の事が好きなんだね」

「うん。だーいすき♡」

「そ、そっかぁ……」

 

 すげぇ。なんかもうすげーぐらいに脳内全てがピンク一色な銀子ちゃんだ。

 この子って俺としばらく会えない期間があるとこんな事になっちまうのか。衝撃の事実だ。

 子供の頃から一緒に居たけど、俺はまだまだ空銀子について知らない事ばっかりだったようだ。

 

「すきぃ、すきー…………あ」

「ん?」

「そういえばさ、やいち」

「うん」

「やいちのお家、なくなってたよ。昨日見てみたら全部更地になっちゃってたの。なんで?」

「あ、あぁ……そうだね」

 

 言われて思い出す。そういえばその件を伝え忘れていた。

 銀子ちゃんと音信不通になって以降、俺は諸事情により元々住んでいたアパートを追い出されるような形で引っ越しを行い、現在は西宮北口駅付近のタワーマンションに住んでいる。

 元々あのアパートは銀子ちゃんが選んでくれた物件でもあったので、引っ越す際には多少の逡巡もあったんだけど……まぁ、あれはしょうがない。だって新しい家主が怖すぎたから……。

 

「……てなわけで、引っ越しをしたんだ」

「引っ越し?」

「うん。思い切った買い物だったけど、色々な賞金とかでお金も結構貯まっていたからね」

 

 数ヶ月ぶりの再会、となれば銀子ちゃん側だけでなく他のあれこれにも変化はあるというもの。

 元々住んでいたあのアパートは老朽化が進んでいたので取り壊す予定だと聞いていた。具体的な時期は知らなかったけど銀子ちゃんが言うようにすでに更地となっているようだ。

 ちなみに今俺とこの子がいるのは銀子ちゃん所有のワンルームマンションの一室。俺の新居は色々と問題がアリアリなので、この子と会うならば必然的にここしかない。

 

「さすがにあのアパートはボロっちかったし、潮時が来たというかなんというか」

「んぅ? あのアパートはボロっちかったから潰れちゃったの? 地震?」

「いやそういう事じゃなくて。普通に工事をして普通に取り壊されたんだよ」

「工事? 八一が工事したの? すごいね」

「いや俺じゃなくて。あのアパートの家主が業者に取り壊し工事を依頼したんだ。分かった?」

「ううん。銀子難しいことよく分かんない」

「いや難しくないよ。難しくないでしょ……」

 

 あれ? この子もしかして入院生活中に知能指数を大幅に下げちゃったのか?

 直球で好意を伝えてくる点も含めて、なんだか幼児を相手にしている気分になってきたぞ。

 

「ねぇねぇ。八一の引っ越し先、行ってみたい」

「えっ」

「ん?」

「お、れの家に……来たいの?」

「うん。行ってみたいな」

 

 ふにゃりと笑顔で頷く銀子ちゃん。可愛い。あぁもう可愛い。

 し、しかしだ。俺の新居は……あそこはなんていうか……まぁ高級タワーマンションだけあって居住性とかそういうのは快適なんだけど……さ。

 しかし一つだけ大きなマイナスポイントが。諸事情あって恋人を自宅に招く事が出来ない。そこだけがあまりにも大きすぎる欠点なのである。

 

「俺の家は……ど、どうかな。まだ引っ越しの荷物とか片付いてないし……」

「そうなの?」

「う、うん。それに俺としてはさ、銀子ちゃんと会うならこの部屋の方がいいかなーって」

「そうなの?」

「そうそう。だってほら俺の新居にはなんの思い入れも無いけどさ。この部屋は前に銀子ちゃんと二人で研究会をしたり、あんな事やこんな事したり……色々な思い出がある特別な場所でしょ?」

「そっか。じゃあこっちでいいよ」

 

 そこには変わらず花咲くような笑顔が。あぁ、真実を言えないこの俺にその笑顔は眩しすぎる。

 とはいえ心境としては九死に一生を得た気分になっちゃっているのは否めないよね。銀子ちゃんは俺の引っ越し先にもっと関心を示すだろうと思っていたんだけど、意外にもアッサリと引いてくれて助かった。

 

「いつか……タイミングがね、色々なタイミングが合えば俺の新居も紹介出来ると思うから」

「うん、分かった。けどね、私は八一の新居でもこのマンションでもどっちでもいいの。別にどっちでも変わらないから」

「変わらない?」

「うん。八一がそばに居るならそれでいい」

「あ……」

 

 天使か。天使なのかこの子は。

 

「……銀子ちゃん」

「私は八一が居てくれるならどこでもいいの。場所なんて気にしないよ。…………ちゅっ」

「んっ、そっか、そう言ってくれると嬉しいよ。だったら……────え?」

 

 え?

 

「え?」

「なぁに? やっぱり八一の引っ越し先に行く? 別にそれでも構わないけど」

「いやあの、そうじゃなくて」

「ん?」

 

 どうしたの? と言わんばかりにきょとんとした表情を見せてくる銀子ちゃん。

 だがちょっと待ってくれ、今なんか……え?

