銀子ちゃんを可愛い可愛い×5するだけの話(+短編集) 作:銀推し
※これは本編とは関係の無い短編ネタとなります。
空銀子聖誕祭(2022)記念短編。ですが内容は誕生日とは一切関係ありません。
原作16巻以降の話となります。なので普通に銀子がいて普通に八一と会話してたりしますが、二人の再会とかそういう部分はこの話の肝では無いので端折っています。そういう設定の話だと思って各自脳内で補完しながらお読み下さい。
※不要な注意だとは思いますが念の為、この話の中では鏡州さんも創多くんも何一つ悪いことはしていません。
「………………」
──沈黙。
顔を合わせて早々、初っ端からの沈黙である。
「………………」
そんな沈黙の主は。
輝く銀髪が今日もお美しいこの御方、誰あろう空銀子先生その人である。
「………………」
で、そんな銀子ちゃんが、だんまり。
お互いの都合がついた本日、いつも通りに逢引き用もとい研究用ワンルームマンションで落ち合って、ちょっと世間話を広げる間もなくこれである。
「………………」
沈黙もそうなんだけど、この見るからに「ぶっすー」っとした感じのお顔が、ね。
頬杖をついてそっぽを向いて、眉を顰めて口をへの字に曲げて。一見しただけで不満を抱えている事がありありと分かる顔。せっかくの可愛いお顔が台無しである。
「ぶっすー……」
「うわ」
言うた。言うたよこの子。自分でぶっすー言うたよ。
なんともあからさまな態度である。私今不機嫌なんですけど? アピールがすごい。
「分かった、分かったよ銀子ちゃん。きみの不機嫌さ加減はよーく分かった」
「ぶっすー……」
「分かったから。ぶっすーじゃなくてちゃんと喋ろうね」
分かったというか、分かってた。
ここに到着する前、今朝LINEで連絡を取っていた時からその文面ににじみ出ていたからね。
「でもさぁ、正直そんなに目くじら立てる程のものじゃなかったでしょ」
「そんなことない」
「そんなことあると思うけどなぁ、俺は」
「だったら怒ってない。もう見るからにあんたの下品な下心が見え見えだったから」
「それこそそんなことはないって……」
俺の抗弁にも耳を貸さず、随分とおかんむりな様子の銀子ちゃん──だけど。
とはいえ実際のところ、このぶっすーとした不機嫌フェイスの理由は大した話ではない。
「あれはもう浮気ね、浮気」
いやいや浮気だなんてそんな、事実無根の言いがかりにしてもヒドい。
あれは単なる仕事の一環、本当に大した話ではないのだから。
事の発端は昨日。俺はネット中継のある女流タイトル戦の大盤解説の仕事に出ていた。
でその時、解説の聞き手役として若い女流棋士の先生が一緒だったわけ。それは大盤解説の形式としてごく自然なことで、その人と一緒に解説を行ったわけさ。特に問題もなく恙なく。
しかしお仕事終了後、スマホを覗くと空銀子先生からの物言いが入っていた。やれ美人と一緒だったから普段より浮かれていた、だの。大盤や中継モニターじゃなくて隣で揺れる胸ばかり見ていた、だの。目付きがいやらしくて実に不快だっただの、なんだのと。
「冤罪だって、冤罪」
確かにご一緒させて貰った女流棋士の方は美人と呼ばれるに相応しい人だったと思う。
二十代中頃の落ち着いた雰囲気の女性で、その胸囲にも迫力があった。美人で優しい年上のお姉さんってとてもいいと思いますよね。
ただね、とはいえそれで俺が解説仕事中に浮かれていたかと言われたらそんな事は無い。胸ばっかりみていたというのも目付きがいやらしかったというのも、全て空銀子先生の一方的な主観に基づくいちゃもんに過ぎないのである。
「あんな不快なものをネット中継するなんて、見せられるこっちの身にもなって欲しいわね」
「いやいや……」
で、本人はこのぶっすーとした不機嫌顔。
要するにこれはジェラシー、あるいは焼きもちか。美人な女流棋士と仲睦まじく解説業をこなす恋人の姿を見て、銀子ちゃんの繊細な乙女心が嫉妬という名の癇癪を起こしちゃった。
その挙句の冤罪容疑である。全く困ったものだね、かわいいけど。かわいいけど。
「大丈夫だって。確かにああいう包容力がある感じの大人の女性は素晴らしいけど、それでも銀子ちゃんの可愛さには及ばないから」
「そっ、う、いう話をしてるんじゃないんだけど!?」
つまりはただそれだけの話であって、先程から言っているように大した話ではない。
それが証拠に、銀子ちゃんだってなにも本気で怒っているわけではない。この子が本気で怒っていたら「ぶっすー」とか言っている余裕なんてあるはずないからね。
こうして露骨に不機嫌アピールするぐらいの余裕はある。それでも完全に演技ではなくてちょっとぐらいはプンスカきている。それぐらいの絶妙な火加減で燃えている状態と言えよう。
「八一は昔っからああいうタイプの年上女に弱い。すぐ外見と雰囲気だけに騙されて鼻の下伸ばすんだから」
「騙されてなんかないって。けど……ちょっと桂香さんに似た雰囲気があるから、そういう意味では親しみを感じるところはあるのかも」
「……ふん」
つーん、とそっぽを向く銀子ちゃん。
この子と付き合い始めて以降、あるいはそれ以前からも、この子がこういうツンツンな態度になる事は往々にしてよくある為、今更対応に慌てたりはしない。
というか最近はもうなんかこれは誘い受けの為の建前というか、こうしておけば俺はご機嫌取りの為に銀子ちゃんを甘やかしちゃうわけで、俺からのアプローチを受けて仕方ないという体を取りつつイチャつく為の前フリとして怒っているのではないか? と思う事もしばしばである。
「本当はそういうことなんだよね、銀子ちゃん」
「なにが」
「俺はちゃんと分かってるよ、銀子ちゃん」
「だからなにが」
ね。そういうことなんだよ。可愛いやっちゃでほんまに。
「それでも浮気はないでしょ浮気は。いちゃもんで人に冤罪吹っ掛けちゃ駄目だって」
「いちゃもんじゃないから。あれはほぼ浮気、少なくとも未遂までは確実にいってた」
「またまたそんな……もしそれが本当だったらそんな光景をネット中継しちゃ駄目でしょ」
「だからそう言ってんの。あれが冤罪だなんて思っているのはあんただけ、視聴者としてあの中継を見ていないからそんな事が言えるのよ」
とかなんとか言っちゃってるけど、それでもこれは前フリだからね。
しゃーないなぁ、不機嫌アピールしている銀子ちゃんを可愛がってあげるとするかよしよし。
……とか、普段ならそんなノリでイチャつき始めたりするんだけど。
「……うーん」
ふと俺には気になることがあった。
「浮気……浮気、か」
「うん?」
『浮気』──俺と銀子ちゃんみたいなラブラブカップルには耳馴染みの悪い言葉である。
しかし、だからこそ無視出来ない言葉とも言える。今回の件だってそう、昨日の大盤解説での俺の立ち振る舞いが浮気に該当するのか。その判決は一旦置いておくとしても。
俺が引っ掛かったのは、それが『俺だけがそう思っている事』という場合について。
「なんか……改めて考えてみるとさ、全部が他人事ってわけでもないのかなって」
