私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~   作:ろっくLWK

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〈9〉どうにもならないこと

「黒江さん? こんな時間にどうしたの」

「すみません、練習中に。少しおじゃましても良いですか?」

「そりゃあもちろん。どうぞ」

 構えていたサックスを下ろしてゆりがこちらに手招きをする。入室した真由は近くの椅子を適当に選び、ゆりのちょうど向こう正面を位置取って腰を下ろした。

「低音のオーディションって今日だったよな。手応えはどう?」

「自分なりに一生懸命吹きました。あとは結果待ちです」

「悪くなかった、ってことみたいだね。それは」

「はい、まあ」

 オーディションは音楽室内の間仕切りされた空間で、永田と一対一の形で行われた。仕切りの外で出番を待っている間、真由はただじっと他の奏者の演奏を聴いていた。曲北のユーフォ担当は各学年二名ずつの計六名。その中でいちばん上手かったのがちなつであったことは疑いの余地も無い。対する真由自身の出来栄えはと問われれば、おおむね中の上と言ったところだろう。あとは永田がその中から何人を見繕うか、それ次第だ。

「それにしても、嬉しいな。黒江さんのほうから私のトコさ来てくれるなんて」

「嬉しい、ですか?」

「サックスと低音は普段あんまり関わり無えし、ひょっとしたらあの日のことももう忘れられてんじゃねえかって、ちょっぴり不安だったもんでさ」

「そんなことありません。転校したてで不安だったので、秋山先輩にあんなふうに声掛けて貰えて私、とっても嬉しかったです」

 真由の素直な言葉に照れくさくなったのか、ありがと、と恐縮するようにゆりが薄くはにかむ。水辺に咲く睡蓮のごとく慎ましやかなその笑顔は、牧歌的な彼女の顔立ちに良く似合っていた。

「それで、今日は何か相談ごと?」

「はい。その、相談っていうか、ちょっと先輩にお聞きしたいことがあるというか」

 いざ話そうと思うと妙に緊張する。汗に滑る拳をぎゅっと握り締め、真由は必死に言葉を選んだ。

「先輩、最近ずっと、遅くまで練習してますよね」

「え? ああ、うん。まあ遅えって言えば、そうだけど」

 予想していた話と違ったからなのか、ゆりは一瞬瞠ったその目でちらりと教室の壁掛け時計を見やった。現在時刻は閉校およそ一時間前。ゆりにはまだまだ早い時間帯に見えているのか知らないが、一般的にはそうではない。

「どうしてこんな遅くまで毎日練習するのかなあって、ちょっと気になったもので」

 追って言葉を重ねた真由にすぐには答えを返さず、ゆりは胸元の楽器保持用ストラップへ手を掛け、まるで何かをためらうようにしゅるりと撫でおろした。

「変、かな」

「いや、あの、変とかじゃないです。ただその、こないだ通りがかった時、先輩がすごく真剣に練習してるのが見えたので。何か理由でもあるのかなって」

「そりゃあまあ、三年生だがらさ。コンクール、今年で最後だし」

 それは確かに至極理にかなった動機ではある。最後だからこそ何が何でも出たい。ゆりに限らず最上級生ならば、誰もがそう思うことだろう。けれどそれにしたって、練習時のゆりの雰囲気にはただならぬものがあった。それは単純に出たいからというだけでなく、何が何でも絶対出なければならない、という強迫観念にでも駆り立てられているかのような。

「秋山先輩はコンクールに思い入れとか、何かそういうのがあったりするんですか?」

「そういうのは、特に何もないけど」

「じゃあ今年の自由曲、絶対に吹きたいとか」

「曲自体は好きっちゃ好きだけど、そこまででも無えかな。割と曲には頓着しねえし」

「あ、はあ、なるほど……」

 問い掛けをことごとく否定され、真由はすっかり言葉を失くした。駄目だ。切り口が見当たらない。どうしてこれほどまでに執念剥き出しで練習に没頭しているのか。その理由をなぜ家族に、楓に、きちんと話さないのか。それを訊き出したいのに、適した文句が思いつかない。ぐるぐると廻るばかりの思考はなかなか次に紡ぐべき一言に行き当たらず、焦りの念からついつい唇を噛んでしまう。

