愛知県の、どちらかと言えば田舎寄りの場所。
とは言っても高層ビルとかが無いだけで、コンビニはすぐ近く、まだ行けてないけど遊べる施設も近所に沢山ある。そんな土地。
私がここに引越してきて、一ヶ月が経った。
季節は夏。世間は夏休みである。中学生である私は、絶賛夏休みを満喫中……とは、いかなかった。
なぜなら、学生の本分は勉強だから。
夏休みを挟んで引越した私には、宿題というものはない。
それでも、じゃあ勉強しなくてもいいじゃん、とはならないのだ。
他の皆よりも一学期分、私は学校に行けていない。それは即ち、私は同級生よりも勉強が遅れている、ということだった。
にも関らず、夏休み明けには近くの中学校に転校予定なのだ。勿論一年生として。
義務教育である以上、来年から新一年生として入学。というわけにはいかなかった。
だからこそ、私は毎日勉強机に噛み付いて、ひたすらお勉強の毎日。
そして、もう一つ。今、私がやらなくてはいけないこと。それは、常識のお勉強。
女の子としての常識の勉強は、今の私にとって各教科のそれよりも優先度が高い。
なにせ、私、私と言ってはいるけれど、数ヶ月前まで男の子として生活していたのだ。
入院生活の中で本当に最優先で覚えなければいけないことは、教えてもらった。
だけど、それだけでは十二年を埋めるには到底足りていない。
あと数日後には、私は女子中学生として、その道のプロたちに紛れなければならない。
いくら勉強しても。いや、勉強すればするだけ、まだ足りないと実感する。不安は際限なく押し寄せる。
でも、そんな事で立ち止まっているわけにはいかない。
だって今の私は、あの手紙のせいでエネルギー過多なのだから。
動くための、前に進むためのパワーは翔梧君がくれる。
「翔梧君……私、頑張るから!」
胸に抱えた手紙、その最後の言葉に私は返事をする。
頑張れって、彼が言ってくれるから。
私は今日も頑張れるのです。
8月末。
夏休みが終わるまで、あと五日。皆は、どう過ごしているだろうか。
私はと言うと、今日も今日とてお勉強。
翔梧君なんかは、きっと溜まりに溜まった宿題を必死に消化しているんだろうなぁ。
今年から私が写させてあげる事が、出来なくなっちゃったから。
夏休みと冬休みの最終日は、私が彼に恩返しできる唯一の日なのに……ごめんね、翔梧君。
ちょっぴりホームシックになる、私。
頭を振って、勉強に戻る。
その時、下でドアが開く音がした。
「奈留。ちょっと降りといで」
どうやら、出かけていたお母さんが帰って来たらしい。
はーい、と返事をして勉強を中断し、一階へと降りる。
「どうしたの、お母さん?」
靴を脱ぐお母さんの周りには大量の荷物があった。
そのどれもが、覚えのある店名がプリントされた袋に入っている。
近所のスーパーの二階にある服屋さん。それも、学校指定の、制服なんかを扱っている所。
ここに引越してきたばかりの時に、行ったお店だった。
「お母さん。まさかそれ……」
「ええ、制服。受け取ってきたから、一回着てみなさい」
――学校の制服が……セーラー服が、とうとう私の元に来てしまった。
それはつまり、この体になってからまだ一度も穿いていない、あれを身に付ける時が来たということ。
スカート、という女の子限定の衣類を。
何度も言うけれど、私は数ヶ月前まで男の子だった。
当然ずっと、ズボンしか穿いてこなかった。
『奈留ちゃん』と呼ばれることに違和感を感じなかったり、自分のことを私って言っていても、まだ意識には昔の自分が少なからず残ってる。
翔梧君の事が大好きで、初恋だけど。それでも私には、まだまだ男の子の意識があるのだ。
あんなひらひら、絶対に着たくない! なんて我儘は言わない。
私は女の子になっちゃったわけだし。
彼に再会するまでには完璧な女性になる、というのが私の目標の一つでもあるわけで。
というわけで、私は何時もの儀式をする。
嫌な事がある時、やりたくない事から逃げないための儀式。
(そうだ、これはいつか、翔梧君の所に帰るための試練だ。乗り越えないと、いつか帰る時のために)
物事を一つの試練だと、捉える。私が彼と再会するために与えられた試練。
乗り越えないと、彼に会えない。だから頑張る。
そう考えたら、私はなんだって出来るのだ。
そうだ。あの手紙にも「初めての事が一杯で緊張すると思うけど」、って書いてあった。
だから、これは緊張しているだけなんだ。
