私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~   作:ろっくLWK

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〈10〉目いっぱい楽しもう

 最初はピストンを解放して、たっぷり八拍のB♭(べー)。それから(ツェー)(デー)(エス)……と音階を辿ってゆき、いまの自分が出せる目いっぱいの高さまで上がったところで今度はハイ(アー)、ハイ(ゲー)、ハイ(エフ)……と音を下げてゆく。

 ただ出せば良いというものではない。ポイントは綺麗な音を保って安定させること。そのために注意すべき点は山ほどある。その一つひとつにじっくりと向き合い、無用な体のこわばりを取り払い、必要なことにのみ注力する。それらを飽きるほど繰り返してもなお、音磨きの探求は尽きることを知らないのである。

「やっぱり、ここさ居たんだ」

 ガチャ、とテラスの扉を開く音に真由は振り返る。そこにはユーフォを手にしたちなつが立っていた。「お疲れさまです」と挨拶した真由に頷きで応えたあと、ちなつは頭上の青空へとその手をかざした。

「梅雨晴れっつうか、久々にいい天気だもんね。これだったらテラスで吹きたくなる気持ちも分かるわ」

「そうですね」

「せっかくだし、私もここで吹いてっていい?」

「え、と、もちろんです」

 返しの一言がどうにもぎこちない。それを重々承知しながらも、そうするしか真由にはなかった。

 日向によってちなつの事情を聞かされたのはちょうど一週間前。あれから真由はずっと、それとなしにちなつを避けていた。それはちなつの境遇を知ってしまった今、彼女とどう接するべきか、その距離感を測りかねるところがあったから。ちなつは良い先輩だし良い人だ。不用意な発言をして傷付けたりしたくない。そんな思いから、真由は出来るだけちなつと二人きりで過ごすことのないよう、常に傍に誰かを置きながら彼女と接してきたのだった。そう、今日この時までは。

「さて、そんじゃ何吹こうかな」

 基礎練習を終えたちなつはしばしの勘案の後、吹く曲目をこれと決めたらしい。かちゃり、と構えたユーフォが一閃、金色の輝きを放つ。青空にベルを向けて奏でられるちなつの美しい音。悲壮感の中に僅かな安寧を灯すかのようなフレーズは自由曲第三楽章『裏切りと磔刑』、そのユーフォソロだった。

 ひと吹きを終え、ふう、とちなつが汗に滲んだ額を手の甲で拭う。晴れ間の内にもじとりと高まる湿気のせいで、眉の高さに切り揃えられたちなつの前髪は黒くそぼ濡れていた。

「やっぱ気持ち良いな、こういう開けた場所で吹くのは」

「ですね」

 簡単に相づちを打ちつつ、こちらの意図を気取られぬうちに、と真由も演奏の体勢を取る。

「ところで真由、こないだヒナから私のこと、何か聞かされたんだって?」

 不意の一言に心臓を切り裂かれ、息を吸おうとしていた真由は思わず咳き込んでしまった。ぼふ、と間抜けた音を漏らすユーフォのベル。その様子を見て、「くっくっく」とちなつが喉を震わせる。

「な、その、どうしてそれを、」

「あいにく私らってお互いに隠し事が通じねくてさ。すぐ顔に出るっつうか、何となく判るっつうか。んで、さっき教室にいたヒナどご()問い詰めて白状させた」

 事も無げに言いつつ、ちなつは意地の悪いしたり顔を作った。ツウカアの仲とは良く言ったものだ。まだ気管に引っかかっていたものをごほごほと追い払い、真由はようやく呼吸を落ち着かせる。

()りがったね。別に隠すつもりじゃねがったんだけど、いちいち言うようなことでもねえかなと思っててさ。こンた事ならもっと早くに真由さも説明しとけば良かったかな」

「いえ、そんなことは」

「とにかくさ。本番までもうあまり時間もねえし、ヒナから聞いたことは全部忘れて。真由は自分のことさだけ集中してりゃあ良いから」

 な? とちなつが首をすくめてはにかむ。ハイそうします、とはとてもじゃないが言えなかった。小さなことには拘らない主義の真由だが、あんな重い話を綺麗さっぱり記憶から消し去ることなどそう簡単に出来やしない。ましてやちなつの事ともなれば、それは尚更というものである。

「あの、ちなつ先輩。ひとつ質問してもいいですか」

「良いけど?」

「先輩はホントに納得してるんですか。中学までで音楽辞めちゃうこと」

 そう尋ねたのと同時に、ちなつの表情からぶつんと朗らかさが途切れる。ちなつを怒らせてしまうかも。その可能性に恐懼しつつ、それでも真由は内側からあふれ出る感情に突き動かされていた。ゆりの件と言い、近頃の自分はずいぶんと危ない橋を渡ることが増えている。けれど、問わずにいられない。

「日向先輩、言ってました。ちなつ先輩はすごく音楽が好きなんだって。ユーフォが好きなんだって。私もいつか先輩みたく吹けるようになりたいって憧れてますし、だから何となく分かります。先輩がこんなに上手くなるのにどれだけ一生懸命練習してきたのか。どんなにユーフォ吹くのが好きか」

 真由が呼吸を継いだ一瞬、ちなつの細やかな指先がユーフォの管をなぞるのが見えた。その手は微かに、けれど確かに、震えていた。

「私も先輩が音楽を、ユーフォを辞めちゃうの、勿体ないって思います。先輩ぐらい上手だったらきっと、このまま大人になるまでユーフォ続けたらもっともっとすごくなるって思います。なのにどうして、どうして辞めなくちゃいけないんですか」

