男の人の高笑いする声が聞こえる。
のどの奥が詰まっているような、くぐもった笑い声。息継ぎのたびに首元についた脂肪がたるみ弾み震えるのが見える。
目の前にいるその男は、空を見上げて楽しそうに笑っている。何がそんなに楽しいのか、私には分からない。私から武器を奪ってみんなを危険な目に遭わせているのに、どうしてそんなに笑顔でいられるのか。
ここにいる誰も彼もがこの異常な光景に驚き動けない。私も普段振るわれない人間からの暴力に、思わず体が固まる。バーテックスからは何度かぶっ飛ばされた事もぶっ飛ばした事もあるけど、今回は違う。
自分で言うのもなんだけど、もともと私はただの小学生で、ケンカなんて一度もしたことのないどこにでもいる女の子なのだ。未知の生物バーテックスよりも、見慣れた『人間』という生物の方が戦いたくないしずっと怖い。
それに加えて体、特に地面とぶつかった左半身が痛い。
あの男の人に体当たりをされた後に鍬が奪われたから、直接当たった右側は大丈夫だけど、左側は力の守りのない素の状態で傷を負ってしまった。たぶん血は出てないと思うけど、地面とこすった摩擦熱で肘がジクジク熱い。
みんなが動けないでいる中、いち早く硬直から解き放たれた一人の女性が歩き出した。黒いスーツ姿に同じく黒のメガネをかけたツリ目の女性。睨まれたらこっちがひるんでしまいそうな鋭い顔つきの彼女は、その見た目に違わず堂々とした態度で男のもとへ向かい、詰め寄って食いかかった。
こんな状況ですごい、と感心の気持ちを持った反面、あまり刺激しないでよと祈るような気持ちにもなった。
「ちょっとアナタ! こんな幼い女の子を突き飛ばすなんて頭おかしいんじゃないの!?」
近すぎではと思うほどの近さで、こちらの想定を超える口の荒っぽさをしていて、頭がおかしい人にそんな口調で大丈夫か、と心配と不安の眼差しを向ける私たち。
それに対し男は、
「へへへ、これでようやくプロローグだぁ……始まるぞぉ」
「ねえちょっと聞こえないの!?」
けれども男の意識は上の空。耳元で注意されていてうるさいくらいのはずなのに、それには無反応で自分だけの世界と会話している。
ぶつぶつとギリギリ聞き取れない音量で発せられるその声は、こちらにはハッキリと聞こえないのに、無性に不快にさせられる。
と、私が床に倒れ込んでいると、大丈夫かと近くにいた人が手を差し伸べてくれた。私もボーっとしてないで早く鍬を取り返さないと。そう思い、その手を掴んで立ち上がろうとしたのと男が動いたのが同時だった。
「ちょっと何か言ったらどうなの!」
「ううう、うるせえーー!」
「きゃっ…あ゛っ」
肩を掴んで食いかかる女性を男は力任せに振り払った。ブクブクと太っている見た目の割に力があった男によって、女性はバランスを崩しよろめく。
そんな女性めがけて、男は自身の両手を一つにして力任せに斜めに振り下ろした。
手には私の鍬が握られているままだった。
すり鉢で食べ物をすりつぶすときのような鈍い音が、風を切る音とともに一つ鳴った。
その音が鳴ると、目の前で元気に怒鳴っていた女性に、なにやら黒いものがついているのが見えた。
──瞬きをする。
一度閉じた目で今一度注目すると、女性の胸の辺りから鍬が生えて……いや、刺さっていた。
深く深く体に突き刺さった鍬は、確実に心の臓にまで到達しているに違いないと思えるほどのものだった。
──瞬きをする。
生命という支えを失った女性は、振り抜かれる鍬と同じ軌道を描いて地面に沈んだ。
声を出す間もなく、ひどく興奮した様子の男によって女性は殺された。
そしてそれを見ていた私たちの周りには、あの日おじいちゃんの家で見た光景に酷似した赤いしぶきが散りばめられた。
熱い。頬に熱を感じ拭ってみれば、手に広がる赤い液体。私の頬にまで飛び散ってきていた。
倒れた女性の胸から引き抜かれた鍬の刃には、朱肉のように赤い血がてらてらと光り、艶めかしいほどにたっぷりと付着していた。
「うるっせぇんだよ見て分かんねえか? 今はオープニングなんだよオープニング。お前あれだろ、映画館で上映始まってからノコノコと来るタイプだろ。
こっちは盛り上がってるってのに、お前みたいなやつらがいるせいでホントテンション下がんだよなぁ。死ねよ」
