あれはダンジョンについてそこそこ理解できるようになった頃だろうか。
モンスターの種類を覚えて、ダンジョンの地形も活動範囲なら分かるようになった時に受けたエイナの講習。それはいつもと少し、毛色が違った。
用意された資料の多くは、ダンジョン内で実際に起きた事例を纏めた物。
しかし、その中にモンスターは殆ど出てこない。
『ベル君。今日話す内容は、君にとってはショッキングなことかもしれない。でも、決して見て見ぬふりをしていいものではないから、ちゃんと覚えて』
エイナは常に全力でベルに知識を授けていた。
それでもこの日のエイナはいつもよりピリピリしていたと思う。
内容を考えれば、当然かもしれないが。
『今日勉強してもらうのは、ダンジョン内における闇討ち』
そう、その日学んだのはモンスター以外の脅威。
ダンジョンでこれまで起きた人間による冒険者への攻撃だ。
『地上から隔離されたダンジョンは一種の無法地帯。ギルドや【ガネーシャ・ファミリア】も頑張って対処はしてるけど、そこで起きていることを全部把握できるわけじゃない』
ある日、どこかの冒険者が死んでも、その死体はすぐにモンスターが処理してしまう。
そうなれば地上から分かるのは、その冒険者が行方不明という事実のみ。
それを悪用する者は多いという。
『かつて暗黒期に活発に活動していた
用意された資料はそんな闇に葬られるはずだった真実。
ギルドの懸命の捜査の賜物だった。
憧れのダンジョンの血生臭い裏の顔に絶句するベル。
そんな彼にエイナは苦々しそうに言葉を続けた。
『こんなことは言いたくないけど……ダンジョンでは人間だって敵になる。嫌なことから目を背けるんじゃなくて、ちゃんと向き合って心構えをしておくことも大切だと思う』
エイナはもう何年も探索アドバイザーをしているという。
その中には、人によって殺されてしまった冒険者もいたのかもしれない。
……その推測が正しいか、聞く勇気はベルにはなかったが。
『今日教えることは忘れないで。モンスターへの対処と襲撃者への対処は違う。明確な殺意を持った彼らは、もしかしたらダンジョンの中で一番怖いものかもしれない』
忘れろと言われても忘れることはできそうにない。
資料から読み解ける当時の情景は凄惨なもので、圧倒的な
『もし、ベル君がダンジョンで襲撃を受けたら、できることは二つ。応戦するか逃げるか。アドバイザーとして言わせてもらえば逃げる方がいいと思う』
『どうしてですか?倒せるなら倒した方が……』
『同じ襲撃でもモンスターと人間では決定的に違うものがあるの。何だか分かる?』
エイナの問いにベルは少し考えてから答えた。
『えっと……武器でしょうか』
『う~ん。それも間違いじゃないけど……私は情報だと思う。モンスターが人を襲うのは本能的なもので、ダンジョン内の襲撃も
確かにそうだ。
モンスターが人を襲うのは怪物としての本能に従っているに過ぎない。
明確な意思をもって個人を狙うモンスター何てものはいないのだ。
『でも人間は違う。人が人を襲うときは必ず理由がある。予め襲う人間を決めて、その人との戦いをシミュレーションした上で来ているはず。つまり、勝てると思っているから襲って来ているの』
例え相手が圧倒的格下でも油断できないのが冒険者だ。
切り札による
『モンスターとの戦いでも共通してるけど、戦闘は得意の押し付けあい。本能で動くモンスターと思考して戦う人間だと、人間の方が厄介なのは当たり前のことでしょ?』
冒険者は冒険しないがエイナの
リターンの少ない冒険なんてやるべきじゃない、と担当冒険者に説く。
場合によっては戦う方がいいにしても、逃げることを考慮しないのは良くない。
『もし、ダンジョンで人間の襲撃を受けたら、先ずは逃げ道を探して。生きてさえいればリベンジだってできるんだから』
それがダンジョンにおける人間との戦いでエイナがベルに教えたことだった。
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初撃を避けることができたのは向こうが威嚇のつもりで放ったからだろう。
それでも目では全く捉えられず、半ば勘頼りで横に飛び出したのだが。
