銀子ちゃんを可愛い可愛い×5するだけの話(+短編集)   作:銀推し

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※これは本編とは関係の無い短編ネタとなります。
空銀子聖誕祭記念短編。ですが内容は誕生日とは一切関係ありません。
原作13巻以降の話となります。二人が付き合い始めてから結構な時間(多分一年ぐらいは)が経過している設定になります。





短編 甘えたい日

 

 

 

 

 ──甘えたい。

 そう、甘えたい。率直に言うけど俺は今、未だかつて無い程にむっちゃ甘えたい。

 いやいきなり何言ってんだと思われるかもしれないが、とにかく猛烈に甘えたい気分なんだ。

 

 果たして俺は誰に甘えたいのか……というのは言うまでもない事だから端折るとして。

 何故俺は今こんなにも甘えたい気分なのか。これについてはハッキリとした理由は無い。

 例えば対局で負けたとか、精神的にヘコむ出来事があったから慰めて欲しいとかそういうんじゃなくて、ただ単純に今日は朝からそんな気分だった、としか言いようが無いんだよね。

 

 これは思うにだけど……人間にはバイオリズムってものがあるでしょ?

 心身バランスの波、バイオリズム。その変化によってとても調子が良い日もあれば、その逆に何をやっても冴えない日だってあるだろう。

 それが人間だ。身体の状態、心のバランス、バイオリズムは日毎によって変動するものだ。

 

 となれば、こういう日だってあるだろう。

 訳も無く理由も無く、ただただ猛烈に恋人に甘えたくなっちゃう日だってあるのではないか。

 そう、あるんだよ。だからこれは俺が人間である以上は仕方ない事なんだね。

 

 

「……ってことなんだ」

 

 とか、そんな俺のあれこれを。

 

「分かってくれたかい? 銀子ちゃん」

 

 隣に座るこの子にね、こうして一から説明してみたわけさ。

 無論甘えさせて貰う為に。俺が持て余している甘えたいエネルギーを発散する為にね?

 

「……はん?」

 

 ほならね、返ってきたのはこの反応よ。

 やる気もない、愛情も無いような目を向けて、鼻で軽く笑うかのように。

 実に淡白極まりないリアクションである。恋人に取る態度としてこれはどうなのだろうか。

 

「なんか……反応薄いっすね」

「そう?」

「うん。てかさ銀子ちゃん、今の説明ちゃんと聞いてた?」

「ううん、途中から耳に入ってこなかった」

「えー……」

 

 銀子ちゃんは俺のすぐそば、一メートルも離れていない所に座りスマホをいじっている。

 この距離で耳に入らないって事は無いだろうし、要はスルーしたいって事だろうね、了解了解。

 

「じゃあもう一回説明するよ」

「懲りないわね」

「懲りないとも。えー……人間にはバイオリズムの波による心身バランスの変化があってだね」

「へぇ」

「何をやっても絶好調な日があったり、その逆に何をやっても駄目な日があったりするじゃん? 銀子ちゃんだってそういう経験あるでしょ?」

「まぁ」

「でその一環として、誰かに甘えたい気分になっちゃう日だってあるよね、ってことなんだよ」

「ふぅん」

 

 ちなみに。先程から俺が語っている内容はほぼほぼ事実だ。

 繰り返しになるけど、今日は本当に朝起きた時から誰かに甘えたい要求が半端無かった。人肌恋しいような気分っていうか、母性に包まれたいような気分っていうか……なんていうか。

 ここ最近は予定が合わなくて二人で会うのがご無沙汰だったってのが理由かもしれないけど、とにかく今日は朝から銀子ちゃんに会いたかった。すごくすごーく銀子ちゃんに会いたかった。んで甘えたかった。

 

 さっきも言ったけど、人間なら誰しもそういう日があるはずだ。それが俺は今日だったんだ。

 だから今日はちょっと強引に予定を開けて、久しぶりに銀子ちゃんと会える時間を作った。

 そしてここ、俺達の密会でよく使用する銀子ちゃんの研究用マンションに到着して早々、俺は冒頭からの流れを説明した。そして今に至るという訳である。

 

「これはなんせバイオリズムの変化だからさ。本人にはもうどうしようもない事なんだよね」

「それはそれは」

「そう、これは人間である以上抗えないもので……だから俺は今、誰かに甘えたい気分なんです」

「そうなんだ。困ったわねぇ」

 

 困ったわねぇ、と一ミリも困ってなさそうな顔で呟く銀子ちゃん。

 相変わらずリアクションが薄い。まさに糠に釘、暖簾に腕押し……だけど、生憎とこの程度の塩対応には俺も慣れているからね。

 銀子ちゃんは嫌な事には嫌だとハッキリ言うタイプだ。なので「嫌だ」とか「バカ」とか「死ね」とかが飛んでこない限りはまだ大丈夫、まだ引き下がる必要は無い。

 

「そうなんだよ、困ってるんだよ、俺」

「………………」

「朝からとっても困っててさぁ……誰かになんとかして欲しいなぁ、って」

「……誰かって、私に?」

 

 その目がスマホ画面から離れて、じろりとこちらを向く。

 

「そうなんです。ここは是非とも銀子ちゃんにお願いしたく」

「………………」

 

 俺が答えると、銀子ちゃんは半眼に閉じた目でじとーっと凝視してきた。

 その胡散臭いものを見るような目を見てると……まぁ、この子の言わんとする事は分かる。俺だって少々アレな事を言っている自覚はあるんだ、ていうか普段ならこんな事言わないし。

 きっと銀子ちゃんは「唐突になに言い出してんだこいつ」と呆れているか、あるいは何か裏があるんじゃないかと警戒しているのかもしれない。

 

 ──が。

 

「……え?」

「………………」

「え? え? もしかしてだめなの?」

「………………」

 

 けど、それでもだ。

 それでも……駄目って事は、無いよねぇ?

 なんせ俺達、恋人同士なんだし。まさか恋人に甘えちゃ駄目なんて事は無いよねぇ?

 

「………………」

「もしもし? 空銀子さん?」

 

 うん、ないない、だって俺は恋人として普通の要求をしているだけなんだし。

 その点は銀子ちゃんも分かっていたのか、嫌そうながらもその首を左右に振ることはなく。

 

「……ま、駄目とは言わないけど」

 

 だよねぇ! そうこなくっちゃ!

