銀子ちゃんを可愛い可愛い×5するだけの話(+短編集)   作:銀推し

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八一と銀子が同棲を始める話⑥

 

 

 

 大阪府大阪市、福島にある関西将棋会館。

 そこから歩いて十五分程の距離に流れる大川沿いにあるマンション。その801号室。

 

「たっだいまー!」

 

 帰宅と共に俺は元気よく挨拶! やっぱり何事も元気が一番!

 

「………………」

「ちょっとちょっとぉ銀子ちゃん、ここは『おかえりー』って言ってくれないと」

「うっさい。早く部屋に入って、玄関広くないんだから」

 

 相変わらずのクールな物言いで返しながら俺の尻をど突いてくる銀子ちゃん。ちょ痛い痛いって。

 だけどそんなつれない態度を取れるのも今だけだ。もうまもなく俺達はここで「ただいま」と「おかえり」を言い合う関係になるのだから。つまり──

 

「という事で!」

「うん」

「今日この日! この時から! めでたく同棲生活開始です!」

 

 やったぜ!! いえーい!!

 

「はいはい、おめでとおめでとー」

 

 ぱちぱちぱち、と全く気持ちの入っていない乾いた拍手をくれる銀子ちゃん。

 記念すべき今日という日の幕開けにしてはどうにも盛り上がりに欠けるけど……まぁいいや。この子のこういう気の無い態度は得てして本心の裏返しであると分かっているので今更そこは問うまい。

 とにかく! 誰が何と言おうとこれはめでたい事なんだ! いよいよ同棲生活の始まりなのだから!

 

「遂に、だね!」

「……ん」

「遂に俺達の幸せハッピーラブラブ同棲ライフが始めるね! やったね!」

「……んー」

「更に言えば! すでに婚約している俺達にとってこれはもう結婚生活みたいなもんだよね!」

「……んぅ」

 

 小さく呻いて、その左手薬指に光る婚約指輪をさすさすと擦る銀子ちゃん。かわいい。

 この可愛い女の子は俺の姉弟子であり恋人であり婚約者、そして今日からは同棲相手にもなる。その事実を前にして気分が高揚しないはずがない。多少の緊張もあるけどそれ以上のドキドキワクワクがある。

 

「なんだか感慨深いなぁ、プロポーズしてからというもの今日という日をずっと待ちわびていたよ」

「……んぅ」

「いいや、思えば封じ手を開封して付き合い始めたあの頃からかもなぁ。あの頃から銀子ちゃんとなるべく多くの時間を一緒にいたいって、そういう関係になりたいなぁって思っていたよ」

「……んぅ~」

「銀子ちゃん、お顔をリンゴみたいにしてないでそろそろ何かコメントちょうだい」

「な、何を言えばいいっての!? ていうか赤くなってなんかないっ!」

 

 十分赤くなってるんだよなぁ。この子は地肌が真っ白なので特に分かりやすい。つまり可愛い。

 

「とにかくさぁ、せっかくの同棲生活開始初日なんだからもっと明るく楽しくいこうよ!」

 

 下見から進めて準備作業も終わって、いよいよ今日から楽しい楽しい同棲生活!

 そんな気分で俺が言うと、銀子ちゃんは恥じらう気持ちを切り替えるように一度頭を振って。

 

「別に暗くしているつもりは無いんだけど……まぁいいわ、そう言われると確かになんかめでたいような気もしてきたから」

「でしょでしょ? 付き合い始めた日や結婚した日が記念日になるんだからさ、同棲を始めた日だって立派な記念日だよ。特に俺達にとってはあの頃に戻った日とも言えるわけで」

「……確かにそうだね。見方によっては内弟子生活の再スタート、みたいな感じかも」

 

 もう婚約までしちゃってるのに、変なの。と言って銀子ちゃんはくすりと笑う。

 

「ちなみにね。私、八一との内弟子生活にはあんまりいい思い出が無いんだけど」

「へぇ? そうなんだ。その台詞はむしろ恐ろしい姉弟子にずっと虐げられてきた弟弟子側の台詞だと思っていたんだけどな」

「虐げるだなんて人聞きの悪い、おバカを一端の真人間になれるよう矯正してあげていたんでしょ。将棋の上達のみならず人格形成まで面倒見てくれていた姉弟子様の献身に感謝しなさいよね」

「しかしその結果、肝心の姉弟子様の人格形成に問題が生じたように思えますが、その点はいかがか?」

「完全に気のせいね。私は八一と違って出会った当時からもう一端の真人間だったから」

 

 ははは、よく言うぜ。一端の真人間は復讐を目的に内弟子になったりはしないでしょうに。

 でもいいな、こうして言い合えるだけでもうなんか楽しい。こんな軽口を叩き合えるのも銀子ちゃんだからこそで。これ程大事に思う一方でなんら遠慮しなくていい相手というのは唯一無二だと思う。勿論お互いにとって。

 あい達との同居は基本的に保護者目線になるけど銀子ちゃん相手ならそうはならないから……そういや内弟子生活を送っていたあの頃もこんな感じだったな。なんか本当に当時の環境に戻って来たみたいだ。

 

「ところで。これが同棲じゃなくて内弟子生活の仕切り直しだって言うなら……いっそあの頃に倣って、まずは対局から始めてみる?」

「お、そりゃいいね」

 

 それじゃあ早速、一局指そうか──

 

「──と言いたい所だけど、残念ながらそうはいかないんだ」

「む」

「なんと言ってもこれはあくまで同棲だからね。何もかもを内弟子と一緒くたには出来ないよ」

 

 当時の環境に戻って来た。──そう表現出来る部分もあるけど、そうじゃない部分だってある。

 それは例えば──あの頃の俺達は、ただ弟弟子と姉弟子という関係だった。そんな俺達がする事といえばほぼ将棋だけ、俺の記憶に残る当時の思い出だって将棋に関係する事ばかりだ。

 しかし今は恋人であって婚約者。であればあの頃には成立しなかった指し手が、姉弟関係では許されない触れ合い方があるではないか。より有り体に言えば……そう、イチャイチャがあるっ!

