私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~ 作:ろっくLWK
真由は一人っ子だ。
小さな頃には姉や妹というものに憧れを抱いたこともあるけれど、中学生となった今ではさすがに諦めもついている。だから、と言うわけではないのだが真由自身、兄弟姉妹の機微といったものにはとんと疎かった。もしも自分に一歳下の妹がいたらどんなことを思うのか。その存在をどう感じるのか。何を話し、どう関わり、どんなふうに振る舞うのか。少なくとも真由の想像し得る限りにおいては、それはとても美しく和やかなものであったわけで。
「前にも言ったと思うけど、私、お姉ちゃんのことが本気で心配なの」
表情を曇らせた楓がこちらへにじり寄ってくる。真に迫った彼女の圧力に囚われ、真由は身じろぎすることもかなわない。
「お姉ちゃん、こんな時間までずっと練習してるでしょ? ここんとこ帰りが遅えの、お父さんもお母さんも心配してて。もう受験生なんだしってしょっちゅう叱られても、お姉ちゃんはお父さんたちに理由とか何も喋らねえんだよ」
「そうなんだ」
「そのせいで、最近は家ん中でも雰囲気悪くなってて。だがら黒江さんからそれとなく聞いてみて欲しいの。何でそんなに根詰めて練習してるの、って」
「私が? 秋山先輩に?」
そう、と楓は神妙な面持ちで頷いた。
「黒江さんにだったらお姉ちゃんも、もしかして話してくれるかも知んねえし」
「それは別に良いんだけど。そのぐらいの話なら、楓ちゃんが直接聞いた方が早いんじゃないかな」
姉妹なんだし、と尋ねた真由に楓はしばし沈黙し、それから歪めた唇を重たそうに開く。
「……私、お姉ちゃんとずっと、会話もできてねえからさ」
思いがけぬその一言に、え、と真由は喉を涸らしてしまう。
「それって学校だけじゃなくて、家にいる時も、ってこと?」
その質問に楓は言葉なく首肯する。彼女の瞳は哀しみに小さく揺れていた。姉妹なのに。同じ家で暮らしているのに。ひとつも会話がないだなんて、そんな事が有り得るのだろうか。それがどうにも信じがたい。
「どうして? 楓ちゃん、こんなに心配してるのに」
「それが全然分がんねくてさ」
かぶりを振って、それから楓はぽつぽつと続きを話す。
「私、なんかお姉ちゃんに避けられてるみたいで。私から話し掛けても簡単な返事しかよこしてくんないし、ご飯もわざと時間ずらされてるみたいにお姉ちゃんと一緒になることって無くて。こっちに越してきてからぐらいかな、お姉ちゃんがそうなっちゃったの」
「その頃、何かあったの? 先輩とケンカしちゃったとか」
「なんにも。引っ越してきてすぐ私はマーチング部に入ったんだけど、お姉ちゃんは部活入らなくてさ。どうしてだろうって思ってるうちに、気付いたらこうなってたんだ」
何かを堪えるときのように、楓がその肘を鷲掴みにする。ゆりと楓は年子、つまり一歳違いの姉妹。ということは秋田に引っ越してきた時、楓は小学四年生だったということになる。もしもこっちの学校が真由のいたところと大差ないのであれば、クラブ活動はちょうどその時期から始めることになっているはずだ。
「お姉ちゃんってああいう性格だべ? 誰か仲良い人にお姉ちゃんのこと聞いてみようって思っても、そういう人が全然いねくて。和香先輩は一緒の小学校だったし、今も吹部で木管同士だからいろいろ気ぃ遣ってくれてるみてえなんだけど、かと言って友達って感じでもねえっていうし」
それは今しがた和香本人も言っていた事だ。ここまでの話を総合すると何となく、『秋山ゆり』という人物の実像と彼女を取り巻く人間関係が掴めかけてきたような、そんな気がする。
「それで楓ちゃん、ゆり先輩のことよろしく、って私にお願いしてたんだね」
「お姉ちゃんがあんなふうに心開いてたの、黒江さん以外に見たことなかったんだ。だがら黒江さんならもしかしたらって思って、」
そこまで言い掛けて、ハッ、と楓が息を呑む。
「――ごめん。私、知らねえうちに黒江さんのこと、利用しようとしてらったんだね」