「……仕方ねえよ」

 無表情のまま、ちなつが視線を落とす。細やかなその全身からは有り余るほどの諦観が滲み出ていた。

「大体はヒナから聞いたべ、うちのこと。父ちゃんが工場勤めで、弟は歳が離れてるって」

「はい」

「父ちゃんと母ちゃんって、ずいぶん若い時に結婚してさ。私が生まれた時は母ちゃんもまだ元気で共働きしてたんだけど、私が小三に上がる年の冬、母ちゃんの病気が見つかって。そん時、弟はまだ三歳の誕生日前だった」

 ぽつぽつと語り出したちなつの桜色の唇をじっと見つめながら、真由は彼女の語るその状況を想像する。三歳、と言えば物心がついているかどうかも危うい時期だ。恐らくちなつの弟は、当時の出来事も母親とのふれあいも、ほとんど覚えていない。ちなつの年頃にしたって、まだまだ甘えたい盛りだったに違いない。そんな折に母が重い病を患ったと知らされて、彼女ら姉弟の心境はいかばかりだったろう。

「それから少しして、母ちゃんは市内の大きい病院さ入院してね。私と弟は毎日父ちゃんに連れられてお見舞い行ってたんだ。でも結局母ちゃんは病気に勝てねくて、半年後の夏に死んじゃって。あのときはもう母ちゃんには会えねえんだって、抱っこも二度としてもらえねえんだって、それがとにかく(つれ)がったなあ」

 ぐず、と鼻を鳴らしたのは他ならぬ真由自身だ。悲しいのは自分ではなくちなつであるはずなのに、それを静かな笑みと共に淡々と語るちなつの姿が何故か、真由の瞳にはひたすら悲しく映ってしまう。

「んだけど、本当に辛がったのは父ちゃんなんだ」

 唇で唇を噛み締め、それからちなつは続きを語る。

「まだ小さい私ら抱えて独り身になって、そんでもがんばって育てねねえ(なきゃ)、って気持ちだったんだと思う。毎朝早起きしてみんなの弁当作って、夜遅くまで働いてから保育園に通ってる弟を迎えに行って、休みの日も欠かさずごはん作って洗濯して風呂の用意して、ってさ。母ちゃんがいれば分担できることを、全部一人で。そんな父ちゃんの背中見てたら私もさ、お姉ちゃんなんだがらしっかりしねえばって思って、それからは父ちゃんの代わりに弟のお迎えしたり、父ちゃんの帰りが遅い時は私が頑張ってごはん作ったりするようになった」

 妻を、母親を失った荒川一家の日常。それはまるで想像の及ばない光景だった。父と母がいるのが当たり前。兄弟が居ないのが当たり前。そういう環境で育ってきた真由とそうでなかったちなつとではきっと、今までの半生で見てきたものが全然違う。

「秋田って仕事少ねえし、父ちゃんも稼ぎ良いワケでねえがらさ。私も弟も欲しいものがあってもほとんど買ってもらえねがった。だけど毎日がんばってる父ちゃん見たら、そんな我が侭言う気になんてなれなくて。だがら部活だって、最初は入るつもりなんて無がったんだ」

「それは小学校のとき、ですか?」

「そう。んだけどヒナに『一緒にマーチングやろ』って誘われて、そん時はすげえ迷った。母ちゃん死んじゃってホントに辛がった時期、ずっと傍に居てくれたのが、ヒナだったから」

 日向の名を口にするとき、ちなつの表情は僅かに温度を上げた。きっと真由が考えてきた以上に、ちなつは日向のことをずっと大切に思っているのだろう。日向のちなつに対する思いもまた、そうであるように。

「だがら思い切って父ちゃんに相談してみたんだ。ヒナに誘われたからマーチング部さ入ってみたい、って。もちろん、ダメだって言われたら潔く諦めるつもりだった」

「でも入部したわけですから、お父さん賛成して下さったんですね」

 うん、と頷いたちなつは少しの間、うっそりと頬を緩ませていた。

「父ちゃん、せっかくだしちなつの好きなようにやってみれ、って言ってくれてさ。すごい嬉しかったしいっぱい感謝もした。その代わりにって私も決めたんだ。家のこともきちんとやって勉強もちゃんとして、そんで音楽も、思いっ切りやってみようって」

「じゃあ毎朝早く起きてる、っていうのは」

「半分は勉強のため。もう半分は一日のごはん作ったり弟の面倒見たり、まあいろいろね」

 その『いろいろ』の中にはきっと、自分などには知り得ぬ沢山のことと、推し量り切れぬ沢山の思いが詰め込まれている。そう感じた真由は、小さく細いちなつの双肩に圧し掛かる、とんでもなく重い何かを見出していた。それは誰にも、恐らくはちなつ自身にさえも、降ろすことを許されない何かだった。

「楽器は学校の備品があったし、部費とかはお菓子ガマンするってことで何とか払ってもらってさ。そのぐらい私にとっちゃユーフォ吹くことがいちばんの遊びで、いちばん楽しい時間だった。友達もいっぱいいたしね」

「日向先輩とか、雄悦先輩ですね」

「そう。おかげでマーチング部に入ってた三年間はホント、楽しい思い出だらけだったよ。その頃にはユーフォ吹くのが大好きんなってて、だからこそ小学校を卒業する時は、すげえ寂しかった」

「どうしてですか?」

「その頃にはもう、小学校卒業したら音楽辞めようって、そう思ってたから」

 そんなちなつの告白も、今はもう驚かずに聞き入れることが出来る。彼女の境遇を思えばそう考えたって仕方ない。

「けど中学上がって、しばらく部活見学もさねえでブラブラしてたらさ。あー、もうユーフォ吹けねえんだな、って急に辛くなっちゃって。たまに聴こえてくる楽器の音とか、同級生が『吹部入る』って話してんのを小耳に挟んだりすると、無性にやりたくなって」

