私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~ 作:ろっくLWK
「ただ今より、第五十五回吹奏楽コンクール秋田県大会中学校の部、表彰式を開始いたします」
緊張の瞬間が、来た。真由は固唾を呑んで両手を握り締め、ひたすらにアナウンスの声へと意識を集中する。
「一番、
結果が読み上げられる度、歓喜と哀傷の声がコンクール会場である県民会館のホールにこだまする。果たして自分たちが立つのはどちらの側か。発表の番が近付く度、どくどくと鳴りっぱなしの心音は否応なしに高まり、呼吸は浅くなっていく。
今日の県大会本番、演奏の出来は真由の自己評価においても決して悪いものでは無かった。少なくとも練習でやって来たことはメンバー全員、十全に発揮することが出来たと思っている。あとは他の学校の内容次第。相対的な評価によって優劣が決まるコンクールの性質上、いくら自分たちが良好な手応えを得ていたとしても、それは必ずしも良い結果を保証してはくれない。
「八番、秋田市立珊王中学校、ゴールド金賞」
わあ、と会場の一角から小さな歓声が上がる。先日の話にも上がった強豪校の一角、珊王中。彼らは『今年も金が当たり前』とばかり、終始落ち着いた反応を示していた。
「十一番、大仙市立大曲北中学校」
ぐつり、と誰かが喉を塞ぐような音がすぐ傍で聞こえた。真由も瞼を閉じ、ただ一心に祈り続ける。
「ゴールド金賞」
「よおし!」
大きく雄叫びを上げたのは雄悦か、それとも他の男子部員か。曲北一同は一斉に安堵の吐息を吐く。ここで金賞を獲れなければ、その中から選ばれる東北大会への代表枠を得ることもかなわない。自分たちの目指す高みに向け、まずは一つハードルを越えたといった按配だ。その後も発表は進められ、参加した二十余りの団体のうち、およそ半数にあたる九校が金賞を獲得する結果となった。
「続きまして、東北大会への代表となります四校を発表いたします」
ここからだ。一度は弛緩した部員たちの緊張が、再びにわかに高まる。
「では一校目。二番、横手市立横手第三中学校」
うわああ! という大きな歓声と共に、横手三中と思しき生徒の一団が惜しみない拍手を鳴らす。
「二校目。八番、秋田市立珊王中学校」
こちらは自他ともに想定通り、といったところだろう。珊王中の生徒たちの拍手は控えめで短く、式の次第を乱さぬ慎ましやかなものだった。それとは対照的に、曲北の面々は強い焦燥感に駆られ始める。残った学校のうち、金賞の団体は曲北を含めて六校。けれど代表枠はあと二つしか残されていない。果たしてその枠の中に自分たちは選ばれるのか、それともここで道が絶たれてしまうのか。こればかりは部員たちの誰にも判らぬことである。
「三校目」
呼ばれるとすればここだ。十一番、と読み上げられなければその瞬間、曲北のコンクールは終わってしまう。お願いだ。どうか自分たちを、自分たちの名を。アナウンスが次に口を開くまでのほんの数秒、誰もが息を潜め目を瞑り、真由たち曲北はただひたすらに信じ続けたのだった。コンクールでの挑戦が、この先もまだ続くことを。
・
・
・
「……てなわけで、今回は祝・東北大会進出! ってのも兼ねてパーっと盛り上がっちゃいましょう!」
「おー!」
杏の音頭に乗って、若人たちの元気な声が車中いっぱいに響く。先日の県大会にて見事東北代表に選出された曲北は、ほどなくお盆休みへと突入した。本日から十五日まで、僅か四日間という短い余白のひと時。その初日の朝を迎えた今はかねてからの計画通り、杏の主催する一泊二日旅行のため、希望者と父兄を乗せたマイクロバスがその予定地へと向かっている最中である。
「すいません、おじさんにはいっつもお世話んなっちゃって」
「いいっていいって、こっちこそウチの杏が世話んなってらし。どうせだば大人数でわいわいやった方が賑やかで退屈さねえがらさ」
