心と言うものは不思議だ。
体の何処にもそんな名前の臓器はない。にもかかわらず、体の影響を大きく受ける。
身を清めてスッキリすれば心も爽快になるし、逆に体が汚れていてムズかゆければ心も荒む。
冒険者となって数多の戦いを潜り抜けてからは、尚更そう感じるようになった。
体が万全な時と、大きなダメージを負ってしまった時。明らかに心は違っていた。
心の在りようと言うものは案外馬鹿にならない。
僕がザニスさんやあのミノタウロスを倒せたのは、勿論それまで積み重ねてきた
最後まで諦めず、前を見続けたからこそ、全力以上のモノを大一番で引き出せたのである。
そう、だからこの時も。
諦めなければきっと届くはずなのだ。
グギュルルルルルル……
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁ……」
【豊穣の女主人】が存在する西区から【青の薬舗】がある北西区へ。
今世紀最大のピンチに見舞われているベルの救いの地は、最早それ以外にない。
胃薬でも下剤でもなんでもいいから薬を下さい。
大方の予想通り大惨事となったシルさん単体の料理。
舌に食材が当たった瞬間訪れる(あ、これ駄目だ)という直感。
全身が総毛立ち、本能が脳内で警告を点滅させる。
体は反射的に料理を吐き出そうとしたが、そこで見えたのは邪気のないシルさんの顔。
邪気なしであの怪物を生み出したことに戦慄しつつも、お祖父ちゃんからの
絶対に喉の奥に通してはならない酸っぱい味を喉で感じつつ、苦悶を懸命に表に出さないように。
料理は得意なわけではなかったが、こうなっては四の五の言ってはいられない。
ノエルちゃんに料理を覚えさせるという名目で、シルさんの料理に介入していった。
幸いなことに、シルさんはあれこれ余計なことをして失敗するタイプだったようで、変なオリジナリティを出させなければ、修正自体は簡単だった。それをどう誘導するかは大変だったが。
「おっっふ……」
時々意識が飛びつつも、僕はやり遂げた。
過剰な自己評価だが、
そんなこんなでノエルちゃんの胃と、二人の笑顔を守ることが出来た僕。
これでめでたしめでたしとなって欲しかったが、現実は厳しい。
最初の毒が胃袋に入ったころから意図的に逸らしていた違和感。
お腹にずっしりと溜まる不吉な気配。
ぶっちゃけ腹を下した。
「お腹、痛いいいぃぃ……」
腹の中に蛙を飼ってしまったのではないかと思うほどに荒れ狂う音。
どんどんその音が水っぽくなってる気がする。
二人には何とかバレずに済んだが、【豊穣の女主人】を出た瞬間から前かがみになって歩いている。
通行人が不審者を見る目で僕を見るが気にしない。気にしてる余裕がない。
「おごごご……」
歩く振動で限界が早まる気がする。
馬車を使いたいけど、でもなんか気を抜いたら即アウトな予感。
【青の薬舗】までの道のりの遠さに頭が真っ白になりつつ、ふらふらと前に進んだ。
「ゼェッ、ゼェッ……?」
息を切らしながらもようやく【青の薬舗】の姿を確認する。
あと一息。意識が半分ほど剥がれかけながらも、自分を奮い立たせていた時。
ある人物の姿が視界に入った。
(ヴィトーさん……?)