 

「けどさっきからあんたの言い分がムカつく」

「えっ」

「……はぁ、まぁいいわ」

 

 一体俺の言い分の何が悪かったのか。それはよく分からないけど……ともあれ。

 銀子ちゃんはさも面倒くさそうに嘆息すると、スマホを置いて俺の方に向き直った。

 

「で?」

「え?」

「甘えたいって? 具体的にはどうしたいの?」

「あ、ええと……じゃあ膝枕とか」

「足が痺れそうだからやだ」

「ぐぅ……!」

 

 早速却下ときた。どうやら俺の甘えたい願望は足の痺れに負けたらしい。悲しい。

 膝枕、いいよね。単に頭を乗せるだけなんだけどいかにも恋人って感じがするじゃん? 

 ここは是非とも銀子ちゃんのスラっとした太ももの感触を後頭部で感じたかったが……ただね、銀子ちゃんの御御足の健康状態を守るのだって大事な事だからね。

 だからこれはしょうがない事だよね。うん、これはしょうがないしょうがない。

 

「じゃ、じゃあせめて! せめて頭を撫でて欲しいんですけどもね!」

「…………まぁ、それぐらいはいいけど」

 

 若干の沈黙の後、銀子ちゃんの手がすっと伸びてきて。

 俺の頭の上に落ちると、わしわしと髪を掻き混ぜるように撫でてくれた。

 

「でも八一、あんたさっきから大分カッコ悪い事言ってるわよ」

「大丈夫だよ、それは自覚してるから」

「自覚してりゃいいってもんじゃない」

 

 ごもっともで。銀子ちゃんの至極真っ当なツッコミが刺さる。

 がしかし、こんな要求しておいて今更カッコつける事など出来ないだろう。全ては今日の俺の心身バランスの悪化が、バイオリズムの変化が悪い。 

 こうなってしまった以上、少なくとも今日一杯はそういう目で見られる事は甘んじて受け入れなくちゃならない訳で。となればもっと多くを味わっておいた方が得だというものだろう。

 

「銀子ちゃん、もっとガッツリ甘えたい」

「は?」

「出来ればさ、こう……俺の頭をね、両手でぎゅっと抱える感じでお願いしたく」

「っ、……はいはい」

 

 呆れて物も言えない心境、なのだろうか。

 そんなオーラはガンガンに出しつつも、なんのかんの言ってその通りにしてくれるからね。 

 ちゃんと恋人らしい事はしてくれる。銀子ちゃんってばそういうとこ可愛いよね。

 

「……こう?」

「そうそう、これこれ……」

 

 下ろしていた反対側の手も俺の頭に伸ばして、ぐいっと抱き寄せられる。

 そのまま両手でぎゅっと抱えて、俺の頭が銀子ちゃんの腕の中にすっぽりと収まった。

 

「あぁー、ええ感じー……」

 

 少しもたれ掛かるような体勢になって、俺と銀子ちゃんの距離が密着する。

 そうすればほら! 慎ましやかな、慎ましやかな母性がすぐ目の前に!

 

「……てかなに? 今日なんかあったの? 誰かにイジメられた?」

「別にそんな事は無いって。ただ単にこういう気分っていうか、そういう欲求がもの凄いだけ」

「あっそ……」

 

 そう、理由なんて無いんだ。

 というかこうして甘える事に、愛しい恋人の母性を求めちゃう事に理由が必要なのだろうか。

 

「もしかしたら俺、疲れてたのかな。だから自然と癒やしが欲しくなっちゃったとか」

「癒やしねぇ……疲れているんだったら温泉にでも行ったら?」

「あ、いいね温泉、今度行く?」

「……予定、合うかな」

「大丈夫でしょ。なんなら日帰りでもいいし」

「日帰りぃ~? せっかく温泉に行くならもっとゆっくりしたいんだけど」

「勿論泊まりだって大歓迎ですが? そんじゃ後でスケジュール調整してみようか──」

 

 そんな、取り留めもない会話を交わしながら。

 こうしてその優しさを、母性を、愛情を味わう。これ以上の至福があるものか。 

 きっと、こういう恋人の時間が最近の俺には不足していたんだね。

 

 あぁ、マジ癒やされる……──

 

 

 

 ■

 

 

 

 ──そして、その後。

 つかの間の逢瀬を楽しんだ後、私は八一と別れて帰路に就いた。

 

「…………ふぅ、疲れた」

 

 自宅にある自分の部屋。ベッドに腰を下ろして、ふと頭の中に浮かんだのは先程の事。

 

「にしても……今日のあいつ……」

 

 今日の八一は妙に引っ付いてきた。

 いつも以上に身体的接触が多かった。ちょっとスキンシップが過剰だった。

 私が鬱陶しがるような素振りを見せても、一向に私の元から離れようとしなかった。

 

 まぁ、正直言って八一はアホでスケベだから。

 だから今日みたいな事は往々にして良くある事だったりするんだけど……でも、今日はそうなった理由がちょっとだけ気になった。

 八一曰く、今日は甘えたい気分だったとか、疲れていたからだとか。

 

「……ま、なんだっていいんだけど」

 

 私に甘えたいと思うのは、まぁいい。

 なにバカな事を言ってる、男だったら甘えるな……とか、そんな事を言うつもりは無い。

 私だってそこまで鬼じゃない。私よりもニ歳年上の男が年下相手に取る態度としてどうなのかと思わないでもないけど、そこには目を瞑ろう。 

 

 なんせ私は年下だけど姉、姉弟子だし? 

 その上あいつの恋人となれば、そりゃあ甘えたい対象にはなっちゃうのだろう。

 それは私だって理解している。というか八一が甘えていい相手なんて空銀子オンリーな訳で。

 だから別に甘えたいっていうなら、私としては応えてあげるのも吝かではないんだけど……。

 

「……はぁ」

 

 バイオリズムがどうだとか。心身バランスの変化がどうだとか。

 あの時の八一の言い分を思い出して、思わず口から呆れの混じった溜息が漏れる。

 

 甘えたいと言うのなら、応えてあげるのも吝かではない。

 けどね。それならもっと男らしくというか、もっと直球で来て欲しい。

 シンプルに「甘えたいから甘えさせて」と言われれば「いいけど」とすぐに返せるのに。なのに初っ端からああもぐだぐだと屁理屈を捏ねられては、こっちもそういう気分が失せてしまう。

 

「あれはきっと八一なりの作戦だったんだろうけど……今回のはいまいちだったわね」

 