「他に質問無ければ、そろそろいいかな。せっかく来てくれたのに悪いんだけど、明日に向けてもうちょっと追い込みしてえから」

「あ、えと」

「へばね黒江さん。また何かあったらそん時ってことで、」

「じゃあ最後に、一つだけ」

 人差し指を立ててゆりの括りのことばを遮る。もうこれしかない。ごくりと唾を呑み、真由は決死の思いでその一矢を放った。

「先輩、妹さんいますよね。楓ちゃん。私と同じ学年の」

 それを訊ねた時、ゆりの態度には明らかな変化があった。遠慮がちにだが綻んでいた頬がぴしりと凍り付くと共に、平素は黒々としてつぶらな瞳もたちまち胡乱げに曇る。拒絶。彼女の全身から垂れ込めた強い気配は、その二文字を強く想起させるものだった。

「楓ちゃんってクラリネットとっても上手ですよね。昨日たまたま楓ちゃんの演奏聴いたんですけど、あんなに上手いと思ってなかったからびっくりしちゃって、私」

「――それが、何かしたの」

「えっと、姉妹で同じ吹部ってすごく良いな、って思いまして。だからその、先輩が毎日いっしょうけんめい練習してるのも、ええと、もしかしたら楓ちゃんと」

「アイツは関係ない」

 強く息を吐き出すのとほとんど同じように、ゆりが語気を荒げる。彼女はこちらに目を合わせようともせず、しばし浅い呼吸を繰り返していた。

「ごめん黒江さん、私もう練習に戻るから。悪いけど出てって」

「すみません先輩。私、先輩を怒らせるつもりなんかなくて。ただ楓ちゃん、先輩のことを、」

「出てって!」

 ぐわん、という残響が二人きりの教室に跳ね返る。それほどにゆりの一声は凄絶で、叫びにさえ近いものだった。今のゆりからはもうこれ以上、何も引き出すことはできない。そう悟った真由はおもむろに立ち上がり、掛けていた椅子を元の場所へと戻す。

「……すみませんでした」

 最後に告げた謝罪のことばを、果たして彼女は聞き入れてくれただろうか。引き戸を閉めるその瞬間までゆりはこちらを見ようともせず、ただ小さく唇を震わせながら黙って楽譜を見つめていた。ストラップに添えた手を、固く握り締めたまま。

 音楽室までの廊下をとぼとぼ歩きながら、真由は完全なまでの悲嘆に暮れていた。ゆりを怒らせてしまった。あの時点では他に何も思いつかなかったとは言え、どうしてこうも自分は要領が悪いのか。もう少しうまくやれたら良かったのに。そんなふうに最悪の結果を招いた己の愚行を責め苛みつつも、その反対側で真由は一つのことを確信する。楓は関係ない? そんな筈は無い。普段は大人しくて優しいゆりがあれほどまでに取り乱すからには、彼女と楓の間には何かがある。真由の知り得ない何かが、必ず。それこそがきっと、ゆりが死に物狂いで練習に打ち込む理由、そして楓を避けるその決定打とでも言うべき理由なのだ。

 けれど仮にそうだとして、楓にはありのままを伝えるわけにもいかなかった。あれだけ心配している様子だったのに、『ゆりがああなった原因は妹のあなたにあるのかも』だなんて、あけすけに突き付けられたら相当のショックだろう。第一、楓自身は不仲の原因に何一つ思い当たりが無い。そんな彼女が形だけ「ごめんなさい」などとゆりに謝罪してみせたところで、事態は余計にこじれてしまう。楓に向けるゆりの感情、その正体。これを暴かない限り、真由も楓も、次に打つべき手を見出すことなど出来やしないのだ。

 ぱた、と廊下の窓に何かがぶつかる音がする。星一つ見えない夜空から降りてきたそれは瞬く間にいくつもの水滴を描き出し、重力に従って窓の外側を滑り落ちていった。帰るまでには持ってくれると思っていたのに。出掛けに傘を持って来なかったことを今さら悔やんでも、今の真由にはどうすることもできなかった。

 

 

 

「……というわけで、秋山先輩、ぜんぜん話してくれなくって」

「そっか」

「本当にごめん。力になれなくて」

「ううん、黒江さんのせいじゃねえよ。あんま気にさねえで」

 明くる日の昼休憩。楓を階段の踊り場へと連れ出した真由は昨日の経緯を彼女に説明していた。核心部分については上手にぼかし、『練習中のところを邪魔してしまったせいでか、ゆりの機嫌を損ねてしまった』ということにしてある。これも全ては楓のためを思ってのこと。そうとは重々承知していながらも、胸の中ではちくちくと、針の束みたいになった罪悪感が転げ回る思いだった。