「え、いや、そんなことないよ」
急に声を落とした楓に、真由は慌てて首を振ってみせる。利用。怜悧で知的なその単語は、こう言っては失礼なのだろうが、楓の人柄には全くそぐわぬものだった。
「でも私、そうなっちゃうぐらいお姉ちゃんのこと心配してるの。お姉ちゃん、前はもっと明るかったし、友達だって普通にいたんだよ」
「へえ」
「楽器だってすんごい上手くて、演奏してる時なんてすっげえきらきらしてて。私もお姉ちゃんと一緒に吹きたい、って思って音楽始めたんだ」
あの頃のお姉ちゃん、ほんとカッコよかった。そう述懐する楓の瞳は遥か遠くを見つめているようだった。彼女の語る輝かしい姉の姿と、先程垣間見たゆりの熾烈ささえ漂わせる姿。その二つがあまりに乖離し過ぎているせいで、真由は目が眩みそうにさえなってしまう。
「だけどこっちに転校してきてから、お姉ちゃん音楽辞めちゃって。もう一緒に吹けねえのかなってすごく寂しかったけど、中学に上がってお姉ちゃんがまた吹部に入ってくれて。私嬉しかったんだ、今度こそお姉ちゃんと一緒に音楽やれる、そしたらまたお姉ちゃんと仲良くなれるんじゃねえかな、って。でも、」
「でも、ダメだったんだね」
「……うん」
楓がしょんぼり肩を落とす。何故ゆりはそうまでして楓を避けるのだろう。友人や赤の他人ならばまだしも、実の姉妹なのに。そこがどうしても解らない。けれど同時に、何か重要なことがそこに隠されているみたいに、真由には思えてならなかった。
「分かった、今度私が秋山先輩に聞いてみるよ。なんで毎日こんな遅くまで練習してるのかって」
「ホント?」
「でもあんまり期待しないでね。私と秋山先輩、あれから全然喋ってないし。もしかしたら私にも何も教えてくれないかも」
「ううん、すごく助かる! ありがと黒江さんっ」
「ふぐもっ」
むぎゅ。突然抱きついてきた楓の胸に頭を挟まれ、真由の呼吸は瞬く間に逼塞してしまう。苦しい。ブラの金具が顔面に食い込んで痛い。パンパン、と楓の二の腕をタップすると、事態に気付いた楓はすぐ腕を離してくれた。
「あぁごめん。私ってばまたつい、勢いに任せて」
けほ、けほ、と噎せる真由に、楓はただただ平謝りを繰り返す。どうやら彼女の暴走癖も相変わらずらしい。死ぬかと思った、と撫で下ろした自分の胸は楓の実りぶりに、まだほんのちょっとだけ追いついていなかった。
「それでは本日より、コンクール出場メンバーを決めるための部内オーディションを開始します」
本日のミーティング、部室最前に立っているのはちなつではなく顧問の永田だった。黒板にカツカツとチョークを走らせながら、永田が大まかな日程を部員たちに告げる。
「こんだけ人数がいるわけなんで、オーディションは前に話した通り三日かけて行います。初日の今日はクラリネットとフルート、ダブルリード。明日はトランペット、トロンボーン、低音。最終日の明後日はサックスとホルン、それからパーカッションです」
その配分はおおよそ、部内の人員を三分の一ずつに分けたような格好だった。いかに一人あたり数分程度の短いオーディションとは言え、都合百数十名分ともなると何時間も掛かってしまう。演奏する側はまだしも、それを聴いて良し悪しを判断する永田にとってかなりの負担となることは間違いない。人数の比較的少ないサックスやホルンが最終日に回されているのも、恐らくはそうした諸般の事情によるものなのだろう。
「オーディション終わったやつに次のパートを呼びに行ってもらうんで、それまで他のパートはそれぞれの教室で練習してて下さい。待ってる間は音楽室への立ち入りと、近くでの音出しは一切禁止な。もし吹いてるやつがいたら、罰として皆の前で『ドンパン節』を披露してもらいます」
永田流のジョークに、部員たちの間からは「笑えねー」と冷ややかな声が漏れた。真由お気に入りの屋上テラスも音楽室付近の屋外であり、区分としては音出し禁止エリアに該当する。今日から三日間は教室での個人練に終始していた方が良さそうだ。