大気が震えるような轟音を引き起こした一撃にベルは震撼する。
その威力に、ではない。
そこに秘められた技巧にである。
(こっちを見てなかった……!? )
オラリオに来てから度々向けられる銀の視線によって、ベルは感覚が鋭くなっている。
その感覚は襲撃者の視線が自分に向けられていないことを告げていた。
視線は気絶するモダーカに注がれている。
今ナイフを持った少年より、器を昇華させた冒険者の方が余程手強いということなのか。恐らくは、モダーカによる不意打ちを警戒している。
一方で少年に対する注意は全くない。男にとってベルなど驚異足り得ないのだ。
……そして、それはベルが一番よく分かっていた。
一度、ひみつ道具名刀電光丸で剣技というものを体験したからこそ分かる。
あの一見無造作に振られただけのような一撃に込められた技術の難易度が。
ステイタスだけではない、技の冴えを感じ取った。
(無理だ、勝てない……)
あんな存在と戦闘なんて自殺行為だ。
逃げるしかない。
しかし、逃亡も恐らくは困難。
相手の超高ステイタスに加えて、モダーカは先ほどの攻撃で気絶。リリは腰が抜けていて動けない。ベル一人でも逃げ出すのは困難なのに、他二人を助ける必要があるのだ。
(モダーカさんは僕の後方の壁にうずくまっている。リリは僕のすぐ隣。回収できないわけじゃない……けど……)
確信がある。
僕が二人を回収しようと動き出した瞬間、あの襲撃者の理不尽な
僕たちはダンジョンに入ったばかり、入り口となる階段まで逃げれば、流石にこの襲撃者も撤退するはずだ。
ダンジョンで闇討ちなんてしてくる以上、人目につきたくないと思っているのは明白なのだから。
つまり、この絶望的な状況を切り抜けるためには、絶対にダンジョン入り口に繋がる階段に辿り着かなければならない。それが僕たちの勝利条件。
どうして逃げられるリスクが高い入り口付近で襲撃してきたのか疑問はある。
もしかしたらこの位置でも確実に仕留められるという自信だろうか。
それにしたって無用なリスクを背負い込むような判断だと思うが。
(もしかして、敢えて逃げ道を作ることで僕の思考を誘導しようと?……この力の差でそんな小細工するかな?)
相手の思惑が分からない。
鉄仮面に覆われた襲撃者は、何の種族なのかも曖昧だ。
この出鱈目なパワーでエルフはないと思いたいが。
態と逃げ場を用意したかのような違和感に、迂闊に逃走の選択肢を選べないベル。
襲撃者は悠長に熟考する余裕など与えない。
「考えている暇はあるのか?」
「なっ!?」
気が付けば男は目の前にいた。
振り上げられた大剣に仰天するベルは、慌てて男の持つ大剣の動きに注視し……腹部に走る鈍い痛みに肺の空気を思わず吐き出した。
(がっ……な?、え?、足!?)
大剣の振り下ろしと思わせて、意識外からの蹴り。
典型的なフェイクにまんまと引っかかったベルは、空隙に白黒の点滅を瞬かせる脳の叫びに屈するように膝をついた。
不味い、追撃される。
そう気づいてもベルの体は、思考と切り離されてしまったように動かない。
続けて放たれた二発目の蹴りでベルは勢いよく吹き飛ぶ。
「がっ、‼、リリ!、モダーカさん!」
ゴロゴロと地面を転がった。
体中が痛みを訴える中、少しでも酸素を取り込もうと荒い呼吸を繰り返す。
何とか体のコントロールを取り戻して、二人の下へ駆けよろうとするが、ベルの前に襲撃者は立ちふさがる。
(っひみつ道具を‼)
今日使用できるひみつ道具の実験のために、ひみつ道具は手元に呼び出している。
竦みそうになる心を無理矢理奮い立たせて、ベルは異世界の言語が刻まれた扇形のひみつ道具を取り出す。
夢たしかめ機も、ヤセールも、戦闘に使える物ではないだろう。
だが、この強力うちわ「風神」は恐らく強い風を起こすもの。
どこまで強い風が起こせるかは分からないが、今の状況を打破するにはこれしかない
「ついに出したか……」
「!」
その時、襲撃者の視線がようやくこちらに向いたことに気が付く。
今まで全くベルの挙動に注意を払ってはいなかった男は、ひみつ道具を出した瞬間、モダーカから僅かに注意を逸らした。
(この反応……ひみつ道具を知っている?)