 

「じゃあ銀子ちゃん。早速だけど……始めようか」

「……うん。そう……だね。それじゃあ──」

 

 今日から同棲生活を始めるラブラブカップルが。

 ここ大事だからもう一度言うね、超ラブラブカップルが。

 結婚の約束まで済ませた超超超ラブラブカップルが最初にする事と言ったら当然──!

 

「掃除ね」

 

 ……そう、掃除だ。イチャイチャではなく。

 

「はいこれ、拭き掃除用のウェットシート。替えはあるからじゃんじゃん使って隅々まで綺麗にしてね」

「へい」

「でこれが洗剤。用途に応じて洗剤の成分が違うからちゃんと使い分けること」

「へーい」

 

 いや違うんだよ。俺はね、俺はのっけからイチャイチャでも全然良かったんだけど……でも銀子ちゃんが、銀子ちゃんが駄目だって言うから。

 なんとも悲しい事なのだが、銀子ちゃんにとっては婚約者とのスキンシップよりもお部屋のお掃除優先なのである。買い込んだ荷物袋の中から必要な掃除用具をテキパキと取り出していく。

 

「全く、八一が悪いんだからね? この部屋の掃除は全部任せていたはずなのに……ずっとほったらかしにしてくれちゃって」

「へぇ、すいやせん。お掃除サボっちゃっててすいやせん」

「まぁでもここを一年間ほったらかしにしたのは私も同じだからそれは大目に見てあげる。とにかくそういう訳で、何を始めるにしてもまずはお掃除。ぱっぱと終わらせるわよ」

 

 まぁでも実際問題掃除は必要だ。これからこの場所が生活基盤となる以上清潔にしないと。約一年間掃除をサボってたのも事実だし。

 正直俺一人で住むのなら多少散らかっていたりちょっと埃っぽくても気にしないんだけど、銀子ちゃんも一緒となればそういう訳にはいかない。銀子ちゃんは結構綺麗好きなのである。

 

「とりあえずキッチンやリビングの拭き掃除から始めよっか」

「そうね、このままじゃ昨日買ってきた物だって広げられないし」

 

 という事で、お掃除開始。

 取り出した掃除用ウェットシートでキッチンの調理台やシンクを丁寧に磨いていく。

 

「よいせ、よいせ……っと」

「どう? 綺麗になりそう?」

「まぁ油汚れは無いからね。銀子ちゃんがここで自炊をしなかったのが功を奏したみたいだ」

「ふふん、そうでしょ? 私は先の先までを読んで出〇館を利用していたんだから」

 

 などと言うとりますが……まぁいいや、その分掃除が楽なのは事実だし。

 そんでキッチンの次はリビング。テーブルの上や椅子の上などをこれまた丁寧にふきふきしていく。

 

「八一、ドライシート貸して」

「はいよ。……なんかこの机って埃を拭き取ったらすごい綺麗だね、傷一つ付いてないや」

「殆ど新品みたいなものだからね。買うだけ買って置いておいただけだし」

 

 きっと本来の想定では活用場面もあったんだろうけど、そうなる前に銀子ちゃんが体調を崩しちゃったわけだ。

 とは口に出さないけど……とにかくそういう理由で購入時とほぼ変わりない状態で置かれていた家具達をふきふき、ふきふき。

 

「なんだか中学校の掃除の時間を思い出すよ。あの頃は雑巾を使っていたけど」

「中学校? 八一が中学生だったのってもう四年ぐらい前でしょ? ちょっと思い出遡り過ぎじゃない? 前に住んでいた家では掃除をしていなかったの?」

「えーっと、あー、前の家はお手伝いさんみたいな人も込みで住んでいたからさ、気付いたらその人がやってたーみたいな感じだったかな?」

「へぇ……ちなみにその前の家は?」

「その前はー、えー、まぁそっちはそっちで……ほら、同居人が家事全般得意だったから……」

「なーるほど。内弟子に掃除させて自分は楽してたってわけか。良いご身分ねぇホント」

「いや違うんだよ! 声を大にして言うけどね、俺が強制していたってわけじゃないから!」

 

 本人がしたいって言うから! 内弟子としてせめてもの恩返しだって言われたら断れないじゃん!

 俺も手伝うよって何度も提案したんだよ? けどこれは好きでしている事だからって、師匠はゆっくりしていてくださいって、笑顔でそう言われたらもうそれ以上言える言葉なんてないじゃん?

 

「俺達だって内弟子時代は毎日桂香さんの隣に立って家事のお手伝いを色々していただろ? 内弟子ってのはきっとそういうもんなんだって」

「はいはい。言い訳はいいから……それよりも八一、ソファのシーツを替えるの手伝って」

「おっけー了解……って、このソファのシーツって替えられるの?」

「うん。このソファは張り替えが出来るタイプで予備のシーツも買ったはず。ただ……替えたシーツをそのまま洗いたいんだけど、洗濯機の使い方が……」

「あぁ、ここの洗濯機はまだ使ったことないとか言ってたね。んじゃシーツ替えは俺がやるから銀子ちゃんは洗濯機の取扱説明書を探してきなよ」

「分かった。はいこれ替えのシーツ。……ええっと、確か……インテリアコーディネートを注文した時に貰った書類系は全部まとめて何処かに……」

 

 ソファに掛かっていたシーツをはがして丸めて、新品のパッケージに入っていた新しいシーツを掛け直す。

 そうこうしている内に銀子ちゃんが洗濯機の取扱説明書を見つけてきた。それによると……なになに、ええと、蓋を開いて電源ボタンを押して洗濯方法のオプションを選んで決定、と……おぉ、動いた動いた。

 

「良かった、ちゃんと使えそうだ。シーツの他にも洗うものがあれば入れちゃっていいけど」

「そうねぇ……じゃあここにあるタオルとか全部洗っちゃおうかな。一年間置きっぱなしのやつだし」

 

 棚の上に綺麗に畳まれていたバスタオルやフェイスタオルもだばだばと投入して。

 そうして一杯になった洗濯機に洗剤と柔軟剤を入れて、運転開始。

 

