【イシュタル・ファミリア】はオラリオでも有数の大規模ファミリアである。
オラリオに在籍するファミリアである以上、保有する戦力の強さももちろんではあるが、彼女たちの最大の武器は色だと言えるだろう。
人の三大欲求の一つである性欲を司るかの派閥は、娼館としても絶大な規模を誇っている。
それこそ大量の金を落としていく上級冒険者は勿論、人脈の多い商人や都市の運営を担当するようなギルドのエリート職員。極めつけにはファミリアの主神として絶大な影響力を持つ男神たち。
そんな男たちを虜にするべく、【イシュタル・ファミリア】の娼婦たちはその美貌を持って一時の夢を見せるのだ。
眷属の強さでは【ロキ・ファミリア】【フレイヤ・ファミリア】と言った二大巨頭には遠く及ばないだろう。
権力の強さではオラリオの全てを統治するギルドとは比較できない。
人望では【ガネーシャ・ファミリア】とはそもそも勝負にすらならないはずだ。
だが、人々の心を侵すという一点にかけては【イシュタル・ファミリア】の右に並ぶものなどいない。
だからイシュタルは許される。
多少の横暴は彼女の機嫌を損ねる
オラリオでは違法とされる人身売買も、オラリオの男たちの欲望を受け止めてくれるならば目を瞑るしかない。
オラリオの欲望は彼女が握っているのだから。
「おい!誰だこんなもの仕込んだのは‼」
「床がすごいベタベタする~~」
「ギャッ……なんかこの壺静電気が」
だが最近は少しその勢いに陰りが出ているかもしれない。
幽霊騒動から始まる【イシュタル・ファミリア】の娼館で起きる数々の怪奇現象。
最初は変なこともあるものだと対して気にせず、幽霊の呪いの噂を笑い飛ばしていた娼婦たちも、立て続けに起きる異常事態にすっかり参ってしまっていた。
お楽しみ中に変な人形たちが、色っぽいムードの音楽を奏でていた時は生きた心地がしなかった。
客は最初は店の出し物だと思っていたが、娼婦の反応を見て幽霊の噂に行きついたらしく、大慌てで逃げ出した。ほぼ全裸で。
男を度々拐うフリュネの悪評もあり、【イシュタル・ファミリア】の店に寄り付く客は減少の一途を辿っていた。
皆無にならないのは熱烈な固定客と、噂を聞き付けた神々が足を運んでいるからである。
ただし、神々はマナーなど知ったことかと騒ぎまくるので、余計に新規の客が来ないという悪循環に陥ってしまったが。
「見た目はいつも通りなのに、なんで罠だらけになっているんだ……」
今回の怪奇現象の厄介な点は一見すると全く異常に気づけないことだ。
しかも発動した罠は自動消滅し、いつも通りの姿に戻る。そのせいで通路を進むことすらおっかなびっくりという有り様。
「て言うかこの罠って春姫の部屋に近づくほど多くなってない?」
「あの娘本当に呪われてるんじゃ……」
「お祓いさせてあげれば良いのに。いくらなんでも可哀想だし」
その異常事態が立て続けに起きているのは、常にある娼婦の周囲でだった。
いつも暗い表情で、出世を狙い目をギラつかせる周りの娼婦たちからは浮いていたが、だからと言って彼女を嫌っているわけではない。
得体の知れないことが後輩の周りで起きているとあれば心配もするだろう。
「イシュタル様はどう思っているんだろう?」
「私たちの主神だけどあんまり会わないからね。末端の私たちに興味なんてないって」
一応、春姫を【イシュタル・ファミリア】傘下の色々な店に移すと言った対策はとっているが、変わらず異常事態が起きているので意味はないようだ。
当の春姫はあまりに気にしていない……と言うよりは寧ろ歓迎している気もするが。
機密だかなんだか知らないけど、お祓い師くらい雇っても良いだろうと愚痴りながら娼婦たちは通路を移動するのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ベルが春姫の部屋を度々訪れるようになってもうすぐ1ヶ月と言うところだろうか。
とは言ってもベルが何か特別なことをしているわけではない。
何でもないことを話しつつ、時折ひみつ道具を彼女に見せている程度だ。
「それではその鍛冶師の方とのパーティーは無事に組めたのですね」