「うん、でも、黒江さんにそこまで聞き出してもらえて、私もちょっと納得したよ。うん。納得」

 胸の前で手を組み、釈然とし切れぬ自分自身をなだめすかすように、楓は同じ言葉を繰り返した。

「んだよな。お姉ちゃんにしてみれば今年が最後のコンクールなわけだし、今年こそ出てえって気持ちで一生懸命んなるのもそりゃあ当然だよな」

「今年、こそ?」

「あれ、黒江さん知らねがったんだっけ。お姉ちゃん、去年一昨年とコンクールさ出てねえんだよ」

 微かな動揺に、ひゅっ、と喉が奇怪な音を鳴らしてしまった。ゆりは今までコンクールに出たことが無い。それは自分の記憶している限り、初めて耳にすることのはずだ。

「出てないって、何か事情とかがあってってこと?」

「ううん、単にオーディションで落ちちゃって」

 何でもないような顔で、楓がその事実を告げる。

「曲北って上手え人たくさんいるべ? 私はお姉ちゃんも上手なほうだって思うんだけど、さすがにコンクールってなると人数制限厳しいせいで、今まで選ばれることなくて。それで去年は私とお姉ちゃん、コンクールじゃいっしょに吹けねがったんだよ。残念は残念だったけど、まあマーチングとか他で吹く機会はあったからね」

 カチリ。頭のどこかでそんなふうに、ずれていた歯車が噛み合う感触。いま自分が抱いたこの違和感は何か、とてつもなく大事なことのような気がした。けれどそれに理屈が追いついてこない。手にした網から獲物がすり抜けていくみたいに、答えを出そうとすればするほどこめかみの辺りから思考がこぼれ落ちていく。

「でもそっか。お姉ちゃん、それでたくさん練習してたんだ」

 胸元に反して肉付きの少ない二の腕を抱え込み、そして楓は独りごちた。

「もしもお姉ちゃんも、今年こそ私といっしょにコンクールで吹きてえって思ってくれてたら、嬉しいな」

 真由は何も言わぬままでいた。きっとゆりの方はそう思ってはいない。そんな本音の映る瞳を、前髪の裏側へとひた隠しながら。

 

 

 

 

 

 本格的に雨が降りしきるようになり、校内の室温も若干冷え冷えとする今日この頃。真由たち曲北吹部の部員たちは遂に、オーディションの結果が発表されるその日を迎えた。

「ほんでは今からパートごとに合格者を発表していくんで、呼ばれたら返事をして起立するように」

 永田に視線を注ぐ部員たちの間にははらはらと、言葉に出来ないほどの緊張感が漲っている。運を天に任せるような心境だった真由もまた、自ずと高まる心拍数を抑えられずにいた。誰もが体育座りの姿勢で固唾を飲み、声を殺して、その瞬間が自分の元に訪れるのをじっと待つ。

「繰り返しになるけども、ここでメンバーになったならないってのは全然重要じゃ無えがらな。今日までやって来たことの方がずっと大事で、これからの皆にとってずっと価値のあるものです。現に合奏でもどんどん音が良くなってるし、一人ひとりがちゃんと上手くなったのも解る。今日のこの結果だけで一喜一憂せず、これからも今までと同じようにやっていこうってマインドを全員が持って下さい。いいな、全員だぞ」

「はい!」

「んじゃあ、まずクラ」

 永田は手に持ったバインダーへと視線を落とし、んん、と小さく咳払いをする。

()()(まな)()(くり)()かな()()()()(みつる)()(たけ)()(れい)、」

 矢継ぎ早な永田の呼び声に次々と、三年の部員たちが返事をしながら立ち上がる。どうやら曲北ではこのように、上級生から五十音順に名前を連呼していく方式を採っているらしい。一瞬の間に告げられる当落。ひっそりと喜びを噛み締める者、大きく肩を落とし顔を覆う者、それらは瞬時に隔てられ、明暗の差を色濃く映し出してゆく。

「秋山楓」

「はいっ」

 力強い返事と共に楓がその場に立つ。クラリネットパートの二年生では、彼女の他にバスクラの女子が一人選ばれただけだった。次にフルート、ダブルリード、と発表は淀みなく進められ、その度に音楽室には小さな悲鳴と安堵のため息とが交々に入り乱れる。