今までのどこかビクビクしていた態度とは一変、男は自分に酔ったような喋り方になった。
そう吐き捨てた男の手には、私の大切なおじいちゃんの鍬が握られている。私の鍬で、人が、殺された。
恐怖で体が動かない。けれど、こうしている間にも女性の胸に空いた割れ目からは、出てはいけないものが流れていっている。
今すぐ塞がないと、と思う心と、塞いだってもう手遅れだ、という経験則がせめぎ合う。
頬に飛び散ってきた赤い液体から、最初に感じた熱がどんどん冷めていくのを感じる。
それはどこか、女性が死に近づいていっているのと同じように感じられて吐き気がした。
「はぁー、ゲームじゃ何万と斬ってきたけど現実はこんなものか。経験値も表示されないしつまんねーの」
男は自分のしでかしたことなど全く気にしていないのか、落胆したように手を開閉している。
この人は狂っている。行動理由は分からないけど、これだけは確かだ。
私の心臓の音がやけにうるさい。心臓が2つになったのかと思うほど速く鼓動する。今は鍬を奪われているから、心を落ち着かせようにも方法が無い。
どうにかこの人から逃げないと。ここにいるみんなコイツに殺される。
まだ男は自分の世界に浸っていて、私たちのことを忘れている。逃げるなら今だ。今しかない。
音をたてないよう姿勢を低くして静かに男から距離を取ろうとする。けれど手足が震え思うように進まない。なんとか腕に力を込めて震えを止め、一歩一歩後退していく。
と、後ろに下がるため地面に手をついたとき、スルッと支えにしていた腕がなくなった。
「なっ!?」
支えを無くした体はそのまま尻もちをつき、その音で男の注意を引き寄せてしまった。
なんで急に。そう思って見てみると、さっき頬を拭って手についた液体で滑ってしまったことが分かった。
ツイてない。忌々しく感じていると、男は先ほどとは一変して嬉々とした様子で私たちの方に近づいてきた。
「おお、おいお前。お前だよお前」
男と目が合う。えっ、私?
「そうだよお前しかいないだろ。いいか? これからの主人公は俺なんだからな。勘違いするんじゃねぇぞ」
勘違い? 何を勘違いしているの?
「ああ、そういや『勇者』なんて言われてたっけか。そうか、これからは俺が『勇者』になるのか。うん……最っ高の響きだなぁ『勇者』。俺にピッタリだ」
頷きとともに震える脂肪。
「本当は俺からコイツを盗んだお前は、真っ先に殺しておくべきなんだけど」
そう言い私を指さす。その動作で感覚的に刃物で刺されたように感じ、腹の底が冷える。
「主人公には一度敵対した敵でも許す度量が必要だからなぁ。今回は見逃してやるよ。よかったなぁ『偽物』」
盗んだ? 偽物? 最初から最後まで少しもわからない。
私が混乱していると、言い切って満足したのか、男は「英雄譚を始めるぞー!」と声を荒らげてデパートの外に出て行った。
何もわからない。わからない。あの男の人が怖い。怖い、けど!
少なくとも私はあの鍬がないと何もできない。誰も守れない。取り返さなくちゃ。
亡くなった彼女のことをほったらかしにするのは申し訳ないけど、この場にいるみんなには、上の階に行って布川さんの指示に従ってもらうように頼んで、外に出て行った男の後を追って私も外に出る。
声が震えているよ、って言われちゃったけど、笑ってごまかす。今は無力な私だけど、みんなを不安にさせちゃみんなも困っちゃう。
そういや、バドミントンの大会のときもクラブの子を励ましたら同じこと言われたなぁ。先輩、声震えてますよって。
今は怖くても動かなきゃいけない時。頑張ろう。絶対に取り返さないと、みんなを明を守れない。
でももしかして、よく分からなかったけどもしかしたら。あの人のあの自信の有り様、もしかするかもしれない。
散々試してダメだったから諦めていたけど、もしかしたらあの男も私と同じ力を持ってる人なのかも……しれない……。
あの人は見たこともないし、とてもじゃないけどおじいちゃん達やあの神社と関わりがあったとは思えない。
でも、そんなわけがないと分かってはいても、淡い、淡すぎる希望を見てしまう。
こんな世界で、見ていい希望ではないことは分かっているのに。