「リリは新しい仲間を入れるのには慎重になるべきだと言っていましたけど、神様が『サポーター君と二人きりでは危ないからね。聞けばそのクロッゾくんと言うのは頼りがいのある男なんだろう?反対する理由はないとも!』と仰ってくださいまして」
「ヘスティア様はクラネル様をとても心配してくださるのですね」
「はい。いつか、ちゃんと恩返しがしたいです」
オラリオのなかでは底辺も良いところな【ヘスティア・ファミリア】の冒険者であるベルだが、春姫にはベルの冒険を聞くのがお気に入りらしい。
彼女の所属する【イシュタル・ファミリア】の遠征とは比べ物にならないほど平凡なダンジョン探索に、ハラハラしながら聴き入るその姿はまるで吟遊詩人の唄に目を輝かせる子供のようだ。
今回も新たに仲間に加わったヴェルフの話を聞いて尻尾を揺らして楽しんでいる。
「良かったです。ここ最近は
「ははは……確かにこの頃物騒でしたね」
一時は春姫に会いに行けないほどに忙しかったわけだし、知らぬ間に春姫が他の娼館に行っていたりと大変だった。
歓楽街のこと等さっぱりわからないベルは、【ガネーシャ・ファミリア】の中でこう言ったことに詳しそうなハシャーナの協力の下、何とか探し出せたが。
「
「いえ、この付近はアイシャ様……
「
春姫の件もあって、そこそこ歓楽街について調べていたベルは最近覚えた言葉に反応する。
【イシュタル・ファミリア】はその眷属の多くがアマゾネスだ。
アマゾネスの有名な特性は二つ。
男を連れ去り貪り食うという言い伝えができるほどの性欲と、しなやかな四肢を利用した独特の武術。
世界中からアマゾネスが立身出世を狙って進出してくるという【イシュタル・ファミリア】に在籍する多くの娼婦は戦いも兼業する。
多少腕に覚えがある冒険者程度なら素手でのしてしまうのだとか。
(もし僕が春姫さんを無理矢理強奪しても、絶対に逃げきれないよね)
秘密基地を作った時にみちび機に春姫を救う方法を聞いた際の回答。『【イシュタル・ファミリア】から奪う』がどうも頭から離れないのである。
常識的に考えてレベル2なりたての新人が、第一級冒険者を有する大派閥を敵に回して無事で済む筈がない。
ハシャーナに聞けば娼婦の救済措置として身請けと言うものもあるそうだし、まだコツコツとお金を貯めていった方が時間はかかるだろうが確実だ。
過去にいくつも前例があるようだし、間違った回答ではないだろう。
だが、あの日のひみつ道具であるみちび機は、この回答を除いたすべての質問に完璧に答えた。
たまたまこの問いに関する答えだけが間違っていた確率と、それまでの質問同様にこの答えも正しい可能性。どちらの方が高いと思われるかと聞かれれば、少し悩んだ後に前者を選ぶだろう。
(ひみつ道具を鵜吞みにはできないけど、完全に無視するのも違う)
世界には自分では想像もつかない闇がある。
それをリリの一件で学んだベルは、決して自分の常識に惑わされてはならないと己を戒めた。
たとえ的外れでもいい。悩んで、考えて、その末に出した結論がベルを納得させるはずだから。
「ただ歓楽街ではありませんが、ダンジョンで襲撃はありました」
「ダンジョン?」
「はい。白装束を着た不気味な方々でした」
(
暗黒期には、
リューやフィンの話では弱体化しているらしいが、それでもベルにとっては脅威に違いない。
しかし、そんな風に考えを巡らすベルの様子に気付かず、春姫は予想外の言葉を口にした。
「暫くアイシャ様……
(話し合う?襲撃じゃなくて、待ち合わせてから交渉が決裂した?)
春姫の言葉を信じるならば【イシュタル・ファミリア】は
それどころか、直前まで話をするほどに呑気だったという。
それが示す事実は一つ。
【イシュタル・ファミリア】は元々は
前に春姫がイシュタルを怖い神と表現したことを思い出す。
都市最強には及ばないまでも、十分強豪と言われるファミリアが都市を裏切っているのかもしれないという情報に思わず息をのむ。
(動揺しちゃダメだ……この人は多分何が起きているのか分かってない。余計な心配をさせちゃダメだ)
「……クラネル様?」
春姫は何も分かってはいないのだろう。
彼女は一度もダンジョンでの襲撃者を
外の情報が全くない見分けがつかないのだ。
だから襲撃者を見たままの表現で……
(見たまま……?)