「次サックス。(あか)(ざわ)(けい)()

「はい!」

「秋山ゆり」

 その指名にゆりは一瞬声を詰まらせ、それから「……はい」と控えめな返事をした。起立する彼女を一瞥した途端、真由はずぐりと臓腑を抉られる。ゆりとはあれ以来、会話どころか会う機会すらも無いままだった。それはともすればゆりが真由を、真由がゆりを、互いに避けていたせいだったのかも知れない。

「次、ユーフォ。荒川ちなつ、伊藤雄悦」

 はい、と返事をして両者が立つ。

「黒江真由」

「は、はいっ」

 先に二人の名が挙げられたことで、落ちた、と思った真由は一瞬油断してしまっていた。慌てて返事をして立ち上がり、それからこっそりとちなつを見やる。やったじゃん。そうとでも言うかのように、ちなつはこちらへ向けて悪戯っぽく犬歯を覗かせた。

「次にチューバ。()(がし)(こう)(へい)、中島日向。(ふじ)(わら)(たくみ)

「はいっ!」

 チューバの発表では残念ながら、泰司を含む一、二年生の名が挙げられることは無かった。この結果を受けた泰司は事前の意気込みが嘘みたいに、ただ憮然とした表情を浮かべながら座っていた。ともすればオーディションの時点で結果がこうなることを、彼は内心覚悟していたのかも知れない。

 その後も発表は続いた。トランペットパートの杏と奈央は共にメンバー入り。トロンボーンパートでは三年生が座を占める中、二年生からは雅人一人だけが選ばれた。全体を見れば、コンクールメンバー計五十名のうちほぼ大半が三年生、十名足らずが二年生で残りのごく少数が一年生と、それは実力面から見ても順当と言えそうな当落結果だった。

「したら最後に、各ソロパートの担当者だども」

 どきん。真由の体内の管を、ひときわ大きな何かが突き抜けていく。

「オーボエ、佐藤和香」

「はい」

「クラリネット、秋山楓」

「はい」

 おお、と部員たちから感嘆の声が上がる。これは真由としても驚きの結果だった。楓のレギュラー入りは間違いない。そう思っていたのは確かに事実なのだが、それにしてもまさか三年生を押しのけてソロの大役に選ばれるとは。他のクラリネットのメンバーたちが身じろぎ一つしていない辺り、楓の実力がその域にあることは、常日頃からパート内で十二分に認知されているらしかった。

「フルート、(しま)()耀(よう)。ユーフォ、荒川ちなつ。トランペット、小山杏。トロンボーン、草彅雅人」

 はい、と各々が返事をする。さすがに自分がソロに選ばれることは無かった。その事実は大きな衝撃こそもたらさなかったものの、真由の心にじんわりと、さざ波のように広がっていく。

「以上でコンクールメンバーの発表は終わりです。いま起立してる者はこの曲北吹部、全員を代表してコンクールに出ることになります。その自覚と責任をしっかり持ってこれがらの練習に取り組むこと。分がったな?」

「はい!」

 かくしてメンバーの発表は終わった。自覚と責任。その言葉を自分の中でいま一度検めるように、真由は己の胸に手を当てる。ちなつたち三年生にとって最後のコンクール。燃えるように熱く煌めく彼女たちの夏は、まさにこれから始まろうとしていた。

 

 

 あれだけ降っていた雨も、ふと気付けば小康状態のようにぴたりと止んでいた。発表後の練習はいつも通り進められ、きっかり部活終了の時間と共に全員が解散する運びとなった。曰く『今日は俺、早ぐ帰らねねえんだよ』という永田のよんどころない事情ゆえだったのだが、たまにはこういう日があっても良いだろう。

 上達のためには練習漬けの毎日が必要不可欠、などとは真由も思っていない。重要なのは正しい練習法をきっちり積み重ねることと、誤った練習法によって変な癖を付けることの無いよう常に注意を払うこと。質の良いトレーニングを必要な量だけこなす。それは何も音楽に限ったことではない、というのが真由なりの持論でもある。

「じゃーめぐちゃん、またあしたね」

「またあそぼうね。ばいばい」

 通りの向こうで小学生ぐらいの子たちが、そんな会話をしながらめいめい別れていく姿が見える。普段の下校よりもだいぶ早い時間帯とは言えど、辺りは薄い夕闇に呑まれ始めていた。陽が落ち切った後よりもむしろ、このぐらいの仄暗さのほうが却って視界を幻惑されるような気がする。今日ぐらいは寄り道しないで帰ろう。そう決めた真由は校舎裏手の坂をまっすぐ駆け上がり、歩行者専用の細い土手道を目指した。