「オーディションの結果は今週末までにミーティングで発表しますんで、それまでは全員出るつもりで今まで通り練習してて下さい。ただ放課後の居残り練は普段よりちょこっと早く切り上げます。それと各パートのソロも今回同時に決めるんで、あとで恨みっこねえように全員全力で演奏して欲しいと思ってます。先生からは以上です」
説明を終えた永田がちなつに頷き掛け、それを受けたちなつがいつものようにテキパキと、部員たちに次の指示を飛ばしていく。
「それじゃあ初手のクラは部室に残って、先生の指示通り動いて。他のパートは全員さっきの段取りに従ってそれぞれの教室に移動して下さい。パーカスは楽器移動たいへんだと思うけど、そこは自分たちで何とかして」
「そんなあ。殺生だで、部長ぉー」
パーカッションのパートリーダーがこぼした悲痛な訴え。何処か滑稽なその叫び声に、部員たちの何人かが堪え笑いをこぼす。
「
パン、と打たれたちなつの柏手に背を押され、クラリネットパートを除く部員たちがぞろぞろと音楽室を出ていく。
「真由ちゃん、私たちも早く移動しよ」
「あ、うん。そうだね」
移動の準備をしていた真由に、普段の調子で声を掛けてきたのは水月である。マーチングの時は本番欠場すると早々に宣言していた彼女は、ともすれば今回のオーディションさえも欠席するのでは……と内心思っていたのだが、少なくとも今日までその兆候は見られなかった。コンクールに関してはそれなりにやる気があるのだろうか? それとも受けても受けなくても結果は同じ、と高を括っているのか。そんなやくたいも無いことを考えつつ楽器棚から楽譜ファイルを引き抜き、真由はいそいそと教室棟へ向かう。
いつもの教室には既に低音パートの面々が揃っていた。金管は明日が本番ということもあり、彼らの表情にはまだ幾分かの余裕が窺える。そんな中で泰司だけは何故か妙に、全身からやる気のオーラを燃え上がらせていた。
「いやあ、とうとうこの日が来たっすねぇ。俺、こういうのワクワクするっす!」
「石川くん、今日は何だかすごく元気みたいだけど。オーディション好きなの?」
真由が問うと、泰司はフフンと不敵に白い歯を覗かせた。元々が日焼け気味で浅黒い彼の顔に、その白さは異様に浮いて見える。
「実力勝負ってカンジするじゃないっすか、オーディションって。小坊ん時もレギュラー獲りとかやってたんで、俺は割と慣れっこっす」
「そっか、確か石川くんって運動部出身だったもんね。それじゃあ試合でも活躍してたの?」
「サッカー部っす。それと公式戦は、万年補欠でした」
そのとき、自分たちの会話を傍で聞いていた玲亜が「アホくせ」と冷ややかにせせら笑った。それを聞いて泰司はムッとした表情を彼女へと向ける。
「んだよ三島。今の話のどこがアホくせえってのよ」
「だってさ、レギュラーなれねがったのにオーディションは好きとか、言ってること矛盾してね?」
「別に良いねが。学年順なんかで決められるよりはよっぽど分がりやしい、って話だべ」
「だがらってオーディションはそンた単純なもんでねえよ。だいたい私は、」
「玲亜ちゃん」
ビシリ、とそこで玲亜を窘めたのは意外や意外、こういう時に一切絡みを見せない筈の水月だった。玲亜が開きかけた口を閉じ、神妙な面持ちで水月へと向き直る。
「ここでそういうことは言わないって、この前約束したでしょ?」
「……はい。すいません」
しょぼくれた玲亜の肘を「それ見ろ」とばかりに泰司の肘が小突き、それに玲亜がギロリと恨めしい眼差しで睨み返す。この二人は馬が合わないのか、それともケンカするほど何とやらの典型なのか、いまいち良く分からない。
それにしても、と真由は改めて水月と玲亜に目を向ける。二人はいつの間にやら、自分たちのあずかり知らぬところで相当に親睦を深めていたらしかった。思い返してみると確かに、個人練から水月と玲亜が二人揃って居なかったり、パート練の開始時刻になると二人揃って教室に戻って来たり、という場面を度々見かけてもいる。その間、水月はどこかで先輩らしく玲亜を指導していたのかも知れない。それ自体は悪いことでは無いと言えるし、水月にも先輩としての自覚が生まれつつあるならむしろ良い傾向、の筈だ。しかしその一方で、ちなつや日向は水月のことをどこか訝しむような目つきで見つめていた。
