ちょっと、トイレにと席を立って、その場を離れた、何故か、自分でもわからない、だが、近づいて来た男を見たくなかった、いや、見られたくなかったのだ。
何故なのか分からない、知っている顔ではないし、知人でもない、それなのに、相手の顔を凝視して、自分はどうしたのか。
鼻をかんで、手と顔を洗い、髪が少し伸びたような気がして鏡を見る、自分は、こんな顔だったろうか、まるで知らない人間が目の前にいるようだと思った。
しっかりしろと自分を叱咤し、はやく戻って御飯を食べようと思った。
もういないだろう、あの人は、だから、ドアを開けると室内の灯りとまぶしさに思わず目が眩みそうになった。
どすん、まずい、ぶつかってしまった、思わず顔を上げてびっくりした、パンを買った時にサービスをしてくれた人じゃないだろうか、顔は強面だったので覚えていた。
(名前は、確か)
思い出せない、いや、聞いてなかったかもしれない、まあ、いいかと思いながら、すみませんと謝って通り過ぎようとしたが、手首を掴まれた。
えっ、もしかして、あのときのパンは奢りではなかったのと思ったけど、いきなり目の前が真っ暗になった。
それは単なる偶然というやつだ、昼間はなるべく、街中を出歩かない様にしていた、海軍の奴らに見つかったら面倒だからだ。
だが、すっと部屋の中で酒を飲んで女と過ごしているのも飽きてきた、酒はまずくはない、うまくないと感じるのは飲む相手のせいだ、娼館の女というのはまるで、菓子屋のような甘ったるい匂いと濃い化粧で、そばにいたら、こっちの鼻がおかしくなっちまいそうだ。
ベッドから起き上がり、俺の指を、まるで獲物を狙うハイエナの様な目つきで見る女の視線が体に全身に絡みついてくるような気がして気分が悪くなった。
「おい、もう用はねえだろ」
大きな音をたててドアが閉まる、最悪、最低だと思っているだろう、女は、いや、それは俺もだ、こんな付き合いしかできねえんだからな、ゲスな男だと自分でも呆れるぜ。
だが、街中で出会ったのは自分よりも最低な屋台の店主だ、何がサービスだ、腹の出た赤らのオヤジには似合わねえ、俺の顔を見てわかったんだろう。
それにしても商売女だって口紅ぐらいはつけてるもんだが、この女はすっぴんだ、香水の匂いさえしない、食っていくのが精一杯の貧民街の女かと思ったが、着ているものはボロではないし、髪も顔立ちもだ、思わず声をかけた、自分でも物好きだと思いながら。
あんた一人かと。
ところがだ、返事の代わりに。
「おい、鰐野郎」
聞き覚えのある声だ、何故、こいつが、この街にいるんだ、振り返りざまに奴の顔面をぶっ飛ばしたくなった、睨みあったのは、ほんの数秒だったと思う、だが、突然、あいつは、あーっと大声をあげやがった。
「てめえのせいだぞ」
なんだ、いきなり叫びやがって。
「おい、いなくなっちまったじゃねえか」
まさかと思うが、さっきの、いや、あり得ないだろう、昔から、こいつの側にいる女は若いのから年増までキンキラとクジャクか、フラミンゴみたいに着飾ったのばかりだ、範囲が広いのは結構だが、趣味が悪すぎる、そんな男が、いや、冗談だろう。
この時、ふと、あの女を、そうしたら鳥頭はどんな反応をするだろうか。
女を見つけるのに時間がかかってしまった、しかも、酒場という人の多い場所だ、海軍の奴らもいるかもしれないと思ったら嫌な予感というのはドンピシャリ、ビンゴだ。
鳥頭だけじゃない、何故、あの煙男まで、なんて組あわせだと思っていたが、突然、女が食べるのをやめて席を立った。
思わずトイレかと思ったが。
(様子、おかしくねぇか)
下町の酒場ならトイレや化粧室は男女兼用というところもあるが、この店は違う、強引に入るのは流石に無理があると思って待っていたのだ。
しばらくして、出てきた女に声をかけたが、聞こえなかったのか、隣を通り過ぎようとした。
思わず、その手を掴み声をかけた、だが、俺を見上げた、その顔を見て、思わず加えていた葉巻を落としそうになった。
(俺のモンに、女に)
思わず口にしかけた言葉を、ぐっと飲み込んだのはいうまでもない。