 丸子川を右手に見下ろしながら歩く、街灯一つ無いこの土手道。居残り練で遅くなることの多い日頃の下校時にはいつも避けているルートなのだが、実は家と学校とを結ぶ最短の道のりでもある。ここから川沿いを上流方向に行けばいつもの橋があり、そこを渡った先で折り返すように向こう岸の川沿いを下れば、我が家はもうすぐそこだ。

「あれ、」

 晩ご飯のおかずを思い描きながら歩みを進めていた時、真由はふと川岸の斜面に二つ分の人影が小さく動いたのを見咎めた。背格好からして曲北の生徒だろうか。そのまま近くを通り過ぎようとした時、ぐす、と何やらすすり泣くような音が人影から洩れる。と同時に、背恰好から影の片割れがちなつであることに気付き、真由は反射的にその場へしゃがみ込む。

「……ホントに良いのがよ。ちなつは、それで」

 しゃくり上げながらちなつに話し掛けているのは、あれは、日向だ。どうして二人がこんなところに? いやそれよりも今は会話の内容が気になる。二人に見えない角度を保ちつつ慎重ににじり寄り、そして真由は近くの茂みに身を潜めた。二人との距離は、耳を澄ませば辛うじて彼女たちの声が届くほどだ。

「うん。もう決めた」

「楽器だって上手いし、マーチングだってすげえのに。それなのに辞めるなんて、勿体ねえと思わねえの」

 辞める? 誰が? 出来得る限り首を伸ばし、僅かな音でも聞き洩らすまいと、真由は己が聴覚に全ての神経を集中させる。あの一言だけでは何も分からない。誰のことを言っているのか、それすらも。

「それでホントに納得できんの? ちなつの父さんも、ちなつも」

「父ちゃんとはもう話してある。私がそれで良いなら父ちゃんは何も言わねえ、ってさ」

「私は、」

 そこで喉に何かを詰まらせ、ひぐ、と日向が泣きじゃくる。彼女の背中を優しくさすった後、ちなつはゆるりと日向の体を引き寄せた。

「ヒナにゃあ感謝してる。私が音楽に出会えたのも、ここまでユーフォ続けてこれたのも、ぜんぶヒナのお陰だもん」

()してよ。ちなつぐれえ凄かったら、もっともっと、凄えとこまで行けるがも知んねえのに」

「……ごめん」

 日向はちなつの肩に顔を埋め、そのままの姿勢で声も無く、ただただ咽び泣くばかりだった。それを草陰から見守る真由は息を吸う音すら殺し、這うような姿勢でその場にうずくまることしかできない。

「でもだがらこそ、残った時間で精いっぱいやりてえんだ。この曲北で、ヒナと一緒に最高の舞台に立って最高の演奏して、それで終わりたい。みんなといっしょに、ヒナといっしょに」

 気付けば辺りは完全に真っ暗になっていた。それでも二人はその場から離れず、従って真由もまた身動き一つ取れぬまま。やがて感情が収まったのか、顔を上げた日向がちなつに小声で何かを告げた。それが何だったのかも、日向に応じたちなつの言葉も、ここからでは何一つ聞き取れない。

「さあ、帰ろ。ヒナ」

「うん。……もう、大丈夫」

 二人は立ち上がり、おもむろに土手の階段をのぼっていく。彼女たちが向かう先は真由が来た道、即ち学校のある方角だ。その人影が完全に見えなくなるところまでをただじっと、真由は見送った。ようやく息を吐いた頃には酸欠でも起こしかけていたのか、脳の中枢がずきずきと鈍い痛みを訴えていた。

 たまたまとは言え、とんでもない話を聞いてしまった。ちなつが、辞める。その衝撃的な言葉が頭に響くばかりで、何を辞めるつもりなのかも、辞めて何がどうなるのかも、自分には全く分からない。だが辞めると言えば、それと日向のあの様子からすれば、それはやっぱり部活の事としか思えなかった。もしも本当に、吹部からちなつが居なくなってしまったら? そんな嫌な想像だけが暴れ馬のように、思考の内側を止めどなく駆け巡っていた。

 