「そりゃ他人事なんかじゃないけど」
「いやそういう事じゃなくて……昨日の大盤解説に限らないけどさ、ある出来事について、それが浮気になるのか否かってのは人それぞれ判断基準が異なるものだから──」
恋人間において、その判断基準が双方異なるというのは良くある話だと聞く。
例えば──恋人がいるのに異性と二人で食事をしたら浮気、とか。または食事はセーフだけど手を繋いだら浮気、あるいはキスをしたら浮気、とか。はたまた実際には会わずとも頻繁に連絡を取り合っているだけでも浮気、とか。
どこを浮気のボーダーラインとして線引きするか。その認識は個々人によって異なるものだろう。
「それはまぁそうでしょうね」
「でそういう認識の違いってさ、往々にして破局の原因になるとかって聞くよね」
自分はセーフだと思っていた。しかし相手はそう思ってはいなかった。それが問題だ。
まぁ揉めるよね。そりゃ揉める。そしてその場だけの口論で終わらず喧嘩に発展し、やがて二人の関係は修復不可能なものとなり破局に至る……というのは恋人関係の終わり方として定番とも言える詰み筋である。
「……確かに、なんか聞いたことはあるわね」
「でしょ?」
「うん。……破局、破局」
「そう。破局」
「……はきょく」
破局。実に嫌な響きで聞こえるフレーズ、呟く銀子ちゃんの表情も硬い。
俺だって破局はいやだ。大好きな銀子ちゃんと別れたくなんてない。絶対に。
「そんなふうに考えてみると、今回の一件も他人事じゃないなって思えてきちゃってさ」
「うん……」
「まぁ今回の浮気冤罪は認識の違い云々とかはなーんも関係なくて、ほぼ間違いなく俺の読み通りで銀子ちゃん流誘い受け前フリの一手だろうから別に心配はしてないんだけど」
「うん……」
「でもそういう油断や慢心こそが危険だって、そんな気もするんだよね」
昨日の大盤解説は恙なく終了した。というのは俺の認識違いであって、中継を見ていた銀子ちゃんからは本当に俺が浮気をしていたかのように、十分以上の好意を抱いて相手の女性と接していたように見えていたかもしれない。
だから先程の不機嫌顔が単なるアピールだっていうのも俺の認識違いで、銀子ちゃんは本当にご立腹で、このことがやがて破局の理由になる可能性だってゼロではない。
……というのが、この話の恐ろしいところだ。とはいえ銀子ちゃんは先程の会話でサラッと冤罪であることを自白していたりするんだけど、それには見て見ぬふりをしてあげるのが優しさというものだ。
「……にしても、八一」
「なに?」
「あんたって、よくそういうこと考える気分になれるわね。私、ここで破局どうこうとか想像するだけで嫌なんだけど」
「そりゃ俺だって気乗りする話だとは微塵も思わないけどさ。それでも考えることには意味がある、だってそうすれば対策が打てるでしょ?」
「対策?」
そう、対策だ。破局へと通じかねない詰み筋を回避する為には事前の対策が必須と言えよう。
今回の話は「恋人間における浮気に対する認識の違い」が問題になっている。問題が明確であるならば対策を取ることだって可能だ。
「要するにさ、自分のことだけじゃなくて相手の認識を知っておけばいいわけで」
大前提として、銀子ちゃんとお付き合いをしている俺は浮気をするつもりなんて一切無い。
ただ俺は浮気だと思っていないのに、銀子ちゃんにとっては浮気だと感じるような行い。それが例えば昨日の大盤解説での冤罪、ひいては破局へと通じる詰み筋を誘うわけで。
であればそこを事前に共有しておけばいい。認識を一致させておけばいいんだ。
「俺と銀子ちゃん、お互いが納得する浮気のボーダーラインを予め決めちゃえばいいんだ」
「……ボーダーライン、ねぇ」
「そうすればほら、知らない内にそこを踏み越えていたー、なんてことは無くなるじゃん?」
「………………」
何事も大事なのは事前研究。事前研究を具に行う事で頓死を回避する事が出来るのだ。
俺がそんな提案すると、銀子ちゃんはどこか胡散臭いものを見るような目付きに変わった。
「……なんかそれ、すっごい悪用されそう」
「え?」
「何処までがセーフ扱いになるのか知っておきたいからー、って言ってるように聞こえる」
「そ、そんなまさか! それこそ冤罪だって!」
そんな事は無い! 神に誓ってもそんな事は無いから!
これは破局を防ぐ為の対策、悪用なんて以ての外だ。有罪判決を下されないギリギリを攻める為に提案しているわけじゃないから! 本当に!
「……ほんとに?」
「本当! ほんとほんと!」
「ふぅん……」
銀子ちゃんは暫く疑いの目を向けていたが、やがて「でも、そうね」と頷いて。
「確かに、そこをハッキリさせておくってのは大事なことかもね」
「でしょ?」
「うん。私という存在がありながら一向に節操を欠いたままな八一の躾にも使えそうだし」
躾って。それ恋人相手に使う言葉じゃないよね?
「じゃあ八一、あんたが思う浮気のラインってどのぐらいなの?」
「俺の認識は至って普通で一般的だと思うよ。それよりも銀子ちゃんの考えを聞かせてよ」
「私?」
多分だけど、俺よりも銀子ちゃんの方が一般的基準からは大きく外れていそうだしね。
その上で尚、俺はそんな銀子ちゃんの事が大好きだから。銀子ちゃんを怒らせたくないし悲しませたくないと思う、だから知っておく必要がある。
「……ふむ」
顎に軽く手を当てて考え込む銀子ちゃん。
人よりもちょっと嫉妬深さが強めなこの子が考える浮気のボーダーラインとは、果たして。
「じゃあ……女と喋ったら浮気で」
「言うと思ったよ、それ」
読めた。今の一手は読めていたね。
「じゃあ女と対局したら浮気で」
「それもう仕事もなにも出来なくなるじゃん……」
棋士から対局を封じるなんて、りゅうおうのおしごとも何もあったもんじゃない。
「だって、今のあんたが浮気しそうな相手なんてほぼ間違いなく将棋関係者だろうし」
「そ、そりゃそうかもしれないけど……銀子ちゃん、ここは一つ真面目に、ね?」
「私は真面目だけど」
まぁ、とはいえね。さすがの銀子ちゃんだってこれを本気で言っている訳ではないからね。
子供の頃からもう長い付き合いだからね、それぐらいのことは俺にだって分かるんだよ。
「私は本気で言ってるけど」
そうは言っても空銀子。ちゃんと常識的な一面だって持ち合わせている子ですからね。
だってそんな、喋ったり対局するだけで浮気扱いだなんて、さすがにそんな事言わないっしょ。
「本気だってば」
「………………」
……まぁ、とにかく。
「銀子ちゃん、一旦冷静になろうか」
「私は冷静だけど」
うん。本当に冷静かつ平然とした顔で言ってるから銀子ちゃんってスゴいなぁと思う。
「オーケーオーケー。分かったよ。なら考え方を変えてみようか」
「考え方?」
「いいかい? こういう時にはね、相手の立場に立って考えてみる必要があるんだ」
俺がそう言うと、銀子ちゃんは虚を突かれたような表情に変わった。
「……相手の立場?」
「要するに……する側ってこと」