さて、雑談ばかりもしていられない。明日の本番に備えて少しでも練習しなくちゃ。そう思った真由は肩慣らしの音出しを一通り済ませ、それから曲練に移ろうと楽譜ファイルを開く。
「あれ、」
瞬間、全身からサッと血の気が引いた。真由の異変を察知してか、日向が声を掛けてくる。
「
「いや、その……楽譜なんですけど、基礎練習用のをまとめてたファイルの方を、間違えて持ってきちゃったみたいで」
「ええ、マジで?」
話を聞きつけた周りの部員たちも「それヤバくね?」「何とすんのよ」とざわつき出した。念のためファイルを一通り繰ってみるも、やはりそこにはコンクール用の楽譜は一つとして見当たらない。ばたばたと慌ただしい出掛けだったせいか、持ち出す時の確認を怠ってしまった。既に暗譜は出来ているので楽譜が無くとも記憶を頼りに練習することは出来るが、それで変なクセをつけてしまうようなことにでもなっては元も子も無い。
「そんなら私の見る? つっても私の楽譜もメモだらけで大概見にくいけど」
「いえ。お気持ちはありがたいんですけど、さすがにそれはちょっと」
ちなつの申し出を真由は丁寧に断った。それはちなつの迷惑になる、というだけが理由ではない。部員たちは各々楽譜に自筆でたくさんの注釈を施している。それは練習時の要点や演奏時に意識すべきポイントを明確にするためなのだが、その内容は当然ながら個々によって異なるものだ。従ってちなつの楽譜を見ながら練習したのでは、真由自身のための練習にはなり得ないのである。
「でも、そしたらどうすんの。黒江ちゃんの楽譜、音楽室か楽器室にあるってことでしょ?」
「多分、楽器室だと思います。家に持ち帰る時以外はいつも、ファイルは楽器棚のところに置くようにしてたので」
「楽器室かぁ。オーディション中だし、入れるかどうかも微妙だなあ」
むうん、と日向が悩ましげに嘆息を洩らす。楽器室は音楽室に隣接しており、中で物音を立てれば音楽室にもそこそこ響く恐れがある。こんなことで他の部員に迷惑を掛けてしまうのはなるべく避けたい。どうしよう、と焦りを募らせていた真由をとうとう見かねたのか、「しゃあねえなぁ」とちなつが楽器を置いて席を立った。
「したら私と一緒に取りに行くべ」
「え。でもオーディション中なのに、良いんですか?」
「永田先生も立入禁止なのは音楽室だけ、って言ってらったべ? こそこそっと入って楽譜だけ取ってくればたぶん大丈夫。それにもし何か言われたって、私が部長権限で何とかすっから」
ドン、とちなつが胸を叩く。普段から凛々しい彼女の表情が、この時はますます頼もしく輝いているみたいに見えた。
「すみません。じゃあお言葉に甘えて、お願いします」
「いいからいいから。もたもたしてっと練習時間減っちゃうし、サッと行ってサッと取ってくんべ」
「はいっ」
こうして真由はちなつと二人、楽器室まで戻って来た。案の定というべきか、音楽室の戸はしっかり閉じられ『オーディション中につき雑音&立入禁止』と大きく書かれた貼り紙までされてある。戸には覗き窓もないため、ここからでは室内の様子を窺い知ることもかなわない。だが時おり洩れ聴こえるクラリネットの調べは、まさに今そこでオーディションが行われていることを示していた。一旦周辺の様子を伺ったちなつが音を立てぬよう慎重に、そろそろと楽器室の戸を開ける。
「うん、誰も居ねえ。今のうち」
小声のちなつに手招きされ、真由は足音を殺して薄暗い室内へと滑り込んだ。低音用の楽器棚を恐る恐る見やると、自分の楽器ケースに立てかけるようにして、目当てのファイルはやはり置き去りにされていた。念のためファイルを手に取りぱらぱらと中身を確認する。課題曲、自由曲、それらの楽譜は間違いなくファイル内に収まっていた。良かった、ちゃんとあった。ひと安心を得た真由はほうと息をつく。