パシャリ、とカメラを使って周りの風景を撮っている赤毛の彼。
予想外のタイミングで再会を約束した人を見つけてしまった。
今、お腹痛いのに。
「……おや?」
(見つかっちゃった……)
ひみつ道具に似たアイテムの在り処を探りたいとは思っていたが、神様たち風に言うなら
この状態でまともに会話が出来る気がしないのだ。
「これはこれは……予想外に早い再会でしたねぇ」
「お、お久しぶりです……」
無視をするのも失礼だと、返事を返す。
なんとか早めに話を切り上げねば。
「先日のアイテムの件、先方に問い合わせた所、時間を空けてくださるとの事でした」
「ありがとうございます」
「貴方様は今のオラリオでは最も有名な冒険者の一人ですからねぇ。今のうちに接点を作っておきたいとの事です」
仕事上の取引相手だという人の思惑についてヴィトーさんが話してくれているが、正直今はどうでもいい。
早く終わって。
「それで、先方に空いている時間を問い合わせて見ましたら、この日にちが……」
ここからそれなりの時間を話した気がするが、記憶があやふやだ。
頭の中は薬トイレ薬トイレ薬トイレ……だったし。
「……では一週間後の午後にこちらで」
そう言って手渡される簡素な地図。
予定の日時を聞き取れたことは奇跡だったと思う。
「分かりました」
「姿は黒ずくめの出で立ちですし、おそらく一目で分かるかと」
「そうですね」
「……?」
やばい。流石に一言だけで会話するのは無理があった。
完全に怪しまれているが、もう頭の中がぐちゃぐちゃで考えてる余裕がない。
アイテムを彼に渡した人と会う日にちも確認したことだし、一旦ここで話を打ち切ろう。
まだお腹は間に合うはず……
「そうそう、そう言えば貴方様のお耳に入れておきたいことが……」
(え、まだ続くの?)
てっきり話を終えられると思っていた僕は、まだ終わりそうにない話に気が遠くなる。
もうじき終わると思っていたから完全に油断していた。
トイレに入ろうとしたら、ただいま清掃中の看板があったみたいな気分だ。
「ええ、実は先方は気の難しい方でして……商談前に少しでも気に入られたほうがよろしいかと」
「き、気に入られる?」
「はい。お土産といいますか。今後もよろしくしていきたいとお伝えできれば、非常に良好な関係で取引を開始できると思いますよ」
(つまりどういうことなのか簡潔に話してほしい)
この前会ったときは気にならなかったけれど、この人の話は回りくどい。
いや、人の話し方にケチをつけるのは良くないけど、今この瞬間は勘弁してほしかった。
「要は、手ぶらではなく、先方が気に入って下さるものを持って行くとよろしいですよと言う話です」
「はぁ……」
まあ、それはそうだろう。
これから会う人は別に友達と言うワケでもないし、こちらはお願いする立場だから何かを持参するのは当ぜ、あっ、ちょっとこれヤバい。お腹がキュルルル……っと締め付けられ始めた。
「ところが先方は少々自尊心が強いと言いますか、気に入らないものを渡されて機嫌を損ねる可能性もあるわけでして」
結論を言ってください。
口には出なかったけど、そんな言葉が脳裏を過った。
「私も初めの頃は苦労しましてねぇ。ドルマンスタインさん……おっと、先方の名前です。彼は基本的には自分たちの利益優先、という方なので。利にならないと分かれば即座に話を打ち切られてしまうでしょう。そこで、これまでドルマンスタインさん相手に交渉を行ってきた私が、彼に気に入っていただけるお土産を選んで差し上げようかと。勿論、お金などはいりませんとも! 私が欲しいのはあくまでも貴方様との信頼関係でして……」
(あ、もう無理)
脳がいよいよ最大級の警報を発する。
このまま話を聞いていたら僕は死ぬ。社会的に。
(ごめんよあの日のゴブリン……)
思い浮かぶのはお尻印のきびだんごを食べたゴブリン。
彼の全てを解放する前の絶望的表情がちらつく。
因果応報と言うならばまさに今がそうなのだろう。
しかし、その罰を甘んじて受けるわけには行かない。己の尊厳は己自身の手で守り抜かねばならないのだ。
「ゴメンナサイッ用事があるので失礼シマスッ‼」
ヴィトーさんの返事も聞かずにピューンと走り去る。
すっごい失礼だけど、これ以上はホントに無理!