「これでよし。洗い終わったらそのまま外に干しちゃえばいいよね。今日はいい天気だし」

「うん、そうだね。……あ、でもその前にベランダを掃除しておこうかな。八階とはいえ一年間もほったらかしじゃ埃が溜まっていそうだし」

「確かにそうした方がいいか。俺も手伝う……と言いたいところだけど、ベランダを二人で掃除するのはちょっと窮屈だよね?」

「うん。ベランダは私一人でいいから八一はお風呂場の掃除をお願い」

「りょーかい」

「ちゃんとカビ取りもしてね」

「分かってるって」

 

 という事でここからは作業を分担して掃除をする事に。

 俺の担当はお風呂場。風呂掃除はともかくとして、カビは……一年間使用していなかった風呂場なんだからカビなんて無いよね……と言いたい所だけど、残念ながら床の隅などには小さなカビの痕跡がぽつぽつと。

 

「水は使っていないはずなのに……日本の湿度のせいなのかな? しゃあない、買ってきたカビ取り洗剤を使わないと……あれ目が痛くなるから嫌いなんだよなぁ」

 

 カビは見た目以上に健康にも良くないからね。銀子ちゃんの為にもしっかり駆除しないとね。

 まずは浴槽の掃除からしようか。てかそういやこのマンションの浴槽をちゃんと見るのは初めてだけど結構広くていいね。これなら二人でも十分……おっと。

 

「……ふぅ、しっかしなぁ……」

 

 なんかこうやって……銀子ちゃんと分担して部屋の掃除とかしていると……なんか、良いね。

 同棲している感っていうか、ここで銀子ちゃんと一緒に生活をする実感が増してくるっていうか。

 

「日常がこんな感じになるのか……いい、いいね!」

 

 この高揚感や充足感は……例えるのが難しいけど、これまでに俺が経験してきた同居の例とは別物だろう。俺自身の内弟子経験とも、あいとの同居とも、天衣との同居とも。

 それはきっと目的が異なるからだ。内弟子ってのは将棋を目的としたものだし、天衣との同居は少々特殊な事情が重なった結果で……その一方この同棲は純粋に一緒にいる為のもの、将来を見据えてのものだ。

 そう考えればこれまでの例と違っていて当然だ。多分これは俺だけじゃなくて、きっと誰にとっても恋人というのは……というか、今となっては婚約者ってのは特別な存在なんだなって実感するよね。

 

「なんつーかこう……頑張らなきゃなって気分に自然となるっていうか……あれだね、結婚を機に戦績が良くなったりするのってこういう所からくる影響なのかもな」

 

 風呂場用洗剤を一面に塗して、スポンジで風呂場の隅々まで磨き上げて。

 その後残ったカビにカビ取り剤を噴射。数分間を置いたのちに水で流せば綺麗さっぱり。

 

「よし。ひとまずこんなもんかな」

 

 銀子ちゃんがここでシャワーを浴びた時にムッと眉を顰めない程度には綺麗になったはず。

 しかし油断は禁物だ。お風呂場のカビは除去よりも予防の方が大事だって聞くし、今度カビ防止剤を買ってきてそっちの処理もしないとなぁ。

 ……とか考えながら、洗面台で手を洗った俺がリビングに戻ってみると、そこには。

 

「おや?」

「……ふぅ」

 

 なんと銀子ちゃんが。

 ソファの上でまったりしているではないか。

 

「つかれた」

「銀子ちゃん」

「もうつかれたー。あとおねがいー」

 

 足をぱたぱたと動かしながらじたばたする銀子ちゃん。子供か。

 さっき俺がシーツを替えたばかりのソファは背もたれが真横に倒れてベッドの形に変形している。どうやらソファを綺麗にしようと言い出したのは頃合いを見計らって一抜けして休憩する為だったようだ。

 

「銀子ちゃん、まだ掃除は終わっていませんよ」

「つーかーれーたーのー。ほら、だって私、まだ病み上がりだから……けほ、けほ」

 

 胸を押さえて苦しそうに咳き込む、フリをする銀子ちゃん。

 

「………………」

 

 そんな姿を目にして俺は……いやぁ、実は俺、こういった流れは過去に何度も経験があってさ。

 内弟子時代なんてこういう面倒なことは大体俺がやらされたからね。その度に思ったものだ、『銀子ちゃんは姉弟子だからって弟弟子の俺に雑用を押し付けてばっかでズルい! こんなの不公平だ!』って。

 

「……銀子ちゃん」

「けほ、けほ……うぅ、つかれたくるしいー……けほ」

 

 しかし今。あれから数年経った今。

 婚約者となった銀子ちゃんに当時と同じような対応をされてみると──

 

「そっか、よく頑張ったね、お疲れ様。なーでなで」

「む……?」

「銀子ちゃんは休んでいていいよ。残りは俺がやるからさ」

 

 寝転んだまま、きょとんとした顔でこちらを見上げる銀子ちゃん。

 その頭を一頻りなでなで撫でた後、俺は掃除を再開。

 

「いいの?」

「いいよ。正直なところ掃除はサボってた俺が全部やらされるものだと思ってたから。多少なりとも手伝ってくれただけ有難いよ」

「そっか。じゃあ私はここで応援してるね。お掃除がんばってねーやいちー」

「はいよー」

 

 掃除機を掛けながらなんとなく手を振ってみる。すると銀子ちゃんも手を振り返してくる。

 ぬぅ……ヤバいな、かわいい。かわいいぞこれ。困った。一体どうすればいいんだ。

 さっきだって足とかぱたぱたさせてさ。普段の銀子ちゃんらしくない子供っぽい仕草でなんかもう……かわいいかよ。

 

「ううーむ、これは……」

 

 こいつぁ強敵だなぁと、今更のように実感したよね。

 多分だけど銀子ちゃんの態度は昔と比べて殆ど変わっていない。それなのに俺の認識や思考が変化してしまったせいで……ただサボって休憩しているだけの銀子ちゃんがなんとも可愛く見えてしまうではないか。

 そのせいで、と言うべきかそのおかげでと言うべきか、とにかく現状に全く腹が立たない。扱いとしてはあの頃と同じなのに、銀子ちゃんは俺に雑用を押し付けてばっかでズルい! こんなの不公平だ! ……みたいな気分に全然ならない。

 

「こういうのはなるべく平等であるべきなんだろうけど……」

 