 

 

 しとしと降る雨が鬱陶しい。こんな昏い気持ちで空を眺めるのも、人生初のことだ。

「メンバーへの連絡は以上な。んで次、サポート組の練習の進め方についてですが……」

 今日からは本格的にコンクールモードへ体制移行し、真由たち出場メンバーは音楽室での練習が主となる。合奏の頻度も今までよりも格段に増えるし、県南ブロック地区大会までの数週間で一気にクオリティを煮詰めていくことになるだろう。そんな状況にも関わらず、真由は昨日のちなつと日向の会話が頭から離れぬまま、どうにも集中を欠くありさまだった。

『この曲北で、ヒナと一緒に最高の舞台に立って、最高の演奏して、それで終わりたい』

 脳内にこだまするあの弱々しいちなつの声が、檀上でスケジュールを告げるちなつの凛々しい姿に重なってしまう。ちなつが部活を辞めてしまうかも知れない。そのもやもやを、真由は誰に相談することもできず、あれからずっと抱えっぱなしの状態となっていたのだった。こんなことではいけないと分かってはいるのに、ままならぬ己をどう御して良いかも分からず、もどかしさは時を追うごとに加速するばかりだ。

「じゃあ今言った通り、各自きちんと目標を見失わないようにして、一日一日の練習に取り組んでいきましょう。それじゃ今日もよろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」 

 今日もちなつの号令で一日の活動が始まった。部員たちがそれぞれの向かうべき場所へと散り散りになってゆく中、真由は椅子に座ったままで一人、暗く湿った吐息を零す。

 こういうときはひとり個人練でもして気持ちの入れ替えを図るのが一番なのだが、外はあいにくの雨模様。これでは雨風を凌げるだけの庇を持たない屋上テラスも校舎裏も使えない。となると選択肢は屋内のみとなるわけだが、そういった場所の大半は今回コンクールに出場しない他の部員たち、いわゆるサポート組によってあらかた占拠されてしまっている。つまるところ、ひとりきりになれる時間と場所を、今日の真由は確保できそうになかった。

「黒江ちゃん、何かボーっとしてない?」

 そんな真由の憂鬱を察知したかのように、頭上から日向が声を注いできた。昨日の涙が嘘のように、本日の彼女はいたってケロリとしたものだ。

「ダメだでー。本番近いんだから、もっと集中してかねえと」

「はい、すみません」

 殊勝に謝る真由を見て、日向が「やれやれ」と口角を歪める。

「なあ黒江ちゃん、ちょこっと話っこあるんだけども、外さ行がね?」

「え? 別にいいですけど。何ですか、話って」

「そんな不安がらねったって良いって。落ち込んでる後輩にちょーっと喝入れてやるだけだがら」

 さ、行ご。日向に引きずられるようにして真由は音楽室を出る。外、と言うからにはてっきり校舎裏のごみ捨て場にでも行くのかと思いきや、向かう先は玄関や裏口の方角ではなかった。そうして日向に連れ込まれたのは中央棟の一角にある空き教室。ここは現在、社会科の教材などを収蔵するための資料室として使われていた。

「何でか知らねえけどココ、いっつも鍵掛かってないんだよねえ。さ、どうぞ上がってたんせ」

「は、はい。失礼します」

 日向に促され、こわごわ足を踏み入れる。あまり人の出入りが無いせいなのか、薄暗い資料室の空気は思わず咳き込んでしまいそうなほどに澱んでいた。立てかけられた大判スクロールの肩にもびっしりと起毛のようにホコリがまとわりついている。正直を言えばそこは、あまり長時間過ごしたいと思える環境では無かった。

「黒江ちゃん、何でこんなとこさ連れ込まれたか解ってる?」

 カチャリ、と戸に鍵を掛け、それから日向は真由の元へじりじりと近付いてきた。

「う、えと、その」

 どうにも答えられず、真由は視線を彷徨わせる。叱られるのは嫌だが、かと言って「昨日の先輩たちのせいです」などと暴露するわけにもいかない。恐怖と気まずさに板挟みにされたようなこの状況で、真由に出来たのはただただ縮こまるばかりだった。

