ゆらゆら。ゆらゆら。
壁際にネズミを追い詰めたネコのように、余裕な笑みを浮かべて近寄ってくるバーテックス。
多分このバーテックスを作った人は、かなり意地の悪い人なんだと思う。怪物みたいに、というか怪物なんだけど、それくらい強いくせに音も立てて来ないなんて。音を出してくれる分ゴジラの方がまだ親切だ。
幸いなことと言えば、そんな怪物からの奇襲を受けているのに、今日亡くなった人は今のところいないということ。
最初の一撃でみんなやられていた可能性もあったのに、布川さんのおかげでその最悪の結末は阻止できている。布川さんには本当に感謝しかない。ありがとうございます。
そんな布川さんも、私をかばってケガをしてしまっている。
早く助けに行かないといけないのに、突然降りかかってきた悪夢に恐怖なのか武者震いなのか、心の震えがさっきから止まらない。守らなきゃいけないという責任感も影響しているんだと思う。
さっきまでは殺伐としながらも比較的平和な世界にいたもんだから、何度も味わっているけど急な世界観の変更に体も心もついていけていない。
一分一秒が戦況を左右するこの状況で私はふと、ある日の山中でのおじいちゃんとの会話を思い出していた──。
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あれはおじいちゃんに連れられて、山からの景色を眺めに行った帰り道。
仲良く手をつないで歩いているのは幼い頃の私と、まだ髪を黒く白髪染めしていた頃のおじいちゃん。
この日はおじいちゃんの家でのんびりゴロゴロしていた私を、いいものを見せてあげるとおじいちゃんが連れだしてくれた日。明はその頃はまだ幼過ぎて歩けなかったから、おばあちゃんと一緒に家で待っていた。
得意げなおじいちゃんと、未だ興奮冷めやらぬ感じの私が楽しそうにお話ししている。
「どうだい、おじいちゃんのお気に入りの場所は」
「すんっごくきれいだったよ!」
「そうかそうか楽しんでくれたか。おじいちゃんもな、畑仕事で少し疲れたなと思った時は、あの場所に行って休憩しているんだ」
「灯もまた行きたい!」
「気に入ってくれてうれしいよ。でも一人で見に来ちゃいけないぞ。山は危ないからな」
「それくらい分かってるよー。でもさーおじいちゃん」
「ん? どうしたんだい」
「危ないって、この山ってクマとかが出たりするってこと?」
「いやいや、そんなに奥に行かなきゃ大丈夫だよ。普通に暮らしている分には危ないことは無いぞ。危ないって言うのは、迷子になったりしてしまうってことだ」
「まあもし会っちゃっても死んだふりしてればダイジョーブだもんね」
「それがね、灯ちゃん。死んだふりっていうのは実は意味が無いんだよ」
「ええっ嘘! そうなの!?」
眼を見開いて驚いている。この時は今までの自分が信じてきた常識が壊されて、本当に驚いたなあ……。
「実際にはクマと出会った時は、音を立てずにゆっくり後ろに下がるのがいいんだ。背中を見せたり急に動いたりすると、クマは驚いて逆に襲ってきてしまうんだよ」
「え~死んだふりやりたいよ~。明と一緒に練習したのに~」
「残念だけど、練習の成果は出せそうにないなあ」
「……おじいちゃんは見たかった?」
「ん? そりゃ灯ちゃんのだったらなんだって見たいさ」
「じゃ今やってあげる! たくさん練習したんだから、ちゃんと見ててね」
「お、おう。別に今じゃなくても家に帰ってからで……」
「うわあぁあ~やられた~」
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「あの時の景色きれいだったなあ……」
懐かしき思い出の走馬灯に、焦っていた心が落ち着いていく。力の奔流では取り除けない、はやる気持ちが沈んでいく。
よく走馬灯と言うと、死にそうになった際に自分の記憶を探って困難を打開しようとするに見れる、みたいな話を聞く。
今のはそれにちょっと近かったような気がするけど、得られた知識は”死んだふりはしてはいけない”ということ。それと私の演技力がとても低いということだけ。
もし今のが走馬灯だったら、あっけなさ過ぎて悲しくなっちゃう。
だからきっと今のは走馬灯なんかじゃないんだと思う。
ということはつまり私の体は魂は、まだこんなことじゃ死ぬなんて微塵も思っていないってこと。
私がまだ諦めていないのに、私が諦めてちゃいけない。
「もう一回見に行くためにも頑張らないと!」
ひとまず状況をもう一度確認しよう。
後ろにはたくさんの守らなきゃいけない人たちがいて、前には平和を脅かす怪物バーテックスが4体。
せっかく得られた知識だけど、ここでも死んだふりはできなさそう。
やってもいいけど、成功しても後ろのみんなが襲われるだけ。失敗したら無防備な私まで食べられてしまう。完全に意味のない行動になっちゃう。
眼を見合わせてゆっくり下がってもただ状況が悪くなるだけ。