そう、これは浮気のボーダーラインの話。であればここで言う浮気とは、なにも男である俺だけにその可能性があるものではない。
正直これは破局以上に想像したくもない話なんだけど、あくまで仮定に仮定を重ねた話だと念入りに前置きをした場合、銀子ちゃん側にだってその可能性はあるわけで。
「私は浮気なんてしないわよ。あんたじゃあるまいし」
「それは分かってるよ。でもさ、じゃあここでもし俺が銀子ちゃんに対して『男と会話したら浮気だから』なんて言い出したら、どうする?」
「む」
「『男と対局したらそれ浮気だから』なんて言われたらどうする? 困るよね?」
「むぅ……」
さすがに反撃の一手を思いつかないのか銀子ちゃんがむっと押し黙る。
まぁそりゃそうだ。会話や対局だけで浮気扱いはちょっと無理筋が過ぎるというもの。
というか実際問題これまでの人生やこの先の人生を考えても、異性と対局する機会は俺よりも銀子ちゃんの方が圧倒的に多くなるはずだからね。それを禁止出来るはずがない。
「というわけで。異性と対局したらそれ浮気だから理論は成立しないんだよ。分かったかな?」
「分かってるけど。ていうかね、そんなことを私が本気で言うはずがないでしょ」
またまたー。
「恋人ってのは対等な関係だからね。厳しいボーダーラインでもお互いに適用される、俺だけじゃなくて銀子ちゃんも道連れなんだよ」
「私はあんたと違って節操ある常識人だから浮気なんてしないし、ボーダーラインなんかあっても無くても同じなんだけど……まぁいいわ。さすがに対局を封じたら棋士として生きていけないしね」
そう言って一旦は納得の姿勢を見せた銀子ちゃんだったが。
「──でも」
と、その灰色の瞳が妖しく輝いた。
「八一。あんた今、墓穴を掘ったわよね」
「え?」
「気付いていないの? はっきり言って頓死級よ」
墓穴? 頓死? はて、そんなつもりは無いんだけど。
俺が首を傾げる一方、銀子ちゃんは完全に詰み筋を読み切った時の顔をしていて。
「あんた今、相手の立場に立って考えるべきだーって言ったわよね」
「そりゃ言ったけど」
「だったら。あんたも私も立場に立って物事を考える必要がある、っていう事よね?」
「そりゃまぁ、そうだね」
一体それの何処が墓穴なのか、何ら疑問を抱く事も無く俺は頷いた。
さっきも言ったけど、恋人関係っていうのは対等であるのが自然な形だろうからね。片方だけが我慢を強いられたり過度な負担を負うような関係は健全とは言えないだろう。
銀子ちゃんが俺の立場に立って浮気の成否を考えるケースがあるように、時として俺も銀子ちゃんの立場に立って物事を考えてみる必要があるだろう。
「それじゃあ八一、ちょっと私の立場になって考えてみて」
「うん。いいけど」
銀子ちゃんの置かれた立場。言われた通りに想像してみよう。
前提としては史上初の女性プロ棋士で、九頭竜八一という恋人がいる、ってところか。
「まずはそうね、今回の件で言うなら……じゃあ例えば胸、」
「胸?」
「じゃなくて、えっと……胸筋? の大きさ……でもないか。とにかく、八一よりも年上の男がいたとして」
「うん」
「で、その人は八一よりも顔がイケメンで、八一よりも高収入……ではないかもしれないけど、高身長で、高学歴で……あ、そうだ、鏡州さんなんてちょうどいいかも」
「ふむふむ、鏡州さんね」
鏡州飛馬。奨励会を退会するまで俺も銀子ちゃんも共通でよくお世話になっていた人だ。
具体的な名前が挙がると顔見知りな分想像はしやすくなる。俺よりも~云々のところが少々引っ掛かると言えば引っ掛かるが今は聞き流しておこう。
「で、ある時あんたは将棋のネット中継を見ようと思ったわけ」
「ふむふむ、それで?」
「するとそこで、私と鏡洲さんが一緒になって大盤解説をしていたわけ」
「あぁなるほど、言いたいことが分かったよ。それでその大盤解説中に銀子ちゃんと鏡洲さんが楽しげに会話していたり、なんかイイ感じの雰囲気になったりしっちゃってたわけだ」
「そうそう、そういうこと」
わが意を得たりとばかりに頷く銀子ちゃん。
要するに、冒頭の件での女流棋士さんの立ち位置を鏡洲さんに置き換えたわけだ。
「そんな光景を見せられて、あんたはどう思う?」
「なるほど、それが銀子ちゃんの立場ってわけだね……ふぅむ」
銀子ちゃんと。あの鏡洲さんが。
二人でイイ感じな雰囲気で、大盤解説をしていて?
「………………」
……それで?
「──いやいや、別にどうってことないでしょ」
「……ほんとに?」
「勿論。そんなことで俺がイライラしたり怒ったりするわけないじゃんか」
俺はハッキリと否定してやったね。ぶっちゃけ悩むような問題ですら無かったよ。
だって大盤解説で? 鏡洲さんと一緒にいる銀子ちゃんの視線や態度が気になっちゃって? それで俺が銀子ちゃんみたく「ぶっすー」な気分になっちゃうって?
ないないそんなの、あり得ないって。俺はそんな狭量な性格じゃないからね。そんなことで浮気を疑ったりなんてしないでしょ。それどころか二人が一緒に仕事をしていたら昔からの関係を思い出して微笑ましい気分になるとすら思うね。
「単なる仕事の一環だよね。銀子ちゃんの立場になってみたら猶更その考えが強まったよ」
「……ふーん」
それは意に反する回答だったのか、あるいはそれとも想定通りだったのか。
銀子ちゃんは然程気に留めた様子もなく「そう」と軽く流して。
「まぁいいわ、本番はこれからだから。じゃあ次、私が本を書くことになったとします」
「え、本?」
「そうよ、本。出版社に依頼されて空銀子名義で将棋の本を出すことになったとします」
「ふむ……」
これは先程の例から考えると、以前に俺が書いた『九頭竜ノート』との対比だろうか。
自分で言うのも悲しいけど、世間一般での空銀子人気を考えれば俺が書いた本よりもこの子が書いた本の方が圧倒的に売れそうだ。そう考えればこれも全然あり得る話ではあるね。
「本を書く時ってさ、なんか編集者みたいなのが付くのよね?」
「まぁそうだね。出版社に依頼されて書くんだったら編集の人は付くだろうね」
「で、その時私に付いた編集者は年上の男性で、これまた胸、はどうでもいいんだけど、私にとって昔からの顔馴染みで、性格は最悪なんだけど顔はまぁまぁイケメンで……うん、これも鏡州さんをイメージすればいいかも。性格以外は」
「ふむふむ……」
編集者で、昔からの顔馴染みで胸が大きい人と言えば心当たりは一人しかいない。
もしかしなくてもこれは供御飯さんの事だろう。確かに要素を抜き出すと鏡州さんに重なる部分はある。俺を銀子ちゃんに、供御飯さんを鏡州さんに置き換えての対比という訳だ。
「私は頑張って執筆をしていたんだけど、本を書くなんて初めての事だし中々筆が進まなくって」
「うん」
「それで無理やり原稿を書き上げる為、執筆に集中出来る場所に隔離しようって話になって」
「うんうん」
「いわゆるカンヅメね。場所は……そうね、京都とか。天橋立なんかいいかもね」
「…………うん?」
あれ、なんか背筋が、背筋が寒い。すぅっと冷たい感触が走ったような気がするぞ?