 同棲や結婚、そうした共同生活を送る上で必須となるであろう家事の分担。それはなるべく平等・公平にするべきだと思う。どちらか片側にだけ負担が掛かるのは良くない。

 特に俺と銀子ちゃんは共にプロ棋士として戦う身、本業で頑張る分家事はちょっとパートナーに任せて~……みたいな言い訳はお互いに出来ないわけで。となれば本日から同棲生活を始めた以上、その第一歩となるこの部屋の掃除だってお互いが平等に頑張るべきなのだが……現実はこれである。

 

「問題、問題よなぁ……」

 

 何が一番の問題ってさぁ、当の俺自身がすんなりと受け入れちゃっている事だよねぇ。

 先程も言ったけど内弟子時代は部屋の掃除とかの雑用はほぼ俺が全部やらされていた。なのでその習慣がもう身体に染み付いちゃっているのか、銀子ちゃんがサボってる横で俺が一人掃除している事の不自然さをおかしいと感じられないのだ。

 でもきっと良いことではないよなぁ、これ。銀子ちゃんにとっても負担が減って楽にはなれど、その分相手への気遣いを増やすという側面もある訳で。いや銀子ちゃんが俺に対してそんな気遣いをするかって言われるとうーんだけど、そうは言ってもあの子はああ見えて意外と──というか、もはや意外でもないのか。とにかくあの透き通った硝子細工みたいな外見通りの繊細な子だから……。

 

「…………(ちらっ)」

「………………」

 

 ちらっと視線を向けてみると、銀子ちゃんは寝転がりながらスマホをぽちぽちと弄ってた。かわいい。

 一見したところ至って普段通りの表情で「なんか八一にだけ働かせちゃって気が引けるなぁ」とか思っている様子は一ミリも無さそうだけど、それでも可愛い。

 

「けどおかしい。普通に考えたらスマホを弄っているだけで可愛いってことはないはずだよな?」

 

 ソファに寝っ転がっているだけの姿が可愛く思えてしまう理由。それはやはり俺の脳がおかしくなっているせいなのだろう。

 ……いや待てよ? 案外そうでもないのか? 本人がただひたすらに可愛い存在なのであれば何をしていても可愛く見えるのがむしろ当然なのではないか?

 あるがままの姿で可愛い。だから常に可愛い。だとしたら……しかしそれではそんな可愛さの概念そのものみたいな相手に俺はどう立ち向かえばいいと言うのか……。

 

「……うん。掃除機はこれぐらいでいいかな」

 

 などと益体も無い事を考えながら、広いフローリングや玄関にまで一通り掃除機を掛け終えて。お次は……あぁそうだ、もう洗濯は終わっているだろうし洗濯物を干さないとな。

 洗い終わったタオルやシーツを洗濯カゴに移して、それを抱えたままベランダへ移動。……おぉ、綺麗になってる。どうやら銀子ちゃんはベランダの掃除はちゃんと済ませてくれたみたいだ。えらいえらい。

 

「そうだよなぁ、別になんも手伝ってくれないってわけじゃないもんなぁ。それに銀子ちゃんが病み上がりってのは事実だし、そりゃ体力だって落ちているだろうしなぁ」

 

 そうだよね仕方ないよね。その上で可愛いんだからもうなんでも許しちゃうよね。

 つーかぶっちゃけた話ね、俺の生活圏に銀子ちゃんが存在しているだけでもう嬉しいんだよね。

 ただここに居てくれるだけで良いっていうか。それだけで満足しちゃってる自分がいるっていうか。

 

「一年近く離れ離れだったからなぁ。近くにいるだけで有難さを実感しちゃうよね、ほんと」

 

 これまで慢性的な銀子ちゃん成分欠乏症だった。その影響と呼ぶべきだろうか。

 会えなかった日々に無理やり自分を納得させて我慢していた事への反動がきている。あぁこれからは我慢しなくていいんだー幸せだー、みたいな気分になってて、それを阻害するストレスを感じる余地が一切無い状態。みたいな。

 

「うん……そうだな、そう考えると別に俺が悪いわけでもないような気がしてきた」

 

 俺は悪くない。勿論銀子ちゃんも悪くない。強いて言うならばこれまでの巡り合わせが悪かった。

 しかして今後はずっと一緒に居られる、その為の同棲生活だ。だから今後は銀子ちゃん成分欠乏症も徐々に改善されていく事だろう、殆どその為に同棲を強行したようなもんだからな。

 

 

 

 

 

 

「よしっと。洗濯物も干したし……とりあえずこんなものでいいかな」

 

 リビングやキッチンや風呂場など、この部屋における居住域はあらかた掃除した。

 勿論まだまだ綺麗にすべき箇所はあるだろうけど、一つ一つ挙げていったらキリがないからな。掃除する機会なんて今後いくらでもあるんだからおいおい手を付けていけばいいよね。

 

「ふぅ、疲れたーっと」

「終わったの?」

「終わったよー、目に見える場所をざっと綺麗にしたぐらいだけどね」

「そっか。お疲れ様」

 

 洗濯カゴを置いてからリビングに戻る。

 するとソファから身体を起こした銀子ちゃんが労いの言葉をくれた。

 

「お茶でも飲む? 頑張ったご褒美に淹れてあげてもいいけど」

「うーん、有難いけど今はいいかな。それよりも……よいせっと」

 

 一人分空いているスペースにすとんと腰を下ろして。

 隣にいる銀子ちゃんに抱き付くように寄り掛かる。はーやれやれつかれたーっと。

 

「む……」

「なんかこのソファってベッドの形にすると背もたれが無くなるから中々落ち着く体勢になれないね」

「だからって寄り掛かってこないでよ。じゃま」

「いやぁ、掃除して疲れたし、ちょっと休憩したいから」

 

 遠慮なく味わう銀子ちゃんの感触、体温。疲れた時には何よりもこれが効くぜ。

 てか今思ったけどこういう広い一部屋だけの家にソファが一つってのは良いね。休憩するなら必然的にここに座る事になるから自然と二人がくっ付くのに持ってこいな環境になっている。

 

「……せっかくお茶淹れてあげようと思ったのに」

「別に飲みたくないわけじゃないんだよ? でもほら昨日買ってきた荷物はまだ置きっぱなしだからさ、お茶淹れるにしても先に急須とかを探して出さないといけないから……」

「あぁそっか、そういえば……掃除だけじゃなくて荷物を出したり、あと模様替えとかもしないとね。ベッドが入るのは週末だっけ?」

「だね。それも込みで準備しないと」

 