「……ふむ、どうやらお急ぎの用で」
分かってくれたみたいだし、もう遠慮は不要。
僕は風と一体化する勢いで駆け抜け、【青の薬舗】に飛び込んだ。
そして眠たげな表情のナァーザさんを確認するなり叫ぶ。
「すみません! トイレ貸してください‼」
「いいよ。一回100ヴァリス」
そしてトイレの中で財布を【豊穣の女主人】に置き忘れたことに気が付いて絶望した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
彼が将来、【
【青の薬舗】に逃げるように入っていった少年にヴィトーはつい苦笑する。
本で読んでいた時も思っていたが、慌ただしい少年だ。
「しかし、流石の【幸運】と言うべきでしょうか」
あのまま土産と称した禁制品を売るつもりだったのだが、見事に回避されてしまった。
ベル・クラネルを相手取る上で、今最も邪魔なのは【ガネーシャ・ファミリア】である。
あの正義の使徒たちと引き離すために、彼に違法行為を働かせることで自ら距離を取っていただこうと考えたのだが、見事に失敗してしまった。
(押しに弱い彼の性格ならば行けると踏んだのですが……予想通りにはならないものです)
ここで彼を犯罪行為で貶めておけば。
【ガネーシャ・ファミリア】による守護が解かれるのは勿論、この先彼が育む人間関係にも致命的な影響があると考えていたのだが、アテが外れてしまった。
前科者ならば第一印象も大きく異なると思ったのだが。
ベル・クラネルの厄介な点は、その成長速度もそうだが、物語を通して様々な
自分だけではなく、他の
「過ぎたことを気にし続けていても仕方ありませんね。一週間後の約束を取り付けただけで良しとしますか」
ベル・クラネルは一週間後、ダイダロス通りにやって来る。
そこを狙い打てばいい。【ガネーシャ・ファミリア】の護衛も来るだろうが、関係はない。
あそこは入ってしまえば脱出は極めて困難。
戦えばこちらに分がある。
爬虫類のような瞳で【青の薬舗】を……そこに入ったベル・クラネルを見据える。
物語は多少なりとも変化しているとはいえ、まだ想定内。最早逃がさない。
(
ひみつ道具を融通してくれる以上、最低限の協力はするが後はどうぞご勝手にとしか思えなかった。
故に
(
如何にひみつ道具と言えども、全てを知ることは出来ない。
できるものがあったとしても、それを使うのはあくまでも全知には程遠い人間ならば限界はある。
ならば内心どう思っているにしても、協力し合うべきとは思うが、向こうにその気はないようだ。
そしてそれ以前にヴィトーも、
「さてはて残りは一週間。それまでの何とか完成させなくては」
望ましい展開になってきてはいるが、本来の予定を大幅に前倒ししてしまっている。
ここからは大急ぎで『アレ』を完成させなければならないだろう。
空を仰ぎ見てヴィトーは嗤う。
空は嫌いだった。
不完全な世界で、己のような歪みを産み出した神々が、あの軽薄なニヤケ顔で自分を見下ろしていると考えると、届かぬ殺意に身を焦がしたのもだ。
しかし、それも全ては過去の話。
箱庭を見下ろすと言う設定の神々の姿など、最早滑稽でしかない。
今なら空が好きになれそうだ。
(嗚呼、楽しみです)
世界は終わる。
三大クエストの失敗でも、オラリオの崩壊でも、ダンジョンの限界でもなく。
ヴィトーの怒りがその滅びを具現化するのだ。
この世界を徹底的に扱き下ろし、英雄たちの祈りを侮辱する怪物。
最後の英雄に泥を塗る、最悪のモンスターの生誕の時は近い。
この物語は最悪の形で汚されるだろう。
それを前に、彼は何を思うのだろうか。
そんな思考が過ぎ去り、その前に死んでいますね、とその感傷を否定した。
「さあ、努めましょう。最悪の
時折声が聞こえる【青の薬舗】を舐めるように見つめる。
ヴィトーは笑みを深めながら、ポラロイドインスタントミニチュアせいぞうカメラのシャッターを切った。
トイレで絶望するクラネル少年がどうなったかはまた次回。