原稿執筆に集中する為にカンヅメ。移動先は京都の天橋立にある老舗旅館、とか。
その流れは完全に身に覚えがある、あり過ぎるぞ。し、しかし……それは。
「ちょ、ちょっと待った」
「なに?」
「いや、あの……ですね、その、それ……どうして、銀子ちゃんが知ってるの?」
おかしい。あの一件は銀子ちゃんに話していないはずなのに。何故知っているのか。
誰から聞いた? 何処から情報が流出した? 供御飯さんや出版社関係の方からか、それともあの時はカンヅメになって暫く家に帰らない事を天衣には連絡していたから、そっち方面から漏れた可能性も……。
……などと脳内混乱する俺の一方、銀子ちゃんはさも思わせぶりに「ふっ」と笑って。
「さぁ、どうしてかしら。風の噂で聞いたのかもね」
「え、ちょっと本当に誰から聞いたの? 供御飯さん? それとも天衣? それとも──」
「いいこと八一。私に隠しごとなんて出来ると思わない方がいいわよ」
怖い。ただただ怖い。
知られていた事実も、その上で今まで泳がされていたという事実も、全てが怖すぎる。
「天橋立、いいわよね。私も一度行ってみたいな」
「……あ、あのさ、これは……違うんだよ、銀子ちゃん」
「なにが?」
「これは別に、隠していたわけじゃなくてね? ただ単に話す機会が無かっただけというか」
「わざわざ私に話す程の事じゃない、その程度の取るに足らないような出来事だった?」
「そうそう、そういう事そういう事」
あぁヤバい駄目だー、この逃げ方は絶対に悪手になってしまうよー。
そうと分かっているのに自ら袋小路へと進んでしまう愚かな俺。なんか完全に銀子ちゃんの狙い通りの展開に誘導されている気分になってきた。
「そっか。じゃあさっきの話の続きだけど、執筆原稿を書き上げるまで私は天橋立にある旅館の一室でカンヅメになる事になったとして」
「……うん」
「その際は編集の人も一緒に行く事になって、カンヅメ中はあろう事か同じ部屋で寝泊まりする事になったとしても、それも取るに足らないような出来事かしらね」
「……ぐっ」
なんか自然と喉の奥が苦しく鳴った。
あぁほらやっぱり。絶対にこうやって切り返されるのがもう目に見えていたじゃん。だからこれは内緒にしておかなければならない話だったのに。
えだって俺の銀子ちゃんが? 天橋立の旅館にカンヅメ? それで何処ぞの誰とも知れない編集者の男(鏡州さん似)と? 同じ部屋で寝泊まりするって?
いや普通に考えて駄目でしょ絶対。俺というものがありながら何を言っているんだ。もし現実でそんな事が起きたら刀傷沙汰になってもおかしくないぞマジで。
……というのが、率直かつ正直な気持ちなのだが。
それをそのまま答えてしまっては更なる悪手になるであろう事は言うまでもない。
「どうなの、八一?」
「……それは、仕事で、締切までに本を書き上げるという目的の為、仕方無くなんだよね?」
「まぁ、そうね」
「それなら……ぎ、ギリ、で?」
「ギリで?」
あんた本当にそう思ってんの? と言わんばかりに語気を強めてくる銀子ちゃん。
うんゴメン、本当はそう思ってない。ギリセーフどころか余裕でアウトだと思っています。
「これは想像だけどね、ただ黙々と執筆作業を行うだけじゃ済まないと思うわよ」
「そ、そんな事はないさ。だって締切間近でヤバくてカンヅメだったんだからそりゃもう必死に執筆作業をしてた、じゃなくて、するはずでしょ。それ以外の事をするヒマなんて無いよ」
「そりゃ原稿を書き上げるまではそうでしょうけど、完成後はどうかしらね。気分も上がってその場で打ち上げなんかしちゃうんじゃないかしら。それで相手の編集者はお酒も飲んだりしちゃうんじゃないかしら。それで──」
それで──その先で何が起きたか。銀子ちゃんに言われるまでも無く覚えている。
あの日、女流名跡リーグ最終戦に敗れた供御飯さんと残念会を兼ねた打ち上げをした。敗戦直後という事もあったり結構な量のお酒が入っていたりと、とにかく平常時とは異なる条件が色々と重なっていて。
それで……突然に供御飯さんが衣服を脱ぎだして。それで……告白を、された。供御飯さんが胸の内に秘めていた気持ちを知る事になった。
とすると。あの出来事の立場を入れ替えて、あれが銀子ちゃんの身に起きたと仮定すると──
「──いやでもまってまって! やっぱりこの『相手の立場に立って考えてみよう』理論も破綻してないかな!? だってだってっ、これ男側と女側で色々条件が変わってくることあるでしょ!?」
脳内に浮かんだ想像を一瞬でシャットアウトした自分を褒めてやりたいよ! マジで!!
だってこれさぁ! これは駄目じゃん! だって男の俺が裸の供御飯さんに後ろから抱き付かれて告白されるのは問題ない、というか問題は起きなかったけどさ!!
これ性別逆にしたらもうその時点で問題大有りでしょ!? 告白とかその結果どうこうとかなんも関係ないじゃん!! 前提条件が大きく違ってくるじゃん!!
「何を今更。相手の立場に立って物事を考えましょうって言ったのはあんたじゃないの」
「いやそうなんだけど……! そりゃ俺が言ったんだけど……!」
なるほど、頓死だ。言われてみればものすごい墓穴発言だったかもしれない。これは。
要するに俺の今までの行いを俺じゃなくて銀子ちゃんが行っていた場合、それで俺はどう感じるか、ということを突き付けられているのだ。
「いやでも……これは駄目だって。もし銀子ちゃんがそんなことになったら……死ぬ」
「死ぬってあんたが?」
「いや、その鏡州さん似の編集者が」
俺は心底大真面目に答えた。
でもそれしかないよね? 鏡州さんに恨みは一切無いけどこればっかりは仕方が無いでしょ。
仕事を建前にして銀子ちゃんと一緒に旅行するだけでも完全アウトなのに、傷心やお酒の勢いを理由にして不埒な真似に及ぼうとする下種な存在を生かしておく事は出来ない。
その時は俺も覚悟を決める。たとえ刺し違えてでも息の根を止めなければなるまいて。
「八一、あんたって随分と物騒な事を言うのね」
「うん。だって……やだし」
「……嫌なんだ?」
「……うん」
「ふぅーん……」
あぁああ、含みをたっぷりと感じさせるような銀子ちゃんの視線が痛いよ。
いや分かってるんだよ。これが立場を入れ替えただけで実際にあった話だってのは。
「ホント反省してますからもう勘弁して下さい……俺を前科者にしたくないでしょ?」
「それはまぁ、そうだけど」
「それにさ、この話で互いの立場を入れ替えたらそもそも成立しないと思うんだよね。いくら執筆の為とはいえ高校生の銀子ちゃんを相手に旅行で同じ部屋に寝泊まりなんて提案してくる編集者はいないでしょ。色々な法律や条例に引っ掛かっちゃうって」
「それもまぁ、そうね。ていうか私ならそんな話は最初から承諾しないし」
そりゃまぁそうなんだよね。じゃなんで俺は承諾したのかって話になるんだけどさ。
一つだけ言い訳させて貰うと、あの時は銀子ちゃんが所在不明で一切連絡が取れない状態だったからね。加えてあの本を書き上げる事が銀子ちゃんへのメッセージを綴る事とイコールでもあったから、そういう事情が色々嚙み合って……ね?
