この道を歩くのは久しぶりだった。小学校への通学路。辺りを見回しながら、昔の記憶を探る。やはり懐かしい物は随分と減ってしまっていた。
「十三年、だもんな」
いつも野菜をくれたおばちゃんも、放課後の楽しみだった駄菓子屋のお婆ちゃんも、どこへ行ってしまったというのだろう。柄にもなく、何かが込み上げてくる。
なんのことはない、それが時間の流れというものだ。現に俺だってあの頃とは似ても似つかない。あの頃の輝くような目は、とうの昔になくなっている。今の俺が小銭を握り締めて、駄菓子を買いに行ったところで、あの心弾む体験は出来ないだろう。
――ああ、分かっている。俺はただ、疲れているだけなんだ。
だから、こんなところに何かを探しに来ている。見つかるわけないのに。
込み上げた何かを押し込むように、空を見上げた。あの楽しかった日々よりも、少しだけ空に近付いた。それは本当に良い事なのか。ちょっと出来ることが増えたって、そもそも一緒になってはしゃぐヤツが一人だっていない。
ぼうっと立っていた所為だろう、額に汗が滲む。今はその汗さえ、うっとうしい。
どこかへ入ろう。そう思い周囲を見てみる。すると、道を挟んで向こう側にある喫茶店が目に入ってきた。コンビニで隠れた横道に、ひっそりと佇むそのお店。下げられた看板にはミ・マンキの文字が刻まれていた。
「ミ・マンキ?」
何語だろう。そんなどうでもいいことが気になった。後で調べてみよう。そう思いながら、OPENの札の掛かった木製のドアを引いた。
「いらっしゃいませ! っ!」
チリンというベルの音と、女性の店員が俺を迎えてくれた。店内中に響くほど元気の良い声。喫茶店でそれは、と一瞬思ったが、どうやら今はアイドルタイムのようだ。俺以外に客はいなかった。恐らくそれで気合が入ってしまったのだろう。そう考えると微笑ましく思えた。学生バイトかな? そう思って改めて店員さんを見てみる。
「あ、ああ、あの。お、お客様。あの、一名様で」
よく見てみると店員さんは、とても綺麗な女性だった。恐らく歳は俺と同じくらい。エプロンがとても似合っている。
「あ、あのっ! ご注文お決まりでしたら、えっと、お呼びください」
――なんだろう。途轍もなく違和感を感じる。気持ち悪さ、と言ってもいいかも知れない。
彼女のことを知っているような、知らないような。昔の知り合いか?
同級生にあんな子が居ただろうか。ひょっとしたら先輩、後輩に、――いや、違う。そんな浅い関係ではないような。
「あ、ああ、あの!」
「ああ、すみません。まだ注文は決まってなくて」
もう少しで思い出せそう、という所で件の店員さんがやってくる。もうここまで来ると、俺は彼女のことを知っている、という前提で物事を考え始めていた。
「いえ、そうではなくて。……失礼ですが、お客様は翔梧君、ではありませんか?」
「っ! そ、そうだけど、貴方は?」
驚いた。相手は俺の事を覚えているらしい。だとしたら、いよいよ疑問だ。この女性は一体、誰だっただろう。記憶を掘り返す。俺の知り合いにこんな綺麗で、清楚で、笑顔が素敵な人物がいただろうか。
「そう、ですよね。分かってました。あの、私は――」
顔を曇らせる女性。瞳を若干潤ませて。それは妙に俺の心をざわつかせる。
二度と傷付けてはいけないと、記憶が訴えかける。
「わたし、は」
「ちょっと待って!」
俺は彼女の言葉を止めた。今の彼女の顔がそっくりだったのだ。昔、俺が傷つけた大切な友達に。
――ああ、思い出した。彼女は、六年以上も共にあった、俺の友人だ。
彼女が最後に見せた顔を、覚えている。悲しみを押し殺すような、涙が今にも溢れてしまいそうな、そんな顔。立ち去る彼女を、俺はどうしたんだろう。名を呼んだだろうか、引き止めただろうか。違う、ただ、見ていた。立ち尽くし、小さくなる友人の背をただ眺めていた。
今、あの時と同じ状況があった。俺が彼女の言葉を止めたせいで、きっとまた否定されたと感じたのだろう。彼女が小さく頭を下げて俺に背中を向ける。もし、このまま行ってしまったら、きっと次に顔を合わせる時には店員と客という、それだけの関係になってしまうだろう。
しかし、本当に呼び止めていいのだろうか。彼女を傷つけたことを忘れ、過去の物にしていた俺に。
「会えて良かったです。翔梧君」
うじうじ悩む俺に彼女は言った。顔は見えないが間違いなく、涙で濡れている。
――俺は何を考えているんだ。自分の気持ちを優先して、また彼女を傷つけようとしていた。
そう気付いた時、俺は口を開いていた。俺の罪悪感など、今はどうでもいい!