 同棲生活初日。開始から二時間程度が経っただろうか。

 ここまでは掃除を済ませただけ、まだまだやるべき事は多い。

 

「つっても初日から一気に頑張ってもしょうがないからね。ゆっくりやろうよ、ゆっくり」

「……ま、そうね」

 

 ……が、しかし。

 そうした雑事などどうでもいいよなと思えてくる。こうしていると。

 

「銀子ちゃん」

「なに」

「銀子ちゃーん」

「なに」

「ぎーんこちゃーん」

「なに」

 

 名前を呼ぶ度に抱え込んだ身体をゆすってみる。けど銀子ちゃんは「なに」としか答えない模様。

 いやぁ、可愛いっす。俺の腕の中で大人しくしている銀子ちゃん可愛い。こう窮屈な体勢にされても「やめて」って言い出さないとこととかホントかわいい。

 

「ねぇねぇ、銀子ちゃんさぁ」

「なんだって聞いてんだけどさっきから。とっとと答えなさいよ」

「いやさぁ、なんかこういうのが同棲の醍醐味だよなぁって俺は今実感していた所なんだけど、銀子ちゃんはどうかなーって」

「知らない。興味ないし」

「正直なところね、俺は掃除なんかどうでもよくて真っ先にこうしたかったんだよ」

 

 なので今日は初手から計画を狂わされていたんだよね。困ったもんだよね。

 その遅れを取り返すってわけじゃないけど、せっかくこんな体勢になっているので銀子ちゃんの顎の下に片手をそっと添えてみる。

 

「む」

 

 すると小さく喉を鳴らした音が聞こえた後、何やら文句を言いたげな表情になって。

 

「……それは知ってた、けど」

「あ、やっぱり?」

「見え見え過ぎ。……つーかあんたさ、最近下心を隠さなくなってきてない? というかもう露骨に出すようになってきてない? 良くない傾向だと思うわよ、それ」

「そう? まぁ確かにちょっと露骨になってきているってのは認めるけど、それが良くない傾向だってとこには異議を唱えたいかな」

 

 赤の他人と言うならまだしも婚約者相手に下心を向けるのはおかしな事ではなかろうて。というか下心なんて言うといかにも悪し様に聞こえるけどこれは俺の本心だからね。ここまで来て隠すようなもんじゃない。

 まぁとにかく、さっき銀子ちゃんの顎の下に添えたままの指をいつまでも遊ばせておくのは勿体無い。そのままくいっと顎を持ち上げて、

 

「んぅ……ふ、んっ」

 

 唇を重ねる。

 こちらの意思が伝わるよう少ししっかり目に。

 

「ちゅ、ん……っ、ほら、やっぱり……ちょっと強引になってきてる」

「ごめん。でも今更遠慮する方が変だと思うんだ」

 

 ──俺達は婚約したんだからさ。そう耳元で囁く。

 

「──んっ♡」

 

 その言葉が持つ効果はとても強力で顕著だ。

 俺にとっても。勿論この子にとっても。

 

「……もう、ばか♡ いくら婚約者だからってちょっとぐらいは遠慮しなさいよね……♡」

 

 かわいい。目だけはこちらを睨んでいるのに顔が真っ赤で表情としては恥ずかしがっている、銀子ちゃん特有の絶妙な顔付き。

 何処か不満そうにも見える、あるいは何か期待しているようにも見える、この神秘的な表情の可愛さをこれ以上言葉で表現する術を俺は知らない。

 

「銀子ちゃん、可愛い」

「っ、……うぅ」

「なんか最近の銀子ちゃんって一段と可愛くなったよね」

「な、なってないわよ、別にそんな、可愛くなんて……」

「なったよ。絶対になった」

 

 嫁だ。お嫁さんだ。

 俺気付いたんだけどさ、再会して以降どうしてこんなにも銀子ちゃんが可愛く思えて仕方無いのかって……その答えは単純明快、恋人からお嫁さんにランクアップしたからなんだよね。

 嫁。お嫁さん。結婚相手。奥さん。花嫁。……どの言葉で表現したとしても胸にグっとくる。その語頭に「俺の」と付ければより一層胸が熱くなる。

 

「婚約効果ってすごいね。こんなにも変わるとは思わなかった」

「ん……そう? そんなに変わったの?」

「少なくとも俺の世界は変わった。そうしようと決めた事で色々踏ん切りが付いたってのもそうだし……さっき掃除してた時なんかもずっと銀子ちゃんの事ばっか考えていてさ」

 

 あの空銀子が。この俺、九頭竜八一の婚約者。

 その事実が嬉しい。俺にとって最上級の幸せと言う他無い。マジでプロポーズが叶って良かった。

 付き合い始めた時もそうだったけどこれは遥かに上回る。婚約効果マジすごいわ。

 

「ねぇねぇ銀子ちゃん。そういや銀子ちゃんって誰と婚約したの?」

「はぁ?」

「誰と結婚するのか、言ってみて?」

「……やだけど」

 

 なんでや。

 

「いいじゃん。言ってよ」

「なんで。そんなの八一が一番よく知ってるでしょ」

「知りたいんじゃなくて聞きたいんだ。この微妙なニュアンスの違い、分かる?」

「…………はぁ」

 

 すると銀子ちゃんは。

 なにやらとっても面倒臭そうに一度大きくはぁと息を吐いてから。

 

「……八一と結婚するけど」

「おっ」

「八一のお嫁さんになるけど」

「おぉ!」

「わたくし空銀子は九頭竜八一と結婚して幸せなお嫁さんになるけど? 何か文句でもあるの?」

「おおぉぉぉ! そんな追加オプションまで! 銀子ちゃん、嬉しいよ俺は!!」

 

 驚く程に素直な態度。感動した俺は思わずぎゅぎゅうと抱き締める腕に力を込める。

 かわいい。嫁がかわいい。嫁最高か?