あれが普通に銀子ちゃんがそばにいる状態であったなら、執筆の為とはいえさすがに無断で女性と旅行に行ったりはしない、説明と同意の為に予め連絡を入れるぐらいはしていた。……はず。
「どう? 自分がどれだけ罪深い存在なのか、ちょっとは理解出来たかしら?」
「はい。理解しました。山よりも高く海よりも深く理解しました。本当に」
「ん、よろしい」
銀子ちゃんは満足そうに頷いて。
「それじゃあ次」
「え、これまだあるの!?」
「うん。次が一番肝心な話だから」
一番肝心な話って。なんかもうこの時点で聞くのが怖いんですけど。
「ある日、私に弟子が出来たとします」
「え、弟子? って、将棋の弟子だよね?」
「そう、将棋の弟子。私が将棋の弟子を取って師匠になったと想像してみて」
「はぁ……」
言われるがままに想像してみる。銀子ちゃんが将棋の師匠になった姿。
将棋の師匠となれる条件は四段以上、つまりプロ棋士である事。であれば銀子ちゃんもプロ棋士である以上、弟子を取る事は確かに可能だ。
今まで考えた事も無かったけど、こうして言われてみるとその可能性は十分にあり得る。
「その弟子は小学校高学年ぐらいの男の子で」
「うん」
「将棋の才能溢れる将来有望な子で。例えばそうね……椚創多みたいな」
「ふむふむ、創多ね」
椚創多。すでにプロ棋士ではあるが、現在小学六年生の男子という点では当てはまる。
すでに分かり切っている事だけど、先の鏡州さんの例からしてこれはあいや天衣の立ち位置を創多に置き換えたのだろう。時系列的に考えて銀子ちゃんが創多の師匠になる事はあり得ないが、たとえ話で想像する事なら可能だ。
「ここからが肝心なんだけど、その弟子はね、ただの弟子じゃなくて私の内弟子になるの」
「内弟子、ですか」
「そう、内弟子」
内弟子とは。師匠と同居をして、寝食を共にしながら修行をする弟子の事を言う。
何を隠そう俺や銀子ちゃんも元々は師匠清滝鋼介の内弟子だった。そしてあいも俺の内弟子であった以上、今回の対比ではその創多似の弟子が師匠空銀子の内弟子になるのが当然と言える。
……って、え? 内弟子?
「え、ちょっと待って。それって銀子ちゃんと同居して一緒に生活するってこと?」
「そうね、内弟子なんだから当然そうなるわね」
「…………え?」
銀子ちゃんと? 同居? 寝食を共にする?
え、誰が? 弟子が? 小学校高学年の男子が? 創多が?
「いやいや、それは駄目でしょ」
いっそ驚く程にすんなりとその結論が出た。
これに関しては悩むまでも無い、自明の理というやつだろう。
「八一、あんたね──」
「違うんだ銀子ちゃん、聞いてくれ。これは君の為を思っての事なんだよ」
「よくもまぁ抜け抜けとそんな事が言えるわね。大体これはあんたの立場と同じ──」
「俺は銀子ちゃんの身を案じているんだ、何かあってからじゃ遅いんだから!」
俺は銀子ちゃんの言葉を遮る勢いで声を荒げた。
だって同居なんて。寝食を共にするなんて。そんなの駄目に決まってる。それをお前が言えた立場か、と返されそうだがこれも先程の例と同じである。
つまり高校生(年代)の俺が小学生女子を内弟子にして一緒に暮らす分には何も問題無い。というか何も問題は起きなかったよね?
でもさでもさ、高校生女子の銀子ちゃんが小学生の男子を内弟子にして一緒に暮らすってのはとっても問題があると思うんだよ。
「百歩譲って小学校低学年とか幼稚園児とかならギリ納得も出来たけど、高学年は駄目だって。創多なんて今年六年生じゃん、そんなの絶対に駄目でしょ、危ないよ」
小学六年生なんてね、年齢的には子供だけどその本質はハッキリ言ってエロだから。エロ。
六年生ならもうエロい事を考える頭が十分出来上がってるからね、マジで。そんな輩と俺の銀子ちゃんを同じ部屋に置いておけるわけがない。
でもこれが困った事にね、銀子ちゃんはとっても無垢でピュアな子だからね、小学六年生でまさかそんな事はあり得ないとかなんとか思っちゃってるんだよ。
故にこの俺が止めてあげなければならない。それが恋人でもある俺の役目なのだ。
「じゃあなに? 小学校高学年男子の内弟子はそういう危ない事をするもんなの?」
「うん。断言するけど絶対だね、絶対にエロい事をするから」
俺は大マジで答えてやったね。
だってこれは俺があいを内弟子にするのとは事情が大きく異なる。師匠側に良心と節度があれば問題無いというものではないのだ。いくら銀子ちゃんが注意していても、意に沿わない形でという事だって全然あり得るからね。
小学六年生なんて発育が良い男子だったら身長で銀子ちゃんを上回っている事すらある。一方でただでさえひ弱な銀子ちゃんだ、小学生相手でもフィジカル負けをする可能性は十分にあり得るわけで。
ほらね? 危険でしょ? そんな危険は可能性の段階で排除しなければならないよね?
「じゃああんたも同罪よね」
「え? なんで俺?」
「だって小学校高学年の内弟子は絶対にそういう事をするんでしょ? ならあんたもじゃない」
「……あ」
そういやそうだ。小学校高学年男子の内弟子ってかつての俺もやんけ。
「そっか。八一も……したんだ」
となれば必然そういう話になる。
悪手に気付いた時にはもう遅い、銀子ちゃんがじとーっとした目をこちらに向けていた。
「エッチなこと、したんだ」
「し、してないしてない。俺は唯一の例外だから」
「私がお風呂入ってる時に覗いたりしたんだ。寝ている間にキスしたりしたんだ。さいてー」
「しししてないしてない!! 神に誓ってそんな事はしてないから!!」
「……してないんだ」
「いっ、いや!? あの……」
一転してしょんぼりした様子の銀子ちゃん。その姿を前に二の句が継げない俺。
えぇちょっと待ってよこれどう答えるのが正解なの!? 最善手が分からないよ!!
「したの? してないの?」
「そりゃあ、あの……ほら、俺は子供の頃から将棋のことしか頭に無かったから……」
そう答えておくしかない。そもそも事実なのだから間違ってはいない。
というかもし俺が子供の頃においたをやらかすような事があった場合、それは銀子ちゃん相手ではなく桂香さん相手なのでは……とか言おうものならビンタされそうなので止めておく。
「ふーん……ま、いいけど」
そう納得する銀子ちゃんだったか、やっぱり心なしか残念そうに見えるのが不思議だ。
「でも、それだったら私が内弟子を取ったとしても同じなんじゃないの?」
「それは……」
まぁ、そりゃそうなんだけど。
なんせこれは通常の弟子ではなく内弟子の話。子供ながらに将棋の道を目指して親元を離れるのだ、する方を受ける方も生半可な覚悟で出来る事じゃない。
そりゃあそんな道を選ぶのは将棋に真剣な子供だけに決まっている。それこそかつての俺や銀子ちゃんみたいに。
「だったら問題無いじゃない。だってあんたは問題を起こさなかったんでしょ?」
「……そ、それは」
まぁ、理屈上はそうなる、んだけど。
しかしだね、世の中には理屈で割り切れないものだって沢山あるわけで。
「……えー」
「なに」
「…………えぇー」
理屈で割り切ろうとしてみて、失敗。
俺の口からは地の底を這うようなものっすごい嫌そうな声が出てしまった。
「なによ、その不満そうな声と顔は」
「だってさぁ、仮にその内弟子(創多似)が昔の俺みたいに不埒な思考を持たない純真な将棋少年だったとしても、それでも同居には変わりないわけじゃん?」
「そりゃそうね、内弟子だもん」
「てことはさ、まず朝起きたら寝起き姿の銀子ちゃんを見られるわけじゃん? そんで朝一番に銀子ちゃんの『おはよう』ボイスを聞けるわけじゃん? 毎朝を銀子ちゃんと一緒に迎えられるわけじゃん? そんなん超ズルくない?」
「ちょっと、気持ち悪いこと言わないでよ」
「でしょ!? 気持ち悪いでしょ!? そうなんだよ気持ち悪いんだよ!!」
「いやそうじゃなくて、あんたの発想が……」
そんなの絶対に気持ち悪いよね。でも駄目なんだよ、内弟子になって銀子ちゃんと一緒に生活を送ってたら絶対そういう思考になるに決まってるんだから。
当初その道を志した時にどれだけ純真な将棋少年だったとしても無駄なんだよ。空銀子の魅力に四六時中当てられていたら絶対そういう思考になっちゃうって。
「お出かけする時には手を繋いじゃったりして」
「相手は小学校高学年でしょ? 手を繋ぐような年齢じゃないと思うけど」
「ご飯は毎日銀子ちゃんの手料理が食べられちゃったりして。これは別に羨ましくないけど」
「ぶちころすぞ貴様」
「そんでお風呂の時間には銀子ちゃんから『一緒に入る?』なんて誘われちゃって!! そのまま一緒にお風呂に入っちゃったりして!!」
「んなことするか」
俺は桂香さんにされたんだよ! 内弟子なりたての六歳の頃だったけどさ!!