「プッ」

 と、日向の口から唐突に変な音が洩れ出る。何だ、と思って顔を上げた真由に、日向はけたけたと笑い声を浴びせ始めた。

「何ですか急に」

「いやごめんごめん、黒江ちゃんがあんまりにも怯えちゃってるもんでさ。おかしくってつい、ハー」

「……もしかして私、からかわれてます?」

「そういうつもりじゃ無がったんだって、いやホント。まあまあそうヘソ曲げねえで」

「べつに、怒ってるとかではないですけど」

 とは言え、実のところちょっとだけムッとしたのはここだけの話だ。あーおかしおかし、と滲んだ涙を指で拭いながら、日向は呼吸を整え直す。

「ビックリしたべ? 喝入れるーなんて言われて、しかもこんな人っけの無えトコさ連れ込まれたもんで」

「それは、まあ」

「でも落ち込んでる後輩に、まではマジだけどね」

 そう言って、日向は資料室の一角に置かれた長机に腰を預けた。折り目正しいプリーツのスカートにびっしりとこびりついた灰色の汚れを、どうやら彼女は気にも留めていないみたいだった。

「黒江ちゃんが落ち込んでた原因だけどさ。ズバリ聞いてたっしょ、昨日の私とちなつの会話」

 うぐ、と真由は喉をつっかえさせる。ばれないように極力注意を払っていたつもりだったのだが、どうやら日向はあの時こちらに気付いていたらしかった。

「あの、すみません。盗み聞きするつもりはなくてですね、」

「良いって。まあ動転してたとは言え、よくよく考えりゃあ他の生徒だって通りがかるような場所だったしね。あそこであンた話してらったこっちの方が、不注意っちゃ不注意だったわ」

「いやまあ、それは。でも日向先輩、私がいることにいつ気が付いたんです?」

「んー。誰か居るなあってのは何となく分がってらったんだけど、それが黒江ちゃんだってハッキシ気付いたのはぁ、」

 そこで何故か、ニヤリ、と日向が挑発的な笑みを形作る。

「ちなつに愛の告白してたとき、かな」

「こくはく、っ」

 言われたこっちが赤くなるようなことを、日向はさらりと言ってのけた。その様子を見て日向はまたも愉悦めいた音を鼻で鳴らす。

「ってえのは冗談で、まあ見てたと思うがら正直に言うけど、『帰ろ』っていうちょっと前の辺り」

「あ……はあ、そうだったんですか」

「アレのせいで何つうかさ、黒江ちゃんにもいろいろ余計な心配掛けちゃったかなって思って。それでこの際、黒江ちゃんにもきちんと話しとこうって思ったんだよ」

「それは、ちなつ先輩のことですか?」

「そう」

 すう、と日向の表情が温度を下げる。にわかに高まる緊迫感。覚悟を決めるつもりで、真由もまたスカートの裾を固く握った。

「ちなつさ。アイツ、中学卒業したら、音楽辞めるつもりなんだよ」

「卒業したら、ですか?」

 うん、と日向が小さく首を動かしたのを見て、真由の心の緊張は小さく緩んだ。有り体に言えばそれは、思い描いていた最悪のシナリオからすればまだ許容できる話だ。そうなんだ、とこっそり吐息を抜いた真由に対し、日向の表情は依然として固いままだった。

「ちなつのユーフォの腕が凄えってのは、黒江ちゃんだって良く分がってるよな」

「もちろんです。同じユーフォですし、いつもすぐ隣で聴いてますから」

「それにアイツ、マーチングも上手えべ? それ聞きつけてなのか、他県の私立高校とかからもけっこう声掛かってるらしいんだよ。『ウチさ来ねえか』っていう誘いの声がさ。永田っちからも、もしちなつが希望すんならいつでも京都とか福岡のマーチング強え学校さ推薦するぞ、って言われてんだって」

 それは何とも凄い話だ、と真由は率直に思う。京都や福岡の強豪校、と言われればすぐにその名を挙げられるぐらい、いずれも吹奏楽の世界では有名なところだ。中学と高校の違いこそあれ、過去の実績や公式大会以外での活躍ぶりはこの曲北ですら比較対象にもならないほど凄まじい。つまりそんなところに推されるほどには、ちなつの才能は世に認められたものであるということだ。

「ンだけどちなつはそういうの全部蹴って、地元の高校行くつもりなんだよ。こないだ話してらったべ? アイツの志望校って吹部はあるけどマーチングはやらねえし、そもそも吹奏楽強いとこでも無えんだ」