「奈留っ!」
彼女の名を呼ぶ。
「奈留、だよな」
「うんっ! 翔梧君!」
涙の球を目尻に浮かべながら、満面の笑顔で俺の名を呼ぶ奈留。あの時、男の子でもあり、女の子でもあった彼女が、今は完全に女性になっていた。
少しだけ空いていた距離を小走りで詰める奈留。ポニーテールの毛先が俺の鼻筋を掠める。女性特有の香りが俺の脳を刺激する。
――なんだ、この気持ちは。……いや、なんだ、じゃない。俺は二十代も中盤まできた立派な大人。勿論この気持ちがなんなのかは知っている。が、マジか……。
「あっ、翔梧君、何飲む? コーヒー? 紅茶?」
「ブレンドを一つ」
「はーいっ」
店員としての言葉遣いを完全に捨てたようだ。一応彼女も俺と同じ年の筈なんだが、なんだあの無邪気な子供のような仕草は。可愛いじゃないか。
俺以外に客のいない静かな店内。流れる穏やかなBGMを聞きながら、彼女の姿を眺める。小さな店内でオープンキッチンだ。奈留の姿はとてもよく見える。
ハンドドリップで丁寧に淹れるコーヒー。良い香りが店内中に広がる。目に見える所でこれをやってくれるというのは、一種のパフォーマンスでもあるのだろう。
「はーい。おまたせ」
「ありがとう」
俺の前に置かれるカップ。それとは別に奈留はもう一つカップを手にしていた。まさか、こいつ。
考えは当たったようで、彼女は俺の向かい側に腰を下ろした。向かい合わせになる。さすがにだめだろう、とは言えなかった。嬉しそうな彼女を見て言える訳がなかった。
まあ、流石に他の客が来るまでだろう。俺は気にするのをやめ、カップを口元に運び、傾けた。
「うまい」
普段インスタントしか飲まない俺にも分かる美味さ。これなら眠気覚ましではなく、嗜好品として楽しむ人がいるのも納得だ。
「えへへ」
微笑む奈留。やはり可愛い。
「ヤバイな、どうしよう」
「ヤバイ?」
思わず口から漏れた声。聞き返す奈留に、慌てて誤魔化す。
そもそも、どうしようもくそもない。ここは大人として、次の休みの予定でも聞くべきだろう。可能ならデートに誘う。それを数回繰り返して、相手の気持ちを確信できたら告白。セオリー通りに行こう。経験はないが、なんとかなる。大丈夫だ。出来るだけ自然に……。
「奈留って、このお店で週どれくらい働いてるんだ?」
まずは休みの日を聞きだして、流れで誘う作戦だった。若干強引な気がしなくもなかったが、彼女は普通に答えてくれた。
「えっと、毎日かな。基本的には定休日もないし。バイトも一人だけだし。あっ、でも日曜日はモーニングだけでおしまいだから、気をつけてね」
予想外の答えだった。まさか奈留に休みがないとは思っていなかった。そうなると、日曜の午後に誘うべきなのか。しかし奈留にとって、その時間は貴重なものだろう。俺が誘っていいものだろうか。
「翔梧君は?」
「ん?」
反射的に聞き返したが、流れ的には俺の休みは? という意味の言葉だろう。別に誤魔化すこともないので素直に答える。
「俺の休みだよな。週五日勤務で土日休み、かな」
「じゃあ、今日はお休みなんだね。ねえねえ、何の仕事してるの」
テーブルに手を突いて、身を乗り出した瑠奈の顔が俺に近付く。ポニーテールを揺らしながら、ねえねえ、ねえねえ、と彼女の口から次々と質問が飛び出してくる。俺はそれに答えていった。時々奈留に対する質問も混ぜながら、飽きることなく喋り続け、気が付けば空は薄暗くなっていた。