運転席のところで、ちなつと杏の父親がそんなやり取りをする。本日の参加者は杏らトランペットパートの女子五名と、低音パートからはちなつ、日向、雄悦、真由、そして泰司の計五名。他のパートからも幾人かが参加しており、そこに父兄まで合わせれば総勢二十名弱と、旅行団はそこそこの規模となった。
全員がまとまって移動できるようにとマイクロバスを手配してくれた杏の父は、率先して運転手も兼任している。移動手段に宿舎の確保、加えて主催者であることも鑑みれば、この旅行は彼ら小山家のおかげで成立していると言っても過言ではない。
「それにしてもこのお盆休み、いい天気で良がったね。せっかく海で過ごすのに雨降りだったら勿体ねえし」
「そうだね」
隣の席に座る奈央に相づちを返しつつ、真由もまた窓に映る青空を眺める。視線の先にはいかにも夏らしく、くっきりと天まで伸びゆく入道雲が幾つも連なるようにして力強く泳いでいた。そこへ向けてカシャ、と一つシャッターを切った真由に、写真? と奈央が目を丸くする。
「趣味なんだ、写真撮るの。良いの撮れたらみんなにも配るつもりだから、楽しみにしてて」
「おっ、じゃあ真由ちんは今回の旅の写真係だねー。敏腕カメラマン珠玉の一枚、期待してるよん」
杏が後席から身を乗り出して絡んでくる。いや杏先輩、と奈央はすかさずそれに応じた。
「真由ちゃん女の子なんですから、マンとは違うんでねえすか」
「それもそっか。じゃあ何だべ、カメラレディ? カメラウーマン?」
杏が腕組みをして首をひねり始めた。その隣で様子を窺っていたトランペットの後輩が「カメラガールで良ぐねえすか?」と助け船っぽいものを出し、それだ! と納得した杏がシートの上でぽんぽん飛び跳ねる。
「やー、しっかし真由ちんが参加してくれて良がったよ。一時は来てくんねえのかなーって、ちょっと心配だったもん」
「こっちこそ、お誘いいただいてありがとうございます」
杏の誘いを受けたあの日、家に帰った真由はすぐ両親に旅行のことを打ち明けた。それに両親はあっさりと快諾の意思を示し、今日も「せっかくの機会だから楽しんでおいで」と真由を気持ちよく送り出してくれたのだった。祖父母へは、今度何かの折にみやげ話を伴って訪れるつもりだ。
「ほーんと、理解ある親御さんで羨ましいでな。うちの父ちゃんなんか、勉強は何としてらのよ、おめえももう
「それはご両親が先輩のことを心配して下さってるんですよ、きっと」
「
真由が一応の弁護を試みるも、それを日向は大仰に手を振ってすげなく否定にかかった。
「んなコト言ってヒナちん家のお父ちゃん、今回もきちっと差し入れくれたじゃん。迷惑掛けるどもよろしくお願いしますーって」
そう言って、杏はバスの片隅に置かれた青い大型のクーラーボックスを指差した。日向の父が毎回釣行のお供にするというクーラーボックス、その中には炭酸を始め各種フルーツ、お茶にスポーツドリンクと、実にバラエティ豊かなジュース類がこれでもかと満載されていた。真由も山ほどあるジュースの中から好みの乳酸飲料のボトルを選び取り、こうして旅路のお供にさせてもらっている。父ちゃんの釣り好きもたまには役に立つ、とは照れ隠しを交えた日向の弁だ。
「俺、泊りがけで男鹿行くの初めてなんでチョー楽しみっす。ねえ黒江先輩」
「それは良かったね」
通路向こうの席から首を伸ばした泰司に、真由は笑顔で応える。彼としても今日の旅行は待ち望んだものであったに違いない。彼は当初、ちなつからの打診に『いやぁ宿題とかあるんで』と難色を示していた。それなのに真由が参加の意思を朝ミーティングの席でちなつに告げたその日、何か心変わりするようなことでもあったのか、一転して泰司は参加希望の意思を強く表明し始めたのだった。
『行くっす、俺も絶対行くっす! 親の反対押し切ってでも参加します』
果たして何が彼をそこまで駆り立てたのやら。不思議に思いつつ、しかしこれも親睦を深める良い機会だ、と真由は前向きに捉えることにしていた。
「黒江先輩は海で泊まりとか、経験あるっすか?」
「泊まりは私も今回が初めてだけど、小さい頃に日帰りで海に連れてってもらったこともあるかな。去年までは群馬にいたから、そういうのは無かったけど」