 

「八一って時々すごいバカになるわよね」

「そりゃしょうがないよ。今の俺と同じ立場になったら誰だってこうなるから」

「またそんな適当なこと言って……」

「本当だってば。強いて言えばこれも婚約効果だね」

 

 世界一可愛いお嫁さんがいるから世界一幸せ。これこそ婚約効果だ。

 ついでに言えばそのお嫁さんが俺の腕の中で借りてきた猫のように大人しくしているのも婚約効果だし、俺のウザ絡みに文句を言いながらも付き合ってくれるのだって婚約効果で。

 

「……ばか」

「銀子ちゃん、顔が真っ赤」

「うるさい……ばか」

 

 更に言えばこの通り、さっき自分で言ってた台詞に今更恥ずかしくなって顔を伏せちゃうのだって婚約効果で。

 更に更に言うならば。さっきこの可愛いお嫁さんの唇の柔らかさを一度味わったけど、それだけじゃもう満足出来なくなってしまったのも婚約効果と言える。

 

「…………うりゃっ」

「え? ちょ、ちょっとっ!」

 

 よって半ば必然的に銀子ちゃんを押し倒した。

 キスだけじゃ全然満足出来なかったので俺は悪くない。銀子ちゃんが可愛いのが悪い。

 

「八一、あんたね、こんな昼間から何を……」

「もうぶっちゃけるけどさ、最初からこれが一番の目的だったんだよね。この前デートした時は買い物が大変過ぎてそれどころじゃなかったから」

「……だから、それは知ってた、けど」

 

 よっしゃ。それならもう実質的に言質は取ったようなもんだな。

 銀子ちゃんは生来の恥ずかしがり屋さんなので直接的な言葉で「いいよ」と言ってくれる事はほぼ無い。なので態度や言葉の端々から伝わるニュアンスでその意思を読み取ることが大事だ。

 だから今回は問題無い。知っていたという事は了承済みという事だ。それに先程からずっと抱き締めていて、その身体の反応に抵抗の意思が無い事はとっくに察知しているからな。

 

「ていうか……さっき掃除をしたばっかじゃないの」

「それが?」

「……埃っぽい、から」

「そんな事気にしないよ」

「私が気にするんだってば……」

 

 だとしても、ここで引く選択肢は無い。

 その意思を込めてじっと見つめる。すると銀子ちゃんは見る見るうちに表情を弱らせて。

 

「……ほんとに強引になった。ばか」

 

 こちらを見上げるその瞳が潤んでいる。朱に染まった頬と相まって……もうなんかエロい。

 でもごめん。これはしょうがないんだ。超照れ屋さんかつディープキスも知らなかった程にウブな銀子ちゃんのペースに合わせていたら……俺にとっては焦れったすぎて到底我慢しきれないんだよ。

 ……とは口には出さないが。いずれにせよ少々強引な攻めになるのは致し方無い。ここまでの指し手でほぼ詰みまでは見えている……しかし油断は禁物、ここに来ての一手頓死だけは絶対に回避したい。

 

「あっ、……」

 

 なので念の為にと、目の前で横たわる銀子ちゃんの胸の膨らみを片手で優しく包み込む。

 

「んっ、ちょっと、もう……♡」

 

 立派とまでは言えないものの確かな感触と弾力で以て自己主張しているそれをふにふにと柔らかく揉み込んで……よし大丈夫だな。この反応ならいけるっ!

 本人の身体に聞くのが一番分かりやすい確認方法だ。そっと優しく触れてみて、銀子ちゃんの声が甘くなっていたらセーフのサインだ。ちなみに不機嫌な時はグーパンか頭突きが飛んでくる。

 

「銀子ちゃん……」

「やいち……♡」

 

 それに押し倒してからここまでの流れで銀子ちゃんは一度も「いや」とは言っていないわけで。

 もはや逆に分かりやすいまである。こういう所とか本当に可愛い。俺の嫁が可愛くて困る。

 

 

 

 ■

 

 

 

 そうして。至福の時間はあっという間に過ぎていく。

 ほんの一時の間に行われたのは──

 

「……ふぅ」

 

 と、息を吐くような……熱い、一戦。

 というか、まぁ……なんて言うか、あれだ。対局。

 そう、言うなれば愛し合う者同士での特別な対局、みたいな。

 

「……はぁっ、」

 

 すぐ隣からは荒い息遣いが聞こえる。

 さっきまではそこに甘くて熱の籠った声も混じっていて……それはもうエロかった。

 

「ふぅ、はぁっ……」

「銀子ちゃん、かわいい」

 

 上気したその頬に伝う髪を除けながら、率直に思った事を言う。

 すると「うるさい」と言わんばかりの目付きで睨まれた。可愛い。

 

「かわいい……」

 

 かわいい……可愛い。可愛かった。まじで本当に可愛かった。

 もうなんか愛おしかった。愛おしさが爆発する。最初の時からずっとそんな感じだけど。

 その感情が強くなり過ぎて、勢いのままに……みたいな対局になりがちだけど、こうして終局した後はさすがに抑えなければならない。じゃないと無限に続けたくなっちゃうから……

 

「……はー、かわいいもんなぁ」

 

 てかなんか……なんかあれだ。ぼんやり気だるい感じがして頭が上手く回らない。

 なんだかこういう情事、じゃなくて対局が終わった後ってなんか無性に気だるいよね。色々エネルギーを沢山使ったし……みたいな。

 言うて俺も体力がある方じゃないからなぁ。所詮は将棋という室内ゲームの魅力に取り憑かれたインドア派な棋士なもんで、どのような事にせよ身体を動かす事は不得手だ。

 

「はぁ……、はぁっ……」

 

 そんで俺以上に体力の無い銀子ちゃんはまだ熱い呼吸を落ち着かせている最中である。

 そんな様子なので今のところ連戦は無しだし感想戦も無しだ。あまり銀子ちゃんに無理させるわけにもいかないからね、このままゆっくりさせてあげよう。

 という意思を込めてその肩を抱き寄せる。すぐに銀子ちゃんがすり寄ってくるのを感じる。かわいい。さっきまで感じていた肌の熱、若干の湿り気が生々しい。

 

「………………」

 

 かわいいなぁ銀子ちゃん。本当に好きだなと本当に思う。

 対局前は恥ずかしがってばっかの銀子ちゃんだけど、終盤に差し掛かるとそうする余裕すら無くなってくるのか、その口から素直な言葉ばかりが溢れてくる。そういうとことかホントに可愛い。

