下界は不自由だ。
全能の力を封じて降臨したフレイヤは、それでも美の女神と言う圧倒的個性をもって天界時と変わらぬ権力を獲得したが、それでも全てを思いのまま操れるわけではない。
どれだけ計算づくで行動を起こしても、下界の未知によって思惑が壊されることは珍しくはなかった。
「それでも、この状況は予想できなかったわね」
ハァ、といつも傲慢不遜を地で行く彼女にしては珍しく、疲れたようなため息をつく。
彼女が望んでいたベル・クラネルの試練は完全に破綻したと言えるだろう。
この滅茶苦茶な戦場でミノタウロスと引き合わせることはもはや不可能だ。
如何に強化種と言えども、第一級冒険者が蔓延るあの階層で長生きできるはずがない。
場合によっては自爆兵の爆発に巻き込まれてしまうかもしれないのだ。
せめて【ロキ・ファミリア】の妨害が無ければ、オッタルも巻き返せたのだろうが。
(オッタル、【ロキ・ファミリア】、
恐らくは違うだろう、とフレイヤは結論付ける。
この状況で得をする勢力などいるはずがない。先ほどまでは
つまり、これはただの偶然。
下界名物の巡り合わせと言うモノだろう。
全能の力が跋扈する展開ではあり得ない要素。
下界の醍醐味ともいえるものだが、今回ばかりはそれが恨めしい。
「……」
くるくると、髪を弄る。
思い通りに行かずに手が一人でに遊びだすなど、まるで下界の子どものようだと苦笑した。
この日のために千里眼……神の鏡の使用のための手回しまでしたというのに。
これも少年にとっては試練と言えるだろうが、せっかくならばオッタルのお膳立てをした舞台を見たいものだった。
(文句ばかり言っても仕方ないわね)
想定外が嫌ならば下界になど来なければいい話だ。
今回の件はいい教訓と飲み込もう。
フレイヤはコトリ、とワイングラスを置いて神の鏡を観る。
この力は多くの神々に交渉して、今日限り使用が許されたものだ。
思い通りにならなかったからと言って、ここで中断するのは勿体ない。
この混戦の行く末だけでも見守るとしよう。
「仲間と逸れたのね。ええ、その方向でいいわ。でも、そこから先には行けないわよ」
人の魂を見通すフレイヤには、ベルの進む先にヴェルフがいることは分かっていた。
しかし、ベルを誘導している装備は、あくまでも方角しか示さないらしい。
ベルは針の示す先を真っ直ぐ進もうとしているが、その先には大きな縦穴がある。
中層から現れるダンジョンの特殊な構造。ベルも知識として頭には入れているだろうが、今回が中層初挑戦という事もあり、その危険性はいまいちわかっていないらしい。
13階層は上層に比べて燐光が少なく、先が見通しにくい。
迂闊に全速力で動けば、縦穴を見落としてそのまま下の階層へ真っ逆さまだ。
ましてや、今のベルはモンスターの群れとの戦いで視野が狭くなり始めている。
このままでは勢い余って縦穴に突撃しかねない。
(そうなれば、仲間の救助どころではないでしょうね)
ハシャーナはともかく、ヴェルフはこの階層でいつまでも戦えない。
ベルが下層に落ちれば、手遅れになることは確実だ。
「……」
その時、フレイヤの中に計算はなかった。
企てが破綻した以上、初めの目的に良くも悪くも執着しないのが彼女の特徴だ。
だから、それは感傷のようなものだ。
もし、仲間の救助が間に合わなければ、きっと少年は泣くだろうなと思っただけ。
神らしく嗜虐的側面もフレイヤは勿論持ち合わせているが、なんとなく、今はそう言った気分ではなかった。
まあ、大したことではないだろう。
何処かの勢力に不利益になる訳でもない、神の鏡を見逃している他の神々も、このくらいならば追加で許容してくれるはずだ。駄目ならば仕方ない。
気まぐれな美の女神は、そんな刹那的思考で