「……次、秋山楓」
「はい」
そのとき壁の向こうから響いた声に、耳たぶがぴくりと反応してしまう。次はちょうど楓の出番らしい。早く行くべ、と小声で急かすちなつを尻目に真由は音楽室の戸へ忍び寄り、そこで耳をそばだてた。お願いします。そう言って寸秒の間を空けたあと、楓は演奏を開始した。
淀みなく流れる春の小川のように、朗らかでふくよかな音色。それが楓の音を聴いたときの第一印象だった。細かい音の羅列などものともせず、楓が奏でたクラリネットの音色はその全てを正確に切り分け、流れ去った後にはふんわりと優しい余韻を漂わせる。壁一枚を隔てているとは思えぬほど明確なアーティキュレーション。音の高低だけでなく幅をも感じさせる音色の使い分け。それらが紡ぎ出す立体的な表現で紡がれた音の臨場に、真由はすっかり陶酔してしまう。それは自由曲の第一楽章『天上からの使者』において、後半部に用意されているクラリネットソロのメロディだった。
「よし。んだば次……」
楓の演奏を聴き終えた永田が別の部員の名を呼ぶ。今の演奏なら間違いなくコンクールメンバーに選ばれる。真由はそう確信した。強豪校である曲北は部員一人ひとりが押し並べて上手いのは当然のことなのだが、その中でも楓の演奏が限りなく上位にあることは疑いようが無かった。
「今吹いてたの、楓か」
声に気付いて真由が横を見ると、ちなつがすぐ隣で自分と同じようなポーズを取っていた。先輩は音だけで解ったんですか? と真由はちなつにひそひそ声で尋ねる。
「そりゃあ勿論。何たってあの子、入部一年目からコンクールメンバーになってるし、クラの中ではエースみてえなもんだがらね」
「それってことは、つまり草彅くんとかと一緒で、そのぐらい上手いってことですか」
「さすがに雅人ほどじゃ無えけど、二年の中で雅人が金管トップなら楓は木管トップ、って感じだよ。まあ二年は他にも上手え子多いから、うちら三年の間じゃ『今年の二年は豊作揃い』なんて言われてんだけどな」
「そうなんですね。二人とも、すごいな」
「すごいって真由、なに他人事みてえなこと言ってんの」
ハア、とちなつは呆れ返るように肩をすくめた。他人事ってどういうこと? 真由はコトリと小首を傾げる。
「『豊作』の中にゃ、アンタもしっかり入ってんだがんね」
「私が、ですか?」
真由は瞠目した。いきなりそんな誉め言葉を貰ったって、そうそう簡単に受け入れられるものではない。現についこの間まで、自分はどうにか周りに追いつこうと必死にもがいているような有りさまだったのだ。今だって追いついたなんて言えるかどうか。そんな思いから怪訝な顔をしていた真由にやれやれと、ちなつが組んだ腕の片方で頬杖をつく。その牡丹みたいに淡く薄いピンク色の唇は、困った時のような形を描いていた。
「真由はもっと自己評価を見直した方が良いで。自分じゃ大したこと無えって思ってても、他人から見るとすげえ、羨ましい、って思われてたりすることもあるもんだがらさ」
それはひょっとしてちなつから真由への、ある種の警告だったのかも知れなかった。その理由をもう少し深く知っていたならば、きっとこの時の反応は全く異なるものになっていただろう。けれどこの時はまだ、ちなつの評価を過大なものとしてしか受け取ることが出来なくて。だからこんな返事をするぐらいが、その時の真由にはせいぜいだった。
「そんな。私なんか、先輩たちにはまだまだ全然及ばないです」
おぼつかぬ真由の謙遜をどう取ったのか、微かに眉尻を下げたちなつは「ふふ、」と目を伏せ、それからくるりと振り返った。
「さ、目的のものもちゃんと見つかったんだし、クラの連中が出てくる前に帰ろ」
「は、はい」
先を行くちなつの背中を追いながら、真由は思い返す。さっきの一瞬、ちなつは今にもくずおれそうなほど哀しげな表情を覗かせていた。それはどうしてだったのか。ちなつは今、何を思っているのか。歩き続けるちなつの後ろ姿と確かな足取りには、それらの手掛かりになり得そうなものなど何一つとして見当たらなかった。