 やっぱりそういうものなのかな、と真由は微かに想像力を働かせてみる。引っ越しの前後などで少しの期間吹けないだけでも「吹きたい」という気持ちは募るものだ。それがその後もずっと続いたらと考えると、当時のちなつが抱いていたであろう感情も幾らかは推し量ることが出来る。

「そうやって悶々としてたの、たぶん父ちゃんには見抜かれてたんだろうな。明日が入部式っていう日の夜に、父ちゃんに言われたよ」

「何を、ですか」

「ちなつのやりたいと思ったことはできる限り応援してやる。父ちゃんのことは心配すんな、って」

 その言葉に一瞬、母の笑顔が脳裏をよぎる。できる限り応援する。ちなつの父がくれたというその言葉は、奇しくもオーディション当日の朝、真由が母に言われたものとそっくりだった。

「その晩は眠れねえくらい悩みまくった。本当にそれでいいのか、自分のことより家のことを考えるべきでねえのか、って何回も自分に言い聞かせた。けど結局、私は父ちゃんの言葉に甘えることにした。おかげで私は今でも音楽を、ユーフォをやらせてもらってる。だからこれまで支えてくれた父ちゃんや皆には、いつかきちんと恩返ししなきゃなんねえって思ってんだよね」

「その恩返しっていうのが音楽を辞めること、なんですか?」

「直接的にはそうじゃねえ。けど、そのための選択肢」

 ふう、とちなつが空に向かって一息を吐く。当然ながら、その遥か向こうに佇む雲は彼女のひと吹き程度ではぴくりとも動じなかった。

「私の志望してる高校ってさ、進学と就職、どっちもそこそこ良いとこなのよ。そこでたくさん勉強して、高校出たら市役所で働きたいって思ってて。ここらへんで安定した仕事って公務員ぐらいしか無えがらさ。そうすりゃ実家暮らししながら家にお金も入れられるし、弟にやりたいことが出来ても経済的に支えてやれる。さすがに社会人楽団で音楽やるような余裕は作れねえだろうし、何年も離れればそのうち吹き方だって忘れちゃうべ? だったらいっそ、ここですっぱり諦めた方がいいよなって、そう思って」

「そんな。そんなの、」

 悲し過ぎます、という一言が胸につっかえて出てこない。それを言ってしまうのは、ちなつの下した決断を一方的に踏みにじってしまうのと同じだ。内なるもう一人の自分がそう警告を発していた。

「どうにかならないんですか。あと三年だけお父さんに甘えて、吹奏楽の強いとこじゃなくてもユーフォ続けて、それで日向先輩の言うように警察や自衛隊の音楽隊を目指すとか」

「音楽隊なあ。そういうとこで音楽しながら暮らせたら、すっげえ理想的だよな」

 くす、と洩らしたちなつの吐息に混じる悲しみ。その色合いは真由の知るどんな色よりも深く、切なく、暗かった。

「実はさ、父ちゃんが勤めてる工場で去年、リストラみたいなことがあってさ」

「え、」

「あぁ安心して、うちの父ちゃんは大丈夫だったがら」

「そうでしたか」

 良かった、と真由は詰めた息を吐き戻す。この上ちなつにまだ受難を与えようと言うのなら、その時こそは運命の神とやらを恨むことになってしまいそうだった。

「んだけどそん時の人員整理で、父ちゃんと同期だった人が辞めることんなっちゃってさ。その話聞いて思ったんだ。うちだっていつどうなるか分がんねえし、ここらへんには高校生向けのバイトのクチだってほとんど無え。もし父ちゃんに何かあったらって考えたら、これ以上父ちゃんにも弟にも負担は掛けらんねえ。だったら夢みたいなことばっか言ってねえで、より確実な道を選ばなくちゃ。……だべ?」

「それで、未練を残したくない、っていうことだったんですか」

「あーあ。ほんとヒナってば人のこと、何でもかんでも喋ってくれちゃって」

 この場にいない日向へわざとらしく悪態をついてみせ、そしてちなつが顔を上げる。

「ユーフォ続けたって、それで食ってけるかどうかも分かんない。趣味でやるにしたってそうする余裕もきっと無い。だったら、どっかで諦める日が来るんだとしたら、せめて自分の意志でここで辞めるって決めたい。だがら決めたんだよ。私の音楽は、ユーフォは、この曲北までだって」

 そう言い切って笑ってみせたちなつの目から、すう、と一筋の雫が垂れてゆく。胸が張り裂けそうになるほど凄絶なその美しさを、真由は一生忘れない。

「あは、何だかメチャクチャ一人語りしてしまった。みっともねえな、こういうの」

 恥ずかしさを誤魔化すときのように、ちなつは指で鼻先をこすった。頬に残る涙の痕もいっしょに。

「そんなわけで、私は全部納得できてんだ。だがら真由が気にすることなんか、何もねえんだよ」

「……でも、できません。忘れることなんて」

 ありのままの心境を吐露する真由に、困ったな、とちなつが苦笑する。

「だったら忘れねくたって良いがら、私ら三年の引退するその日までは、目いっぱい楽しもう」

「楽しむ、ですか?」

「そう。あんまり先のことなんて考えてたらクヨクヨしてばっかりだべ? だがら先のことは後でやるとして、今は今出来ることをしっかりやる。そうやってさ、一緒に最高の思い出、作るべ。何年も何十年も経ってがら振り返った時に、ああ、あん時目いっぱい楽しんどいて良がったなあって、お互いそう思えるように。な?」

