アヴェル=ミツィルワート。通称アベルは今日も今日とてエリザベートの家庭教師に勤しむ。
いつも通り、今日も胡散臭い家庭教師は書斎に顔を出そうと廊下を進むと、
「い、イシュトヴァン様、おやめください……どうか、どうかお願いです……!」
「口答えすんなよ、いいから来い。さっさと来い。クビになりたいのか、ん?」
「どうか……どうか……っ」
なんと、雇い主の権力を濫用しメイド相手に強姦を起こそうとするエリザベートの兄の姿が。
中世において使用人に人権はない。貴族にとって使用人とは替えのきく道具、世話をしてくれる奴隷同然だった。
仲裁をしようにも厄介なことに使用人は雇い主のもの。
しかもアベルも同じ雇い主に雇ってもらっている身。その雇用主の子息の行動に異を唱えようものなら良くて即刻クビ。悪くて私刑の餌食。
うかつに手は出せなかった。
「いいだろ? なぁ、もうエリザは許可出してるんだよ。お前を貸し出すってさぁ。オレを恨まないでくれよ。むしろこの世の快楽を味あわせてやるんだ、喜べよ」
「……お願いです、イシュトヴァン様。許してください。お願いします。どうかそれだけはおやめください……っ」
襲われそうになっているメイドは周りの他の使用人に助けを乞うような目線を送るも、誰も相手にしない。
巻き添えや厄介ごとはごめんだと、みな我関せずと目の前の光景をごまかすように己の仕事に従事する。
「しょうがない。ちょいと乱暴になるが無理やりにでも……っ! おい、大人しくしろ!!」
イシュトヴァンはダンと乱暴にメイドの少女の両腕を壁に押さえつける。メイドの彼女は嫌がり身体を揺するも、ただイシュトヴァンを楽しませるだけに終わる。
「……っ」
「────そうだ。お前、いま食費と家賃にも困ってるんだよなぁ? 妹もいるんだよなぁ、知っているぞ」
「────!!」
「おまえがクビになったら困るよなぁ? なぁ?」
イシュトヴァンは少しでメイドの息がかかるところまで顔を近づける。
……完全に脅迫だ。しかも相手が相手だ。乱暴に振り払えばどうなるかわかったものじゃない。
メイドはどうしたら良いか分からず八方塞がりの状態に完全に恐怖していた。
そんな彼女にイシュトヴァンはため息をついた後、耳もとでささやく。
「いいじゃないか、処女を散らすぐらい。女なら結婚する際に誰でも通る道なんだ。オレは他の領民のオスブタ共とは違う。大貴族だ。そのオレがお前が敬意を払う限り優しくすると約束すると、ここまで譲歩しているんだぞ?」
最低のアプローチだった。
「────君はとても美しい。エリザは手もとに置いておきたがるわけだ。今まで綺麗な人は老若男女構わず愛してきた僕だが、君のように純粋で可憐な女性は見たことがない」
先ほどとは打って変わって優しく語りかける。強引なやり方では同意は得られないと分かったのか口調も穏やかに告白している。
「君は一日ずっと休みなしに働いていることは知ってるよ? いつも働きづくめで疲れるだろう? せめて僕の部屋でお茶だけでもいただかないか? 僕は雇用主だ。お父様には僕から口添えしとくから、さ」
「……」
心の城壁を続く暴言と一方的な告白に削り取られ心が折れたのか。ブロンド髪のメイドは力なくうなだれると。
「イシュトヴァン様、おはようございます」
雰囲気も空気も読まず、にこやかに笑う家庭教師が挨拶をしてきた。
「おまえ……あぁそうか。エリザが言ってた家庭教師だな?」
「はい、アベルと申します」
イシュトヴァンはおまえの名なんてどうでもいい、と眉を歪ませる。
「悪いが、今は取り込み中なんだ。さよなら、後でな。もう二度とその面を合わせないように祈ってやるよ。ガボールの伯父みたいにな」
先ほどまで力なくうなだれていたメイドがワラにでも縋り付くかのように無言で助けを乞う。
「その女子に……その……寵愛を?」
「まぁな。いい女だろう? ずっと前から目をつけてたんだ」
メイドは今にも泣き出しそうだ。
「なるほど。ですが、それはやめたほうがいいと思いますよ」
「……。はぁ?」
まるで珍生物でも見たかのような表情をした直後、イシュトヴァンは刃の如く鋭い目をアベルに向ける。
「……お前、誰に向かってものを言っているのかわかってるか? ブタの領民風情が」
「重々承知です」
「いいや、わかってない。わかってないようだなぁ。痩せブタ。オレはな、飼い主だぞ? 他でもないお前の。いいか。オレの声一つでなぁ、お前を、独断で死ぬよりも酷い目に遭わせることだってできるんだ。理解したか?」
挑発しているかのよう……いや、しているのだろう。明らかに見下す素振りでコンコンとアベルの頭を叩く。ちゃんと脳みそは入っているのか、と。