 

「い、いやあの、銀子ちゃんさ」

「うん」

「さっき……ちゅっ、って音が聞こえたね?」

「うん。聞こえたね」

「でそのタイミングでさ。あの、なんかきみ……おれに……ちゅ……ちゅう、したよね?」

「うん。したけど」

 

 あっさりと白状する銀子ちゃん。どうやらしらばっくれるつもりなど欠片も無いらしい。

 というか……うん。そう、そうなのだ。なんと俺は今キスをした。銀子ちゃんとちゅうをした。

 

「ちゅう……したね」

「うん。したね」

「……された、ね」

 

 ほんの十秒前ぐらいか、会話途中でいきなり銀子ちゃんの顔が近付いてきて。

 そのまま軽く押し付けるようなささやかなキス。無論マウストゥマウスである。

 あのタイミングで、流れるような淀みない動作でその顔を寄せてきての口付け。あまりにも自然過ぎて、あまりにも流暢過ぎて俺は一瞬キスされた事にすら気付けなかった。

 

「え、まって、でもそんな、なんで急に?」

「なんでって……ちゅうぐらいするでしょ」

「そ、そうなの?」

「そうだよ。何がおかしいの?」

 

 こてりと首を傾げる銀子ちゃん。

 その顔には一点の曇りもない。純粋に俺の言葉を不思議がっているような顔だ。

 

「……おかしくは、ない?」

「うん」

「………………」

 

 いやしかし、それは……そう、なのか? 

 これはおかしな事ではない……のか? ちゅうぐらいは……するもんなのか?

 そう言われると確かに、そりゃ俺達は恋人同士なわけで。恋人同士がキスをするのは自然だ。となればさっきみたく会話途中に突然キスをしたって、別におかしくは……ない? のか? 

 

「ね?」

「そう……だ、ね?」

 

 釣られて頷きそうになるけど……あぁ駄目だ、俺には答えが分からない。

 このおかしな現実の中、何が正しくて何が間違っているのか。答えは何処にあるというのか。

 

「いやでもやっぱり待ってくれ。それでも銀子ちゃんの行動としてはおかしいと思うんだよ」

「そうかな?」

「うん。絶対そうだって」

 

 さっきも言ったけど、空銀子ってのは意地っ張りで恥ずかしがり屋さんな女の子なはずなんだ。

 そんな子があんなふうに自然とキスしてくるってのはやっぱりおかしいだろう。恋愛耐性がなくウブな銀子ちゃんにあんなプロみたいな犯行が出来るわけがない、そのはずなんだ。

 これまでを振り返っても、銀子ちゃんの方からあんなにも堂々かつ積極的にアクションを起こしてくるなんてのは経験がない──

 

「ちゅっ♡」

「んっ」

 

 っ、された。またキスされた。

 経験がない──とかどうとか。悠長にそんな事を考えている時点で俺は油断をしていたようだ。

 

「えへへ、またしちゃった♡」

「そう、だね。ははは……」

 

 触れ合ったばかりの唇を指先で軽くなぞって、ふにゃっとはにかむ銀子ちゃん。

 可愛い。えげつない程に可愛い……が。にしてもこの子は一体全体どうしちゃったってんだ。

 

「ぎ、銀子ちゃん。キスもいいんだけどさ」

「うん」

「でも……なんか、その前の「好き」の連発とかもそうなんだけどさ。なんか……なんかちょっと、変じゃないかな?」

「へん? そうかな?」

「うん。変っていうかなんだろ、なんか銀子ちゃんらしくないような気がしちゃって……」

「らしく……」

 

 すると銀子ちゃんは。

 俺とは異なる感覚でいたのか、不思議そうに小首を傾げて。

 

「なんで? 私が好きって言っちゃだめなの?」

「そうじゃないよ。そうじゃないんだけど……」

「私はやいちの事が好きだよ。それともやいちは私の事、好きじゃないの?」

「そんなわけない! 好きだよ、俺だって銀子ちゃんが大好きだ!」

 

 嘘偽りのない本音だ。相手を想う気持ちの量は俺だってこの子と変わらない。

 

「だよね。じゃあ何がだめなの?」

「駄目ってわけじゃないんだけど……ただ……」

「私とちゅうするの、いや?」

「ううん、それだっていやなわけがない」

「じゃあいいよね。ちゅっ♡」

「んむっ……」

 

 またキスが来た。速い、そして躊躇の無い電光石火の如き口付け。

 その速さこそは俺が知らない未知なる空銀子。だったら俺はその秘密を探る必要がある。

 

「んちゅ……」

「ん……あのさ、銀子ちゃん」

「うん?」

「やっぱり……なんかさ、ちょっとらしくないなって思うんだよね」

 

 空銀子らしさとは。もしかしたら本人が思うそれと俺が感じるそれは別なのかもしれないけど。

 それでも今の俺がそう感じているのは事実で。この唇に残る柔らかさの残滓が、そこにある変化についてはやっぱり気になる。

 

「正直に言うと、俺は……記憶にある銀子ちゃんと今の銀子ちゃんとの違いにビックリしてる」

「……そうなんだ」

「うん。ただ勘違いしないで欲しいんだけど、別に責めているわけじゃないんだ。好きって言ったり、キスしたりする事が駄目ってわけじゃなくて……」

 

 再会して以降の銀子ちゃん──その変化自体を拒否しているわけじゃない。

 こう言っちゃなんだけど、俺はどんな空銀子だって愛する自信があるから。だから別にこの子の性格や内面性が変化する事自体は構わない。そこにケチを付けるつもりなんてなくて。

 

「ただ……理由を知りたいなって」

 

 俺はその理由が知りたい、知っておきたい。

 俺達が一緒にいられなかった期間、長期療養中に銀子ちゃんの身に何があったのか。

 何をどう感じて、どんな影響があったのか。その理由をただ知っておきたいだけなんだ。

 

「……理由」

「うん。入院生活中に何かあったのかなーとか、そういう事がどうしても気になっちゃうんだよ」

「そっか。……うーん、理由……」

 

 どうやら本人にはあまり自覚が無いらしいその圧倒的な程の積極性、その理由とは。

 銀子ちゃんは自らに問い掛けるように呟いて。

 

「私は……」

「うん」

「今まで密かに隠していただけで、元からやいちの事が大好きだったんだけど」

「う、うん」

「ただ、強いて言うなら……」

「言うなら?」

「……あの本、が」

 

 あの本?