 ぽんぽん。健気に微笑んだちなつがいたって柔らかく、真由の肩へと手を掛ける。

「だってさ、全国最優秀だよ? 人生でこんなすげえこと経験できるだなんてそうそう無えよ。最高のメンバーで、最高の演奏を楽しめる。人と楽器さえ集まればそれが出来るんだがら、曲北は音楽を楽しむのに最高の環境だって私は思う」

「最高の環境……」

 その一言に、真由の心臓が小さく疼く。

「私はこの曲北のみんなと最高に楽しんで、最高の思い出を残してえんだ。もちろんヒナとも、真由とも。だがら目いっぱい楽しもうよ。私と、いっしょに」

 瞬間、真由は悟った。あの時あの河原で日向に掛けていたちなつの言葉。想いの核心。それはきっと、これだったのだ。

「……そうですね。私も先輩と一緒に、目いっぱい楽しんでみます」

 真由がそう答えると、ちなつは「よしっ」といつも通りの快活な笑顔を向けた。やっぱりちなつにはこの眩しさが似合う。そう実感した時、真由の体を縛っていた緊迫感もまた自ずと和らいでいった。

「さて、長話しちゃったね。県南大会まであとちょっとしか無えし、張り切って練習するべ」

「はい」

「へば、私そろそろ行くがら」

「分かりました……ってあれ、ここで練習しないんですか?」

 わざわざ移動に移動を重ねなくてもいいのに。そう思って尋ねた真由に、ちなつは「あー、」とあいまいな返事を置いた。

「開放的で良い場所だとは思うけど、やっぱ普段吹き慣れてる所の方が落ち着くし。それに何つうか、今はその、照れくさい、っていうか」

 かあ、とちなつの頬が赤く染まる。普段滅多に見せることのない彼女のかわいらしさに、真由はさっきとは別の意味で胸を射貫かれたかのような心地だった。

「とにかくそんなワケだから私は戻る、以上!」

 それだけを言い捨てるようにして、ちなつはぱたぱたとテラスを出て行ってしまった。一人残された真由は、改めてちなつのことを考える。ちなつがどれだけ音楽を、ユーフォを、そして日向を始めとした仲間たちの存在を大事に想っているか。そんなちなつが部長になったのはきっと必然だったのだろう。けれどそんなちなつが、自らの意志で、愛する音楽を捨てなければいけない。その過酷な現実が本当に苦しくて、やるせなかった。

 出来得ることなら、ちなつには思うがままの道を進んで欲しい。この道を選ぶんじゃなかったと、ずっと遠い未来の彼女がこの時を振り返って後悔しないように。

 やがて足元の方角からいつものように、『シシリエンヌ』の一節が聴こえてくる。真由はそれをこの場所で、ほぼ毎日のように耳にしていた。柔らかな音色に包まれながら、ふと真由は胸に抱き締めたユーフォへと視線を落とす。白銀の鏡面に映し出される自分の顔に涙の痕は無い。ちなつの話を聞いていて胸に込み上げるものはあっても、それで泣くことはなかった。無感情なのかな、私。そんなことを思いながら、真由はじっとユーフォの中の自分自身と向き合う。

 それまではただ何となく、ユーフォを吹くのが楽しかった。どうせなら上手いところで吹きたいと考えていた。だから真由は曲北を選んだし、自ら望んだその環境で一生懸命練習に明け暮れる日々を送ってきたのだ。けれどそれらは行動の過程であって、真由が音楽をする、即ちユーフォを吹く目的ではない。

 何故、自分は曲北を選ぼうと思ったのか。この環境に何を求めたのか。今までぼんやりとしていた幾つかのものが、ようやく何らかの形を取り始めようとしている。そんなふうに真由は思った。

 

 

 

 

 

 

 七月も半ば。灰色の梅雨雲は未だ掃けたり募ったり、と忙しなく往来を繰り返していた。それでも月初めに比べれば、このところは雨脚も徐々に弱まりつつある。早く梅雨が明けると良いな。その日が来るのを心待ちにしつつ、真由は今日も水音の中に傘を差して登校していた。

「おっすぅ真由ちゃん」

「おはよう、早苗ちゃん」

 後ろから追いかけてきた早苗と合流し、いつものように二人並んで歩く。雨の日はお互いの傘がぶつかり合うため、ちょっぴり歩調を合わせにくい。傘の角度と距離感を上手く調節しながら、二人は互いに互いの顔が見えるような位置を保つ。

「吹部、きのう大会だったんだっけ? 結果はどうだったの」

「おかげさまで上位大会進出だよ」

「良かったじゃん、おめでとう」

 早苗の無邪気な祝辞に、ありがとう、と真由も笑顔で返す。コンクール県南大会の結果は金賞、そして秋田県大会への代表選出、という喜ばしいものだった。とは言うものの周囲の部員たちによれば、この結果はマーチングフェスの時と同じくほぼ予定調和的なものであったらしい。県内の吹奏楽事情に未だ少し疎い真由ですら、大会パンフレットに記載された出場校の少なさを見れば、秋田という地域の陰に潜む様々な実情を窺い知れるところはあった。

「ところでさー真由ちゃん。おととい出た数学の宿題ってやって来てる?」

「うん。一次関数のだよね」

「ごめん、それ後で写さして。ゆうべやって来んのウッカリ忘れちゃってさ。数学一時間目だし、まともにやってたら間に合いそうにねくて」

「いいよ」

 真由の快い返事に「サンキュー!」と早苗は手を鳴らした。『勉強は自分の力でやらないと身につかない』なんてのはある種の建前みたいなもので、こういうのは持ちつ持たれつ、というやつだ。

