高評価していただきありがとうございます。
もう二度と来るもんかと思った場所に、たった数時間後に行く羽目になるとはね……。
今朝の出来事を振り返りながら先頭を行く布川さんたちについていく。
明の軽い足取りとは対照的に、私の足取りは重い。現に私は最後尾にいる。
「灯ちゃん平気? 朝何かあったみたいだったけど、やめとく?」
「あ、いえ。大丈夫です」
少し遅れていることに気づいた鈴さんが、顔だけこっちに向けて気にかけてくれた。
話すほどの内容でもないので気持ちだけもらっておく。
そうだよ。もともとは窓を開けようとした私が悪いんだし、そんなビクビクしてないで謝る言葉でも考えておかないと。
事情を知らなかったと言えば許してくれるだろう。
また心配されても困るので少し早歩きして追いついていく。
朝とはいえ、8月の気温で階段を上っているから思いのほか汗をかいてきた。
本来だったらクーラーが効いていて涼しいはずだけど、今はそんな贅沢はなかなかできない。
おでこにじんわりとにじみ出てきた汗をハンカチで拭う。
そういえば今から行く8階もとっても暑かったなー。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか8階に着いていた。
「あかり もうつかれた……」
「最初あんなに飛ばすからだよ」
初めは意気揚々と先陣を切っていたのに、早々にバテて今や最後尾にいる。
さすがにおんぶもしたくないので自力で上ってもらったけど、この様子じゃもうしばらく休憩が必要そう。
「皆さん。朝食のごみを回収しに来ました」
暗い部屋に響き渡る布川さんの声。
その声に応じて1人また1人と物陰から現れてきた。
中には中学生や小学生くらいの子もいて、布川さんの周りに群がり始めた。
「ごみの片づけまで、いつもありがとうございます」
「今日もおいしかったです」
「ねえねえ、おれプリン食べたい!」
「分かった分かった。また今度な」
ワイワイと騒ぐ子供たちに囲まれている布川さんはなんだか楽しそうだ。
遠くで見守っている大人も穏やかそうに見つめている。
でも、ここにいる人はみんな病気にかかっているんだよね……。
よく見てみると、壁の隅にうずくまったままの人もいた。
「よし。じゃあ僕は一旦ごみを捨てに行ってくるよ」
「あ、オレも手伝います」
「じゃあ二人で行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
パンやおにぎりの包装のごみを袋に詰め終わった布川さんとマコトは、そう言って下の階に降りていった。
2人を見送った鈴さんはこちらに振り向いて、これからやることについて説明してくれた。
「それじゃ、私たちはここの人たちとお話しして待ってよっか」
話をすることによって暗い部屋で溜まったマイナスな空気を発散させよう、ということなんだとか。
話をすることで心の整理と鎮静化を狙っているらしい。カウンセリングみたいなものか。
私も困った時は口に出すようにしているし、とてもいい方法だと思う。
「灯ちゃんたちは子供たちの方をお願い」
「分かりました」
大俵さんと鈴さんは何回かやっているみたいで、スムーズに話しかけていた。
明は同学年の子と話すのはしんどいと思うけど、かといって1人で放っておくわけにもいかない。後ろにうまく隠していくことにしよう。
「明~。コッチ来てー」
「なに~?」
無くなった体力も元通りになって、元気にこちらにやって来ようとしていた。
──……え?
「?」
どこかからか驚くような声がしたから振り向いたんだけど、誰もいないし……。
「気のせい、かな?」
「ともちゃん なにするのー?」
「ああうん。ちょっとこの子たちとお話ししようと思って。明は後ろにいてていいからね」
「わかったー」
そう言って明はつかず離れずの距離でしゃがみ込み、話を聞く態勢をとった。
って言っても、何を話したらいいんだろうか。ひとまず当たり障りのないところからにしよう。
「ええっと、みんなは布川さんが好きなの?」
「もちろん!」「すきだよー」「おいしいものくれるし」「かっこいいもんな!」
明ぐらいの年の子が3.4人元気よく答えてくれた。
疑うわけではないけど、表情を見てもハツラツとしていて嘘は言ってなさそう。
「そうなんだ。おいしいものって例えば何もらったの?」
「えーっとね、きのうはアイスくれたんだ!」
「コイツはんぶんこ っていったのにおれより多く食べたんだよ!」
「ぼーっとしてるそっちがわるいんだよ」
「なんだと―!」
軽い気持ちで質問したけど、どうやら昨日の言い争いを思い出させてしまったようで、目の前でかわいらしい喧嘩が始まった。
周りの大人たちを見てもこんなに元気ではないし、もしかしたら子供は平気だけど親が天空恐怖症候群になったからしょうがなくここにいる、という子もいるのかもしれない。
目の前で繰り広げられているじゃれ合いにほっこりしていると、女の子が私の腕をつついて質問してきた。
「ねえねえ、おねえさん」
「ん? どうしたの?」
「あの人だいじょうぶなの?」
指さす方向は私の真後ろ。そこには明しかいない。
きっとこの子は少し離れたところにいる明を気にかけてくれたんだろう。
「ああ、あの子は妹なの。ちょっと人見知りでね……」
そう言いながら明の方を向いてみると、明のほかに誰かがいるのが見えた。
それは女の人だった。
しかも知らない女性ではない。今朝会ったばかりの、あの腕をつかんできた女性だった。
途端に嫌な気配がしてきた。体から変な汗が湧き出てくる。
一体何をしに? 何で明を?