 聞き齧った知識を絡めて、自分の言葉に説得力を持たせるのが狙いだったんだろう……が。

 でもあの奇策は失策だ。将棋には滅法強い八一でもこういった事では読みを外す事もままある。

 というか勝負に際して策を用いる事。ううん、策に嵌める事こそが勝負だと考えてしまうのは将棋打ちの悪い癖なのかもしれない。

 その悪癖は時に直球勝負という選択肢を頭の中から消してしまう。今回の八一のように。

 

「まぁ、別にいいんだけどね。別にいいんだけど……それでも今回のはちょっと……」

 

 バイオリズムがどうだとか。心身バランスの変化がどうだとか。

 それで甘えたい気分になっちゃった、とか。そんな与太話をぐだぐだ長々と。

 

「全く……なにをバカな事言ってるんだか……」

 

 

 

 ■

 

 

 

 ──そして、翌日。

 

「……ん」

 

 朝、私は差し込む日差しと共に目覚めて。

 ピピピと鳴るスマホのアラームを止めて、もぞもぞと身を捩りながら身体を起こして。

 

「……んー」

 

 朝が弱い私はすぐには動き出せない。

 そのままの体勢で暫しの間ぼんやりとして。

 

「……んぅ」

 

 やがて頭の中がすっきりしてきた頃。

 身体の隅々まで力が入るようになってきた頃。

 

「…………ん?」 

 

 そこで──私は違和感に気付いた。

 

「……んっ」

 

 あれ。なんか……身体が、体調が、変、だ。

 身体中が……ざわざわ? ううん、もぞもぞ? するような、とても奇妙な感覚が。

 

「……んんっ?」

 

 なんか……身悶えするような感じが、すごい。

 指先が蠢いて、両手で、こう……全身を掻き毟りたいような気分、が。

 けどそれじゃ収まらない、そんなんじゃ到底満たされない事も、分かる。

 

「……んん、ん……!」

 

 これは……私は今、渇望している。

 身体が。心が。大音量で警報を鳴らして大至急アレを欲しがっている。

 あの熱を。あの温もりを。そしてついでに言うなら頭に浮かぶのは勿論あいつの顔で。

 

 端的に言って今の私は。

 この心理状態は──

 

 

「……あ、甘えたい」

 

 

 え、なにこれ。なんかとっても甘えたいんだけど。

 えちょっと待ってなにこれ。なんかウソみたいにめちゃくちゃ甘えたい気分なんだけど。

 

「……あ、甘えたいんですけどっ!?」

 

 つい声に出して叫んでしまった。

 こんな朝っぱらから何を大声出してる私。そう思えども心と身体が付いてこない。

 だって甘えたい。私の心も身体も何もかも、その全てがあいつに甘える事を欲している。

 

「甘えたい! 八一に甘えたい!」

 

 甘えたい。甘えたい甘えたい甘えたい。八一に甘えたい。

 えほんとになにこれ、なんか信じられないぐらいに八一に甘えたい気分なんだけど。

 八一にぎゅってして欲しいんだけど。頭なでなでして欲しいんだけど。そのまま顎の下とかお腹とかも撫でられたいし、何なら全身包み込むようにぎゅぎゅーってされたいし、それを越えてもっと色々なあれやこれやをして欲しいんだけど。

 

「あ、あま、あままま……っ!」

 

 甘えたい気持ちが──尋常じゃない。

 こんな、とても抑えられそうにない莫大な規模の甘えたいエネルギーが、ここにある。

 朝起きて早々自分が自分じゃないみたいだ。まさかこんな事になるなんて──

 

「って、これはまさか……まさかこれが、ば、バイオリズム!?」

 

 これか。これがバイオリズムの変化によってめっちゃ甘えたくなっちゃう日、なのか。

 え、ていうかちょっと待って。昨日あいつが言ってたあの与太話って本当の事だったの!?

 

「けれど、確かに……これは八一が言っていた症状そのもの……!」

 

 昨日八一は言っていた。今日は朝から無性に甘えたい気分だったのだと。

 それはまさしく今の私だ。まさか八一から一日遅れで次は私の番だとでも言うのか。

 そんなまさか。バイオリズムなんて胡散臭いものが……でも、あ、甘えたいぃぃ……!

 

「ぐ、ぐぐ……ぐ……ど、どうしよう……どうすれば……!」

 

 この甘えたいエネルギー、ハッキリ言っちゃうと到底我慢出来るような気がしない。

 となれば対処法は一つ、この欲のままに八一と会って発散するしかない。甘え倒すしかない。

 

「なら、今すぐ八一を呼び出す? けど……」

 

 叶う事なら今すぐ八一に会って甘えたい……けれどもさすがにそれは難しい。

 こんな朝早くに呼び出すなんて迷惑もいい所だ。八一にだって予定があるだろうし、そもそも私だって今日は昼過ぎまで用事がある。

 

「待ち合わせるとしても夜、どんなに早くても夕方までは……くぅ……っ!」

 

 それまでは頑張って耐えるしかない。

 この狂おしい程の渇望を。今にも破裂しちゃいそうな程の甘えたいエネルギーを。

 

「ぐ、ぐにゅにゅ……!」

 

 甘えたい、甘えたいっ──! 

 そう叫び続ける心に活を入れる。身体はざわざわするし頭はふらふら朦朧とする。

 私は這い出るようにしてベッドから抜け出すと、覚束ない足でリビングへ向かうのだった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 そして──その後。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 荒い、熱い呼吸を何度も繰り返す。

 

「はぁ……はぁっ……!」

 

 頭が、熱い。胸の奥が、熱い。

 甘えたい、甘えたい。そう叫ぶこの身体の全てが平常時を超えた熱を帯びている。

 八一に甘えたいという欲求が強まりすぎて、私はもう息も絶え絶えになっていた。

 

「くっ……ふぅ、ば、バイオリズムがっ、こんなに恐ろしいものだったなんて……!」

 

 大阪の町の片隅で。マスクをして帽子を被ってサングラスまで掛けて。

 ビルの壁に寄り掛かりながら息を荒げる私。世の中には到底出せない空銀子の姿がここにある。

 

「はぁ……っ、でも、やっと……」

 

 時刻はそろそろ三時を過ぎた頃合い。やっと、やっと今日の予定が片付いた。

 今日が簡単な雑誌取材だけで本当に助かった。先程記者の人と別れた私は晴れて自由の身だ。

 

「もし今日が対局日だったとしたら……ヤバかったわね……」

 