「いやあ、助かるわあ。怒らせっとしつけえんだよカネゴン。あいつ部活ん時にまでチクチク小ごと言ってくるしさあ」

「そっか。(かね)()先生って、卓球部の顧問だもんね」

 んだんだ(そうそう)、と早苗が苦々しい顔で頷く。話題に上った金子という人物は、おおよそ三十代の数学教師である。パンチのかかった天然パーマに強面、そして見た目通りの威圧的な教育スタイル。どこの学校にも一人はいるであろう鬼教師のテンプレートみたいな存在である彼に畏怖とほんの少しの皮肉を込め、生徒たちは金子のことをこっそり『カネゴン』というあだ名で呼んでいた。

「しかも宿題やってねえとみんなの前で立たせてアレコレ言ってくるべ? もうマジ最悪。(はえ)ぐどっかの学校さ転勤さねえかなぁ」

「今年来たばっかりなんでしょ、金子先生って。一年で転勤っていうのもなかなか無さそうだけどね」

「カネゴン来てからウチの部の練習メニューもめっちゃ変わったしさ。春も合宿、夏も合宿、さらに秋冬まで合宿やるつもりだっつうし、土日なんて毎週毎週遠征してまで練習試合だで? 去年まで居た学校じゃそのやり方で東北大会まで行かしたらしいけど、正直うっぜえって生徒(うちら)に思われてるって自覚、ちょっとは持てっつうの」

「あはは」

 早苗の愚痴を真由は愛想笑いで受け流す。と、頭の中に突然ぽこんと一つの疑問が浮かび上がって来た。

「そっか。卓球部って、去年は違う先生が顧問してたんだよね」

「だよ」

「じゃあ去年まではどんな感じだったの? 前の顧問の先生のときは」

「前の? うーん。まあ、上がりの時間は今より早えがったし休みの日も多がったけど、練習自体は普通にやってらったよ」

「大会の目標とか、そういうのは?」

「あんま無がった。去年の顧問って、定年前のジッチャン先生でさ。何つうか、試合で勝つことより普段がらナンボ楽しんで卓球出来るかの方が大事だー、みでンた感じの方針で」

「そうなんだ」

 みでンた、というのは『みたいな』という意味の方言だ。頭の中で即座に翻訳をしつつ滑らかに会話を継続する。この頃の真由はもう、それが自然に出来るまでになっていた。

「じゃあ金子先生が来て、今年は大会で優勝するぞ、っていう空気に変わったってことかな」

「カネゴン本人はな。んだけどウチら全員がそうかって言われっと、正直微妙かなあ。元々私らが卓球部に勧誘された時だって、ライトに汗を流して放課後をエンジョイしよう、って軽い感じのノリだったし。卓球ってどっかそういうイメージあるべ?」

 どうだろう、と真由は首を捻る。あなたの思い描く卓球とは? と聞かれれば、激しく左右に動き疾風の速度でスマッシュを打ち抜く躍動感溢れるスポーツ、というのが真由なりの率直な回答だ。それもあくまでテレビなどから得た知識を基にしたものでしかないが。

「まあ実際入ってみたっけ、さすがに謳い文句通りでは()がったけどさ。それにしたって、カネゴン来てがらはめっちゃ厳しいワケよ。一日三回は全員集められて何かしら叱られる(ごしゃがれる)し、朝から晩まで練習れんしゅうレンシュウで、もうついてけねえーって言ってる先輩らもいるし」

「本当に卓球が好きな人なら、そういうのも楽しめるかもだけどね」

「もちろん上を目指してめっちゃ打ち込んでる部員もいるにはいるけどさ。んだけど個人戦はともかく、団体戦ってなると厳しいべなあ。みんなが優勝狙うつもりで必死こかねえと、他の強え学校にはなかなか勝てねえし」

 ぱたぱたと傘の表面に跳ねる雨滴を、早苗が内側からデコピンで爪弾く。爆ぜた水玉は降り落ちる雨水に混ざり、あっという間にそのアイデンティティを喪失してしまった。

「結局そういうのって、部員側のやる気次第なんでねえがな。ナンボ先生が優秀だっつっても、実際ウチらがやらねえば何にもなんねえ事だしさ。そこも上手いこと持ち上げてくような顧問だば話は別なんだべども、まー大概の先生にゃ無理だかんね」

「だね」

 確かにそうなのだろう、と真由も思う。今までに転校してきた学校でも顧問ごとに性格は様々、指導も様々。それは部員の側もまた然り、だ。部活の空気というものはある意味、そういった諸々の意志がない交ぜになることで、包括的に形作られてゆくものなのかも知れない。

「でもさ、それ考えっと吹奏楽部はすげえでなあ。百人以上も居て、それで全国まで行ってらんだもん」

「団体競技とはまたちょっと違うかもだけどね。音楽って、みんなで音を合わせて作るものだから」

「んだけど、みんなして足並み揃えねえと出来ねえべ、そういうのって。それで結果出すって、やっぱ部員全員の意識が高くねえばダメなわけだし、そこは運動部も文化部も関係ねえんじゃねえかな」

「言われてみると、一理あるかも」

「あーあ、何か羨ましいなあ。そんけえ(それだけ)やる気出せる環境に、私も身を投じてみたかった」

「じゃあ今からでも吹部入る?」

「それはやめとく。せめて日曜ぐらいはしっかり休みてえ」

「言うと思った」

 けらけらと高笑いをする二人の声が雨音に交じる。通りの生垣に咲く紫陽花は色鮮やかに、夏の入り口を辿る季節のちょうど真ん中を飾っていた。

 

 

 

 県南大会が終わったからと言って、真由たち曲北には油断しているいとまなどこれっぽっちもありはしなかった。来週には一学期の期末テストがあり、それが終わればほどなくして夏休みを迎える。雪深い地域だからなのか、秋田の学校は他県に比べて一週間ほど早く夏休みを迎え、その分休み明けも八月下旬へと早まるのだそうだ。そしていざ夏休みに突入すれば、八月の頭に予定されている県大会まではあと僅かとなる。