「え? 群馬って、海無いんすか?」
泰司の余りにもな発言に、ええ、と場の空気が固まる。彼の隣席に座る雄悦もまた呆れ果てたように、深々と溜め息をついた。
「石川ぁ。さすがに小学校ん時、社会科の授業で習ったべ。群馬は周りに海の無え内陸県だ、って」
「んなこと習いましたっけ?」
「そンた調子で学期末のテスト、本当に大丈夫だったんだべな、オメエ」
「もちろんっす! うちホーニン主義なんで、テストの結果も通信簿も親には見せてねえっす」
「バァガ。そういう話してるんでねっつの」
珍しくも舌鋒鋭い雄悦のツッコミに、泰司を除く一同がどっと笑う。この分では日向以上に泰司の進路は前途多難と言えそうだ。と、車中の空気が十二分の温まりを見せる中、
「そろそろ男鹿さ入るどー」
ハンドルを握る杏の父が皆に向けて進行状況を告げる。ほどなく車窓にヌッと顔を覗かせる、
大仙市から車で走ることおよそ二時間。先日の県大会でも訪れた秋田市を経由してやって来たここ男鹿市は、日本海に面する秋田県西部にぽこんと突き出た男鹿半島を中心として形成された町だ。いかにも漁港街という趣の男鹿には一つ、全国的にも有名なものがある。さっきの鬼の像などはまさしくそれを象ったものである。
「真由ちゃんも知ってるよね、ナマハゲ」
「もちろん。あれでしょ、『泣ぐ子はいねがー』ってやつ」
見よう見真似でその一声を口にした真由に、奈央も嬉々として『なまけものの嫁っこはいねがー』と後段の文句を唱える。
男鹿のなまはげ。それは国の重要無形民俗文化財にも指定されている年中行事。年の瀬を迎える夜、威圧的な鬼の面と藁の衣装に身を包んだ『なまはげ』たちが山から降りてきて家々を訪問し、家中の厄払いをしたり幼な子を始め人々の怠惰を戒める、というものだ。その光景は全国ネットのテレビなどでもまま見かけるほどであり、『泣ぐ子はいねが』の掛け声がなまはげの代名詞として広く周知されるところとなっている。その発祥はここ、男鹿半島のちょうど真ん中にそびえる
「山ン中には神社の隣さ『伝承館』っていうのがあってな、そこでなまはげのデモンストレーションもやってんの。私も幼稚園ぐれえの頃に親さ連れて来られたんだけど、なまはげが大声上げてドシーンドシン、って足踏みしてさ。それがまた超おっかねえんだよ」
「それ、小さい時に見たらトラウマになりそうだね」
「トラウマなんてモンでねえよ。『親の言うごど聞かねえワラシは皮剥ぎ取って喰ってまうどー!』って、大っきい包丁振りかざしながら迫ってくんの。あん時はもうギャンギャン泣いたで」
当時の光景を思い出してか、奈央が顔を強張らせて両腕を抱き締める。半袖から伸びる彼女のきめ細やかな素肌はぷつぷつ粟立っていた。
「でもなまはげって、そんな風に脅してはくるけど、実は鬼って言うより神様なんでしょ?」
「んだらしいなー。詳しいことは私も知らねえんだけどさ、『戒める』っつうぐれえだし、本当に皮剥ぐつもりで言ってるワケではねえんだべな。まー善いモンだろうが何だろうが、私的にはおっかねえのは御免ッス! ってカンジだけどね」
「あははは」
「……あ、そろそろかも。なあなあ真由ちゃん、こっからしばらく外見てて」
「外?」
「いいから」
奈央に促されるがまま、真由は再び窓に目を向けてみる。ちょうどトンネル区間に差し掛かった車窓にはただ真っ黒にべた塗りされた景色と、僅かな灯りに照らされ浮かぶ己の顔しか写っていない。いったい何? と訝る真由の視界が数秒後、突如真っ白に反転し。
「おおお!」
泰司が大きく声を張る。一つトンネルを抜けた窓の外、一面に広がる翠玉色の海。晴天の空に映える日本海はどこまでも美しく、太陽の煌めきを受け止めながらゆったりと波打っていた。数年ぶりに見る大海原、その果てなき広がりは、それ以外の些細なこと全てを丸ごと呑み込もうとしているみたいだった。
男鹿に入ってからおよそ三十分少々。一行を乗せたマイクロバスは、半島中部の山間を横断する『なまはげライン』を経て
「お疲れさんでしたー。忘れ物さねえようにな。おう杏、何人か呼ばってよ、中島さん家のクーラー降ろすの手伝えで」