 

「やいちが書いた、あの棋書」

「あぁ、九頭龍ノート?」

「うん。それ」

 

 九頭龍ノート。──それは数ヶ月前、棋士・九頭竜八一として書き上げ世に出した棋書。

 そういえばあの本は供御飯さんを通じて療養中の銀子ちゃんの元へ届けられていたはずで──

 

「そっか。あの本、ちゃんと読んでくれたんだ」

「……うん。ちゃんと読んだよ。やいちが私の為に書いてくれた、あのコラムも」

「あ、あぁ……あれね」

 

 当の本人からそう言われて、顔がじんわりと熱くなるのを実感する。

 九頭龍ノートは棋書としての内容も然ることながら、それ以外の部分にも徹底的にこだわった。

 あの時は何処にいるのかも分からなかった銀子ちゃんに俺の想いを届ける為、棋書内に収録される短編コラムの中に銀子ちゃんへの想いやメッセージをこれでもかと詰め込んだ。

 

「前書きに書いてあった将棋のお化けって、あれ私の事だよね?」

「うん。さすがに直接空銀子って名前を出す訳にはいかなかったからさ」

「もうっ、お化けなんてひどい」

「いや違うんだよ。あれはなんていうか、あの当時の印象がそうだったってだけで……」

 

 今思い返しても、あのコラムにはかなりこっ恥ずかしい内容を書いたと思う。

 俺と銀子ちゃんの子供の頃の関係性とか、そういうのを知らない人にとってはよく分からない単なる一コラムだろうけど、知っている人には結構丸分かりな内容になっちゃってると思うし。

 

 処女作となる棋書にそんなこっ恥ずかしいコラムを載せて、それでも後悔はしていない。

 というよりも、当時は銀子ちゃんと会えなくて。この先もう一度会えるのかも分からなくて。

 そんな状況に置かれて、俺は後悔しないようにあの本を書き上げたつもりだった。

 

「でも……嬉しかったよ」

「……そっか」

「うん。とっても嬉しかった」

 

 ……良かった。俺の想いはちゃんと届いていた。

 本当に嬉しそうに微笑む銀子ちゃんを見るとこっちまで嬉しくなる。

 こう言って貰えると頑張って書いた甲斐がある。顔から火が出るような恥ずかしさを押してあのコラムを書き上げた甲斐があったというものだ。

 

「ほんとに嬉しかった」

「そっか」

「うん。嬉し過ぎたの」

「そっかそっか……ん?」

「で、好きになり過ぎた」

「………………」

 

 ……ええっと。 

 

「ごめん銀子ちゃん、今のところもう一回」

「嬉し過ぎて、好きになり過ぎた」

「………………」

 

 つまり……俺が書いたあの『九頭龍ノート』内のコラムが。

 そこにあったメッセージが、その想いが、療養中の銀子ちゃんにとっては嬉し過ぎて。

 それで……好きになり過ぎた、と。 

 

「あの、一応念の為に確認しておくけど……好きになり過ぎたって、なにを?」

「やいちを」

「……な、なるほど」

 

 真正面から堂々と、そんなセリフを言っちゃう所からしてもうヤバい。

 好きになり過ぎた、それが理由か。ここにいるのは好きになり過ぎた空銀子なのか。

 

「ねぇやいち、だめだよ?」

「え?」

「あんなコラムをね、入院中でただでさえ心が弱っている人に届けたりなんかしちゃだめだよ?」

「えっ、どうして?」

「だって嬉し過ぎるよ。あんなの入院中に読んだら嬉しすぎて下手したら心臓止まっちゃうよ?」

「いやそんな──」

「幸い私は死ななかったけど、反動で好きになり過ぎちゃったの。これやいちのせいだよね?」

「………………」

 

 ……どう反応すればいいのか分かんないっす。

 この「なり過ぎた」というフレーズにどこか不穏な印象を受けてしまうのは俺だけだろうか。

 

 ただまぁ……とにかく謎は解けた。要するに俺のせいだった。

 どうやら九頭竜ノートは俺が想像していた以上に銀子ちゃんの心に刺さっていたようだ。

 

「そっか。あの本のせい……ていうか、それぐらい喜んでくれたって事だよね」

「うん。嬉しかった、ほんとに嬉しかったよ」

 

 そういう事ならこの変化にも納得だし、理由さえ分かれば受け入れるのだって容易い。

 少しでも銀子ちゃんに届けばいいなと思って綴ったメッセージがちゃんと届いて、それが理由で俺に対する愛情が深まったというのなら……うん、これは別になんの問題もない、はず。

 

 ……だよね? これは良い事だよね?

 少なくとも変に思ったり、おかしく感じたりするような事態ではないはず……だよね?

 

「私がこうなったのはやいちのせい。だから……責任取って?」

「銀子ちゃん……うん、分かったよ」

 

 この状況で責任を取れなんて言われるとなんだか変な想像をしてしまうなぁ。 

 などと思いながら俺はおもむろに両腕を広げた。

 

「ほら、おいで」

「うにゃあ……やいちぃ……♡」

 

 すると一瞬で猫と化した銀子にゃんが甘え声と共に擦り寄ってきた。

 

「にゃあん……♡」

「おーよしよし、可愛いねー」

「ふにゃにゃあ……やいちぃ……すきすき……♡」

 

 猫だ。猫がいる。ほら見てくれよこれ、だって俺もう鼻血出そうだもんこんなの。

 こんなに可愛い生き物に進化した事、それが間違っているなんて事あるはずないじゃないか。

 うんうん、そのはずだ。これは絶対に良い事なはずだ。だって愛情が増したんだから。

 だからこれが今の銀子ちゃんだ。これこそが今の空銀子らしさって事なんだ。

 