「県内の中学校で強えのは中央地区の秋田(じょう)西(せい)(さん)(のう)中、それからうちらと同じ県南代表の(よこ)()第三中に、()(ざわ)さ二つある中学のどっちかってとこだな」

 パート練習の小休憩中。教壇の上では日向が県大会のライバル校に関する説明をしていた。それによるとマークすべき学校は五つ。中でも珊王はここ数年連続で東北大会に進出しており、過去には全国金賞の実績もあるのだという。

「そんなに(つえ)えトコなんですか、その珊王中って」

「顧問が有名な人だかんね。まあ秋田の中学校でマーチングの名将が我ら曲北の永田っちだとすれば、吹コンの名将は珊王中のその先生、ってとこだな」

「へぇぇ。なんか秋田って、全国レベルで音楽強いんすね。秋田が強ええのって、てっきり高校サッカーと曲北のマーチングぐれえかと思ってたっす」

「今頃知ったのかい、石川っち。業界のリサーチが足らんぞー」

 素朴な感想を述べた泰司に、チッチッ、と日向がたしなめるように指を振る。珊王中とその顧問のことを真由は勿論知っていた。転校先を選ぶとき、候補として絞り込んでいたのがここ曲北と珊王中だったから。つまりはそのぐらい、珊王も吹奏楽ファンの間では名の知られた全国屈指の強豪校ということだ。

「秋田は高校も吹奏楽強いですよね。(あら)()(みなみ)とか、けっこう評判聞きますし」

南高(なんこう)は他県でも有名だべな。ほぼ毎年全国出てらし、卒業生にはめちゃ有名な音楽家も居るし」

「それと、大曲の場合は一般楽団も強ええんだ。プロの指揮者が来てから全国常連、すげえ時なんか三年連続で全国金獲ってんだで」

 日向の話に注釈を付けるように雄悦が場へ割って入る。こうした会話の輪へ彼が能動的に加わるのも、何気にけっこう珍しいことだ。

「雄悦な、将来その楽団さ入りてえらしいんだよ」

「そうなんですか?」

「まあ、いちおう地元さ残るつもりだし。どうせ音楽やるんだばロクに人の集まんねえとこでやるより、人が揃ってて実績もやる気もあるところに入った方がいいがらな」

「へえ」

 それは自分が曲北を選んだ理由ととても近いものがあった。照れくさそうにぽりぽりと鼻を掻く雄悦に対して、真由は初めて小さく親近感を抱く。

「全国級の団体が小学校がら社会人まで、最低一つずつはあるもんな。実は隠れた音楽強豪県なんだがもね、秋田って」

「スゲエっす。それってつまり、俺もめちゃくちゃ練習してめちゃくちゃ上手くなれば、高校でも社会人でも音楽で全国制覇できるってことっすよね」

「おうよ。石川っちがその気になりさえすれば、ヨボヨボのおじいちゃんになるまで一生全国制覇し続けることだって夢じゃないのさ」

「それ聞いて何か燃えてきました。俺、今まで以上に練習がんばるっす!」

「その意気だ石川少年! 目指せ音楽の星! 少年の未来は明るいぞー!」

「うおー!」

 日向のでたらめな鼓舞に、泰司がすっかり乗せられている。騙されやすい、もとい純粋なのも、時には大事なことなのかも知れない。あくまでも悪い結果をもたらさなければ、の話ではあるが。

「ところでコンクールの話ですけど、県大会では何校が東北代表に選ばれるんですか?」

「毎年四校、だね」

 真由の質問に日向は親指だけ曲げた手のひらを向けてそう答えた。県大会、中学の部の出場校はおおよそ二十。そこから四校ということは、曲北が出場権を得られる確率は概算にして五分の一ということだ。

「まあでもぶっちゃけた話、年によっても波があっから、どこが東北行けるかは全然分がんねえの。去年までノーマークの学校がいきなり県代表ってこともあるし」

「見方を変えれば激戦区ってことですね」

「そうとも言えるかもな。んでも東北行ったら行ったで強ええ学校がゴロゴロしてっから、吹コンの全国はかなり狭き門なのよ」

 そこまででひとしきりの説明を終えたということなのか、やにわに立ち上がった日向が書き連ねた幾つもの学校名を黒板消しでキュッキュ、と手早く消し去っていく。よくチョークを引きずる音が苦手という人がいるが、真由の場合はどちらかと言えば消すときの音に生理的不快感を催してしまう。気持ち悪さに震える襟首をさり気なく撫でているうちに、黒板をきれいに拭き終えた日向が再びこちらを向いた。

「っとまあこんな感じで、吹コンもこっからが本番です。去年の成績なんて何の保証にもなりません。メンバーの人もそうでない人もしっかり練習して、今年来年とより高い目標に辿り着けるようがんばりましょう」

「はい!」

 以上をもって小休憩が終わり、パート員たちは再び譜面台へと向かっていった。真由もまた注意点がびっしり書き込まれた楽譜を広げ、課題の箇所を何度も吹きながら怠りなく確認を進める。上手くなる、その先にあるものが何なのかを、そっと意識の片隅に置きながら。

 

 

 

 

「――したら、今日の合奏はここまで」

 譜面台に指揮棒を置き、永田は総譜(スコア)を綴ったファイルをぱたんと閉じた。

「全体的に音は良ぐなってらども、まだところどころ物足りねえっていうのがあります。もうすぐ終業式。夏休みさ入ればワタワターってやってらうちに県大会当日ンなっちゃうので、時間はあるようでありません。次がらの合奏では、もうちょっとオーバーに音の抑揚を付けることを意識してみるべ」