 こんな状態で対局する事になったら。そしたら絶対にヤバかった。

 今、私の頭の中は八一に甘える事だけで一杯だ。こんな状態じゃ将棋盤に向き合っても指し手なんて考えられる訳が無い。きっと竜王の事だけしか見えず、飛車を成らせる事だけに熱中してしまい頓死するのがオチだろう。

 

 というかもう暴露しちゃうと、先程の取材中からそうなっちゃってた。

 記者の質問に答えながらも、私の頭の中では八一に甘える事しか考えていなかった。

 この後会ったらどうしようかな、八一の温もりをどう味わおうかな、どういう話の流れで甘えモードに持っていって、最終的にはどこまで──……とかとか、取材中は取材内容そっちのけでそんな事ばっかり考えてしまっていた。

 

「とにかく……とにかく耐えきったわ……! これで後は……」

 

 今日の予定は済ませた。となれば後は待ち合わせ場所に向かうだけ。

 勿論八一の予定も確保してある。朝の段階で「今日の夕方から予定を開けて」と連絡済みだ。

 どうやら明日に東京で仕事がある八一は今日中に前乗りするつもりだったようだが、「大切な話があるからお願い」と頼み込んだら快く予定を変更してくれた。

 

「……ふっ、くぅ……! もうすぐ、もうすぐだから頑張るのよ、銀子……!」

 

 そう、もうすぐだ。

 私は熱い身体を引きずりながら、のろのろと緩慢な動作で歩を進めていく。

 念には念を入れて、表通りではなく人通りの少ない路地を進んで。

 

 そして──

 

「はぁ……つ、疲れた……」

 

 無人の受付を済ませてようやく辿り着いた──ここが待ち合わせ場所。

 人の目が無くなって緊張の糸が切れたのか、私はだらしなくもベッドの上に倒れ込んだ。

 

 

 

 

 

 ──そして。

 それから小一時間後。

 

 

「やいち……」

 

 八一を待つ、私。

 

「やいち……やいちやいちやいちやいち……!」

 

 ぶつぶつと呪文を唱えながら。

 カタカタと足踏みを鳴らしながら。

 一人部屋の中で八一を待つ私。あいつはまだ来ない。イライラが募る一方である。

 

「ていうか遅いんだけどまだこないのあいつはほんとばかばかばかばか……っ!」

 

 来ない。八一はまだ来ない。私の精神はすでに破裂寸前だというのにまだ来ないとは。

 ちなみにこの予定をドタキャンされたらそれはもう私の死と同義なので、そこら辺を八一にはよーく肝に銘じて欲しい所である。

 

「う゛~~……やいちぃ~~……!!」

 

 焦れる。早く来てよばかやいち。

 恋人を待たせるなんて駄目なんだから。後でみっちり教育してやる。

 

「…………~~~~っ!」

 

 焦れる。焦れる──っ!

 けれど……実の所、待ち合わせの時刻はまだ。

 単に私が早く到着し過ぎただけで、まだ八一の到着が遅れている訳ではない。

 

 それが証拠に……ほら。

 その時ドアの方から、ガチャリ、と。

 

「っ!!!」

 

 ドアが開く音──来た、八一が来たっ!

 その瞬間に心臓がドクンと跳ね上がる。抑えていた甘えたい衝動が一気に湧き上がってきた。

 

「…………っ」

 

 が、私は息をぐっと飲み込んで……ここはまだ抑える、自制する。

 しないから、しないからね。そんないきなり八一に飛び付いたりなんて絶対しないから。

 そんなはしたない真似は出来ないの。私にだってプライドってもんがあんのよ。

 

「銀子ちゃん、お待たせ」

 

 来た。来た来た。

 八一が来た。遂に私の八一が来た。

 

「……八一」

「うん」

 

 あぁ、八一がいる。これでようやく甘えられる。

 なんかもうだめ。こうして八一と会えただけでもう感無量なんだけど。

 

「もしかして結構待った?」

「……まぁ、そこそこ」

「そっか、ごめん。中々電車が来なくてさ」

「予定時刻よりは早く来たから許す。それよりも八一、呼び出しておいてなんだけど明日の予定は本当に大丈夫なの?」

「あぁ、それは平気だから気にしないで。明日の午前中に新幹線に乗れば十分間に合うから」

 

 これから私に甘え倒されるとも知らずに、八一はまんまとやって来た。

 というかこいつ、昨日はあんなに甘えたい甘えたい言ってたのに今日は平然としている。昨日のアレはバイオリズムの変化が原因だから一日で元通りになったのか。

 だったら私も明日には元通りの私に戻れるのかもしれないけど……でも問題は今日、ここだ。ここでこの破裂しそうな程の甘えたいエネルギーを余す所なく発散しなければ。

 

「ところでさ、ちょっと気になったんだけど」

「なに?」

「……その、なんでここなの?」

 

 なんでここ、と右手の人指し指を真下に向けながら眉を顰める八一。

 どうやらここを待ち合わせ場所に指定した私の意図、それが気になっているようだ。

 

「別にいいじゃない。懐かしいでしょ? ここ」

「いやまぁ懐かしいっちゃ懐かしいけど……それにしたってここは……」

 

 言いながら八一はどこか居心地悪そうにきょろきょろと周囲を見渡す。

 それもそのはず、ここは居心地良く落ち着けるような場所じゃない。どちらかと言えば落ち着かない場所というか、全体的にメルヘンチックな部屋の内装は妖しい雰囲気を醸し出す為のもので。

 そしてついでに言えば、今私が腰掛けているのはド派手なピンク色のハート型ベッドな訳で。

 

 つまりここは……桜ノ宮という町で。

 桜ノ宮と言ったら……まぁ、ご定番の場所っていうか、その……いわゆる、ラブホテル。

 以前、対局前のルーティンとしてもお世話になったあの場所『HOTEL白雪姫』の一室だ。

 

「ここじゃあ駄目? 何か問題でもあんの?」

「問題っていうか……その、うーん……」

 

 ここは以前にも二人で通っていた場所、今更問題があるとは言えないだろう。

 故に言い淀む八一。ただ何故待ち合わせ場所がここなのかという疑問はまぁ尤な疑問だと思う。

 

 私と八一の密会では基本的にあの部屋が、以前に私が研究用として購入したワンルームマンションの一室で落ち合うケースが多い。あそこはまだ誰にも知られていないし、将棋会館からも近くて便利だからね。

 だから当然今回もあの部屋で待ち合わせようかとも考えたんだけど……結局ここにしたのは……まぁ、なんだろ、あの……ほら、気分転換というか?