翌朝。ここしばらくぐずついていた空模様は、しかしまとまった雨をもたらすには至らなかったのだけれど、どうやら今日の夜中からとうとう本格的に降り出してしまうらしい。憂鬱と言えば憂鬱なことだが、雨が降らなければ田畑も潤わず、また巡る季節も順を踏まねば夏本番を迎えることもない。そう思えばこの時期はひとえに我慢を強いられるときなのだと、そういう捉え方をすることも出来ようか。
『では次のニュースです』
昨日の出来事を扱うテレビニュースをぼうっと眺めながら、真由はスプーンを持つ手を動かしていた。ざりざり、という感触と共に、トーストの表面には鮮やかな
「今日の帰りは早いの?」
「うん。今日がオーディションの本番だから、昨日よりは少し早く帰って来れると思う」
「そっか。それなら今夜はちょっと奮発しちゃおうかな」
がんばる娘へのご褒美に。そういう母の気遣いが、少し嬉しい。目玉焼きとベーコンを載せたお皿をテーブルに置くと、母は台所に戻ってフライパンを洗い始めた。黒江家の朝ご飯はいつも日毎に和洋半々で、時にはどちらかが二日三日と続くこともあるのだけれど、今朝は真由の希望で洋食にしてもらっていた。
「どう、オーディション。受かりそう?」
「それは分かんないよ。みんな上手い人ばっかりだし、すごく練習熱心だし」
母に受け答えをしながら、かりり、とトーストに歯を立てる。口中に広がる焼けた小麦の芳醇な香ばしさと、上あごを突き抜ける柑橘の酢っぱさ。ジャムに混ぜ込まれた果皮の苦味は、アクセントと呼ぶには少しばかり強烈だった。
「でもいっしょうけんめい練習してたのは、真由だってそうでしょ?」
「それはそうだけど、」
「だったら自信持って堂々と吹いてらっしゃい。結果なんて後からついてくるものなんだから」
そういう母の方こそが妙に自信満々で、真由もつい「親ばかだなあ」と苦笑しつつ、トーストの残りをぺろりと平らげる。舌の上に残るマーマレードの強烈な酸味は、まだ寝ぼけ気味の意識をがくがくと揺さぶっているみたいだった。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「もしもの話なんだけどね。もしも私に妹がいたとしたら、そしたら私、どうなってたのかな」
続けて手に取ったフォークで目玉焼きの頂点をぷすりと刺すと、そこから飛び出た黄身の奔流が真っ白な裾野をゆるやかに侵略していく。邪道と言えば邪道なのかも知れないが、こうして黄身をまぶした白身をいっしょに食べるのは真由なりのこだわりだ。そのことに共感の意を示してくれる友人に巡り合えたことは、これまでただの一度も無かったのだけれど。
「急にどうしたの?」
洗い物を終えた母が食卓に着く。脈絡なく変な質問をしたせいだろうか、母は少々心配そうな面持ちで真由を覗き込んだ。
「ひょっとして、学校で何かあった?」
「ううん、そういうんじゃなくて。ただ最近いろんな人の話を聞いてるうちに、私に妹か弟がいたら今みたいな生活じゃなかったのかも、って、ちょっと考えちゃって」
「そうねえ」
相づちと共に、母はふんだんにバターを塗りたくったトーストを皿へ置いた。熱で溶けだした油脂は狐色の生地にじゅわりと沁み込み、甘い匂いと潤いに満ちた輝きを放っていた。
「もしもそうだったら、真由もお姉ちゃんってことになるから、いろいろ我慢しないといけないこともあったかもね」
「我慢、かあ」
そう言われて真っ先に頭の中に浮かんだのは、自慢の愛器である銀色のユーフォだった。一年前に買い与えてもらったユーフォは、中学生の真由の財力では到底買える代物じゃない。もし兄弟がいたならば、両親はきっと彼らにも相応の支援をするはずで、それはそのまま親の経済的負担が増すということでもある。そんな状況ではきっと自分も、大っぴらにユーフォをねだるようなことなど出来なかっただろう。
「それでもね、」
母がコーンスープの入ったマグカップに口を付ける。ほっ、と温まった息を吐き出して、それから母はいつものようににこりと笑った。