 ──と、そんな感じで。

 半ば思考停止気味に この現実を受け入れようとする俺がいる一方で。

 それでも心の何処かでは。未だ待ったを掛け続ける声が聞こえていたのもまた事実で。

 

「やいち……やいちの腕の中、あったかい」

「そうかい?」

「うん。こうしているの、すっごく幸せ……」

「そっか。俺も幸せだよ」

「やいちも?」

「うん。銀子ちゃんが俺の腕の中にいる、これ以上の幸せなんてないよ」

「そっか。じゃあ……」

 

 銀子ちゃんは至って平然と、言う。

 

「一生こうしていようね」

「え」

「一生、こうしていようね」

「いや、あの──」

「ね」

「………………」

 

 一生とは。

 それは生まれてから死ぬまでの間。すなわち一人の人間の人生全ての事を指す。

 

「い、一生?」

「うん。一生」

「い、一生って……一生ってのはさすがに無理じゃないかな?」

「やだ。一生こうしてる」

「……でも、ほら、明日の予定とか」

「知らない」

「……ていうか、ずっとこのままの体勢でいるってお手洗いとかに──」

「気にしない」

「………………」

 

 俺──九頭竜八一と、空銀子は、この部屋で一生抱き合ったままでいる。

 一生とは決して泡沫の夢などではない。ここに一つの永遠の形があったのだ。

 

「やいち」

「え?」

「私、本気だから」

 

 本気なのかよ。そこは冗談だって言ってくれよ。

 

「一生こうしていようねー、やいちー♡」

「………………」

 

 一生こうしているつもりらしい銀子ちゃん。一方で俺は言うべき言葉が出てこない。

 さっきの『好き過ぎる』もそうだけど、この『一生』とか。この子の口から放たれる言葉の端々に仄かな狂気を感じてしまうのは俺だけだろうか。

 

「やいちぃ……一生好きだよ♡」

「そ、そっか。俺もだよ」

 

 だってさすがに『一生』は言葉の圧が強いよ。ちょっと強すぎるよ。

 そりゃ俺だって銀子ちゃんと一生添い遂げようって気持ちはある、あるけどさ。

 それでもこんな感じで「一生」とか言われると心臓がキュってなっちゃうよ。

 

 これは……やっぱり、異常事態なのか?

 薄々気付いていたけど、この空銀子は何かが致命的におかしくなってしまったのか?

 

「やいちぃ……嬉しいなー……」

「銀子ちゃん……」

「嬉しい嬉しい……やいち♡」

「ぎ、銀子ちゃん……っ」

 

 けれど……でもっ、だがッ!

 たとえ何かがおかしくても、今の空銀子が極めて愛おしい感じになっているのもまた事実で。

 だってほら、その証拠に──

 

「……大好きだよ、八一♡」

 

 そう言ってふにゃりと笑う銀子ちゃん。

 そこには相変わらずの極上の笑みが。

 

「か……っ!」

 

 ほぁああぁぁあ、可愛えぇ……!! 

 かわええよぉ。かわええよぉ。こんなんもう脳が溶けちまうよぉ。

 

 やっぱりこれは正義だ。この圧倒的可愛さの前では全てが正当化されるような気がする。

 ちょっとおかしな所は多々あれど、ちょっと狂気が見え隠れしているけど、それを補って余りあるぐらいに今の銀子ちゃんは可愛いんだよ。

 こんな可愛い生き物から「大好き♡」なんて言ってもらえるこの現実が。これをおかしいだなんて言ったらもうバチが当たっちゃうよ、マジで。

 ていうかそもそもの話さぁ、俺が好き過ぎる事のなにが悪いってんだい。そうだそうだ、なにもおかしい事なんてないじゃないか。

 

「……そうだな。こっちが正解な気がしてきた」

「こっち?」

「うん」

 

 今日も空銀子は可愛くて、世界は平和である。

 それで万事OKじゃないか。これ以上なにを望むというのか。

 

「ねぇやいち、こっち向いて」

「え? ……んむっ」

 

 とか思っていたらまたキスされた。本当に油断も隙もないなこの子。

 

「ちゅ……ちゅっ♡」

「ちょ、銀子ちゃ……」

「ちゅっ……ちゅぅ……ちゅ……♡」

 

 すると銀子ちゃんの両手が俺の頭の後ろに回されて、そのままガッチリホールド。

 そして啄むようなキスの繰り返し。一度の接触じゃもう満足出来ないと言うかのように。

 

「ちゅ、ちゅう……ちゅ♡」

「……っ、く……っ」

 

 抱き合っていた体勢が崩れてフローリングの床に倒れ込む。

 しかし銀子ちゃんはそんな事を気にもせず、夢中で……キスが、き、キスの雨が。

 

「ちゅっちゅ……ちゅうちゅう……♡」

「ぎ、んこちゃ……」

 

 銀子ちゃんの感覚が、伝わる。その柔らかさに全身が痺れて頭がとろけそうになる。

 こんなに情熱的なキス……頭がっ、頭の中が沸騰してきちゃうよぉ……っ!

 ──いやてかマジで理性飛ぶわこんなんっ!