 ていうかこっちが近かったから。そう、今日の取材場所からはこっちの方が近かった。その他色々と手っ取り早かったからこっちを選んだだけなので他意は無い。無いったら無いの。

 

「でもさ、さすがにちょっと危険じゃない?」

「危険ってなにが」

「いやだって……前に対局ルーティンとして使っていたあの頃からそうだったけどさ、今はもうあの頃以上に銀子ちゃんの知名度爆上がりしてる訳で、ここを待ち合わせ場所に使うのはリスクが高すぎるような……」

「バレないようにちゃんと変装したから大丈夫。そんな事よりもあま──」

「あま?」

 

 あま、あま、あままま……っ!

 じゃ、なくて……抑えて私、抑えて……!

 

「……ん、んんっ!」

「銀子ちゃん?」

「……ま、とりあえず、座りなさいな」

「あ、そだね」

 

 言われるがままに八一は腰を下ろした。

 私のすぐ隣に。およそ一人分の間隔、40cm程距離を開けて。

 

「…………んぅ」

 

 すかさずにじり寄る私。

 さり気なく重心を横にずらしてずらして、徐々に八一との空間を詰めていく。

 

「ん?」

 

 互いの肩が触れそうな距離まで近付くと、気付いた八一がこちらを見た──が。

 

「………………」

「銀子ちゃん?」

「なに」

「……いや、まぁいいんだけど」

「そう」

「……うん」

 

 返答はしれっとした顔で。あくまで平然を装うのが大事だ。

 ここで弱みを見せてはいけない。今も頭の中は八一で甘える事で一杯一杯などと、そんな事を知られては空銀子の沽券に関わるからね。

 

「……さてっと」

 

 あえて聞こえるように呟いた、これは言わば対局開始の合図。

 こうして八一も来た事だし、早速だけどそろそろ仕掛ける頃合いだろう。

 

 さて、今日ここに八一を呼び出した目的。

 それは勿論、ひとえに私の欲望を解消する為。ひたすらに甘え倒す為なんだけど──

 

 ──しかし、それにはちょっとした問題がある。

 まぁ問題って言う程のものじゃないけど、それでも捨て置けない悩みが一つあって。

 甘えるのはいい。それはいいんだけど、その方法については検討の余地がある、というか……。

 

 ……ほら、つまり……つまり。

 つまりね? ここで私が「甘えさせて?」って真正面から言うのは……ね?

 それはなんか……癪というか。いや別にいいんだけど、でもなんか……あれでしょ?

 分かるでしょ? 分かるわよね? そうなの、やっぱそれはちょっと躊躇うわよね。うん。

 

 だから私は考えた。今日の午前中雑誌の取材を受けながらずっとこの事を考えていた。

 私から攻めるのはリスクが高い。下手に攻めたら八一に引かれるかもしれない。それは駄目。

 となれば……あえて先手は八一に譲る。それが良策と言えるだろう。

 

 つまり私が動くのは後。とりあえず、とりあえずは先に八一に手を出させる。

 まずは定跡通りに男性の方からリードして貰う。そうすればほら、その時は私の方からだって甘えやすい空気になっているはずでしょ?

 言わば後の先を取る作戦。今日の攻め手は受けから構築する、それが私の用意したプラン。

 

 ……え? 直球勝負? 

 いやしないけどてかするわけないでしょそんなのだって恥ずかしいもん。

 それにいついかなる時でも私は棋士。だったら勝負の際には策を講じないとね。

 

 ……という事で。

 

 

「……ん、んぅ」

 

 喉を鳴らしながら、小さく身体を揺すってみる。

 こうしてすぐ隣にいる私の存在をアピールする。その意味が分からない八一ではあるまい。

 個室に二人きり。ベッドの上。恋人のスキンシップを取るのには最適なロケーションだ。

 

 さぁ八一、かかって来なさいな。

 あんたの大好きな空銀子が、こんなにも無防備な空銀子が隣に座っているんだから。

 ほら、先にそっちから手を出すのよ。そして私に思う存分甘えさせて。

 

「……ん?」

 

 ん?

 

「……いや、えっ?」

 

 えっ? と首を傾げる八一。

 

「え、なに?」

「……なにって、なにが」

「いやだから……話があるんだよね? 俺に」

 

 甘える事しか頭に無い私の目を見つめて、その上で八一は淡々と答える。

 話。はなし……大事な話。あぁ、そういえばそんな名目でこいつを呼び出したんだった。

 けれどもそれは建前だ。大事な話なんかないし、あったとしてもそんな悠長にお喋りをしているような余裕なんて今の私には無いから。

 

「……ふぅ」

「銀子ちゃん?」

 

 仕方が無い。この程度では足りないと言うならば次の手を打つまで。

 

「……んっ」

 

 次なる攻めは直に攻撃する。私は座ったままの体勢で身体を横に動かす。

 振り子のように左右に揺らして、自らの肩を八一の肩にちょこんとぶつけた。

 

「んっ」

「え?」

「んっ、んっ」

 

 二度三度と肩で肩をノックする。まるで何かを急かすかのように。

 どう? こんなにもあからさまにアピールすれば気付かないはずは無いわよね。

 さすがにここまですればね。その意図を察するってもんでしょう。

 

「……ん、んっ」

「………………」

 

 さすがに……ここまですれば。

 

「…………え?」

「……なによ」

「いやあの、銀子さん?」

「……だからなに」

「いやほら、話が……あるんですよね?」

 

 …………話とか、今はいいから。

 まだ仕掛けが浅いのだろうか。どうしてか八一は乗ってきてくれない。

 普段ならとっくに食らい付いてきそうなものなのに。今日の八一はにぶちんなのか。

 

「…………ふぅ」

 

 こうなったら仕方ない。更なる一手を放つ。

 これは少し危険だけど──

 

「……ん、んぅ……」

 

 と、艶かしく唸りながら。

 

「……ん、んんーっ……」

 

 両手を前に突き出して、大きく伸びをして。

 

「なんか、今日は堅苦しい雑誌の取材だったから……ちょっと、肩凝っちゃった」

 

 なんて言いながら、前開きの制服の襟元にあるボタンを一つ、二つと外す。

 更にはインナーの首元も捲るように下げて、胸元を少しだけ緩く開放する。

 さすがにタイまで自分で外すのは無理、それは恥ずかしすぎるのでこれが限界だ。

 

「ふぅ……」

 

 そうして、身体をほんの少しだけ横に倒して八一に寄り掛かる。

 ど、どうだ。これ以上の挑発の手はもう無い。これが空銀子必殺の誘い受けだ。

 この渾身の勝負手で……さぁ八一、来なさい!