「何でなんですか。それだけ引く手あまたなのに、ちなつ先輩が普通の高校に行こうとしてるのって」

「それは、」

 そこで日向は口ごもり、迷うように瞳を伏せた。けれどここまで言った以上は中途半端に出来ないと覚悟したのだろう。あんま言いふらさねえでな、と前置きをして、日向が真相を述べる。

「ちなつん家、片親なんだよ。ちなつの母さん、ずっと前に病気で亡くなってさ」

「え、」

 びきん、と全身の血が凍りつく。それは予想だにしていないことだった。ちなつの家庭のことなんて、そう言われれば、今までほとんど聞いたことが無かった。

「それっていつの話ですか。ちなつ先輩のお母さんが亡くなったのって」

「私らが小学校三年生の時だがら、もう六年前。私も最初は何も知らねがったんだけど、ある日の学校帰りにちなつん家の前通りがかったら花輪上がっててさ。家さ帰って親に聞いたっけば、ちなつの母さんが亡くなった、って教えられて」

 肘を掴む日向の指が、薄く日焼けしたその皮膚にめり込む。

「アイツの父さん市内の工場さ勤めてんだけど、ちなつの他にまだ小っちぇえ弟も居てさ。周りに頼れる親戚も居ねくて、奥さんも居なくなって、そういう中で苦労する父さんを見てきたがらだべな。アイツは高校卒業したら働きに出て、その稼ぎで父さんと弟に早く楽させてやりてえ、って考えてんだ」

 日向の語るちなつの生い立ち。それがあまりに己の平常とかけ離れていたせいで、思考が全然追いつかない。世の中には少なからずそういう人だっていると頭で解ってはいても、所詮そんなものはただの知識に過ぎない。それがすぐ傍にいる誰かの身に降りかかった現実の事例なのだ、といざ突きつけられた時、真由に出来たのは言葉も無くただ愕然として棒立ちになることだけだった。

「ちなつなら音楽続けてりゃあ、そっちの道だって開けるかも知んねえ。警察とか自衛隊の音楽隊とかなら、音楽しながらでも家族を養っていくことだって出来る。そう言ったんだけどアイツ、未練は持ちたくねえからって。なれるかどうか分かんねえプロの道よりも、安定した仕事に就いて家族の面倒見るほうを選ぶって、ちなつは決めてんだよ」

 日向の目尻に涙の粒が溢れる。それは小窓から差し込むおぼろげな光に照らされ、きら星のように瞬いた。

「勿体ねえよ。あんだけ音楽が好きで、あんだけユーフォ上手くてさ。ああは言ってるけど本人だって、本音じゃ音楽の道に進みてえんだよ。ウチさ遊びに来ればいっつもプロの演奏動画観てさ、『(しん)(どう)さんってすげえユーフォ吹きなんだ』とか『演奏してるトコほんとカッコ良いなあ』なんて目ぇキラキラさせながら言ってるくせにさ。そういうのぜんぶ、自分から諦めて、一人で全部背負い込んで。私は、納得行がねえ。バガだよ、アイツ」

 とうとう堪え切れなくなって、日向は顔を手で覆ってしまった。彼女やちなつの気持ちが自分にも解るなどとはとても言えない。けれどそれとは別に、分かってしまったこともある。

 日頃のちなつへの砕けたやり取り。部活と同じくらい勉強に精を出すちなつをからかいつつも気遣う態度。母親を喪ったちなつを音楽の道に誘い共に歩んだ日々。そして、ちなつの境遇と決断を思って流す涙。それら全ては、日向がちなつにまつわる色んなことを、他の誰よりも知っていればこそだったのだ。

「……ごめん」

「いえ、私はぜんぜん。――大丈夫ですか、先輩」

「うん、まだちょっと、ダメかも。わりいけど、先行っててくれる? 落ち着いたら私も、部室戻っから」

 どうにもいたたまれなくなって、真由はただ無言で戸を開け、静かに退出した。閉めた戸の向こうにいる日向はしばらくそこから動かぬままで、慟哭を押し殺し切れずにいるみたいだった。

 ちなつの真実。日向の本心。いっぺんに膨大な量の情報を受け止めてしまったせいで、真由の心理は未だ対処が追いついていない。けれどその一方で、頭のどこかでは冷静にある一つのことを考え続ける自分が居た。やがては自分自身もこの問題に直面しなければならない、ということもまた、同時に。

 将来。まだ遠いところにあると思っていたそれは、恐ろしいほど近くにあって、途方もなく大きかった。

 

 

 

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