 

「ぎ、銀子ちゃん、ちょ、ちょっとっ」

「ちゅ?」

「いやあの、ちゅ? じゃなくて……」

 

 ちゅうする事しか考えていませんけど? みたいな顔をする銀子ちゃん。

 今にも脳内が爆発しそうな俺と違って、好きが溢れる銀子ちゃんはけろっとしている。

 この精神力の強さはどうだ。なんて理性の強さなのか。あるいはそれとももうとっくに理性なんて頭の中から溶け出しているのか。

 

「ちゅ……」

「ま、待った。一旦待った」

「やだ。一生ちゅうする」

「い、一生ですか」

「うん。一生」

 

 俺の言葉に当然のように頷いて。

 

「わたしと一生ちゅうするの……いや?」

 

 口元を僅かに窄めて、潤んだ瞳でこてりと首を傾げる銀子ちゃん。

 可愛い。究極的に可愛い。この可愛さを前にノーと言えるような俺ではない。

 

「だよね。やなわけないよね」

「いやまだ何も言ってな……んくっ」

「ちゅ……ちゅ……♡」

 

 再びのキス。口付けの連打が止まらない。

 ヤバいヤバい、本当にこのちゅうの雨あられから抜け出せないかもしれない。

 それぐらい圧倒的な攻め手だ。一生という言葉だって受け入れたくなってしまう程に。

 

「ちゅっちゅっ……♡ すき、すき……♡」

「…………っっ!」

 

 そもそもね、空銀子ってのは顔が良い、顔が良いんだよ。

 全将棋界顔が良い女ランキング断トツ一位である事は確定的に明らか(俺調べ)なのに。

 その顔の良さを溢れんばかりの暴力性でバランスを取ってきたのが空銀子という女の子なのに。

 

「ちゅ、ちゅう……やいち、だいすき……♡」

「……ぎんこ、ちゃん……ッ!」

 

 それが今やどうだ。

 長期入院の影響なのか、本来その身に宿るべき暴力性はすっかりとかき消えて。

 今や俺の事が好き過ぎて、俺とのちゅうを求めるだけの究極恋愛脳女子へと変貌した。これが空銀子の進化した姿だというのか。

 

「ちゅ……ちゅ♡」

「……ッ、くっ!」

 

 これはマズい。これでは空銀子のバランスが取れないではないか。

 こんなにも顔が良くて、こんなにも可愛い銀子ちゃんはその凶暴性を失ってはいけないんだ。

 だってそうなったら……そうなったらもう勝ち目なんか無いじゃないか。

 

「ちゅうちゅう……♡ ……ちゅ♡」

「────ッッ!」

 

 こんな銀子ちゃんは駄目だ。空銀子の絶妙なる黄金比を崩しては駄目なんだ。

 これでは世界の均衡が崩れて、その流れで全次元宇宙が連鎖崩壊を起こしてしまうぞ。

 宇宙が……うちゅうが、ががが……ッ!!

 

「……ぎっ」

「ちゅ?」

「ぎ、ぎんこちゅわぁぁーん!!」

「ちゅ……っ!」

 

 選択──襲い掛かる。宇宙よりも先に崩壊したのは俺の理性だった。

 至極当然の帰結である。一体こんな怪物にどうやったら俺の理性が勝てるというのか。

 

「銀子ちゃんのばかぁ! もうしらないぞー!!」

「ふぁ、や、やいちぃ……!」

 

 銀子ちゃんの両手首を掴んで体勢を反転、上に乗られていた状況を入れ替える。

 そして襲い掛かる。何処にどう襲い掛かるかって? そんなん知らんわ、勝手に想像してくれ。

 

「このっ! このぉっ!!」

「ぁっ、ん……!」

「このぉっ! このぉっ! いけない子め!! いけない子めぇ!!」

「ぁ、ふぁ……んぅ……!」

 

 そうだ。これは銀子ちゃんがいけない。

 あんな熱っぽいキスの雨で俺を誑かすなんて、そんな事は絶対にやっちゃいけないんだ。

 だってこんな事になっちゃうから。だからこれは銀子ちゃんが悪いんだ、絶対そうだ。

 

「やぁ……やいちぃ、だめぇ……」

「まだそんな事を言うか!! 本当は駄目だなんてちっとも思っちゃいないくせにー!!」

「そんな、ちがうの、わたし……!」

「言い訳をするなー!!」

「ぁん……っ!」

 

 こんな色っぽい声を、こんな淫らな声を上げる銀子ちゃんを許してはいけない。

 この子には制裁を与える必要がある。だからこれは正義の行いなんだ。

 

「ふーっ! ふーっ!」

「あぁ……やいちにたべられちゃう……!」

「ふーっ、ふー、…………」

「……やいち?」

 

 ……てな感じで。

 猛る勢いに全てを任せてあんな事やこんな事をしたっていい。

 俺と銀子ちゃん、二人共に理性を捨て去ってしまう展開もありっちゃありなんだけど。

 

「………………」

 

 しかしここで激情の波がすーっと引いていく。

 テンション上げたり下げたり忙しい奴だなと思われるかもしれないが、事実俺はここで一旦冷静になった……もとい、理性は残っていた。

 というのも……大前提として俺は銀子ちゃんを傷付けたくないし、嫌われたくもないから。

 

「………………」

「やいち、どうしたの?」

「……いや、そのぉ……」

 

 要するに……これは冒頭でも言ったけど、今日は銀子ちゃんと再会して数日目なんだよ。

 この「数日」ってのがミソでさ。つまりは初日、その次の日、そのまた次の日あったわけで。

 白状してしまうとね、こんな感じで勢いに任せる展開はもうすでに何度も経験済みなんだよね。

 

「さすがにその……こうね? これ以上あんまりがっつくのもどうかと思いまして……」

「……別に気にしないよ?」

「っ、……」

 

 だってほら、この子こういう事言うんだもん。

 

「それに……なんか、病み上がりの銀子ちゃんに負担を掛け過ぎるのもいかがなものかと」

「……いまさら?」

 

 そりゃそっすね。こういう言葉は初日に言わないと意味ないっすよね。

 

「なんかさ。この数日は俺の方も……ちょっと焦っちゃったかなと思って」

「焦る?」

「うん。ようやく銀子ちゃんに会えたから……気が急くっていうか、歯止めが利かなくて」

 