「で、夜は銀子ちゃんの『おやすみ』を聞いて就寝するんだ。しかも同じベッドで」
「しないから。同じベッドで眠ったりなんかしないから」
「そんな毎日なわけじゃん? 毎日が幸せハッピーライフになるわけじゃん?」
銀子ちゃんと共に朝を目覚めて、夜を眠る。空銀子の存在を感じられる毎日がそこに。
そんなん俺が欲しいわ。恋人の俺だってそんな特権を享受出来る環境にはないっていうのに。
それをたかが弟子の分際で。たかが内弟子の分際で。許されていいはずがないではないか。
「大体内弟子の教育にも良くないよ。そんな恵まれた環境に身を置いたら絶対に将棋なんか手に付かなくなるって」
「内弟子制度全否定ね、それ」
「銀子ちゃんが悪いんだよ。銀子ちゃんが将棋と関係ないところで誘惑してくるから……」
「してない。誘惑してない」
首を横に振る銀子ちゃん。その頬はここまでの話のせいかほんのりと色付いちゃっている。
かわいいかわいい、あぁ可愛い。率直に言って空銀子先生が可愛すぎるのがいけない。こんな銀子ちゃんの寝顔を見ていいのは俺だけだし、一緒にいていいのも俺だけだ。
「……にしても、八一」
「なんすか」
「……なんか、あんたって意外と……」
──肝が小さくない? とでも言いたげな、目。
「そ、そんなことは……ないよ」
「でも、なんか……」
「そんなことはない。無いから」
思わず顔を逸らす俺。
いやいやそんなまさか、そんなことはない、はずなんだ。
でもなんかこうやって、銀子ちゃんが提示する仮定を想像してみると、なんだか……。
……あっれー?
こう考えてみると? なんか意外と? 許せることが少ない? みたいな?
あれ? あれれ? おかしいぞ? だって俺はそんな、銀子ちゃんみたいな狭量な性格じゃないはずなのに……。
「と、とにかく」
「ねぇ、あんたって私の事をとやかく言えないんじゃ──」
「とにかく!! 銀子ちゃんが内弟子を取るのは駄目だ。あまりにも危険が多すぎるから」
兎にも角にも、それが結論である事には変わりない。
これは仕方ない事なんだ。日常の何処に危険が潜んでいるか分からないからね。うんうん。
「……まぁ、そうね。あんたの考えは理解した」
「良かった。分かってくれて嬉しいよ」
「でも、それなら内弟子じゃなくて普通の弟子を取るならどうかしら」
「普通の弟子、か。それなら、まぁ……」
普通の弟子。同居なんてしない、普通に将棋を教えるだけの関係だったら問題は無いだろう。
……と言いたいが。ここまでの流れを考えると到底そんな気にはならないのが不思議だ。
「それもどうせ創多みたいな小学生男子なんでしょ?」
「そうね。どっかの誰かが小学生女子ばっかり弟子にしちゃったから次も当然そうなるわね」
「ははは」
「はははじゃない」
なんかもう分かっちゃったよ。恐らくこれは天衣の事を指しているんだろうね。
そうなるとやっぱり問題無く済むはずがない。案の定銀子ちゃんは俺の事を軽く睨みながら「なんか最近知ったんだけど」と続けて。
「どうやらそっちの弟子とも色々あったみたいね、色々」
「いや、別にそんな事は──」
「遊園地デートとか。私が居ない隙に内弟子の真似事をしたりとか、色々」
「……ハハハ」
なんでそれ知っとんですか。あまりにも地獄耳過ぎやしませんか。
「……い、一応言っておくとですね。それぞれ色々と複雑怪奇な事情がありまして……」
「この際そこはどうでもいいとして。そうなると私が弟子を取った場合、同じような事が起こる可能性も十分あるってことよね?」
「……そ、それは」
それを否定する術は、俺には無い。あるはずが無い。
し、しかし。仮に銀子ちゃんと弟子(創多似)がそんな事になったらと想像すると──
「……えー、死なす……」
「死なす?」
「うん。死なす……」
えだってなにあいつ弟子の立場を利用して銀子ちゃんとデートしてんの? 許せんのだが。
てか同居とか。結局それかい。普通の弟子だって内弟子と変わらないじゃねーか。
「あ、そういえば。去年の夏、あんたと一緒に福井の実家に行った後、私が三段リーグ終盤戦を戦っていた裏でもなんか色々あったらしいわね」
「それって……」
福井の実家。銀子ちゃんと一緒に行った俺の実家。忘れもしない、あの日に俺達は想いを交わし合った。
でその後に(主に天衣方面で)あった事と言えば、多分あれだろう。以前に女王戦を行った結婚式会場から招待される形で、近かった俺の誕生日祝いも兼ねてのディナーを食べた。
でそこで色々あって。……色々あって? なにが契機となったのか、正直今でもよく分からないんだけどふと気が付いた時、俺は天衣とキスをしていた。今でもビックリな話である。
──って、キス?
「は? 絶対に殺すんだが?」
えちょっと待って、あいつ俺の銀子ちゃんとキスすんの?
弟子の分際で? 創多の分際で? そんなんふざけているにも程がある。
「こ、ころ、ころ……!」
「八一?」
そこまでいったら完全にアウトでしょ。もう死ぬしかないでしょ椚創多。
ていうかその場合はもうしちゃった銀子ちゃんもどうなんだって気さえするんだけど。
いやでも待て待て。そもそもあれは俺の意思じゃなくて完全なる不意打ちだったんだよ。
となるとこの場合は銀子ちゃんが悪いんじゃなくて──って、え、不意打ち?