「はぁい。おーい、ラッパ隊集合ー。みんなしてサッサとやっちゃうどー」
「分っがりやしたー」
バスを降りて外に出ると、むわ、と高まった熱気が真由を出迎えた。けれどすぐそこの海辺が奏でる潮騒はむしろ涼しいくらいに爽やかで、改めて本日の好天ぶりに感謝を告げたくなる心地がする。ほはあ、と浴びる潮の香りを胸いっぱいに堪能し、それから真由は本日のお宿である背後の建物へと振り返る。
和風旅館といった佇まいの母屋は、外観から察するに築数十年、といったところだろうか。長年の潮風に耐えてきたであろう外壁は少しだけくたびれているが、それがかえって落ち着いた海宿の風情を醸し出していた。こういうところ特有の郷愁的な風情も、それはそれで味わい深いものだ。
「ご到着だがや?」
荷物をおろした真由たちが玄関前に整列したところで、女将とおぼしき総白髪の女性がひょっこりと玄関から顔を出す。どもども、と杏の父が頭を下げている様子を見るに、この人が杏の親戚とやらで間違いないらしい。
「今年もお世話になります。よろしくお願いします」
ちなつの挨拶に続き、よろしくお願いします! と皆が一斉に声を張る。
「あやあや、みなさん元気だごど。はい、こちらこそよろしくお願いします」
ふっくらとした笑顔を湛え、女将はていねいにお辞儀を返した。
「まあ一昨年も来てるから、ちーちんとか三年生のみんなは覚えてると思うけど。お盆休みで他にお客さんもいないし、自分
「こら杏、あんま調子乗るんでねえ。今回だってホントは休みのドゴ、
素早く父に窘められ、杏があざとく「ふえー」と泣く素振りをする。と、勝枝はおおらかに「良いんだ良いんだ」と杏の父を制止した。
「おらも
いつぞやの早苗の言ではないが、年を重ねた勝枝の方言はかなりの強度だ。真由の秋田弁聴解力ではニュアンス程度にしか把握できない。けれど彼女の物腰は一貫して柔らかく、どこか親しみを覚えるものがある。「田舎のおばあちゃん」などと言っては失礼なのかも知れないけれど、勝枝はそうした柔和な雰囲気に満ち溢れる人柄をしていた。
「まンず
「ありがとうございます」
一同を代表してお礼をしたちなつはこちらを向き、ごそごそとポケットから一枚の紙を取り出した。
「それじゃあ朝やった部屋分け通りに各自散らばって、荷物置いたら着替えてココさ集合ね。貴重な時間を無駄に過ごすことのねえように。お昼までは浜で水遊び。午後からは自由行動の時間です。夕方にはバーベキューをする予定なんで、あんま遠くさは行がねえようにして下さい」
「ちなつぅ、それフンイキ台無し。部活の合宿に来てんでねえんだがら」
すかさず日向が苦言を呈し、それに一同はどっと沸き立つ。集団行動時に誰かしら取り仕切ってくれる人がいるのはありがたいが、いくら何でも時と場所を弁えた言い回しを心掛けていただきたい、とは真由もこっそり思ったことだ。
ともあれちなつの指示に従うかたちで、一行はそれぞれ宛がわれた部屋へと荷物を運び入れる。真由の部屋は奈央たちと同じ、二年生の女子同士で固められた四人部屋だった。
「今夜一晩よろしくな、黒江さん」
「こっちこそよろしく」
平素あまり交流の無いトランペットパートの女子と挨拶を交わした後、女子たちが着替えのために部屋のカーテンを閉めた。真由も持ってきたボストンバッグを開け、フリルのついたワンピースの水着を取り出す。今回の旅行は海水浴あり、と聞いて取るものも取りあえずで持ってきた、このミルキーカラーの水着。去年買ったものだが今後の成長を見越して少し大きめのものを選んだので、サイズは大丈夫なはずだ。着ていたシャツを脱ぎ、七分丈のボトムスを足先でその辺へうっちゃり、プツリと手際よくブラジャーのフロントホックを外し……と、事件はそのとき起こった。
「すんませーん。小山先輩からの伝言っすけど、もう昼飯の支度できてるらしいんで先に食堂さ――って、どわぁ!」
無遠慮に部屋のドアを開けたのは泰司だった。あまりに想定外な出来事に、その場にいた女子全員の目が点になる。