 

「……銀子ちゃん、どしたの?」

 

 こ、こいつ……! 肝心な時に限って全然手を出してきやがらないし……っ!

 普段なら「銀子ちゃーん!」とか言ってとっくに抱き付いてきそうなものなのに。

 今日に限ってなんなんだ。まさかバイオリズムの変化で平常時よりもにぶちんな日なのか。

 

「ん、んんぅ……っ、んー……!」

 

 私は必死に身体を揺すってみたり、わざとらしく喉を唸らせてみたり。

 ほらっ! 気付いて八一! 対局時のような神憑り的な思考の冴えを見せなさい!

 こんなに! こんなにも無防備で美味しそうな獲物がすぐ隣にいるのよっ! ほらぁ!!

 

「……銀子ちゃん?」

「……なに」

「いやだからさ……話ってなんなの?」

 

 なんなの? じゃないでしょむしろなんなんだお前は。やる気あんのか。

 ていうかラブホに呼び出して真面目な話をするとでも思ってんの? バカなの?

 

「……くっ」

「え、なんか怖いんですけど。なんでそんな恨めしそうな目で俺を睨むの?」

「………………」

 

 ……まぁ、正直私にも過失はある。

 大事な話があるから、という呼び出し文句は悪手だった。それは認めようじゃないの。

 ……けどねぇ! こんな状況になったら話なんてどうでもいいでしょ! 話なんて!

 

「はにゃ……」

「はにゃ?」

 

 うぅ、もうだめだぁ。

 甘えたいエネルギーが爆発間近なせいで、なんかもう上手く喋れなくなってきたぁ。

 

「……やいちのばか」

「……えっと」

「ばか。ばかばか、ばか」

「え、ええっとぉ……あ、俺分かりました」

 

 分かった? 分かったってなにが?

 

「えー……察するにですが、恐らくは俺が何かをやらかしてしまい、今日はそのお叱りの為に呼び出された……ってことですね?」

「………………」

「ほら、その反応はアタリだ」

 

 全て読み切ったと言わんばかりな顔の八一だけど……ううん、全然違うから。大ハズレだから。

 今日は本当に察しが悪い。ほんと八一ってアホでスケベなくせしてにぶちんのおバカで……。

 九頭竜八一とはそういう男だ。それなのに、そんな八一にこんなにも……わたしは。

 

「…………くぅ」

 

 だって、だってしょうがないじゃないの。今日はもう朝からずっと我慢してきたんだもん。

 今日はほんとにやいちに甘えたくて……ずっとずっと甘えたくて……あぁだめ、もう限界。

 

「…………にゅう」

「ぎ、銀子ちゃん?」

 

 辛抱堪らず、私は自分のおでこを隣に座る八一の胸元に押し当てた。

 そしてそのままおでこでぐーりぐーり、ぐーりぐーり。

 

「……やーいーちー」

「な、なになに、どしたの?」

「あたまなでて」

「え。あ、うん……」

 

 一瞬躊躇があったものの、すぐに八一の手が私の頭の上に乗せられた。

 そしていつものように優しく、慈しむような手付きで……なーでなーで。

 

「なーでなーで」 

「うぁ……」

「なーでなーで、よーしよーし」

「……はふぅ……」

 

 あ、あぁああ……やいちの手が、やいちのぬくもりが……わたしの脳を溶かしていくぅ……。

 まるで小動物になって愛でられている気分。あぁこれほんとだめ、心地良くて死にそう。

 もう作戦とか駆け引きとかどうでもいい。ていうか最初からそんなの無視して良かった。今日はとにかくこうしたかったんだから。その為に日中ずっと耐えてきたんだから。

 

「んぅ……やいち……」

「よーしよーし……なんか今日の銀子ちゃんは大人しいね」

「……んー?」

「いやほら、こうやって頭撫でたりすると嫌がる時だってあったりするじゃん?」

「んー……」

 

 頭撫でられるのを嫌がる時、あるかな。……まぁ、あるっちゃあるかもしれない。

 その時の八一の絡み方がウザったい感じだと鬱陶しく思う時はある。つまり大体は八一の方に原因があるんだけどその事には気付いていないようだ。

 

「そういえば今日は雑誌の取材だったって言ってたけど、もしかして疲れちゃった?」

「……んー、まぁ」

「そっか。お疲れ様」

 

 ゆっくりと労るように、八一の手が私の頭を撫で続ける。

 アホでスケベでにぶちんでおバカな八一だけど、更に言えばこいつはロリコンで。ロリコンなおかげで幼女や小学生をあやす技能を習得している。

 故にこうして頭ナデナデするのは上手い。この右手の温もりが堪らない。八一の右手好き。

 

「……でもさ、銀子ちゃん」

「……んぅー?」

「まさか頭を撫でて欲しいからって呼び出したわけじゃないよね?」

 

 そうだけど。そのまさかだけど。なに、なんか文句でもあるわけ?

 ……とか言いたいけど、さすがにそんな事は言えない。あまりにも子供じみている。

 

「……そんなわけない」

「だよね。でも、じゃあ……」

「……んー」

 

 頭をなでなでされながら、顔を八一の胸元に埋めたままの私。

 どの道こんな姿のままでは子供じみていると言われても反論は出来ない……けど。

 とはいえ思い返してみると、昨日は八一が今の私みたいな姿になっていた。言い換えれば今の私は昨日の八一と同じ姿をしている訳で。

 となれば私と八一にはニ歳の年齢差がある分、まだ私の方がセーフだと思う。そうでしょ?