ついに、と襲撃者は口に出した。
それはベルがひみつ道具を使うこと自体は分かっていたという事に他ならない。
確かに
ひみつ道具は圧倒的な格上すら撃破可能な異世界の技術。
これまで数々の格上と遭遇し、生き延びてこれたのは相手の意表をつけたからだ。
しかし、今回の相手はベルが格上殺しの手段を持っていることを理解している。
「……」
無言で男は立ち位置を変える。
ベルとリリが直線となるようなポジショニング。
それを見て、ベルは襲撃者が慢心していないことを悟る。
これは脅しだ。
そのマジックアイテムを使えば、あの少女も巻き込まれるぞという脅し。
能力が日替わりで、強力うちわ「風神」の詳細はベルでも把握していないのだから、あの男もどんな能力が飛んでくるかは分からないはずだ。
それでも、なにかを起こすと分かっているだけで、こうもやりづらい。
(ひみつ道具を使わなきゃこの相手は突破できない。何とかリリが正面にいるこの状況を……っ!?)
思考を深めた一瞬。
それが相手には致命的な隙と映ったらしい。
凄まじい勢いで襲撃者は接近し、横凪の斬撃を放った。
大剣が振り下ろされただけで地面が抉れた光景が、頭の中で再生される。
防ぎきれる訳がないと理解しながら、反射的にひみつ道具で受け止めようとするベルは、うちわと接触しようとした大剣がすり抜けた光景に思考を停止させた。
「え……づっ!?」
思わず間抜けな声を漏らすが、右肩に走った痛みでベルは気づく。
先ほどと同じ、斬撃と見せかけてベルの防御を誘導し、がら空きになった反対側から返す大剣の腹で殴りつける。
重厚な鉄の打撃に全身が焼けるような痛みを味わいながら、ベルは相手に殺意が無いことを理解した。
(普通にやっていればもう何度も殺されている)
どうしてかは分からないが、相手に敵意はあっても殺意はない。
それなら逃げ出すチャンスはある。
(斬撃はきっとフェイク、そう弁えて対処すればひみつ道具を使う余裕もできるはず)
まずは初撃と同じ振り下ろし。
これはフェイク。ブレているようにしか見えない腕の動きに注視すると、次撃につなげようという意思が見え隠れしている。
続けて横凪の一閃。
これもまたフェイク。落ち着いて対処すれば問題ない。
今度は袈裟斬り。フェイクに違いない。今までと同じように距離を保とうとして。
ヘルムの奥から見える野獣のような眼光を見てしまった。
(……!?)
ゾクリ、と背筋に冷たいものが走る。
慌てて大きく回避する。予想通り、フェイクだったにもかかわらず、無茶な回避でベルは大きく姿勢を崩した。
しかし、襲撃者は攻撃の手を緩めない。
四撃、五撃、六撃……重ねられる斬撃。
全てはフェイク。しかし、攻撃の度に男から発せられる威圧で、ベルはそれがフェイクだと気づけない。
何が虚で、何が本命なのか。
混乱した頭はまるで見抜けない。
(頭では分かっていても、あの心臓が凍るような恐怖で冷静に判断できないっ。惑わされている……っ)
「……いいのか?仲間から遠ざかっているぞ」
「っ!?」
男の言う通り、ベルは無意識のうちに後ずさっていた。
その事実に歯を噛み締める。
「うわああああああっ‼」
破れかぶれにうちわを振ろうとするが。
「遅い」
それより先に襲撃者の拳が顔面に減り込んだ。
グラリと意識がブレる。
まるで土の壁が起き上がってくるかのように、目の前に地面が迫る錯覚。
少しの間の気絶。次に意識が覚醒した時には、ベルは前のめりに倒れ込んでいた。
「がっ、ぐ……っ」
「まだ立つ気か……」
無様に身を悶えさせながらも、懸命に起き上がろうとするベル。
それを見て、襲撃者はとどめの一撃を与える気か、ゆっくりと少年に近づく。
「……やはりお前は俺に似ている」
何と言ったのか、ベルにはもう聞こえていなかった。
立て、立てよ、立ってくれ。
力の籠らない腕に必死にそう呼びかける。
男の腕が振り上げられる。
最後まで藻掻こうとする少年の意識を刈り取らんとするその時。
王者の背後に炎の魔法が走った。
見ることもなく大剣で掻き消した襲撃者は、ゆっくりと振り返る。
「まさか、動けるとは」
視線の先には、震えながら小剣の切っ先を向ける
都合よく逃げ場が用意されているのはもちろんワザとです。
クリアができない無理ゲーでは試練になりませんから。
そして、この攻防でベルがフェイクを見抜けなかったのは、一撃一撃に込められたオッタルの殺気に当てられたからです。
レベル1の新米が駆け引きで勝てるほど甘い相手ではなかったという事ですね。