「きゃああああああ!」
「ちょ、石川ぁ?!」
「ノックぐらいせえっての、このバガぁ!」
「うわ、あ、すんません! や、その、これはワザとでねくて、」
「いいがら見るな! 早えぐ出てけ!」
「痛っでぇ! オレ何も見てないっす、ホントっす!」
女子たちから手当たり次第に物を投げつけられ、泡を食った泰司はもんどり打って部屋を飛び出し、そのまま廊下の果てまで走り去ってしまった。女子の一人がすぐさまドアを閉め、ったくもう、と剣呑な顔つきで荒く息を吐く。
「ごめん、私がカギ掛けんの忘れてたせいで。みんな大丈夫?」
「私、がっつり穿くとこだったんだけど」
「下着までは見られたかも。真由ちゃんは大丈夫だった?」
「え、うん。多分」
奈央に問われ、真由は曖昧な返答をする。とっさに胸を覆うのは、間に合った、はずだ。泰司の視線がこちらへ釘付けになっていたのを思い出しつつ、腕の中に隠した己の隆起へと目を向ける。
「あーもう、やらかした。せっかくの旅行だってのに、みんなホントごめん」
「オメエのせいでな無えって。悪りいのはデリカシーのねえ石川なんだがら」
「んだんだ」
喧々と文句を垂れながら女子たちが着替えを続行する中、どこか落ち着かぬ気分を抱えたままで、真由はワンピースを身にまとった。……大丈夫だと思って家での試着を怠ったことが仇となったかも知れない。去年着たときと比べて、水着は胸のところだけが若干キツくなっていた。
「えー。何やら事故があったようですけども、本人もこの通り心の底から反省してるみたいなんで、このあとは楽しく行きましょう」
キイーン、と、杏父が持つハンディタイプの拡声器が耳に刺さる音を放つ。昼食を済ませた一行は先の案内通り、宿から道路一つを挟んで真正面に広がる海水浴場の浜辺へとやって来ていた。ちなみに先ほどの一件でめでたく罪人扱いされてしまった泰司は、皆が浜辺に出始めた時点から今の今までずっと、熱気の籠る砂の上に額をくっつけて土下座し続けている。
「こっからは皆さんお待ちかね、海水浴の時間です。ビーチバレーに素潜りにと自由にやってもらいます。ただ、泳ぐときは深いところさ注意するように。特に向こうのテトラポットから先へは絶対行かねえようにして下さい。もし海難事故があったら、夜のバーベキューはおあずけです」
それはヤダー、と女子の一人が悲鳴を上げる。バーベキューはともかくとして、あまり泳ぎに自信のない真由としても、自力で戻れない距離への遊泳はなるべく避けたいところだった。
「それと魚釣りしたい人はココさ道具を用意してありますんで、各自自由に持ってって下さい。釣れた魚は即捌いてバーベキューの食材になります。石川君にはお詫びのしるしとして、強制で釣りをしてもらいますけども。心優しい人はどうか彼を手伝ってあげて下さい」
お願いします、と土下座の姿勢を崩さずに泰司が呻く。真由と同室の女子たちはみな一様にそっぽを向いたまま、フン、とけんもほろろの態度だ。
「ではおじさんの長話はこれぐらいにして、さっそく海を楽しみましょう、レッツオーシャン!」
杏父の掛け声に呼応して、おー、と部員たちの若々しい声が浜辺に轟く。かくして真由たちは迫り来る波打ち際の向こうへと躍り出た。ざぶん、と水面を割る感触と共に、さっきまで夏の日差しにじりじりと焼かれていた肌へ心地良い冷たさが沁みてくる。キャアキャア声を上げてはしゃぐ女性陣と、砂浜の端っこで一人しょんぼりと釣り糸を垂らす泰司。彼のことがちょっとだけ可哀想になり、真由は水上からちらと泰司を見やる。
「真由ちゃん、こっちこっちー、みんなで競争しようよ。一位の人にはスイカ割りの一番大っきいとこプレゼントだって」
「あ、うん」
奈央に呼ばれ、真由はそぞろに返事をする。とそこに、釣り竿を持った雄悦が泰司のところへと歩いていくのが見えた。彼は彼なりに気の毒な立場となった後輩を憐れんでいるのかも知れない。あるいはごく単純に、女子ばかりの中で男は自分一人、というシチュエーションに居心地の悪さを感じてしまっただけという可能性も否めないが。