『その先に行ってはいけないわ、右から迂回しなさい』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「リリッ、そっちは大丈夫!?」
「はいっ、ライトニングボルトサーベルが勝手に倒してくれるので……ッ」
走りながら、モンスターたちを倒していくベルたち。
出来れば倒した後に魔石も砕いておきたいが、そんな余裕はない。
今もダンジョン・ワームの突進を紙一重で躱して、魔石を一刺しするので精一杯だ。
「はやくヴェルフ様と合流しましょう! この階層で一人でいるあの方も危険ですが、リリたちも余裕はありません! 味方を増やさないと‼」
ライトニングボルトサーベルでバットパットを迎撃するリリは息を切らしている。
精神の消耗は著しいだろう。
「うん! このまま最短距離で……」
互いに失われていく余裕が思考を短絡化し、不用意な強行突破につなげる。
ベルもリリも熱に浮かされるまま、更に強引な突破を試みようとするが。
『その先に行ってはいけないわ、右から迂回しなさい』
鼓膜から脳全体に染み入るような、綺麗な女の人の声が聞こえた。
モンスターたちの雄叫びにまみれた13階層に不似合いな美声にえっ、と思わず声を出す。
ダンジョンの中にいながらベルは一瞬、戦いを忘れた。
「「「「キュ――ッ!」」」」
「うわっ!?」
その隙に殺到したアルミラージたちが
ひみつ道具の効果により、斧は人参に変わる。
「「「「……キュ?」」」」
突然変わった己の武器に困惑するアルミラージたちは、お互いの顔を見合わせる。
少し静寂が周りを包んだ後、兎たちはポリポリと人参をかじり始めた。
「……ハッ、今のうちに」
「待ってリリ、右から行こう!」
「ベル様!?」
「なにか嫌な予感がする!」
「……問答の時間はありません、分かりました!」
意外とおいしいのか、人参に夢中になるアルミラージたちを置き去りに、二人は進路を変えて針の示すルートから、大きく右に逸れた。
相変わらずモンスターはウヨウヨと存在しているが、ベルたちはそれらを切り払い、焼き尽くしながら先へ進む。
少しづつ、上り坂になっているルートを突き進んでいると、先ほどまで自分たちがいた地点を上から見下ろせた。
「あの穴は……」
「縦穴、だよね。こんなに大きいんだ」
「あのまま直進していれば、落ちていたかもしれませんね。ベル様の勘を信じて正解でした」
ほっと胸を撫でおろすリリを見て、彼女はあの声を聞かなかったのだろうかと疑問に思うベル。
あれは幻聴だったのか。
(……ありがとう)
自分でもイマイチ自信が持てなかったが、聞こえた声の主に心の中で礼を言う。
そして反省した。
せっかくのアイズの教え、集中力を配分すると言う技能を忘れていた。
モンスターだけが敵ではないのだ。
一般的に、上級冒険者は下級冒険者より死にづらいと言われている。
体の頑丈さが段違いだし、ベルのような例外でもなければその領域に辿り着くのは経験と実力を伴った存在だからだ。ダンジョンの上層以下は質こそ高いが、冒険者側の技量もあって死亡率はイメージほど高くはない。
しかし、中層以下で例外的に死亡率が高い階層がある。
それが13階層。
上層から難易度が跳ね上がる本階層は例年、変化に適応できなかった夥しい第三級冒険者の死体を積み上げていると言う。
自分がいるのは紛れもない危険地帯なのだ。
「……!? リリッ、何かが近づいてくる!」
冷静さを取り戻したのも束の間。
ランクアップで強化された耳は洞窟内に響く無数の足音と、何かが擦れるような金属音を察知する。
悲しいほどに聞きなれてしまったその音は、ベルにこの階層で起こっている戦いの一端を告げた。
(なんでここに
薄暗い迷宮の闇の中でもその存在を告げる白装束。
まるで亡霊のように浮かび上がるシルエットは忘れもしない。
「下がって!」
「ベル様!?」
「