その瞬間。背筋が凍るような錯覚を覚える。
とんでもない落とし穴に直前で気が付けたときの嫌な感覚。
「春姫さん。どうして襲撃者の見た目を知っているんですか?」
「え?」
「ただの娼婦のはずの貴方が、まるでダンジョンで実際に見たみたいに」
「コンッ!?」
春姫は
戦う力のない彼女がどうしてダンジョンにいたのか。
ダンジョンでは死傷することなど日常茶飯事。
嫌な言い方だが、商品である彼女を傷つけるリスクを負う意味が分からない。
逸る心を必死で律し、いつも通りの口調で尋ねる。
だが、春姫も失言をしたと思ったのかビィィンと尻尾を立てた。
「え、えっと……じ、実は私は、あのっ、荷物持ちでして」
(……サポーターとは言わないんだな)
あたふたと言葉を重ねて誤魔化そうとしているが、喋るたびにダンジョン探索の知識が無いことが浮き彫りになる。
違和感だ。
決して無視してはいけない違和感がベルの本能に警鐘を鳴らす。
(この人の置かれている状況が僕の思うよりも危険なんじゃないかっていう予感。その手掛かりを掴んだ気がする)
このまま秘密を追求したいという欲求が沸き上がる。
だが、ベルはそれを押し殺した。
短い期間の付き合いだが、春姫は意外と頑固な所があるのは分かっていた。
問い詰めても口を割ることは無いだろう。それどころか会うことを拒否される可能性もある。
それならばここは退いて、少しずつ探っていくほうがいいかもしれない。
幸い春姫は隠し事が苦手だ。
今回のようにボロを出す可能性は大いにある。
「クラネル様は本日はどうやって忍び込んだのですか!?いつも驚きの方法で春姫は気になります!」
かなり強引な話題転換を切り出す春姫。
隠し事があると言わんばかりの態度だが、ベルは敢えてそれに乗る。
手遅れにならないかと言う不安を押し殺しながら。
「今日は【いたずらオモチャ化機】っていうひみつ道具を使ったんです。その名の通りモノを悪戯道具にできるってアイテムで、ちょっと見張りの人たちの目を誤魔化しました」
「だ、大丈夫なのですか?」
「そんなに危険はないですよ……多分」
アスレチックハウスほど鬼畜なことにはならなかったはずだ、とベルは言い訳する。
効果がランダムなのは心配だが。
「部屋の周りにも罠をばら撒いておいたので、この部屋に人は暫く来ないでしょうし」
「それで今日は
時折春姫の様子を見に覗いてくる先輩たちが来るたびに、ベルが慌てて隠れたり、逃げ帰ることが最近は多かったので、そもそも部屋に近づけなければいいのでは? という発想が浮かび、今日は辺り一帯にいたずらオモチャ化機を使用してきた。
春姫をいじめずに気にかけてくれている人たちに申し訳ないが、ベルが見つかると一貫の終わりなのだ。
「でも最近はお客様も来られなくなりましたし、人が来る心配は減っていますね」
「え? そうなんですか?」
「はい。春姫は何か粗相をしてしまったのでしょうか……」
決して望んでこの環境にいるわけではないとはいえ、根が真面目な春姫は成果が出せないことを疑問に思っているようだ。
ベルとしても彼女がいやいや男に身を差し出さなくていいことは喜ばしいと思っているが、全く客が来ないというのは変だと思った。少なくともベルはその美貌を一目見た瞬間、呼吸を忘れたというのに。
「クラネル様は何か分かりますか?」
「いえ……春姫さんはこんなに綺麗なのになんでだろう?」
「き、綺麗!?」
原因は春姫の周りで起きる怪現象のせいなのだが、春姫に一切落ち度がないので先輩たちは春姫に伝えられず、ベルも歓楽街のそういった噂を教えてくれる知り合いがいなかった。
結果、原因の白兎がそこに居るにも関わらず、うーんと首をひねるベルと春姫。
二人はポンコツだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ヘスティアをあまり待たせるわけにもいかないので、門限前に帰れるように日が沈み切る前に春姫と別れたベルはなんなく娼館を脱出した。
(春姫さんは僕になにか隠している気がする。あの人は本当にただの末端娼婦なのかな)
春姫との縁を切りたくないという我儘から始まったこの関係。
ベルは今の関係が時間稼ぎにしかならないことを理解していた。
リリの時のように選択の時は自分の覚悟など待ってはくれない。
あの時はなんとか挽回のチャンスはあったが、本来は機会を逸してしまえば後は手出しなどできなくなるのだ。
だからベルは必死に情報をかき集めていた。この出会いの結末を納得のできるものにするために。
(もし、みちび機のアドバイス通りに【イシュタル・ファミリア】と戦う事が正解なのだとしたら)
自分はその道を選べるだろうか。
敗北すれば自分だけではなく、周りも巻き添えにしてしまうと知りながら。
何よりも大切な神様を苦しめてしまうかもしれないのに。
懊悩するベルは歓楽街を歩いていく。
一つ、冒険を越えたとしてもベルはまだまだ未熟だった。
人としても、冒険者としても。
だから、迫りくる脅威にギリギリまで気が付かない。
「……?」
頭の中で自問自答を繰り返していたベルは、不意に影が自分を覆っていることに気が付いた。
もう日没になってしまったのだろうか。
妙に思い、顔を上げるとそこには。
2
筋肉質な褐色の短い腕と短い脚。
ずんぐりむっくりとした体形は迷宮の魔物のよう。
体とのバランスが明らかにあってない大きな顔には、ギョロリとした目玉と大きく裂けた口。
そして黒髪のおかっぱ頭。
「ゲゲゲゲゲゲッ!いい出会いじゃないか!アタイ好みの若い雄だよぉ~‼」
「ホ、ホワアアアアアアァァァァァァッッッ!?」
春姫の事情を知らないただの遊女たちは春姫に良くしていたようだったので、今作でもちゃんと客の相手ができない春姫を叱りつつも気にかけてくれています。
そのため、末端の構成員の中には春姫の扱いに疑問を持っている娼婦も現れ始めました。ここまで問題が起きているのに【ガネーシャ・ファミリア】とかを頼らないのはどうしてだろうと。
今後の話に影響があるかもしれません。
まあ、今のベル君は汚いチコちゃんをどうにかするのが先ですけど。