ということなので、この現状を打破するためにまず私がやらなきゃいけないのは……、
「痛いと思いますけど、歯ァ食いしばってください!」
ペラさんに右ストレートを喰らわせてあげることだった。
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完全に上の空の状態だったペラさんは、私の繰り出したパンチで手加減はしたんだけど面白いくらい吹き飛んでいった。
吹き飛ばされたペラさんは、咳込みながら何が起きたのか分からない様子で目を白黒させている。
「あっ、勢い余ってグーで殴っちゃった。ビンタでもよかったじゃん」
「ブッ、ゲホゲホッ……な、なにするん……」
「ボーっとしてたんで、喰らいたくないって言ってた私の力ぶつけさせてもらいましたよ。……想像以上にいいの入っちゃいましたけど……」
鍬以外でも自分の体だったら力の影響の範囲内ということは、もうずいぶん前に検証済みだ。骨が折れていないか少し心配になるけど、ともあれ……、
「しっかりしてくださいよ! 見てください、布川さんが私をかばってケガをしているんです。人手が足りないんです」
「…………」
「ここのバーテックスは私に任せてもらって大丈夫なので、ペラさんはあそこの2人と明を連れて早く逃げてください!」
早口で事の要件を伝えると、
「……そうか、岩波ちゃんは……まだ……」
そう小声で何やら呟いた後、ふらふらした様子だけれども立ち上がってくれた。
「そうか、いや、そうっすか。ボクがやらないといけないってことっすね?」
「はい、お願いします!」
さっきまで失われていた眼の光も色を取り戻していて、ここにあらずだった意識もはっきりしている。
どうやら目を覚ましてくれたみたい。
「年下の女の子に殴られてもボサッとしてたままじゃ怒られちゃいますしね」
「力を強くし過ぎた反省は後でしますんで」
「いえ大丈夫っすよ。目覚めにはちょうどいい衝撃でした」
そう言い残すと、ペラさんは駆け足で布川さんと鈴さんのもとへ駆けつけていった。
「明もペラさんの後を付いていってね」
「う、うん! がんばってね」
と同時に私は、あの4体のバーテックスの目の前を横切って走り抜けた。ようやく動いてくれたペラさんを狙わせないためだ。
企み通りバーテックス4体とも私についてきてくれた。遠くではペラさんが明の手を引いて鈴さんと会話しているのが見えた。
と言ってもこの場から遠くに行ったわけじゃない。
だってここにはもう1人守らなきゃいけない人がいるから。
人の持ち運び方とか知らないからちょっと雑になっちゃうけど、うずくまっている皆神さんを横から左腕で抱きかかえる。
抱き上げるとき、呻き声が聞こえたような気がしたけど、後ろから追従してくるバーテックスの圧と私の走る音に掻き消えた。
「私の腕に吐くなんてこと、しないでくださいよね!」
私のトップスピードは今やバーテックスよりも速くなったけど、ペラさんたちが逃げるまでは付かず離れずの距離を維持している。
理由はもちろん、私たち以外に興味を持たせないため。
跳んだり跳ねたりを繰り返しているせいで、皆神さんがさっきよりも苦しそうにしているけど、今現状でできる最適解がこれだと思うから耐えてほしい。
嫌な人だとは思うけど、だからと言って心配しないということにはつながらないから。
チラと後ろを振り返ってみると、布川さんが両脇を大人2人に支えられる形で一歩ずつ歩いているのが見えた。
意識を失った人を運ぶのは想像以上に大変だから、意識があるようで本当によかった。
明は鈴さんと手をつないで歩いている。それもあってか、先ほど見た時よりも鈴さんも落ち着きを取り戻しているように見える。
バーテックスがデパートに着くよりも、私がバーテックスにたどり着くほうが早くなる距離までみんなから離れたので、一気にトップスピードに乗ってバーテックスを突き放す。
二手に分かれられたら面倒だと思っていたけど、私を脅威だと思ってくれたのか、4体とも迷わず私を追いかけてきた。
戦いに巻き込まれない場所に皆神さんをそっと置いた後、今度はバーテックスに向かって走っていく。
私が離れた途端、皆神さんの吐き気がすごいことになっているのが聞こえてしまった。
すぐに終わらせてお医者さんのいるところまで連れていくので待っててほしい。
守るべき対象と言う足枷が外れた今、私はアイツらなんかには負けない。
そう意気込んでいると、空から更に何体かのバーテックスが落ちてきた。
そんな奇襲の仕方もあるのか、とびっくりしていると最終的に6体のバーテックスが追加された。
計10体。
1体1体が巨大なため、かなりの威圧感がある。
マコトの母親を助けるときは、合計すれば今よりもう少し倒したと思うけど、今回は一度に8体。今までに経験したことのない数だ。
これを切り抜ければ、布川さんはケガをしてしまったけど、最適なハッピーエンドを迎えられる。
気合十分に私は跳び出した。