 それはしょうがない事──だと思いたい。我が事ながら言い訳がましいとは思うけど。

 世界で一番愛しい人とずっと会えなかったんだ。それで銀子ちゃんがこうなるぐらいなんだし、そりゃ俺だってちょっとはおかしくもなろう。

 

「けど焦る必要なんかないんだよね。だってもう銀子ちゃんは帰ってきたんだから」

「……うん」

「だから……ここであんまりがっつくのもどうかなーっと思って。もっとこれまで通り……っていう言い方があってるかどうか分からないけど、とにかくもっと普通でいいんじゃないかなぁと」

「ふつう……」

 

 やっぱり再会直後はね。多少はハメを外しちゃってもしょうがないよ、うんしょうがない。

 でもこれからは違う。これからは以前みたく銀子ちゃんがここにいる事が当たり前な状況に戻るのだから、もっと耐性を付けるというか、銀子ちゃんが居る事に慣れていかないと。

 

「………………」

 

 となると、俺の事が好き過ぎるこのラブラブ銀子ちゃんにも慣れていく必要があるわけで。

 大丈夫かなぁ俺しっかり我慢出来るかなぁ家の中でならまだいいけど将棋会館とかで会った時にちゅっちゅ好き好きしちゃうのはさすがにヤバいよなぁどうすっかなぁ。

 

「………………」

 

 ……とか、思っていたら。

 

 

「……やっぱり?」

 

 ぽそりと、一言。

 

 

「え?」

「やっぱり……変、だった?」

 

 おずおずといった感じで尋ねる声。

 ふと見てみれば、そこにあるのは俺の顔色を恐る恐る伺うような視線。

 

「……あれ?」

「………………」

「まさか……」

 

 その沈黙の奥には先程までは無かったものが。

 好き過ぎる代わりに失ってしまったもの、とっても大事な理性の兆しがあって。

 

「まさか……銀子ちゃん?」

「……うん」

「これは……正真正銘の、銀子ちゃん?」

「……そうだけど」

 

 囁くように呟き、頷く。 

 その銀子ちゃんは……そう、銀子ちゃんだ。空銀子という名前の銀子ちゃんだ。

 なんだか哲学的な問答のようにも見えるけど全然そんな事はない。ただ単純に空銀子である。

 

「ていうかなによ正真正銘って。まるで人をパチ物みたいに」

「い、いやいや……」

 

 その声は至って普通。その口調も「好き♡」だけを連発していた先程までとは違う。

 これが空銀子のノーマル、特別有料DLCボイスは配信終了となったのか。という事は──

 

「え、じゃあもしかして正気にもどっ──ていうか、なんだろ、まともに──でもなくて」

「だからなによ、正気とかまともとか。さっきまでの私をなんだと思ってるわけ?」

「いやそれは……と、とにかくっ、普段通りの銀子ちゃんに戻った……んだよね?」

「……まぁ」

 

 銀子ちゃんは視線を明後日の方向に背けながら答える。

 そんな無愛想な反応も。これは何処からどう見ても以前のまま。

 ちゅっちゅ好き好きしたりはしない、俺がよく知る空銀子がそこにいた。

 

「……そっか、戻ったんだ」

「うん」

「というか元に戻る事が可能だったんだね。将棋の駒みたいに一度成ったらもう一度裏返る事は無いのかと思ってたよ」

「……うん」

 

 こうして、空銀子は完治した。

 いや完治ってのは駄目だな。ならえーっと、退化した……ってのも違うか?

 ……えー、まぁ要するに、空銀子は失いかけていた空銀子らしさを取り戻したのだ。

 

「え、でもなにキッカケで戻ったの?」

「なにキッカケってわけじゃなくて……なんかこう……段々と……」

「段々と?」

「うん。最初はすっごい本気だったんだけど……でもなんか八一が「私らしくない」とかって言った辺りから……そう言われると確かに私らしくないかもって気がしてきて……それで……」

「ははぁ、なるほど……」

 

 自分らしくない、そう他人から言われる事で今の自分のおかしさに気付いたという事か。

 それで段々と正気に戻って……もとい、平常な思考を取り戻したという事だろうか。最初はすっごい本気だったという点もちょっと引っ掛かるけどそこはもう触れないでおこう。

 

「…………え?」

 

 段々と、平常な思考を取り戻していった?

 

「待った。てことは途中からは半分ぐらい素であんなノリをやってたってこと?」

「……悪い?」

「い、いや別に悪くはないけどさ……ちなみに何処らへんからまともな思考に?」

「一生ちゅうするとか言ってた頃から」

 

 嘘だろマジかよ。それまともな思考のセリフだったのかよ。

 それが一番の衝撃だよ。果たして銀子ちゃんが言う「まとも」とは本当にまともな状態なのか。

 

「……い、いっしょう、ちゅうする、とか」

「え?」

「……うぅぅ、な、なんか、なんかぁ……」

 

 とか思っていたら。

 次第に銀子ちゃんは口元をわなわなさせながら弱々しく唸り始めて。

 

「なんか、今思い返すと……わたし、勢いでとんでもない事をしちゃったような……っ!」

「え、まさか今更恥ずかしくなってきたの?」

「そりゃ恥ずかしいに決まってるでしょっ! う゛うぅ~~……!」

 

 先程までの超好き好きラブラブモード。限界を越えた自分の姿を受け止めきれなかったのか。

 両手で顔を隠すように覆う銀子ちゃん。指の合間から覗ける色はもう真っ赤っかだ。

 

「あんなに好きとか、あんなにキスとか……っ!」

「本当にすごかったね、再会してからのここ数日」

「あぁぁあ~~うぅうぅう゛~~……!」

 

 麻酔が解けたように、今更湧き上がってきた羞恥に頭を抱えて悶絶する銀子ちゃん。

 可愛い。可愛いね。やっぱり照れたり恥ずかしがったりしている銀子ちゃんが一番可愛いね。

 

「ばか、ばかぁ……! わたしのばかぁ……!」 

 

 こんな可愛い銀子ちゃんも、今日の日の事も。やがては美しい思い出に変わっていく。

 こうして人の黒歴史というのは積み重なっていくんだね。

 

「うぅ……」

「まぁまぁ。別に俺は気にしないからさ」

「そういう問題じゃない……」

「それにいつもとは違ったとはいえ、すっごく可愛かったんだからいいじゃん」

「だからそういう問題じゃない……!」

 

 自らの過ちを振り返って、そのまま銀子ちゃんは深い後悔の谷底に沈んでいく──

 ──かと思いきや。

 

「……でも」

 

 ん?