「親としてはね、子供のやりたがってることは出来るだけ応援してあげたい、って思うものよ」
緩やかに湛えられたその笑みに、真由の胸はじんと熱くなる。こうして親の愛情を存分に享受できるのがいかに恵まれたことか。それをこのごろ、真由は意識し始めていた。
そぞろに授業時間を過ごし、放課後を迎え、いよいよその時は間近に迫っていた。
「ああ、緊張するう」
チューバの女子たちがさっきから、手に何かを書いては口の中へと放り込んでいる。普段は様々な楽器の音で賑やかな教室の中も、今は静かに楽譜に目を通したり呼吸を整えて精神統一したりと、誰もが勝負の瞬間を前に思い思いの時を過ごしていた。
「中島先輩は、全然緊張しねえんすか?」
「
後輩の問いに、日向は余裕綽々といった様子で答えている。彼女が落ちる側にいるなどとは、真由も全く思わなかった。日々の練習で培われた日向の技量、それは曲北の音作りにおいてはもはや不可欠な存在だ。オーディションでの演奏の可否はさて置いても、自分が顧問だったらチューバのメンバーにはまず第一に日向を選抜する。日向自身も恐らくは、それに比する程度の自負は持っていることだろう。
「黒江先輩、ちょっと聞きたいんすけど。低音からってだいたい何人ぐれえが選ばれるもんなんすか?」
昨日はやる気に満ち満ちていた泰司も、さすがにオーディション当日とあっては高まる緊張を隠せなくなっているらしい。どこか強張った面立ちで質問してきた彼に、あくまでも一般的にはって話だけど、と前置きをして真由は予想を立てる。
「他の楽器との兼ね合いにもよるけど、全部で五十人だから、ユーフォとコンバスが二人ずつにチューバは三人って感じじゃないかな。あとは永田先生の振り分けとか去年までの傾向次第だと思うよ」
「なるほどっすね。ちなみに去年は
「それはごめん、私、去年はいなかったから」
「ああ、そっすよね。すんません変なこと聞いちまって」
「気にしないで」
これ以上は語れそうもない真由の解説を引き継ぐように、んだなあ、とちなつが尖った顎へ指を添える。
「だいたい真由の言った通りだと思うけど、そもそも曲によっても変わるしな。他の学校じゃチューバとコンバス三本ずつ、って編成もあったりするし」
「へえ、そうなんすか」
「曲北だって、一昨年はユーフォチューバが二本ずつでコンバスは一本しか無がったし。県大会ん時なんか、講評シートさデカデカと『曲に対して低音の圧が足りない!』なんて書いてる審査員もいたっけなあ」
当時を思い返し、ちなつが苦笑の息をこぼす。
「その年は、結果は何とだったんです?」
「いわゆるダメ金。で、東北大会進出ならず。まあさすがにあん時は部員の数も今ほどじゃねがったしな」
「それって、ちなつ先輩が一年生の時ですよね。当時の部員ってどのくらい居たんですか?」
「七、八十人ぐれえだったかな。うちらの代が入部したとき、上級生は全部合わせても四十人ちょっとしか居ねがったし」
「ええ、そうなんですか?」
その話題に食いついたのは、意外にも真由と同学年の女子だった。
「私らが入ったのって、曲北が初めてマーチングで全国最優秀取った、その次の年だったがらさ。私も当時三年の先輩方からちょっと聞いただけだけど、永田先生が顧問として曲北に来たのが今から四年前で、当初は部内でも色々あったらしいんだよね。反発とか、そういうのがさ」
「反発、ですか」
今の曲北からは想像もつかない、永田が着任した当時の話。それを語るちなつもまた当事者ではないためなのか、少し自信なさげな顔つきをしている。
「どこでもそうだと思うけど、やっぱ体制が急にガラっと変わんのってけっこう大っきいことじゃん? それまでの吹部はみんなでダラーっと合奏して大会に出て、って感じでゆるーく活動してたんだって。そンでも時々は上位大会さ行けてたらしいし、当時の先輩方にしてみれば思い出作りみてえな感覚で楽しくやれてたんだろうとは思うけど」
でも、とちなつが拳をきゅっと握り込む。気付けば教室内の全員が彼女に視線を注いでいた。