「真由ちーん、早くぅ。もう始めちゃうぞー」
「はあい。今行きます」
いずれにしろ、雄悦が傍に居てくれれば泰司もきっと寂しいと思うことはないだろう。そう考え、真由は杏たちのいる方へとちゃぷちゃぷ水を掻き分けていった。
ひとしきり泳ぎを堪能した後は、各々浜辺で体を焼いたり、泰司たちのように釣り竿を持って岸壁を練り歩いたり、と思い思いのひと時を過ごしていた。真由も父兄らに預けていたフィルムカメラを手にし、今はビーチサンダルを履いて湾の一帯を散策しているところだ。
日が少し傾いて来た湾内はほんわりと朱に染まりはじめ、けれど海から届けられる風は既にほんのちょっと冷たい。念のためパーカーを羽織って来て正解だった。向こうで遊ぶ友人たちへ。湾内を飛び交う海鳥へ。思い思いの景色へレンズを向けながら、寄せては返すさざ波と共に、真由は砂の上へと足跡を刻んでいく。
「こんなところで写真撮影かニャ?」
「え?」
不意打ち気味の声に真由は振り向く。と、コンクリートで作られた堤防の上から杏がぴょこんと顔を覗かせていた。
「画になるもんねー、夕焼けの浜辺。そんでどおどお? いい写真撮れてる?」
「はい、まあ。先輩こそどうしたんですか」
「父ちゃんたちのお使いだよ。ほれ、あの人たちさっきからあの調子だべ?」
そう言って、腕に抱えた大量の缶ビールを杏が見せつけるように突き出す。杏の父たちは浜辺の一角にセットしたバーベキューグリルを囲み、子供たちに先駆け昼間のうちから一杯やり始めていた。どうやら持ち込んでいた飲料が切れたところで運悪く彼らに捕まった杏は、その補充をと宿までひとっ走りさせられていたらしい。
「お疲れさまです。っていうか私、気付かずに先輩にそんなことさせちゃって、何かすみません」
「今日はオフなんだし気にしない気にしない。まー、父ちゃんたちのおかげで私らもここに来れてるわけだしね。そのお代がこの程度で済むなら安いもんだよ」
缶を律義に堤防コンクリートの縁へと並べ立て、その隣に杏がチョコンと腰掛ける。その身にまとったタンキニの水着は、全体的にでこぼこの少ない杏の体型とも相まって、幼げな彼女の可憐さをより強調するものとなっていた。
「真由ちんもココおいでよ。遊びっぱなしに歩きっぱなしで疲れてるべ」
「え、でも飲み物、冷えてるうちに届けなくていいんですか?」
「平気平気、ちょっとぐれえ遅れたって。どうせアッチも呑みっぱなしで、すっかり出来上がっちゃってらし」
「はあ」
それじゃお言葉に甘えて、と真由は堤防階段をのぼり、天面のざらつく小砂を手で払ってから杏の隣へと座る。ちょうど真正面に見える海と空の境目では、日暮れに向けて傾きゆく太陽がゆらゆらと、水平線に飛び込む前の準備体操をしているみたいだった。
「どう、男鹿は。いいところでしょ」
「はい。自然も多いですし海も穏やかで、なんていうか、ホッとします」
「でっしょー。やっぱ人間、一年に一回ぐれえはこういう場所でのんびりさねえばダメだって、アタシ思うんだ」
ぱたぱた、と宙にサンダルを遊ばせながら、杏がその視線をうっとりと海辺へ注ぐ。
「秋田って眠くなるぐれえ何にも無えとこだけど、だからこそこういう時間をちゃんと楽しむのが大事なんだよ。自分がどこに帰ればいいか分がんねぐなった時に、ああ、ここさ帰ればいいんだ、って思える場所を作るためにさ」
「自分が帰る場所、ですか」
杏の言っていることが、分かるような分からないような。真由には今までそういう場所を作った記憶が無い。自分にとっての原風景とは、父が居て母が居て、その中に自分が居て、そんな家族としての景色ばかり。あとは家も地域も学校もてんでんばらばらだ。果たしてこの先何年も経って後、真由がそう思える場所とはやはり父や母の、いつもと同じ家族の中にあるものなのだろうか。それとも。
「……何だか今日の杏先輩、すごく哲学的な感じですね」
「おっ? 真由ちんそれは失礼だなー、アタシはいつだって哲学的で理性的で、頭の切れるオトナの女だよ」
「あ、すいません。私ってばつい、」