 

「……でも、いい」

「いい?」

「……うん」

 

 すると銀子ちゃんは。

 相変わらず真っ赤な顔ながらも、それでも吹っ切れたように目を開いて。

 

「……さっきの。……嘘は言ってないから、いい」

「……おぉ」

 

 ……正直言って驚いた。だってまさかそんな言葉が返ってくるとは。

 たとえ嘘じゃなかったとしても、それを正直に白状するのはまた別の話だというのに。

 

「……本当に?」

「……うん。いいの」

 

 これは銀子ちゃんにとって抹消したい黒歴史になるかと思っていた。

 でも違った。どうやら正面から受け止めるだけの覚悟があったようだ。

 

「それに……これは言えなかった分だから」

「え?」

 

 言えなかった分って、それは──

 

「……うん。ずっと待たせちゃったから」

「っ、……」

 

 ──ずっと待たせちゃった。

 そう言われて、そんな事はないよと返してあげる事は出来なかった。

 待っていた。ずっと待っていた。心の底から待ち望んでいたのは紛れもない事実だったから。

 

「私の都合で待たせちゃったから……せめてその間の分ぐらいは返さなきゃと思って」

 

 言えなかった分、待たせていた分の愛情が積み重なっていた。

 だからあの空白期間に言うはずだった分の「好き」を沢山言ったし、その分のキスを沢山した。

 そう言って銀子ちゃんは潤んだ瞳を、それでも真っ直ぐな瞳を俺に向ける。

 

「だから……いい。いいの」

「……そっか」

「うん。恥ずかしいけど受け入れる」

「そっか。最初から銀子ちゃんはそのつもりだったんだね」

「……うん」

 

 離れ離れになっていた期間、失われた時間はもう戻ってはこないけど。

 ただそれでも。多少なりとも埋め合わせが出来たらとそんな思いだったのだろう。

 

「けど、そういう事なら──……いや?」

「八一?」

 

 いや待てよ。結論を急いではいけない。

 だって銀子ちゃんのさっきのあれが。あの「好き」の連打やキスの雨が。

 あれが離れ離れになっていた期間、その間に積み重なっていた愛情の分だと言うならば。

 

 ──それならば。

 

「足りない」

「え?」

「足りない、足りないよ銀子ちゃん」

「た、足りない?」

「うん。そういう事だってんなら足りない。まだまだこんなもんじゃ全然足りないよ」

 

 足りない。俺は至極大真面目な顔で言う。

 だってそうだろう。これが今日一日の分の愛情だってんなら供給過多もいいところだけど、そうじゃなくてこれまで会えなかった期間中に積み立てられていた「好き」だってんなら話は別だ。

 それだったら足りない。あの期間を埋める量はこんなんじゃない、まだまだ全然足りない。

 

「てなわけで銀子ちゃん、もっと」

「……あ、あのね。この数日間で私が何回あんたに好きだって言ったと思ってんの。少なく見積もっても多分百回以上は──」

「それでも足りないよ。本来なら銀子ちゃんは一日十回程は「好き」と言ってくれてたわけで、だったら一ヶ月で三百、ほら、一ヶ月分にも満たない」

「どんな計算よそれは! ていうか一日に十回も好きとか言うつもりは無いんだけど!?」

 

 案の定銀子ちゃんは必死に反論してくるけど……でも、前は言ってたよねぇ? 

 うん。言ってた言ってた。昔からそれぐらいの回数は平気で言ってた。俺ちゃんと覚えてる。

 

「とにかくさ。こんなんじゃ全然足りないから、もっとちょうだい」

「……ちょっとあんたね、がっつくのは止めたんじゃなかったの?」

「これはがっつくがっつかないの話じゃないよ。だってこれが今までの不足分ってんなら足りないと損しちゃうじゃん」

「そ、損って……!」

 

 大体ね、去年末からの蓄積分をこの数日だけで返済するなんてのが土台無理な話なわけで。

 本来なら得られていたはずの貴重な愛情を損したくはない。ここは大阪、商人の街。たとえ恋人相手だろうとビタ一文たりともまけるつもりはない。

 

「ていうか逆に聞くけどさぁ、銀子ちゃんはこれだけで足りたつもりなの?」

「な、そ、れは……っ!」

「ずっと会えなかった期間の分がぁ、それがたったこれっぽっちで足りちゃうんだ。へー」

「ぐっ……!」

「俺は全然足りないと思うんだけどなー。なんかちょっと温度差があるのかなー。うーん」

「ぐ、ぐぐっ、ぐ……」

 

 あぁ、なんかこうやって悔しげな銀子ちゃんを挑発するのも随分と久しぶりだなぁ。

 得てしてこういう真似をすると容赦無くグーパンが飛んできたりするんだけど、どうやら今回に限っては多少なりとも痛い所を突かれている自覚が銀子ちゃんにもあるようで。

 

「……ぐ、ぬ、にゅぬぅ……!」

 