「はい!」

「特に四楽章のクライマックス、金管は全体的に音の鳴りが()ええがら、各パートはそこを次回までの課題としておいて下さい。んだば、お疲れさんでした」

「ありがとうございました!」

 部員たちが声を揃えて挨拶をする。永田が去った後は部活終了の時刻までここにいるメンバー同士で合わせをしたり、個人で出来ていない箇所をさらうこととなる。

 永田の指導法の一つとして、合奏中には長々と個人やパートのミスを洗い出すのではなく限られた時間の大半を全体の音作りに割く、というものがあった。それを成すためには、曲を譜面通り吹くことにいちいち手間取ってなどいられない。合奏では合奏でしか出来ないことだけをやる。そういう姿勢を骨の髄まで叩き込まれている曲北吹部では、顧問の指導など無くとも細かな部分まで自主的にきっちり仕上げるのが当たり前となっていた。

「ヒナ、四楽章のG、もうちょっと音量出せる?」

「無理無理。これ以上吹げば肺がパンクするって」

「康平と巧は?」

「もうちょっとぐれえなら、何とか」

「へば三人でカンニングブレスの場所調整して、ピークのとこに上手く合わせるようにしてみて」

「へい」

 ちなつの指摘を受けたチューバ三人はさっそく、オメエ何処で吸う、などと談義を始めた。今回のメンバーはわりあい低音楽器の人数が多めに割り振られている。それは取りも直さず演奏上、重低音楽器にはより多くのボリュームを出すことが求められている、ということを意味している。

「私らユーフォは音量より、どっちかって言うと三楽章の指回しのとこかな。真由はまだちょっとおっかなびっくりって感じで音引っ込んでるがら、個人練でもそこ重点でやっといて」

「はい」

「それと雄悦は、まあ何回か注意してるけど、息継ぎん時にヒーハーうるせえの何とかせえ」

「だがら、そんなうるせえ音なんか出してねえって」

「出てらって。息吸う時、マッピに口当てたままめっちゃ吸おうとしてるべ? そのせいでベルからヒョー、ってすげえ音鳴ってらど」

 雄悦のその悪癖は真由も少々気になっていた。周囲の音が大きい時ならさほどでもないのだが、第三楽章のように静かな場面から低音が入っていく際など特に、雄悦の「ヒョー」という吸気音が耳に障ることがある。余力を持って吹き込むためにたっぷり吸い込みたい。そう考える心理も分からなくはないが、そのために余分な音を出してしまうのは音楽的にマイナスであり本末転倒というものだ。

「雄悦の場合、完全にクセんなってるがら。もっと意識して楽器鳴らさねえ息の吸い方、本番までに身に付けておけよ」

「分がったってば。ったく、お袋並みにうるっせえな……」

「何か言った?」

「いえ何も」

 ギロリと鋭いちなつの三白眼に、たじたじといった様子で雄悦が諸手を上げる。彼の性格上、ちなつや日向に真正面から逆らうことは不可能らしかった。

「他にも何ヶ所か気になるトコあるし、今からちょっと個人練の時間にして、その後もっかいチューバと一緒に合わせてみるべ」

「はい」

 返事をして真由は楽器を構え直す。と、

「やほーい。練習がんばってるぅ?」

 妙に気の抜けるようなソプラノボイスでそこへ割り込んできたのは、トランペットパートの杏だった。その後ろには奈央もいる。彼女たちを見て「小山」と、一番最初に雄悦が反応を示した。

「お疲れさまです、ユウ先輩!」

「……おう」

 奈央の挨拶に返事をした雄悦は、しかし何を喋るでもなくそそくさとそっぽを向いた。ユーフォを吹こうとしていたちなつが構えを解いて杏を見やる。

「何したの杏、練習中に」

「いやあ、低音パートが気難しい顔で練習してるもんで、何かトラブルでもあったんだがなーって思いまして。いわゆる敵情視察ってやつ?」

「敵で無えべ、っての。吹部の部員同士なんだがら」

 日向もチューバを下ろし、苦笑を交えながら杏に応じる。そう言えば彼女たちは同じ小学校出身で仲が良いと、以前に杏が言っていた。その時のことをぼんやり思い出していた真由を、杏の視線がぱちりと捕捉した。

「お疲れ真由ちん。どうどう? 調子は」

「お疲れさまです。調子はまあ、ぼちぼちってところですかね」

「そりゃあ大変よろしおすでんなー」

 何よそのデタラメな関西弁っぽいの、とちなつがすかさず杏にツッコミを入れる。

「だって真由ちんがぼちぼちって言ったら、アタシもそれっぽく返さねねえべった?」

「相っ変わらずワケ分がんねえな、おめえ」

 呆れ返るちなつに、きひひひ、と杏は独特な笑い声を上げた。その甲高さは周辺に反響し、真由の抱えるユーフォをもキンと小さく振動させる。

「で、本当の用事は何? だいたい見当はつくけども」

「さっすがヒナちん、察しが良い」

 杏はそう言いつつポケットから折り畳んだプリント用紙を取り出し、それをちなつに手渡した。その用紙、真由から見える側の面には『夏休みの課題図書』と印字されてある。プリントを広げたちなつは表面の印字になど構いもせず、裏側にしたためられた手書きの文面を読み上げていった。