「なあんて、冗談だよ冗談。ンだけど色々考えてるのはホント。なんたってアタシ、真由ちんより一歳年上のお姉さんだかんね」
ほっ、と杏の短い手が砂浜に向かって何かを投げつける。小さくて良く見えなかったが、それは恐らく付近に落ちていた貝殻の破片か何かだった。大した勢いも無いままに、夕暮れへ向かって放物線を描いたその何かは砂につぷりと埋もれ、ただの残骸と成り果てる。
「ねえ真由ちん。最近の水月って、どう?」
「え?」
唐突な質問にどきりとさせられ、真由は杏を覗き見る。陽が翳り始めたのも手伝ってか、普段は天真爛漫な彼女の表情もこの時はひどく大人びて見えた。
「そう言えば前にも先輩、水月ちゃんがどうこうって言ってましたけど」
「まあアイツとは昔、色々あってさ。それで、どう?」
「どうって言われても、コンクールが始まってからは水月ちゃんとあんまり喋ってないかもです。サポート組とは別で練習することも多いですし、それに練習中は水月ちゃん、周りとあんまり関わらないっていうか」
「他には? 何か気になること無い?」
「特には。あ、でも水月ちゃんって意外と後輩想いな子ですよね。春にちなつ先輩とちょっと揉めてた三島玲亜ちゃん、あの子、水月ちゃんのおかげで立ち直れたんですよ」
「水月のおかげで?」
「はい。あれから玲亜ちゃん、すっかり大人しくなっちゃって。時々は危なっかしいこともありますけど、そういう時は水月ちゃんが注意してくれてるみたいで。今では玲亜ちゃんもすっかり懐いてます」
「そっか。相変わらずだな、アイツ」
足元に向けて目をすがめた杏のその物言いは、まるで唾を吐き捨てるかのようだった。
「何か、問題でもあるんですか」
「ん。アタシの思い過ごしなら、それで良いんだけどね」
組み替えた杏の細い足がアスファルトに擦れ、くぐもった音を立てる。彼女の表情はどろりと薄暗い懸念の色をたっぷり塗したケーキみたく、迂闊に触れ得ぬ静謐さを内包していた。
「さってと。ビール、ぬるくなっちゃう前に届けねえとな」
ふと思い出したように杏が堤防の縁に立ち、大きく伸びをする。
「あ、私も手伝います」
「別にいいよ、こんくらい。真由ちんだって写真撮影の途中でしょ? 呼び止めちゃったりしてごめんね」
「いえ、そんなことは」
「せっかくの旅行なんだし、シャッターチャンスを逃さねえよう楽しんで。へばね」
両手にたくさんの缶ビールを抱え、よたよたと杏がその場を離れていく。夕陽を浴びるその後ろ姿はほんの少し、見かけにそぐわぬ愁いを帯びていた。真由はそれにカメラを向けることも無く、ただ黙って彼女の行く先を見送った。
結局、泰司たちの釣果はほぼボウズに終わったらしい。その代わりにと父兄たちが予め用意していた肉や野菜、そして近所の直売所から急きょ仕入れてきた海鮮食品のおかげで、真由たちはお腹をいっぱいに満たすことが出来た。そうして夕食の後片付けにもひと段落がついた頃。
「そろそろいい感じに暗くなって来たし、皆さんお待ちかねの花火タイムです」
「やったー!」
父兄が事前に買い込んでくれていた花火パックの束。そこにはこの大人数でもたっぷり遊び尽くせる分量の花火が詰め込まれていた。パックからめいめい好きな花火を引き抜き取り分け、そして一同は浜辺のあちこちで火をつけ始める。
「ヒナちーん。ほれほれ、三色スプラッシュ花火だよ。チョーきれいー」
「ばっか杏、火ィこっち向けんなって。やけどしちゃう! ちょっとちなつ、見てねえで助けれってぇー!」
両手に持った花火の束から青い炎を噴かせながら、杏が逃げ惑う日向を追っ掛け回している。普段なら声を張って杏に注意するはずのちなつも、今日ばかりは他の子たちに交じってきゃあきゃあと楽しそうに笑い転げていた。
「黒江さん、私たちもこっちで花火やらね? 二段変化する噴き出し花火だって」
「うん。この線香花火が終わったら、そっち行くね」
待ってるからねー、と手を振って同部屋の女子たちが離れていく。手元の線香花火はジジ、と赤い火の玉を保った状態でか細い火花を散らしていた。こうして小さく弾ける線香花火を見ていると、何故だか心がゆったりと凪ぐ。終局を迎える一瞬までの、ほんの僅かな寂寥。それを真由はどうにも愛おしく感じていた。