 銀子ちゃんは恥ずかしさと屈辱が入り混じったような半眼で俺を睨み付けてくる。

 この睨みの視線も懐かしいね。この表情も俺にとっては子供の頃から見慣れた顔、ちゃんと黄金比の整った空銀子本来の表情だ。

 

「……ねぇ、八一」

「なに?」

「私……さ。もうこの通り……至って普通の状態に戻っているわよね?」

「そうだね。今はもう何処からどう見たってなんの変哲もない普段通りの銀子ちゃんだ」

 

 俺がそう言うと、なんの変哲もない普段通りの銀子ちゃんは大層恥ずかしそうに頷いた後。

 

「……こうして、一回まともに戻った後にね」

「うん」

「もう一度、あの……要するに、さっきみたくヤバいぐらいおかしな状態になって、それで好き好き言ったりするのってすっごい勇気がいるんだけど」

「だろうねぇ」

 

 さっきのあれはほんとに凄かった、なんせ自らヤバいぐらいおかしな状態と表現するぐらいだ。

 そりゃ正気に戻った今、そう安々とあそこまで感情のメーターを振り切れやしないだろう。

 

「それが分かっているのに……それなのにあんたは私にそんなむごい事を要求するわけ?」

「うん」

「即答すんな」

「だって一度は出来たじゃん。さっきのあれは偶然の産物なんかじゃない、きっと銀子ちゃんには理性を振り切って好き好き言うだけのラブラブモードになれる素質があるんだよ」

「そんな素質いらない」

 

 いらないだなんてそんな! それを捨てるなんてとんでもない!!

 

「ほらほら、早く愛をちょうだいよ」

「……ねぇ八一。この際だから言うけどあんただって結構恥ずかしい事言ってると思うわよ」

「ははぁ、何を仰りますやら。俺は将棋のお化けへの愛のメッセージを目一杯詰め込んだ棋書を日本中で何万部と売りに出した男だよ? これ以上に恥ずかしい事なんてあると思うかい?」

「くう……! 勝てるわけがない……!」

 

 はっはっは。直筆のラブレターみたいなもんがテレビやネットで紹介されたり、書店にずらっと陳列されているのを目にした気分と言ったらもうね。

 さすがに今は慣れたけど、発売当時はじわりと嫌な汗をかいてしまうのを抑えられなかったよ。

 

「知っての通り、俺はこんなにも恥ずかしい真似をやらかしたんだ。分かるでしょ?」

「……う」

「だったら銀子ちゃんもさぁ、ちょっとぐらいは身を切って欲しいなーって」

「……うぅ」

「どれだけ恥ずかしくても見るのは俺だけなんだから全然ましでしょ? ほらほら」

「うぅぅう゛~……!」

 

 袋小路まで追い込まれて可愛らしく唸る銀子ちゃん。

 順番で言うなら先に届けたのが俺なので、次は銀子ちゃんが返してくれる番。

 問題はその量がどれぐらいになるのかって事なんだけど──

 

「…………ふぅ」

 

 と、小さな吐息が。

 それは覚悟を決めた音か。はたまた心のスイッチを入れた音か。

 

 

「……や、」

 

 やがて──震える声で。

 

 

「──や、やいちぃ! 好きぃ!!」

「おぉっ!!

 

 愛の告白の同時、銀子ちゃんがやけっぱちになったかのようなノリで飛び込んできた。

 

「すき! すきぃ!!」

「ぎ、銀子ちゃん……!」

「やいちぃ! やいちぃ! すきすきー!」

 

 す、すげぇ……!! 

 自分からヤバいぐらいおかしな状態に変わった、ラブラブモードに入りやがった……!!

 

「す、すきぃ……好きだよ八一……ちゅ」

 

 そして愛情たっぷりなキス。……でも、これは先程のアレとは違うものだ。

 純粋にゾーンに入っていた先程とは違い、今はその演技をしているだけだと分かる。

 その証拠に目をぎゅっと閉じているし、窄めた唇がぷるぷると震えている。

 

「すきぃ……! 好きなのぉ、やいちぃ……!」

 

 睫毛の先だってぴくぴく震えているし、声も所々裏返ってるし、何よりも顔中がもう真っ赤だ。

 多分だけどめちゃくちゃ無理している。めちゃくちゃ無理しながら愛情表現をしている。

 しかし。誠に遺憾ながら……無理している銀子ちゃんもまためちゃ可愛いのである。

 

「銀子ちゃん……すごいよ、完全に一皮剥けたね」

「こんな剥け方嬉しくない……。でも、好きだよやいちぃ……♡ ちゅ、ちゅ♡」

 

 これは……これはきっと、以前までの銀子ちゃんには出来なかったと思う。

 俺達が離れ離れになっていた間、きっと銀子ちゃんには銀子ちゃんの戦いがあって。

 それに屈しなかったからこそ今がある、辛きを耐えたその心はいつしか限界を突破して。

 

「すきぃ……すきぃ……♡ ちゅぅ♡ ちゅ♡」

 

 そうして今──ほら、見てよ。

 すでに頭の中は冷静なのに、その上でおかしくなっている演技をしてまでキスをくれる。

 これはすごい。素直に脱帽だ。銀子ちゃんは本当に強くなって帰ってきたんだなぁと、そんな事を思わずにはいられない。

 

「ちゅう……ちゅう……ん……」

 

 するとキスの位置が。

 次第に口元から徐々に頬の方へ、そして首筋に。

 

「……ほんとに」

「え?」

 

 やがて俺の右肩辺りに顔を埋めて。

 耳元で囁くように。

 

「……本当に、本当に嬉しかったよ。八一」

「……うん」

 

 そんなの、俺だって。

 今この瞬間以上の幸福なんてないと、抱き締める腕の力を僅かに強めた。

 

 

 

 

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