通常の攻撃に対してはめっぽう強いライトニングボルトサーベルだが、名刀電光丸と同じように爆発や溶解液といった外法には反応しない。
そんな物を剣で斬れるはずがないのだから当然だが。
「うおおおおおおおおおっ‼」
狂信者たちは獣じみた声で叫びながらこちらに突進してくる。
その背後には無数のモンスターの群れ。
「
リリの悲鳴交じりの声に、ベルもギョッとする。
この
否、そもそも
先ほどバットパットと交戦した時から奇妙には感じていた。
バットパットは10階層に生息するモンスターだ。中層域に出現することは滅多にないはず。
モンスターは下の階層になるほど強くなる。
怪物間に仲間意識があるわけでもないのだから、自分が脅かされる領域にわざわざ行くはずがない。
なのに上層のモンスターが存在していたのは、
(エイナさんが言っていた
リューやフィンは
(でも末端の暴走なら、そんなに強い指揮官はいないはずだ‼)
現段階で集まった情報から、ベルはそのように推測した。
ならば、素早く無力化するに限る。
「ひみつ道具を使ったら一緒に突っ込もう」
「分かりました! あの人騒がせな連中を片付けて、さっさとヴェルフ様を回収します!」
武器よさらば灯の射程範囲にリリがいないことを確認して、狂信者たちに照射。
それぞれの武器は野菜となり、
「な!? 何故自爆装置がトマトに!?」
一番厄介な装備も無力化する。
これで爆発を恐れる必要はない。
「あああああああっ‼」
「やあああああっ!」
ベルのダブルナイフが次々と狂信者たちを無力化する。
リリのライトニングボルトサーベルもその名の通り、雷のような煌きをもって力を存分に発揮した。
……刃ではなく腹の部分で叩きのめしていたとはいえ、一応鉄の塊なのだから、あんなにフルスイングしたら狂信者たちは死ねると思うが大丈夫だろうか。
「【ファイアボルト】!」
モンスターたちを引き連れていた狂信者たちを沈黙させると、後方のモンスターたちに炎雷を何度も打ち込む。上層から来たと思しきモンスターたちの断末魔を聞きながら、ベルはリリから差し出された
8700ヴァリスと言う、ベルとヘスティアの一日の食費より高い
「さあ、急いでヴェルフさんの……っ」
「ベル様?」
その時、既視感を覚えた。
一体どの記憶が疼いているのかも分からないまま、直感の赴くまま視線を上に向ける。
先ほどの爆発の影響か、崩れ落ちた瓦礫の山の先。
そこに怪物はいた。
「……」
何度夢に出てきただろう。
何度その面影を恐怖の代名詞としてきたか。
自分よりも一回りも二回りも大きな体躯。
折れた角は激闘を潜り抜けた……所謂当たり個体の証拠だ。
牛頭人体のモンスター。ミノタウロス。
ベル・クラネルに大きな敗北の傷をつけたモンスター。
「な、なんで……まさか、
リリの戦慄の声が耳を通り抜けた。
スッ、と目を細め、集中を深める。
ミノタウロスの脅威はよく分かっている。
中層で殉職する冒険者たち。その多くの死因はこのモンスターだ。
単純に強い、理不尽の権化。モンスターらしいモンスター。
向こうが二人に気が付いた。
それと同時にベルは駆けだす。
恐怖を押し殺し、先手必勝の一撃を見舞う。
ぶつかり合う武器と武器。
白い少年と紅いミノタウロス。
緊迫した空気がフロアを支配する。
「──」
状況は誰の手も離れていた。
女神も猛者も勇者も、闇も正義も光も悪も、互いにエゴをぶつけ合い、主導権を渡すことは無い。
女神の舞台は崩された。
勇者の思惑は乱された。
悪の策謀は潰された。
運命と言う糸は迷宮の中で複雑に絡み合い、
そこはある意味最も原始的な世界。何者の思惑もない、ただ在るだけの光景。
誰の手からも外れた物語。
それでも、彼らは出会った。
フレイヤが13階層の構造を知っていたのは、今日のベルとミノタウロスの戦いに備えて、わくわくしながら