 

「……きのう」

「昨日?」

「うん。昨日会った時……なんか、ちょっと、わたし……八一に冷たかったかな、って」

 

 そんな思い付きの言い訳に。

 

「え……あぁ、そういうことか」

 

 一瞬言葉を途切れさせた八一だったが、すぐに納得したように頷く。

 それで緊張が解けたのか、一旦両手を緩めると改めて私の頭に置き直した。

 

「そっか、昨日の事が気掛かりだったんだね。それでこうして銀子ちゃんの方から時間を作ってくれたって訳だ」

「……ん」

「なら変に気を遣わせちゃったね。昨日の埋め合わせなんて別に……そんなの全然気にしなくて良かったのに」

 

 苦笑するように呟く八一。ただ生憎とそれは誤解もいい所なんだけど……。 

 けどまぁ、なんか八一が一人勝手に納得してくれているようなので良しとする。

 

「だって、昨日の八一……なんか、すごく甘えたそうにしてたじゃない。それなのに私、昨日は結構適当にあしらっちゃってたような気がして……」

「あぁ、あれは……いや、昨日の俺はね、ハッキリ言って冗談みたいなもんだからさ。本当に」

「冗談?」

「うん、冗談。軽口というか、そういうノリっていうかさ……あるじゃん? とにかくそんな真面目に捉える程のもんじゃないんだって」

 

 ううん八一、これは冗談じゃないの。本当に何一つ冗談なんかじゃないから。

 これは軽口やノリなんかじゃ済まない。八一に甘えたいエネルギーが爆発しそうで、朝から生きるか死ぬかの瀬戸際にいた今日の私にとってはちっとも冗談になってないから。

 

「……でも、そっか。大事な話っていうから俺ちょっと身構えちゃっててさ。けど別にお叱りとかそういう類の話じゃなかったんだね」

「ん……」

「ていうかむしろ……嬉しい話だったり?」

 

 ん?

 

「そっかそっかー、そうなんだー、そういう事だったんだねー銀子ちゃん」

「んぅ、……わっ」

 

 段々と八一の声が弾んできた、とか思っていたらその両腕が私を包み込んできた。

 そしてそのまま背後に、八一にハグされたままハート型ベッドに倒れ込んだ。

 

「じゃあなに? 昨日俺にそっけない態度を取っちゃって、んでその事が気になっちゃってて」

「……ん」

「それですぐ次の日に埋め合わせしなきゃーって思っちゃったってこと? いやぁもうほんと可愛いなぁ銀子ちゃんはー、そういうとこマジ可愛い」

「…………んぅ」

 

 ……なんか、全然見当違いの話で八一は嬉しそうにしてる。

 どうやら今回の私の行動が心のツボに刺さったというか、八一的にはアリだったようだ……が。

 そう言われたとて、そんなつもりじゃなかったこっちとしては反応に困ってしまう。

 

 ……でも。

 

「可愛い、可愛い」

「……うぅ、……んみゅ」

 

 八一の手が。私の髪を撫でる。さわさわする。

 そして顔にも触れる。ほっぺむにむにしてくる。

 

「かわいいな、かわいいなー」

「……んにゅ……ぁ……」

「銀子ちゃんかわいいなー。こんなかわいい恋人がいて俺は幸せ者だなー」

 

 八一の顔が、すぐそばにある。八一の髪の匂いが伝わってくる距離。

 たとえ見当違いでも。それでも八一にかわいいかわいい連呼されると……わたしは、弱い。

 弱いのだ。あぁ、頭が、頭の中があつい。うぅ、顔がぼぉってしてくるよぉ……。

 

「んにゅう……やいちぃ……♡」

「ん、おいで」

 

 少し身を捩って八一の方に身体を寄せる。

 するとそんな私の意図を察したのか、八一は両腕を開いて私を招いてくれた。

 

「ふぁ……」

「はー……銀子ちゃんとこうして連日イチャつけるなんて……ラッキーだなぁ」

「んぅ……」

 

 あぁ、八一の腕の中……ふわふわする。

 八一に大事にされている感覚、八一にちゃんと守られている感覚、しあわせ。 

 なんかもう今日はこのまま八一に甘えるだけの子猫になりたい。んにゃー。

 

「んにゃあ……」

「よーしよし、銀子にゃん、なでなで」

「んにゃにゃあ……」

「銀子にゃんはいい子だねー、かわいいねー」

 

 ふわわぁ……やいち……ちゅき……♡

 

「んー……」

「おや、眠そうな目をしてる。銀子にゃんもうおねむかい?」

「んにゅう……」

 

 んー……だって、あまりにここちよすぎて。

 あたまもからだもぽかぽかするし、やいちがいてくれるから。

 

「んぅー……」

 

 このまま……──

 

「…………はっ!」

「おぉ、起きた」

 

 バッと目を覚ます私。危ない危ない、寝ちゃうところだった。

 この通り、八一とのイチャつきはあっという間に私の脳を溶かしてしまうから怖い。

 

「別に寝たっていいけど。疲れてるんでしょ?」

「寝ないわよ。そんな子供じゃあるまいし」

 

 そんなのは駄目だ。私はなにも寝る為にここに来た訳では無い。

 ていうかせっかく八一が隣に居るのにすぐ眠っちゃうなんて勿体無いし。

 それにまだ足りない。まだ全然甘え足りない。朝からの甘えたい欲がまだ沢山残っている。

 

「八一。もっと」

「もっと?」

「うん、もっと」

 

 そうおねだりしてみると、私を抱く腕の力がちょっとだけ強くなった。ん、よろしい。

 

「ていうかね」

「ん?」

「八一はね、私への優しさが足りない」

「え。……そうかな?」

「うん」

 

 そうなのだ。今日一日、極限状態を耐えてきた私にはそんな疑惑が生まれてしまった。

 今日は朝から猛烈に八一に甘えたい気分だった。──がしかしそれは普段からの甘えが足りていなかったから。つまり八一の優しさが足りていなかったからではないだろうか。

 だからこそ甘え欠乏症になって、今日の私はこんな事になってしまったのではなかろうか。

 

「つまり八一が悪い。八一のせいで今日は大変だったんだから」

「俺のせいって……いやでも異議あり、俺ってそんなに優しくないかな? お互い予定が合わない時はしょうがないとして、会えた時にはちゃんと彼氏らしくしてるつもりなんだけど」

「……どうかしら」

 

 不満げに答える私。

 だけど……まぁ、異議を申し立てた八一の主張は分からないでもない。

 私だって八一が全然ちっとも優しくないだなんて言うつもりは無い。そんな事は無い。

 

「……まぁ、優しい時もあるけど」

「だよね?」

「んー……」

 

 というかむしろ……基本的に八一は優しい部類の人に入るとは思う。

 その優しさが誰にでも、特に女性とあらば誰にでも優しくしがちなのは大きな欠点だけど……いずれにせよ八一が優しい事には変わりない。

 そう。八一は優しくて……そんな八一に私がつい甘えてしまった事も、ちょっとはある。……まぁ、多少はある。ある程度はある。

 