「ふっざけんな更に罪深いじゃねーか!! ぶっ殺すぞあのクソガキが!!」
「八一、ステイ」
待てが掛かったけど無視だ。こんなの落ち着いていられるか。
俺の銀子ちゃんに不意を突いてキスするなど。もはや死んだって許されるような所業じゃない。
「待っていてくれ銀子ちゃん。今すぐ創多のやつをボコボコの血祭りにあげてくるから」
ガチでボコのボッコボコだ。無論将棋で。──などではなく、純粋暴力で。
所詮あやつは貧弱な小学生だ。18歳の純粋物理パワーには敵うまい。
「なんの慰めにもならないだろうけど、せめてヤツの首を取って君に捧げ──」
「少し落ち着きなさい。勝手な妄想で首を取ったり捧げたりするんじゃないの」
「……ハッ!」
凶行に及びそうになる寸前で目が覚めた。
そうだそうだったよ。これはあくまで妄想、仮定の話だったね。
「はぁ……余りにも恐ろしい妄想だった。なんか金属バットを持って創多の家にカチコミをかける自分の姿が見えたよ」
「あんたねぇ……まともに喧嘩もしたこと無いくせに何言ってんの」
「したことあるかどうかなんて関係無い。男にはやらなくちゃいけない時があるんだ」
「あっそ……」
銀子ちゃんは呆れたような、でも少し照れているような表情で呟いて。
「それで? 色々と頭の中で想像してみてくれたようだけど、結論は?」
「結論、内弟子も普通の弟子も絶対駄目。もう小学生男子っていう存在自体がNGだった」
今後、創多には銀子ちゃんの一定範囲以内に近付く事を全面的に禁止しよう。今決めた。
いいや創多だけじゃない。鏡州さんも、全員有罪で極刑だって事がハッキリと分かった。
どうやら俺の周囲は罪深い男しかいないようだ。誠に嘆かわしいことである。
……などと、偉そうに他人を批判している場合じゃない。
真に俺が考えなくちゃならない事は、むしろここから先にある。
「それが結論なのね?」
「うん」
「……そう」
覚悟を決めつつ俺が頷くと、銀子ちゃんはふっと優しく微笑んだ。
「それじゃあ八一、ちょっと鏡を持ってきてくれるかしら」
「……うん。……いや、うん。言いたい事は分かってるんだ、ほんとに……」
自分のツラを見てみろって事ですよね。いやもう本当に分かってるんですよこれが。
「そっか、分かってくれたんだ。わざわざこんな回りくどい話をした甲斐があったわね」
「……はい。分かったと言いますか、分からせられたと言いますか……」
「本当は自主的に察して欲しかったんだけど」
「……サーセン」
銀子ちゃんは優しく微笑んだまま、しかしその目の奥が全然笑っていなくて。
そりゃそうだ、これはちっとも笑える話じゃない。何故かってさっきの話、あれは俺の場合だとあくまで妄想や仮定上の話でしかなかったんだけど。
しかし、そもそもこれは相手の立場に立ってみましょうって話なわけで。
つまりは銀子ちゃんの場合は。これが妄想や仮定ではなく現実だったという事で。
つまり……つまり。この話の中で一番罪深いのは誰あろう俺なのである。
「内弟子、駄目よね?」
「……うん」
「普通の弟子だって、駄目よね?」
「……うん」
「編集者と二人きりで旅行も、勿論駄目よね?」
「……うん」
駄目だね。駄目ですね。
なんだか胸が痛い。それに頭をガツーンと殴られたような気分だ。俺の中で長らく必勝戦術だった『将棋だから』という枕詞、それがガラガラと崩れる音が聞こえた。
だって『将棋の師弟だから小学生と同居しても問題無いよね』とか言われても、俺無理だもん。師弟だからって銀子ちゃんと創多が同居するなんて絶対に耐えられない、四六時中不安と嫉妬に駆られて気が狂っちゃよそんなの。
他の例でも然りだ。俺の身に起こった事は立場を入れ替えて銀子ちゃんにも起こり得る、そう考えたらとてもじゃないけど許容なんて出来ない。
「ようやく気付いたよ。俺の思考だって銀子ちゃんと似たようなものだったんだね」
要するに、これは。自分の恋人に対する執着心、独占欲というものだ。
それがある事は別に間違ってはいない。ある種正しい事だとも言えるはず、なんだけど。
「……ねぇ、銀子ちゃん」
「なに?」
「なんか、俺が言う事じゃないのは百も承知だけど……よく怒らなかったね、今まで」
この気持ちをどう処理すればいいか分からず、自ら導火線を踏みにいく俺。
むしろ今は怒られたい。目一杯怒られて叱られて地の底に頭を下げて反省したい気分だった。
「どうかしらね。ちょくちょく怒ってきたような気もするけど」
「それは……」
思い返せば──確かに、確かに銀子ちゃんはよく怒っていた。
そもそも昔からキレやすい子だったし、だから事あるごとに怒るのだろうと思っていた。
「けれど……違ったんだね」
しかし、こうしてこの子の立場に立たされてみてよく分かった。
怒るのには相応の理由がある。それだけのストレスを与えていたということ。
「なんか……ごめん。特に俺があいを内弟子にして以後、近頃の銀子ちゃんって当社比150%増しで凶暴性が増してるよなぁ怖いなぁとか思っててごめん」
「……へぇ、随分と失礼な事考えてたのね」
「うん、ごめん……。今思うと穏便に済ませてくれてた方だったんだね……」
独占欲とは諸刃の剣だ、それが先程の例だろう。だって俺はそれを少し想像しただけで、胸の内にドス黒い感情が湧くのを抑えられなかったのに。
銀子ちゃんにとってはそれが現実だったんだ。それなのにストレスの張本人たる俺ときたら何にも気付かず呑気にのほほんとしていたのだ、そりゃ苛立つのも当然だろう。
「本当にごめんよ……俺、俺は……」
俺は項垂れるように頭を垂れた。こうなっては銀子ちゃんの顔も見られない。
自分がされて嫌なことを相手にしてはいけない。そんな当たり前の事が出来ていなかった。昔からずっと一緒にいた弟弟子としても不甲斐ないし、恋人としてはあまりにも立つ瀬が無い。
「どうしよう……俺、どうやって償えばいいかな」
「償う?」
「うん。これまでずっと銀子ちゃんの事を苦しめてきたんだ、今更何をしたって罪滅ぼしにならないかもしれないけど、せめて償いを……」
改めて思うと、今こうして銀子ちゃんが俺の隣にいるのが奇跡みたいだ。だって今日までの俺の罪状を見れば、それこそ破局の理由になったっておかしくないぐらいなのに。
だから償いたい。このまま捨て置いてはいけない。すでに犯してしまった罪状を無かった事には出来ないとしても、せめて反省をしている事を態度で示さなくてはならない。
「弟子の事は……この先もう弟子は取らないと誓うよ。すでに弟子になっているあい達を破門にする事は出来ないけど、接触は最低限度にするから、それでどうにか……」
「ちょっとあんたね、そんな重要な事を軽はずみに──」
「いいんだよ。それに弟子の事だけじゃない、今後は女性と対局する機会も必要最小限度に抑えるし、それでも許してくれないってんなら、いっそもう女性と会話する事だって止める!」
勢いで言い切ってしまったが半分以上は本心だった。
今まで積み重ねた分、これぐらいしないと償いにはならない。これまで沢山銀子ちゃんを苦しめてきた分、今後はそうさせまいと誓いたい。
しかし俺のそんな決意とは裏腹に、銀子ちゃんは至って平然とした様子で口を開く。
「いいわよそんな償いだなんて、今更だし」
「今更なんて事は……それとも、もしかして、償いも許さないぐらい怒ってるってこと?」
「そうじゃなくて。どれも本当に今更だし……それに、さっきの例の中には私達が付き合う前の出来事だってあるしね。それなら償う云々もないじゃない」
「違うよ、それは……!」