私が混乱していると、その女性は両手を大きく広げて……
「もう『
明に抱き着いた。
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「……っは?」
あまりの訳の分からなさに、声帯が震えない声が出てしまった。
明も混乱しているようで、首をきょろきょろと動かしている。
しかし女性は、私たちの混乱など気にも留めない素振りで話し続ける。
「急に家から飛び出したと思ったらずっと連絡も入れないで! 誰かに誘拐されたのかと思ってお母さん心配したじゃない! 今までどこほっつき歩いてたの! でもよかった……『葵』が無事で本当によかったぁ」
そう言って明を自分の胸元にギュッと抱きしめる女。
本当に安堵しているのか、目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちている。
な、なんなんだこの人は!?
人の妹に勝手に抱き着いて、完全に人違いなのに気づいていないんだろうか。
「ちょっ、ちょっとすみません!」
「あの少し静かにしてもらえない? ようやく会えてうれしいんだから」
「私はその子の姉です! その子の名前は明であなたの娘の葵じゃありません!」
「『葵』の姉……? 私は『葵』しか産んでないわよ?」
「だから明なんですってば!」
「……ああそういうこと。あなたがこの数日『葵』のお世話をしてくれていたのね」
「え?」
「確かに『葵』はかわいいし、お姉さんぶりたい気も分かるけど」
「ち、違います!」
「いいのよ照れなくて。『葵』と遊んでくれてありがとね」
か、会話が成立しない……。
完全に狂っている。この人は多分ここにいる人の中で一番ヤバい人だ。
こっちを見ているはずなのに、黒目もこっちに向いているのに全く目が合う気がしない。
今まで見たどの黒よりも暗い色の黒目をしている。見つめていたら吸い込まれてしまいそうだ。
「『葵』から聞いているかもしれないけど、私の名前は
「結構です! 絶対に呼びませんし、私たちの名字は岩波です」
「あら~名字も似ているのね。それは『葵』にも親近感もわくわね。あなたのお名前は?」
「……灯です」
「灯ちゃん! これからも『葵』のことよろしくね」
ダメだ。この人はダメだ。
やっぱり明をここに連れてきちゃいけなかったんだ。なんか嫌な予感はしていたけど、まさかこんな風になっちゃうなんて。
近くにいる子たちも口をぽかんと開けて、大人も何事かとこちらに注意を寄せている。
「さあ『葵』こっちに来てお母さんと話しましょ?」
そう言って女が立ちあがるスキを突いて明が包囲網から脱出した。
「あら?」
「ともちゃん なんなのこのひと!?」
泣きながら私の胸に飛び込んできた。
訳の分からない恐怖に体が震えてしまっている。
ギュッと抱きしめ、大丈夫大丈夫と言い聞かせながら頭をなでてあげるもなかなかおさまらない。
この様子を見てもまだ分からないのか。そう思いを込めて相手を睨みつける。
しかし何を勘違いしたのか、女はこの状況にも関わらずニコリと笑ってこう言い放った。
「そんなに灯ちゃんとの別れが寂しいの? 全くしょうがないわね、せっかくできた友達なんだし。いいわよ、お母さんはここにいるからもう少し遊んできていいわよ」
そう言って私たちに手を振る。
もうなんなんだこの人……。
病人にこんなこと言っちゃいけないんだろうけど、気味が悪い。
この子は岩波 明なのに、
もう限界だ。ここから離れよう。
ここにいるだけでどんどん状況が悪くなってる気がする。
子供たちも置き去りにしてしまうけど仕方ない。
鈴さんが心配そうな眼をしてこちらを見ているのを視界の端に捉えた。鈴さんも驚いた表情をしている。
軽く会釈をしてから私は明を抱きかかえながらそそくさとエスカレーターの方へ逃げた。
背中にはまだ、どす黒い視線が向けられていた。
かなりメンドイ女が出てきました。
こんな展開になる予定は全くなかったのに……。