「だが、お前はオレの可愛いエリザの家庭教師。妹のお気に入りを取りあげるほど、オレは鬼畜でもないんだ。それにオレは自分で言うのもなんだが、ひっじょ──ーっに寛大だ。さっきの無礼に関しては聞かなかったことにしておいてやろう」
「────ご寛大な配慮、ありがとうございます。イシュトヴァン様」
メイドは絶望しきった表情でアベルを見る。
「だろう? そうだろう? ならさっさといけ。オレの気が変わらないうちに」
あの妹にしてこの兄ありか。物事が思い通りにいきご機嫌になるとすぐに調子に乗る。
イシュトヴァンはメイドの手を無理やり引いて笑顔で連れて行こうとする。
「ですから、寛大な配慮をしてくださった貴方様だからこそ。その女子と交わるのだけは考え直して欲しいのです」
アベルはメイドの空いているもう片方に手をつかんで止める。イシュトヴァンは『はぁ!?』と血管が切れる一歩手前まで顔を真っ赤にしている。
「なにをわけのわからないことを!! おまえ、ふざけているのか!?」
「イシュトヴァン様、彼女の足をご覧ください」
「あぁ!? 彼女の足がどうかした……って」
アベルが指を指したところ、メイドの股に近い太ももが腫れ、赤い水疱ができていた。
「なんだ、これは……」
「えっ、えっ……え、どうかしまし、たか」
メイドも若干困惑しているが、彼女も空気を読んだのか、余計なことは言わなかった。
故に、イシュトヴァンにアベルは道々と嘘を告げる。
「大きな声では言えないんですが……その、これは、アレをすることで移る感染症の症状のサイン。つまりは────彼女、性病ですよ」
「な、なぁにぃぃぃっ!?」
イシュトヴァンは目を見開く。
メイドも叫ばぬように口を押さえて驚いていた。
エリザもそうだが、バートリ家の教育水準は中世のなかでも非常に高い。専門的な知識はないにしろ、感染症のことぐらいは知っているはずだ。それが……自分にうつるとどうなるかも。
「う、うそだろ!? だ、だってそういうのは、な。何かしらの自覚症状くらいあるものだろう!?」
「え、えっと。その少し痒いくらいで」
「……!?」
さらなる事実にイシュトヴァンは絶句する。
「男性はともかく、女性は性病にかかったという自覚症状が薄い場合が多いんですよ」
「な、んな────!」
「粘膜接触は控えたほうがよろしいかと」
「ぐ、ぐぐぐっ……!」
イシュトヴァンにはこれ以上、教師相手に反論できるに足る材料がなかった。
それどころが彼の言ったことが気になってもうメイドを部屋に連れ込むどころじゃない。
しかしイシュトヴァンはアベルに調子に乗られたくはなかったのか、彼女を部屋に連れ込めなかった憂さ晴らしか。
「この────!! ブタ風情が図に乗るんじゃぁないっ!!!」
所詮は雇われの身と拳を振り下ろそうとする。
────が。
「イシュトヴァン。そこまでにしておけ」
背後から腕を掴まれる。
「アンドラス……ッ! 貴様……ぁ!」
「途中からだが話は聞かせてもらったぞ」
イシュトヴァンはアンドラスの腕を払い退け、引き下がる。
「使用人の所有権を主張するのは勝手だ。貴族であることの権威の行使もまだ許そう。普段からいばり散らすのは愚かだが、場合によっては立場を利用する必要もある」
だが、とアンドラスは言葉を紡ぐ。
「────言葉ではなくただの暴力をもって相手を納得させようとするのは獣のやり口だ」
「……っ!」
「バートリ家の名にふさわしい行為とは言えないな。お父様が聞けば、さぞやガッカリするだろ」
「────やめろ!!」
イシュトヴァンはブワッと額に汗を浮かばせ悲鳴をあげる。急いで口を閉じ、しまったとイシュトヴァンは口を押さえる。
それを見て、アンドラスは彼の肩に手を置き、彼にしか聞こえぬように言う。
「……おまえが先ほど彼女にしていたのはこういうことだ」
従兄アンドラスはその厳格さと誠実さからエリザの父、ジェルジュ=バートリーに厚い信頼を置かれている。そのアンドラスが父にイシュトヴァンの素行の悪さを告げ口されれば厄介なことになるのは間違いない。あの慎重な父のことだ。最悪、家督は譲らないなどと言うかもしれない。
「ッ……アンドラスッ……!」
「貴族である前に人としての問題だ……行いを改めろ。────次はないぞ」
アンドラスはイシュトヴァンから離れ、先ほどまで浮かべていた鬼のように厳かな表情を緩める。
「それに、よかったではないか。何も知らずにそのまま性行為に及んでいたら感染症が伝染していたのだろう? 彼は君の恩人とも言えるのでは?」
「そ、それは……!」
アベルを指すアンドラスにイシュトヴァンは唇を噛む。