駄目だよそんな、そんなのはいくらなんでも甘すぎる、優しすぎるよ。
だって俺だったら。たとえ銀子ちゃんと付き合う前であっても嫌なことは嫌なのに。
「それに……」
すると銀子ちゃんは、その両手をすっと伸ばして。
俯く俺の顔を優しく包み込んで、そっと持ち上げて目線を合わせた。
「それに、将棋だもん」
「え……?」
「そうでしょ?」
そう言って柔らかく微笑む。
そこにあるのは、俺がこの世界で一番好きだと思う表情。
「対局も。弟子も。棋書も。どれも将棋に必要な事だもんね。だから断らなかったんでしょ?」
だから、許す。銀子ちゃんの目がそう言っている。
けれど──違う、違うんだよ。その枕詞はもう無敵の戦術じゃないんだ。
将棋だから、じゃない。たとえ将棋であっても通用しない事はあるんだよ。
「今の八一の立場を考えれば断れない事の一つや二つぐらいは当然あるでしょうからね。私も棋士だし、そういう事に文句を言うつもりはないの」
「でも……」
「それにね。結果的にそうなる事があったとしても、あんたが故意に私を傷付ける真似をするような奴じゃないって事ぐらい、私はちゃんと分かってるから」
「ぎ、銀子ちゃん……」
聞いている内に自然と目頭が熱くなった。
優しい。あまりにも優しい。なんだこれ。こんなにも優しい銀子ちゃんの事を俺はキレやすい子だとか言っていたのか。愚かにも程があるだろ。
あぁそうだ、俺は真実愚かなんだ。愚かな俺はこんなにも優しい銀子ちゃんを何度も傷付けてしまったのに。それなのにこの子はそんな俺の事を許容して、許してくれると言う。
「八一のこと、世界で一番よく分かっているのは私なんだから」
「……うっ、うわぁぁん! 銀子ちゃん……!」
我慢の限界だった。
涙腺の決壊と同時、俺は押し倒すような勢いで銀子ちゃんの身体に抱き付いた。
「や、八一……!」
「あぁああ、銀子ちゃん、銀子ちゃん……!」
「んっ……」
ふわりとした感覚が頬に当たる、そのまま力を入れてぎゅっと抱き締める。
とっても華奢な身体だ。この小さな身体の中には優しさが目一杯詰まっているんだ。
「俺、謝りたくて、君の事を散々苦しめてきたのに、それなのに……!」
「いいのよそんな事は。さっきも言ったけど、全部将棋に絡んだ事だからね。そういう事はこれから先だって沢山あるだろうし、その度に謝っていたらキリないじゃないの」
「そんな……でもそれじゃ、それこそこの先何度も銀子ちゃんを苦しめてしまう事に……!」
「いいのよ。八一、あなたは棋士なんだから」
「銀子ちゃあん……!」
優しさだ、優しみの塊がここにある。
これが理解ある優しい彼女なのか。ありのままの俺を受け入れてくれる全肯定銀子ちゃんだ。
「俺は……俺は駄目な男なのに、なのに……!」
「八一は駄目なんかじゃないよ。八一は生きているだけでえらいんだから」
「銀子ちゃん……!」
「だからね、これから先も弟子を取ったっていいし、新しい棋書を書いたっていいの。勿論女性との対局だって。八一は棋士だもんね」
「銀子ちゃん……でも俺……すっごい情けない事言うようだけど、俺は……!」
「さっきしてみた想像みたいに、私が小学生男子の内弟子を取ったりするのはイヤ?」
「………………」
言葉には出せず、頷く事しか出来なかった。
あまりにも情けない話だって分かってる、それでも嫌なものは嫌なんだ。
特に内弟子とか、二人だけでの旅行とかはキツい。俺が手出し出来ない所で、銀子ちゃんに危険が及びそうな状況を作る事がどうしても許容出来ない。それがたとえ将棋に絡む事だとしても。
「八一はわがままねぇ」
「ごめん……本当にごめん……!」
「どれもこれも今のところ予定は無いんだけど……でも、そうね、分かった」
俺の独占欲に満ちた我が儘を聞いて、それでも世界一優しい俺の恋人は、言う。
「八一がそこまで嫌がるなら私は小学生男子の弟子は取らないし、内弟子も取らない。それに棋書も書かないし、当然だけど男の人と一緒に旅行なんてしないから」
「……本当に?」
「うん」
銀子ちゃんはすんなりと頷いた。俺の我が儘を全て受け入れてくれた。
うぅ……全肯定銀子ちゃん……やさしい……すき……俺の恋人が天使に見えるよぉ……。
「私は八一が苦しんだり、嫌な気持ちになったりするような事はしないからね」
「銀子ちゃん……」
「けど八一はいいのよ、私は八一に我慢させたくないから。だから弟子も、棋書も、対局も、どれも将棋に必要なことは自由にしていいからね」
「ぎ、銀子ちゃあん……!」
あぁもう駄目だ、俺もう駄目だよ。
銀子ちゃんが愛おしくて仕方が無い。もうこのままずっと一緒にいたいよ。
弟子の件だって俺と銀子ちゃんがずっと一緒にいればいいんだ。たとえ内弟子だろうとも、二人きりじゃなくて俺も一緒に住んでしまえば何も問題は無いんだ。
そうだそうしよう。もう銀子ちゃんと離れないぞ。優しみ溢れる天使とずっと一緒に──
「でも」
とそこで──ポツリと。
「会話は」
「……ん?」
「女性との会話は……どうかな」
毒を垂らすように一滴。俺を抱き締めたまま、銀子ちゃんが。
「弟子も、棋書も、対局も、八一みたいに立派な棋士には全部必要な事だよね?」
「うん」
「でも、女性との会話はどうかしら。それは必ずしも必要とは言えないんじゃない?」
……うん? どういうことだろう?
女性と会話するのは、必ずしも必要では……無い、の、かな?
「だってほら、今より一昔前だと将棋って完全に男の世界だったわけでしょ?」
「あぁ、確かに。そう言われてみれば、そうかも」
「ね?」
銀子ちゃんの言う通り、今より一昔前だと将棋というのはほぼ完全に男の世界だった。
その当時の棋士で、仮に生涯独身だったとしたら女性とは全く会話する機会が無かった人だっていただろう。それでも棋士として成り立っていたのだから、棋士にとって女性との会話は必ずしも必要なものでは無いと言える。
「だったら、禁止しても問題ないんじゃないかなって」
「禁止……」
「その代わりに私は小学生男子の弟子は絶対に取らないから。それなら平等でしょ?」
確かに。それなら平等だ。
「私に償う気持ち、あるのよね?」
「ある!」
「だったら、どうすればいいのか分かるよね?」
囁くように、甘い。銀子ちゃんの甘い甘い声がすぐ耳元から聞こえてくる。
その甘さが俺の脳を完全に溶かしきるまでもなく、もうすでに結論は出ていた。
「分かった、分かったよ、銀子ちゃん!!」
「分かった?」
「うん! 俺もう金輪際、銀子ちゃん以外の女性とは一切会話しない!!」
俺は顔を上げてそう宣言した。
するとそこには、全てを蕩けさせる銀子ちゃんの花咲くような笑顔があった。
「正解♡ 良く出来ました、分かってくれて嬉しいな♡」
そして銀子ちゃんの手が。俺の頭を抱えたままヨシヨシと愛でるように撫でてくれた。
あぁ、やさしいやさしい……慈愛の女神……大好き……。
「ふふっ、八一はとってもいい子だね、大好きだよ♡」
「うぅ……俺も、俺も大好きだよぉ、銀子ちゃあん……!」
あぁ良かった。間違ってばっかりだった俺でも正解を選べたんだ。
もうそれだけで十分だ。俺は俺だけの全肯定銀子ちゃんをぎゅっと抱き締めた。
こうして──俺と銀子ちゃんの間で浮気のラインが決定した。
二度と銀子ちゃんを苦しめたりしないように、今後は銀子ちゃん以外の女性とは一切会話しない。
この日、俺はそう心に固く誓ったのだった。
……そして後日、この日の会話を思い出して。
あぁ銀子ちゃんは最初から本気だったんだなぁと、その言葉の真意を知るのだった。