これからの試練、全部乗り越えて。私は帰るんだから。
「よし、翔梧君見てて。私、ちゃんとした女の子になって、帰るからね」
緊張を振りほどくように、私は宣言した。
彼のためになら、私はどれだけでも頑張れる。
「お母さん。見て見て! ひらひら」
お母さんにセーラー服姿を見せ付けて、私は笑う。
今は遠くにいる彼に、いつか見せ付けるために。
『もう、翔梧君遅いよ。それよりどう、この格好。似合ってる?』
『ごめんごめん。ああ、凄く可愛いよ。奈留』
自室のベットの上で、私は日課になりつつある、妄想に浸っていた。
「えへへ」
いつか必ず、実現させる。
冷房の効いた部屋に、新しい暖かな空気が入り込む。
雲ひとつない青空で暖められた風。それが、窓から空を見上げる私を優しく包み込んでいる。
今日は九月一日。とうとうこの日がやってきた。私の新しい人生が始まる日。
只今の時刻は六時。
久しぶりの学校が楽しみで、予定よりも目を覚ましてしまった私は、窓枠に体を預け物思いに耽っていた。
この土地に引越して来てから一月と少し。勉強も出来だけの事はした。
今日からは、それの実践。不安も勿論あるけれど、それ以上に「頑張ろう!」って気持ちがふつふつと湧いてくる。
「翔梧君。ちゃんと宿題終わったかな」
私と同じように翔梧君も今日から二学期だ。
宿題、出来てるといいけど。私がいなくても大丈夫かな? ちょっと心配だな。
今の私は何もしてあげられないけれど、頑張れって気持ちだけは空に届けておこう。
(私も今日から頑張るからね。翔梧君もお勉強頑張ってね!)
「さてと。制服に着替えよ」
壁に掛かった真っ白な夏用制服を手に取る。
それを一旦ベットにおいて、部屋着を脱ぎ捨て、クローゼットから学校指定のアンダーシャツを取り出す。
そのまま引越しの時に買った姿見の前に移動し、自分の姿を映した。
凹凸の少ない体。お母さんが使ってるのとは違う、色気のない下着に身を包む私。
お医者様が言うにはまだまだ成長はするらしい。
だから、今は全然気にしていない。
だけど、将来的にはそこもちゃんと成長してね。と私は自分の姿を見るたびに願っていた。
だって、私は最後までいまいち理解できなかった感覚だけれど、男の子は大きな胸が好きらしいからね。
保健の先生がどうとか、隣のクラスの子がどうとか、騒ぐクラスの男の子達の中に翔梧君もいたこと、私は知っている。
「はぁ。お願いね、私の体。……さて、ちゃちゃっと、着替えますか」
ここ数日の練習のお蔭で、困ることなく、私はセーラー服を身にまとっていく。
最後のリボンだけは、まだ少し手間取るけれど。
「えっと、こっちが上で……ここ通して……」
それも手順は覚えているから、あとはいかに綺麗に出来るかだけ。
二回、失敗して、三回目でようやく綺麗に結ぶ事が出来た。
「よし。完璧」
姿見の前で、くるりと一周。
膝丈までのスカートが風に揺れる。校則通りに結んだ髪。黒一色のソックスと、買った状態そのままのスクールバック。
女子中学生奈留の完成。
お母さんには硬すぎるって言われたけど。
取り敢えず、これが今の私。
まずは基礎から、お勉強の鉄則だ。
他の子達みたいにいろいろ弄るのは、それが自分の意思で出来るようになってから。
それでも、全然遅くはないはず。
ここまで終わって、時刻は七時。
予想よりも時間が掛かってしまった。目覚まし通りに起きてたら、ちょっと危なかった。
私もまだまだだなぁ。という反省は取り合えず後回し。
出発まで残り三十分。
少しだけ急いで朝食を食べる事にしよう。
「お母さーん。今日の朝ご飯なに」
私はキッチンに立つお母さんの背中に問いかけた。
「もう出来てるから、早く食べちゃいなさい」
「はーい」
テーブルに並ぶホットケーキが、甘い香りを漂わせ私を待っていた。
「うん。おいしっ。……あっ、そうだ」
私はスクールバックからノートを取り出し、思いつきを書き足した。
【美味しくて甘いホットケーキを作ってあげたい】
帰ったときにやりたい事リスト。
紙一枚から始まったそれを、私はノートに綴っていく。
「料理も勉強しなきゃね」
勉強する事がどんどん増えていく。
私はそれが楽しかった。
『翔梧君。あぁ、もう。シロップが口の周りに。ほら、じっとして。拭いてあげるから』
『ありがと、って奈留!?』
『えへへ、おいしっ』
「翔梧君……」
幸せな夢。いつか、きっと……。
再会は約12年後……。