「第六回、小山家主催・夏のバカンス計画in(イ ン)()鹿()。……って今年もやんの? 例のあれ」

「そう、例のあれ!」

 ぴょん、と杏がその場で小さく飛び跳ねる。色々とミニマムな杏のその仕草は、空中に向かってバンザイをするハムスターのそれを強く想起させるものがあった。

「去年はみんなで高原キャンプしたし、今年は海がいいかなって。いつもの親戚んトコならお盆休み中は格安で泊まれるっていうから、そっちで計画してみました」

「でもお盆って、部活のほうは大丈夫なんですか?」

 その時期には差し迫った大会の日程が無いとは言えど、前後の土日はイベントへの出演やらで予定は目白押し。加えて夏休みが明ければコンクールやらマーチングやら、続々と大会の本番が押し寄せてくる。そんなスケジューリングの曲北で、果たしてお盆をゆっくり過ごせるような暇なんてあるのだろうか。そう懸念して横槍を入れた真由に、そこは大丈夫、と日向が手のひらを振る。

「お盆は伝統的に学校ごと閉鎖だし、しかも十二日からの四日間は永田っちの都合もあって部活休みンなるがら。さすがに私らだって休むときゃ休む、ってコトよ」

「そうそう! 旅行も十二日出発の一泊二日で計画してっから、お盆のお墓参りにもかぶらねえよう計算済み。都合良かったらじゃんじゃん参加してよ。あ、もちろんちーちんとヒナちんは強制参加ね」

 悪びれもせず言い放つ杏に、顔を見合わせたちなつと日向は同時に肩をすくめる。どうやら彼女たちは毎回こんな調子で杏に付き合わされているようだ。

「真由ちんもどう? まだ参加者の枠には空きがあるよん」

「でも、先輩たちのお邪魔するのも何だか悪いですし」

「だいじょーぶ、お邪魔になんかならねえって。むしろ参加人数多いほど予算に余裕出るし、その方がアタシも大助かり」

「そうなんですか」

 どうしよう、と真由はしばし考え込んだ。例年お盆の時期は父や母の実家で過ごすことが多い。それはお墓参りだけではなく、日頃滅多に会えない祖父母に顔出しをする意味合いもあった。だが杏たちの旅行に付き合えば今年のお盆は帰省出来ないし、祖父母は元より両親も残念がるだろう。とは言えせっかく先輩から誘われたのにすげなく断るというのも、それはそれで気が引けてしまう。

「えっと、じゃあとりあえず今夜、お父さんとお母さんに相談してみます。決めるのはそれからでも良いですか?」

「ぜんぜんオッケー。参加するかどうかは来週までに決めてくれれば良いがら、じっくり考えてみて」

「分かりました。ありがとうございます」

「良いって良いって。んじゃあ悪りいけどちーちん、低音パートの参加者取りまとめお願いね」

「はいはい。来週まで、ったな。へばそれまでに参加希望者の名前、このプリントさ書いて返すがら」

「はーい。そんじゃあ低音パートの諸君、検討よろしくぅ♪」

 来たときと同じテンションを保ったまま、杏がトランペットパートのところへ戻っていく。

「ユウ先輩、今年も参加するんですよね?」

「ん。ああ、まンず(まあ)な」

「良がったぁ。私、今年も楽しみにしてるッス!」

 失礼します、と一礼して杏のあとを追う奈央。その後姿を、雄悦がどこか複雑そうな面持ちでじっと見つめていた。あれ? と真由は何か心に引っかかるものを覚える。奈央のそれとは対照的に、雄悦の態度はあまり嬉しそうには見えなかった。

「へば雄悦も参加確定、っと。他に希望するヤツいる?」

「俺はパスかなあ。小山のグループ、あんま絡み無えし」

「俺も。親戚回りしてこづかい稼がねねえもん」

「今年のお盆はうちの兄ちゃん帰省して来っから、私も今年は不参加だな」

「あー、()()ん家の兄ちゃん、今年がら大学生だったもんな。咲奈はお兄ちゃんっ子だししゃあねえべ」

 咲奈と呼ばれたコントラバスの先輩が「そういうのでねえって!」と憤慨してみせる。どこぞの家庭と違って彼女のところは兄妹仲が良好らしい。実に麗しいことだ。

「いちおう後でサポート組の連中にも聞いてみるか。真由はひとまず保留、でいいんだよな?」

「はい、すみません」

「いいって、いきなりの話なんだし。それに泊まり掛けになるがら、どのみち親御さんの承諾も貰わねえといけねえしな」

「ですね。その、ちなつ先輩のおうちは大丈夫なんですか?」

「ああ、それならご心配なく」

 あえて仔細を伏せた真由の気遣いを察してくれたのか、ちなつははにかみと共に頷く。

「うちの父ちゃんと杏ん家の父ちゃんって、学生時代の同級生なんだよ。家族ぐるみってほどじゃねえけど、昔からあちこち連れてってくれたりバーベキューに呼ばれたり、色々面倒見てもらってて。毎年の旅行も元はそっから始まったようなもんだし」

「そうだったんですね」

「だがら毎年の旅行のことは父ちゃんも弟もちゃんと分がってくれてて、おかげで毎年楽しい思いさせてもらってる。んだがら真由も気兼ねしねえで、一緒に来てくれると嬉しいな」

「分かりました。明日までには決めておきます」

「うん。良い返事、期待してるで」

 にこりと微笑むちなつはあの日以来、こうして柔らかい表情を見せることもずいぶんと多くなっていた。日頃は颯爽と部長らしく振る舞っているちなつだが、恐らくはこっちが彼女本来の姿なのだ。それを最近になって知った真由は、目の前の花咲く笑顔に心地良いくすぐったさを覚える。

「さあ、そろそろ練習さ戻るべ。お盆休みの前にまずは県大会。ここ抜けて、東北出場決めよう」

「はい!」

 しのぎを削る日々の中にもささやかな一つの楽しみ。それを得た真由たちの活動は、本格的な夏の訪れよりも少しだけ早く、ひたひたと熱気を募らせつつあった。

 

 

 

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