跳ね起きた私はあの通りに向かった。まだ暗い、冬の寒い夜だった。
息が真っ白に凍る冬には厚手のコートも手袋もマフラーも必要になる。それさえ忘れた私は辛うじてコートだけを羽織って駆け出した。
電灯が数本しかない通りは迷路としか言い様のない道だった。何度も同じような角を曲がって、何処にいるかもわからない、勘だけを頼りに進んだ。
彼らを見つけた時には全部遅かった。二つの同じ顔、似た組み合わせの服。それなのに私には判った。どちらが本物でどちらがそうじゃないのか、私にはよぉく判った。
片方は雨も降っていないのに濡れていた。地面に膝をついて踞る彼の顔には薄くお化粧がされていたよ。よく知ってる丁寧なお化粧。いつもの笑顔はなくて、苦しそうな顔がお化粧を歪めていた。
もう一人は、もう一人は。
彼によく似たまったく知らないヒト。
彼の口に無理やり缶の飲み物を当てて、流し込んでいた。アルコールの臭いが少し離れていた私の鼻にも届いた。何本も何本も開けて、缶は空になっていった。彼はもう立っていられない。
何をしているの? そう言えればよかった。彼にはまだ意識があったから。目が開いていた。まだ、助けられたかもしれない。それが好きな人だったら、なおさら助けるべきなのに。
私は動かなかった。
怖くはないの。怖くなんてないの。きっと他の子もそうだった。私はそれが近くに来るまで動けなかったの。
目の前に来て、それの目を見た時、私、女の子たちの気持ちが解った。好きなの。すごく好きで欲しくなる。それが違うってわかってても迷ってしまう。
私、おかしかったの。本物じゃないそれが愛しくてたまらない。ううん、もしかしたら、本物が目の前にあるのに手に入らないから嘘でもいいと思った結果なのかもしれない。
レイプだ強姦だなんて言えないよ。私はその時、望んだの。行為を同意した。あの通りの影になる角、壁に押し付けられながら私はそれと交わった。
最後まで、あの人の視線が痛かった。
田中さん。私の恋した人。オカマのふりをした、優しい優しい人。
季節は冬だった。朝まで放置されれば生きていられるかわからない、寒い夜だった。
寒い、寒い、夜だった。
誰かが通報したのか、私は病院の診察室で目が覚めた。身体中傷だらけで、おまけに凍傷までできていた。
それは、あの夜から数日経っていた。ほとんど覚えていない。思い出せるのは、あの通りで憧れの田中さんと会えたこと。
どうしてその時間にそこにいたのですか? YouTubeで人気の配信者が、最近、そこに現れるって聞いたんです。だから、そこに行けばもしかしたら会えるかもと思って。
私は先生の質問に答えた。はっきりと、田中さんに会うためにそこへ行ったのだと。先生は可哀想なものを見る目で私に言った。みんなそう言うのだと。
病院の先生は私たちが何を見たのかは知らないの。でもね、現実的に何をされたのかはわかってる。
私たちは異性と交わった。性行為をした。先生は確認しているの。それが合意の上なのか。
真冬の外、しかも誰か来るかもしれない通りの上でする行いじゃない。異常よ。それを私たちは当たり前のように言っていた。私たちはどこかが壊れていた。
これが嗜好なのか、事件なのか、先生ははっきりさせないといけなかった。だって、私たちのおなかには新しい命ができ始めていたんだから。
産むのか、堕胎するのか。そのどちらかの選択をすることが困難なら、時間だけが無駄に消費されていく。私たちは自分の異常に気がつけない状態だった。
おなかだけが大きくなっていった。その頃にはもう、全部が手遅れになっていた。産むしか選択肢がなくなって、先生は益々苦い顔をする。
私に対してだけじゃなくてみんなに。父親は名乗りでない。だってそうよ。この子の親は自分とあの人なんだから。
笑いながらお待たせって言うあの人の顔を浮かべておなかを擦った。大丈夫よ、私はこの子を産んで育てる。いつまでも無意味な期待が居座り続けた。おなかはパンパンに張っていた。
不安なんてなかったよ。一種の興奮剤みたいなものが私たちを侵し続けた。都合の悪いものは見ないふりをして、幸せで甘い夢だけを見続ける。
おなかの中の子はそんな母親を嘲笑い続けた。甲高い悲鳴をあげ続けながら、羊水の中で嗤い続ける声が聴こえていた。それはみんなが聴く幻聴だった。
本当は気が狂うくらい不安で不安で、耐えきれなかった。中には学生もいたよ。そんな子にこんな現実は受け止めきれない。だから夢をみるの。
私たちは微笑みながらおなかをさすった。悪夢のような時間は私たちを毎夜襲った。赤ん坊の足音が近づいてくる。不安で狂ったような幸せな夢はなかなか終わらない。
あの夜の出来事に霧がかかって、真偽がわからない。私たちはあそこで何と出会ってしまったのか。特に私の中では大切な人のピースが欠けていた。思い出せない。どうしても誰なのか思い出すことができない。思い出してはいけないと赤子が腹を蹴る。吐き気がするほどの強さで。
それでもみんな言うの。
「好きな人との赤ちゃんほど可愛いものはないよね」
私たちは呪われていた。きっと、記憶と感情に蓋をされて、別のもので塗り替えられていた。誰もそれに気づくことなんてなくて、ただただその瞬間を待たされた。
気づいたのは全部が取り返しのつかないとこまできた時。最後の最後で、もう映画のエンドロールが間近っていうとこ。
あれと交わって妊娠した女性は両手じゃ足りないくらいになってた。私たちはファン特有の情報共有っていうネットワークで繋がってて、全員と連絡が取れる状態にしてた。
逆に言うとね、それ以外の人をシャットアウトしたの。だってうるさいの。異常だ。警察に行け。嘘つき。だから信頼できる相手としかやり取りしなくなってた。
みんな、私が妊娠してたこと知らないでしょ。こういうことなんだ。私はみんなに隠した。
信じられなかったわけじゃないよ。信じられなかったのは自分。
これが自然なことだと思ってたの。でもどこかで助けが欲しかった。怪異に強い同級生たちなら逃げ道を見つけてくれる。でも言わなかった。
だって、だってね。嘘を始めたのは私たちなんだもん。みんなは関係ない。身から出た錆びは自分が浴びないといけない。
私たちは独りで抱えるしかなかったの。
それがどんなに非常識で異常なことだとしても。
ねえ、みんな。
私、そんなに悪い子だったのかな。