 あまりに可愛すぎてこんな時間にこんな場所で致しちゃった訳だけど……さすがに攻め急ぎ過ぎたか。今思えばもうちょっとムードを重視すべきだったかもしれない。序盤の組み立てに難ありか。

 そういやせっかく替えたばっかりだったのに早速ソファのシーツを汚してしまった。最初からこの展開に持ち込みたいと半ば決めていたわけだし、それなら洗濯は後回しにした方が効率的だったか。うーむ、まだまだ読みが浅いなぁ俺も。

 

「はぁ……ふぅ、」

 

 ……とか、どうでもいい事をつらつらと考えてしまう。

 すぐそばで聞こえる銀子ちゃんの呼吸が、その身体の揺れが落ち着いていくのを感じながら……ぼんやり。

 

 つーかこれ、今気付いたんだけどさ。昼間にこういう対局をすると……なんか次の行動に以降する切っ掛け、みたいなのが無くて困るね。なんか気分が落ち着いちゃうっていうか、まったりとしたまま動けない。

 夜に致したなら普通にそのまま寝ちゃえばいいし、つーか実際銀子ちゃんはすぐ丸くなって寝ちゃうんだけど。でもまだこんな真っ昼間だとどうしたもんか……いやいっそこのままお昼寝ってのもアリなのかな?

 

「……やいち」

「ん?」

 

 とか、そんな事をぼけーっと考えていたら。

 ようやく呼吸を落ち着かせたらしい銀子ちゃんがその口を開いて、

 

「……おそば」

 

 おそば?

 

「食べよっか」

 

 食べる? 

 お……そば、を?

 

「え、あ、蕎麦?」

「うん。お蕎麦。お腹空かない?」

「はぁ、まぁ確かに空いたっちゃ空いたかもだけど……」

 

 ええと、現在時刻は……駄目だ、近くに時計が無いから分からん。後で壁掛け時計を出さないと。

 けれど体感的に十二時は過ぎているだろう。確かにそろそろ昼食の時間だ。

 

「それにしてもなんで蕎麦? 銀子ちゃんって蕎麦好きだったっけ?」

「ううん、別にそういう訳じゃないけど。でも同棲を始めるのって引っ越しみたいなもんでしょ? だったらお蕎麦を食べなきゃ」

「あ、あぁそういう事か! 引っ越し蕎麦ってことね!」

 

 引っ越し蕎麦とは。引っ越しをした際には蕎麦を食べる、古くから伝わる慣習みたいなものだ。

 元々は引っ越しの挨拶として近隣に住む人達に蕎麦を配った事が由来らしいけど、昨今の世の中ではあまりご近所付き合いは重視されないからね。今では配るのではなく自ら蕎麦を食する形に変化しているのだとか。

 

「意外と銀子ちゃんってそういう事ちゃんとやるタイプだよね」

「単に蕎麦を食べるだけで大した手間でも無いし。お腹も空いてきたし丁度良いかなって」

「よし分かった。じゃあお昼は蕎麦の出前にしよっか」

 

 やっぱり出前と言えば蕎麦。大阪駅周辺に蕎麦屋は多いから注文すればすぐに来るはずだ。

 

「あそうだ。引っ越し蕎麦と言えばさ、一応ここのご近所さんに引っ越しの挨拶ぐらいはしといた方がいいのかな? つっても同棲のことは可能な限り内緒にしておきたいから積極的にご近所付き合いをしたいわけじゃないんだけど……」

「いいわよ別に挨拶なんて。そもそもここは一年前に新築で売り出された時点で私が購入していたんだから、本当の意味で新しく引っ越してきた住民ってわけじゃないし」

「そりゃまぁその通りなんだけど。……ちなみに銀子ちゃん、一年前この部屋を購入した時にご近所挨拶みたいなことはしたの?」

「逆に聞くけどしたと思う? この私が」

「……だよね」

 

 ご近所付き合いを重視しない昨今の若者、ここに極まれり。

 つかこの子は一年前の時点ですでにめちゃ有名人だったからな。そりゃご近所挨拶なんてしないわな。

 

「んじゃちょっと出前の注文してくる」

「ん、よろしく」

 

 という訳で、少々名残惜しいけどこの世で一番魅力的と言えるその身体から手を放して、俺はソファから立ち上がる。

 テーブルに置いてあったスマホを拾って、この近くにある美味しい蕎麦屋の情報を検索検索……とかしている間に、銀子ちゃんもゆっくりと身体を起こして乱れた服装をいそいそと直し始めた。

 特別な対局から日常の姿へと戻っていく、その光景は……行為の激しさを物語っていて、なんだか妙に生々しくて……うぅむ、このまま眺めていたいけど……やめよう。目を離さないと完全に意識が持っていかれてしまう。

 

 ……それにしても、感想戦は引っ越し蕎麦の話になったか……。

 もうちょっと気を利かせられる男になりたいんだけどなぁ、中々難しいもんだ……。

 

 

 

 

 

 

 そして、その後。

 

「いただきまーす」

「いただきます」

「ずぞぞぞ……うーん美味い! やっぱり蕎麦はシンプルなざるそばが一番だね!」

「ふむ……蕎麦なんて久しぶりに食べたけど結構美味しいわね。こうして食べてみても引っ越しと何か関係があるようには全然思えないけど」

「ま、まぁそれはほら、昔からの言い伝えというか伝統みたいなもんだから……」

 

 銀子ちゃんと二人で仲良く昼食。

 出前で注文した引っ越しざる蕎麦を美味しく平らげて。

 

 

「鍋とかフライパンは全部ここ。電子レンジの隣のスペースは炊飯器とトースター用に空けておくとして……ホットプレートはどこに置こうかな」

「とりあえず仕舞っておいたら? ホットプレートなんて普段使いするものでもないし」

「家でもんじゃ焼きが食いたいからって買っただけだしね、んじゃ引き出しの最下段にでも入れておこう。そんで食器は……ここで買ったやつと、確か別のお店でもいくつか買ったはず……」