 しかしだ。そうは言ってもね、そもそも八一は私よりニ歳も年齢が上なわけで。

 そして私と八一は実質的には姉弟みたいなもの。四歳と六歳の頃から一緒に居たわけで。

 年下が年上に甘えるのは当然だ。となればこの私空銀子には原則的に九頭竜八一に対する甘える権利が発生しているわけなんだけど……それ程までには甘えていない、と私はここで主張したい。

 例えば一般的な四歳児と六歳児の姉弟が一般的に甘える量と比較した場合、私はそれ程までには八一に甘えていない、甘えてきていないのだ。ちなみにこれに関して異論は受け付けない。

 

 という事で。出会った頃から換算すれば私には八一に甘えるべき時間が大幅に足りていない。

 その生涯甘え分、つまり出会った時から今までに本来甘えるはずだった分の総量から、実際に甘えて取得してきた量を引いた分、それがマイナスである事が今回の甘え欠乏症に繋がっている。

 要するに空銀子が本来得られるはずだった甘えたい欲の損失分、更にはその利息までを含めて私は八一から受け取る権利があるってわけ。

 え? 何言ってんだかよく分からないって? そんなもん私だってよく分かんないわよ。

 

「とにかく私には甘える権利がある」

「そ、そっか。なんだか凄い自信だね」

 

 っていうかいいじゃないの、甘えたって。

 八一は私よりも年上なんだから。年下である私には甘える権利があるってものだ。

 そうでなくともか弱い乙女なんだし、彼氏に甘えたいと思う事の何がおかしいと言うのか。

 

「そういう事だから。八一、もっと甘やかして」

「分かった分かった。銀子ちゃんを甘やかすぐらいお安い御用でございますよー」

 

 もう一度八一の手が私の頭に触れて、私の銀髪を透くように撫で始める。

 ていうかこの私が八一に甘える時間が足りていないというのなら、その場合は八一だって私を甘やかす時間が足りていないという事になる。

 私と八一は言わば表裏一体なんだから。私がこうして甘やかされて幸せになっている以上、八一だって私を甘やかして幸せになっているはずだ。ぜったいそうだ。てかそうじゃなきゃやだ。

 

「素直な銀子ちゃんも可愛いなぁ、よしよし」

「ん……やいち……」

「銀子ちゃん……」

「んゅ……やいちぃ……♡」

 

 首元に優しくキスをされる。わたしはまたふわふわしてきた。ふわわ……。

 どうして八一に触れられるとわたしはすぐこうなっちゃうんだろう。ほんとにふしぎ。

 

「ん……んぅ……やいち、もっとさわって……」

「……銀子ちゃん」

 

 でも……先の通り、私と八一は表裏一体だ。

 つまり私がふわふわになる時、八一もまた──

 

「……俺も明日から東京出張だし、今日の内に銀子ちゃん成分をたっぷり補給しておかないと」

「んぅ……行っちゃやだ」

「いや、さすがにそれは難しいかな……」

「むー……」

「だから……ねぇ、銀子ちゃん」

 

 んー? なぁにー?

 と私がぼんやりしている間に、八一は身体を起こして私の上に覆い被さってきて。

 

「……いい?」

「……ぇ」

 

 そして、私を見つめてくる。

 そんな八一の目の奥には──熱いものが。

 対局中の熱とは大きく異なる、でも同じくらいに熱く渦巻くなにかがあって。

 

「や、八一……あんたって、もう……すぐそういう方向に持っていこうとする……」

「いやだってさ、場所も場所だし……」

 

 その熱の意味が理解出来ない程、私はもう子供じゃない訳で。

 

「優しくする、今日は特に優しくするから、ね?」

「あっ……」

 

 八一の手が私の片手を取って、そのまま上に押し上げる。

 それだけでもう私は殆ど身動き取れない、八一にされるがままになっちゃう体勢。

 

「やい、ち……」

 

 ちょ、ちょっと待って、まって八一。

 違う、違うの。私はただ甘えたいだけ。今日の私はただただ甘やかされたいだけなの。

 だから別に、私は……別に、そういう事を望んでいたわけじゃなくて。

 

 だから──

 

「……う」

「銀子ちゃん……いいよね」

 

 よくない、よくないよ。

 よくないのに──

 

 

「……うにゃあ♡」

 

 しかし──嗚呼、どうしたことか。

 私の喉奥からはまるで猫みたいな甘ったるい声しか出ないではないか。一体どうして。

 

「今日の銀子ちゃんは本当に素直だね。……かわいいな」

 

 私の鳴き声を了承の合図として八一が動く。

 

「んぅ……♡」

 

 そして唇と唇が触れる──キスをする。

 八一とのキス。そういえば今日はここまでおあずけ状態だった。もっと欲しい。

 

「ちゅ、ぁ……もっと……♡」

「ん……」

「ん……ちゅ、やいち、すき……♡」

 

 そのまま何度も、啄むような口付けの感触を味わいながら。

 私は頭の片隅でふと思う──これも要するにそういう事なのかな、と。

 つまり……そう、バイオリズム。

 

「銀子ちゃん……」

「ふぁ……あ、やいち……っ」

 

 心と身体のバランスの波、バイオリズムの変化による影響。

 なるほどこれは中々悪くない言い訳かも……なんて、そんな事を考えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして──その後。

 色々あって、私の中に疼いていた八一に甘えたい欲もようやく収まってきた頃。

 

「ねぇ、銀子ちゃん」

「なに」

「今更だけどさ、今日の銀子ちゃんって全体的に様子が変だったけど何かあったの?」

 

 とか、八一が聞いてきた。

 

「それは……」

「もしかして今日の取材で嫌な事でもあった? ストレスの溜まる質問攻めを受けたとか」

「ううん、そういうのじゃなくて……」

 

 今日は朝起きた時から体調がおかしかった。

 とにかく甘えたかった。居ても立っても居られなかった。猛烈に八一に甘えたい気分だった。

 それ以外に説明は出来ない。とにかくそうなってしまったのだから仕方が無い。きっと昨日八一が言っていたように、バイオリズムの変化でおかしな感じになってしまったのだろう。

 

「……ってことなの」

「ふーん……」

 

 とか、そんな私のあれこれを。

 さすがに直接言うのは恥ずかしいので、やんわり遠回しな言葉で説明してみた。

 

「……でもさ」

「ん?」

 

 すると。

 

「それってさぁ、ただ単純に発情してたってだけじゃないの?」

 

 とか言ってきやがったので、その憎らしい頬を思いっきり引っ叩いてやった。

 

 

 

 

 

 


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