「ふぅ、一杯喋って疲れたね」
「ああ、疲れた」
もう後半は全く意味のない会話をしていたような気がする。それでも俺の知らない奈留の人生が沢山知れたのはよかった。
この喫茶店のオーナー兼店長が彼女だと知った時は流石に驚いた。人付き合いが苦手だった奈留が友達と、ウィンドウショッピングをした話を聞いたときは誰目線なのか、「成長したな」なんて呟いて彼女に怒られて。奈留が独身で恋人がいないと聞いた時には軽く踊り出しそうになったりもした。
「コーヒ、もうないね。淹れてくる?」
「いや。大丈夫」
会話の中で既に一回おかわりしている。流石に三杯目は飲みすぎだ。それに会話の中で聞いたこの店の閉店時間まで、残り十分を切っている。そろそろ帰るべきだろう。
「翔梧、どこ行くの?」
椅子から立ち上がった俺を、奈留が不思議そうな顔で見上げている。
「そろそろ帰るよ。悪いんだけど伝票をもらえる?」
「え? もう帰るの?」
やはり不思議そうな顔で、首を限界まで傾げている。「なんで?」、と本気で思っていそうな顔だ。きっと奈留にとって俺は久しぶりに再会した友人、と思ってくれていたのだろう。しかし、ここがお店である以上、そして俺達が大人の男女である以上、気軽な発言など出来るはずもない。精々出来ることと言ったら、次回の来店約束くらいだろう。
「今日のところはこれで、な。また近いうちに来るよ」
「そっか……、うん。分かった」
そう言って奈留は立ち上がった。彼女と一緒にカウンターまで向かいながら、本日最後の会話をする。それは仕様もないやり取り。お金は要らない、と奈留が言い出して。絶対払うと俺が言って。睨み合って、じゃあもう来ない、と俺が言うと、観念した彼女が唸りながら代金を白状する。そんなくだらないお喋りを俺と、たぶん奈留も心の底から楽しんだ。
「あのっ、翔梧君! 本当に今日はありがとう。凄く楽しかった!」
「俺の方こそ、ありがとう。こんな有意義な日になるとは、思ってなかった」
じゃあ、また。そう短く言い合って俺は店を出た。奈留が店内から手を振って見送ってくれている。
ゆっくりとドアを閉め、その場に立ち止まる。空を見上げると雲ひとつない綺麗な空。きっと今晩は星がよく見えるだろう。その空が少し楽しみになった。
無駄だと思っていた宝探し。地図もなく探し回っていた。だけど、何の因果か見つかったこの場所。そこには昔、俺が傷つけてしまった女性がいて。俺に笑顔で話しかけてくれた。こんな有意義な休日はここ数年で唯一と言ってもいい。
一つ心残りがあるとすれば、一目ぼれをしてしまった女性に全く、アプローチが出来ていないことくらいだ。男としては情けない限りだが、言ってしまえば今日出会ったばかりの女性だ。ゆっくり距離を縮めていこう。そう、少なくとも俺の来週の土曜日の予定は決まった。いや、来週だけじゃない。再来週も、勿論その次の週も。家から車で三十分のこの店に、俺は足を運ぶ。そうと決まれば、さっさと帰って夜空を見ながら一杯やるとしようか。
足取り軽く歩き出した。
そんな俺の視界にちらりと映るドア。そこに掛かっている札。
「えっ?」
――CLOSED
「いつから……?」