「永田先生が来て、せっかく音楽やってんだからもっと凄いもん目指そう、ってなって。ソレさ同調した人もいたけど、そうじゃねえ人もいた。それでも一年目はとりあえず皆して頑張ってみるべ、って必死こいて練習したらしいんだけど、その年の最高成績はコンクール県銅賞、マーチングでも東北大会で銀。これじゃ何にも変わんねえじゃんってなって、結局その年のうちに部員の半分近くが一気に辞めちゃったんだって」
「それって、けっこうすごい話っすね」
ごくり、と泰司が唾を呑む。真由もまた今の話には驚きを隠せなかった。部員が大量に辞めれば当然ながら楽器の本数は減り、音の厚みやパート間のバランス、マーチングでの迫力も大きく損なわれる。そんな状況下で翌年全国のトップに立つなど並大抵の所業では無かったはずだ。華々しい成績の曲北しか知らなかった真由にしてみれば、今の話は吹部のいわゆる暗黒時代、いや黒歴史とでも呼べそうなものである。
「幸いにして、私らのふたつ上の代は小学校でマーチング全国出場経験者って人も多かったからね。辞める人もほとんどいねくて、次の年に二年生に上がったその人たちが中心になって挑んだマーチングでは見事全国出場、しかも最優秀賞。それを聞いて吹部入ろうと思った私らの代が三十六人、そんで今の二年生が五十人弱、っていうふうに大きくなってきたんだけどさ。ま、これが曲北吹部の歴史のいちページ、ってワケ」
すごい話を聞いてしまった。そういう思いに駆られた後輩たちが一斉に深い溜め息をつく。それとは対照的に、三年生の部員はみな一様に真摯な表情で押し黙っていた。きっと大なり小なり、彼らはちなつと同じように、この話をかつての先輩たちから聞かされていたのだろう。
「私らがこうして『今年も目指せ、全国最優秀!』なんて言ってられんのも、その当時がんばった先輩方や永田先生のお陰だと思う。だがら今の自分たちを当たり前って思わねえで、一人ひとりが自分に出来ることを精いっぱい頑張んなくちゃなんねえんだ、と思ってん、だけど……ごめん、クサかった?」
「うん。かなり」
急に語調を乱したちなつに、日向が容赦のないツッコミを入れる。うわわ、とちなつは珍しく、その頬を羞恥心全開といった具合に紅潮させた。
「先輩は先輩、うちらはうちら、だべ? あんま背負い込んだって良いことねえよ。結局んとこ、私らは私らの目標さ向かってやってくしか無えんだがらさ」
いっちょ頑張んべー、と日向が両手でガッツポーズを取る。その快活な仕草にいくぶん場の空気は和らぎ、後輩たちも俯きかけた姿勢を元に戻した。と、ちょうどその気配を読んでいたかのごとく、教室に二度ノックの音が転がり込む。
「お待たせしました。次は低音、ユーフォからです」
戸を開けたトロンボーンの女子がそう告げると、パート員たちの表情は再び引き締まった。いよいよだ。真由も小さく息を吸い、そして自分に発破を掛けるように「ふう」と一気に吐き出す。胸に抱いたユーフォのピストンを押下して感触を確かめ、そして左手で管をぎゅうと握り締め、
「行くべ」
「はい」
ちなつの号令と共に決然と、真由は席を立った。
夜の帳が降りた校舎の中は、すっかり暗闇に包まれていた。オーディションを終えて楽器も仕舞った真由にはしかし、まだやるべきことが残っていた。
教室棟には今日もあのメロディが鳴り響いている。それを頼りに廊下を歩き、やがて薄明かりの灯る教室の前へと辿り着く。軽く結んだ握りこぶしを戸に近づけたところで、真由はしばし惑う。本当に自分なんかが立ち入っても良いのだろうか。「ここで引き返した方が良かった」なんて、後になって悔やむことになってしまうのではないか。そんな思いに囚われそうになる真由の脳内を、しかしあの時の彼女の儚げな声が、キンと貫いた気がした。
――お姉ちゃんのこと、お願い。
意を決し、コンコン、とドアをノックする。どうぞ、という声に従って真由は固い引き戸を開いた。
「失礼します」
中にはゆりが居た。彼女に、訊かなければ。そのために今宵、真由はこうしてこの教室を訪れたのだった。