「八一、そっちの袋の中」

「あぁこれか。……こうして見ると箸とかスプーン、フォークはともかくとして、小皿や食器皿はちょっと買い過ぎたような気もするな。食器棚が一杯になっちゃうね」

「でも食器はあればあるだけ割るから沢山買った方が良いって八一が言うから」

「あれ、俺そんなこと言ったっけ?」

 

 その後はまた引っ越し作業の再開。

 昨日ショッピングモールで大量に買い込んだ日用品を開封して、部屋を飾っていく。

 

「はいこれ花瓶。机に置いてね」

「そういや花瓶なんて買ったんだっけ。つっても飾る花がないんだけど」

「私に言われても……花瓶だけでもオシャレだから飾ろうよって言ったのは八一じゃない」

「俺そんなこと言ったっけ? ……まぁいいや、花は今度買ってこよう」

「でこれが時計、どこか見やすい所に飾って。でこれが……アロマディフューザー」

「ディフューザー……ってなに?」

「アロマの香りを拡散させるアイテム。って言ってもアロマオイルが無いから使えないけど」

「え? じゃあなんで買ったの?」

「さぁ? 強いて言えば八一が欲しいって言ったから?」

「俺そんなこと言ったっけ? ……まぁいいや、ていうかこっちの袋よく見たら変なものばっか入ってない? なんか2000ピースのジグソーパズルとか入ってるんだけど」

「でも八一が作りたいって」

「言ったっけ?」

 

 そんなこんなで作業を続けて、そして。

 

 

「……ふぅ、こんなもんかしらね」

「うん、良い感じだと思う」

 

 作業の手を止めて、昨日までとは見違える程に物が増えた部屋を眺める。

 昨日ショッピングモールで購入したアイテムを並べ終えた結果、当初は将棋の練習用としてしか想定されていなかったこの部屋も今ではこの通り、二人で同棲する用の部屋へと変貌を遂げた。

 俺よりも遥かにオシャレ力の高い銀子ちゃん主導の下、全体的な印象として落ち着く感じがあってかつセンスのある部屋に整えられて……いいね。特にこの見せつけるかのように飾ってあるお揃いのペアグラスとか、カップルで住む家感に溢れていてとても良いですね。

 

「で、肝心のここには……八一、分かってるわよね?」

「もっちろん! 俺が使っている盤で良いんだよね?」

「うん」

「駒も?」

「うん、それでいい。八一のやつは相当高級な代物だったはずだし」

 

 そして無論ながら俺達にとって一番重要である将棋用スペースはちゃんと空けてある。

 きっとまた以前のように、ここで一番時間を費やす事になるであろう神聖な場所。後はここに愛用の将棋盤と駒を持ち込めば引っ越し作業もほぼ完成だ。

 

「日の光が気にならないよう遮光カーテンにも替えたし、完璧だね!」

「そうね、殆ど完璧。だから残るは……」

 

 残る作業と言えば。まだ手元に届いていない購入物がいくつか。

 家電量販店にて後日配送の形で購入した家電類と、週末に予定しているベッドの搬入。それらを終えれば同棲準備は全て完了である。

 ……と、俺はそう思っていたのだが。

 

「残るは盗聴器の調査をしないとね」

「と、盗聴!?」

 

 なんか不穏なワードが飛び出してきたぞ!?

 盗聴器──まさか、この部屋に!?

 

「あと盗撮とかも」

「とと盗撮!?」

「そういった機具がこの部屋内に取り付けられていないか、ちゃんとチェックしておかないと」

「い、いやでもさすがにそれは──」

 

 ちょっと大袈裟過ぎじゃ……と言い掛けて、いや待てよと思い直した。

 イカンイカン、俺一人だけの感覚で考えてしまった。そりゃ俺のような一般男が住む家に盗聴器や盗撮器が仕掛けられている可能性なんて普通は想定しないけど、ここでは銀子ちゃんも一緒に住むんだった。

 そりゃ銀子ちゃんのような可愛くて若くて超かわいい女の子が住む部屋ともなれば、盗聴や盗撮といった危険性を考慮するのが当然だろう。俺ももっと危険意識を高めていかないとな。

 

「分かったよ銀子ちゃん。そういった事に詳しい調査会社を調べて手配しておくね」

「いいこと八一、くれぐれも実績のある調査会社を選ぶこと。最近出来たばっかりの所なんかは駄目だから。そして一番重要なポイントとして、絶対に東京にある会社にしなさい」

「と、東京? どうして東京なの?」

「どうしてって調査会社自体に手が回っていたら意味が無いからに決まってるでしょ? 別に東京に限定する必要は無いけど、とにかく東日本にある会社にしなさい。西日本はダメ。東京に本社があるけど大阪に支社がある、とかもNGよ」

 

 関西にある会社は何処の息が掛っているか分かったもんじゃないから。と銀子ちゃんは大マジの顔で言う。 

 う、うぅむ……一体どのような相手を想定しているのか……と思いはすれども、しかしさすがは銀子ちゃん。俺なんかとは比べ物にならない程に高い危機管理意識である。

 

「いっそ鍵も替えた方がいいわね」

「そこまで!? ……いやでもそうだね! 同棲しているとはいえ、俺が外出している間に不審者が入り込む危険性だって無いとは言えないもんね!」

「そうそう、そういうこと。大体一年間もほったらかしにしていた家なんてとっくに合い鍵の型が取られていてもおかしくないし。あいつらならそれぐらいしそうだから」

「な、なんか特定の個人を警戒している感じがするけど……でも分かったよ! 銀子ちゃんに何かあってからじゃ遅いもんね!!」

 

 全ては銀子ちゃんを守るため! 安全に暮らすためだったらなんだってやってやるっ!

 

「じゃあお願いね」

「りょうかい!」

 

 という事で、話はまとまったのだが。

 

「……けど」

 

 けど。

 

「……ねぇ銀子ちゃん」

「なに?」

「俺が言うのもなんだけどさ……本気で盗聴や盗撮を警戒しているんだったら、さっきこの部屋でしたのはマズかったんじゃ……」

 

 俺がそう言うと、銀子ちゃんはちょっと苦々しい顔になってそっぽを向いて。

 

「……だから、その時にそう思ったの」

 

 あぁ、成る程。

 

 

 

(続く)

 

 

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