イシュトヴァンは怒りの矛先を変えるようにメイドにわめく。
「お、おまえもおまえだ! なんでそれをオレに伝えない! 危うく病気になるところだったんだぞ!! オレを殺す気か!」
「わ、わたしにだって分からなかったんです! そういう症状なんだって、今聞きました……それに医者にも診てもらうお金だってなくて……」
「……くっ」
これ以上、子供の癇癪のような問答を続けたくなかったのだろう。イシュトヴァンは居心地が悪いと踵を返す。
「────おぼえていろ、アンドラス……貴様もだ家庭教師……! このままで済むと思うなよ……!」
拳を強く握りすぎたのか血が指から滴り落ちる。
「……屈辱だ、屈辱だ屈辱だ屈辱だ……っ!」
イシュトヴァンは怒れる竜の如く恐ろしい憎悪を見せると、その場を去っていってしまった。
「あ、アンドラス様……あ、ありがとうございました……」
「気にするな。あれは明らかに我が従弟に非があった。
アンドラスはメイドからアベルの方へ向きなおる。
「君も、巻き込んですまなかったな」
「いえ、自分から巻き込まれに行っただけです。アンドラス様が謝ることでは」
「そうか。では二人とも引き続き仕事に戻ってくれ。アベル、遅れたことに関してはエリザに私の名を出しておけ。必要であれば私からも説明する」
では私は職務に戻らねば、とアンドラスは背を向ける。しかし、
「…………ただでさえ少ない休憩時間がなくなってしまった」
と肩を落とした背中が語っていた。
「ありがとうございました、アンドラス様」
「あぁ。エリザをよろしくな」
アンドラスが去り二人が残された後、アベルははっと我に変える。
「約束の時間まで……うわぁ……やっぱりもう過ぎてる。もうエリザ様いるだろうなぁ……」
「あ、あの……先ほどはありがとうございました!」
「あ、うん。気にしないで」
あと、すみませんとメイドはアベルに問いかけ、足の水疱を指す。
「これ、戻るんでしょうか……? それに私、本当に、その……病気なんでしょうか……?」
「あ、それ僕の嘘です。水疱に見えるように細工をしただけですから、あと数時間もすれば元に戻りますよ」
「よ、よかったぁ〜……」
メイドはへたりと倒れ込む。
「けど後々どうしよう……明日はもうなくなってしまうし……」
「ん?」
アベルは何かに気づいたのかじっとメイドの腕を見る。
「ちょっと腕見せてもらっていいですか?」
「え? あ、はい。どうぞ……」
メイドは手を差し出す。
「……あー……。これたぶん大丈夫。たぶんイシュトヴァン様、しばらくはあなたには近づかないと思いますよ」
「……?」
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「ふぅん……やるじゃない。ヤルといったら必ずヤル、あのイシュトヴァン兄様を退けるなんて」
……と、そんな一部始終をエリちゃんは見ていたのでした。
「思えば。あたしに意見したブタも少なかったわね。その後に悲鳴をあげなかったブタも」
「お、遅くなり申し訳ありません!」
しばらくしてすぐにアベルが入室。
エリザベートは意地の悪い笑みを浮かべる。
「あら、あたしの予定をほんの数分とはいえ遅らせるだなんて。ひどく軽んじているのかしら」
幼いながらも艶な声で鞭をしならせる。しならせた鞭が高そうなカーペットを縦に裂く。
「え、えっと」
「まぁ、今回は特別。見逃してあげる。これであたしがあなたに何かしたら、とやかく言われそうだもの。アンドラス従兄さまに感謝しなさい、痩せブタ」
そう言って彼女は鞭をしまう。
「さぁ、今日は英語の時間よ! 今日もみっちりレッスンに付き合ってもらうわ!」
「ど、どっちが教えてるのか分からないテンションですね……」
「そら、早くページを開いて! ここの本も全部もってテーブルに置きなさい! 残さず一人で。あたしフォークよりも重いものなんて持てないから」
「絶対に嘘だ……」
「あーあー、聞っこえない、聞っこえない〜♪」
事情は把握してはいるものの、やられっぱなしでは悔しいので、彼の困る反応を見て悦に浸るエリちゃんでした。
「う、腕にもちょっとできてるじゃねぇか……! くそ、マジか……」
「……かゆいなぁ。エリザベート様に見られたら大変……手袋しないと」
*メイドはストレスでじんましんができた。
(ぶ、ブタめ……他に一体どんな病気を。ていうか今までそんなリスクを負ってたなんて。眼から鱗だ。そもそもブタと交わるとかオレはどうかしていたのか……?)
「……使用人に手を出すのはやめにしよう」
その後、イシュトヴァン兄さまは件のメイドに下手に手出しが出来なくなったとか。