「ユウ先輩。花火、一緒にやりませんか」
「松田」
雄悦と奈央の声がする。そう思って真由が何気なく面を上げた、その十数メートルほど先に、二人は居た。幾つかの花火を手に持った奈央と、堤防の壁にもたれかかるようにして座り込んだ雄悦。そこには幾分、緊張の空気が漂っていた。
「そんなとこさ一人でいたって面白くないっスよ。先輩もこっち来て、一緒にやりましょう」
「……悪い。松田、俺な、」
聞きたくないのに、嫌でも勝手にこの耳が二人の会話を拾ってしまう。急速に強まる不穏な気配。今すぐにでも砂を蹴って奈央のところへ行かなければ、と本能的に真由は思った。けれど、線香花火の小さな火球は未だ指の先でじりじりと燻り続けている。早くしないと落ちてしまう。そんな矛盾した思考が、真由の焦りに拍車を掛ける。
「奈央ちん、そんな暗えとこで何してんの? って何だ、雄悦もいるんじゃん」
「杏、先輩」
そうこうするうちに、どうやら杏が奈央たちのところへとやって来たようだ。どうしてだろう、二人きりではなくなったというのに、それでも何故だか彼らを見ていると心のざわつきが止まない。手元の花火どころではなくなってしまった真由は、杏たちの動向をただじっと、呼吸を殺して見守る。
「なに二人してしっぽりしけこんでんのさー。あれれ? それとももしかして二人って、いつの間にやらそういうごカンケイ?」
「いや、違うッス先輩。私ら別にそんな、」
「隠さねくてもいいってー。すみに置けませんなぁ、奈央ちんも雄悦も」
あらあら、とばかりに杏は手のひらを泳がせ二人をからかう。その仕草に奈央は、この距離からでもハッキリそれと分かるほど顔を青ざめさせた。
「ホントそうじゃねえんです。ただ私、ユウ先輩が一人でいたから声掛けたってだけで」
「隠すことじゃねえべった。二人とも小学校の頃からの付き合いだしぃ? ありえるっちゃありえるカップリングだと思うで」
「だからそうでねくて」
「それにしても水くせえなぁ。それならそれでアタシにくらい教えてくれても良がったのに、」
「違うっつってらべ」
静かに、けれど鋭く雄悦が否定の言葉を投げ掛ける。シンと静まり返る浜辺。
「ほーら。他の子らもこっち気になって、花火どころで無ぐなってるでしょ。もう良いがら、雄悦も奈央ちんもこっち来て一緒に花火やろってば」
ぐい、と杏の手が雄悦と奈央の腕を引く。それに雄悦はきっと反発する、と真由は予想していた。理由はともかく彼は一人で居たかったのではないか、と。けれど意外にも、雄悦は杏に導かれるがまま緩やかに立ち上がり、
「分がった。花火、やるべ」
「うん!」
元気良く頷いて身を翻した杏と、彼女に諾々と引っ張られる雄悦。そこから二歩分ほど距離を空け、奈央は視線を落としてとぼとぼと、砂浜に刻まれた二人の足跡を辿るように追っていった。
「火元から目ぇ離してると危ねえで」
「え。うわ、」
その忠言で反射的に、真由は手を身体から遠ざけた。じゅ、という切ない音と共に、縮み上がった炎のしずくが砂の上へと滴り落ちる。危なかった。あとちょっとでも遅かったなら、真由のつるりと無垢な膝頭の上にはお灸の痕みたいなやけどが出来てしまったことだろう。
「どうしたの、ボゲーっとして。黒江ちゃんらしくもねえ」
「日向先輩」
真由に注意を促してくれたのは、いつの間にか傍に立っていた日向だった。彼女は真由の隣にしゃがみ込むと「私もやろっかな」と、近くの花火セットから線香花火を二本取り出し、うち一つを真由の手に持たせる。
「火ぃ、つけてもいい?」
「は、はい。勿論」
父兄から借りてきたのか、日向はポケットから拳銃のような形をした着火用ライターを取り出した。カチリ。二人が手に持つ花火の芯にゆらめく炎が近付くと、やがて花火はぷすぷすと白い煙を上げ、暗闇に華やかな光の線を描き始める。
「……先輩は、気が付いてたんですか」
「何の話?」
「奈央ちゃんと雄悦先輩のことです」
「あー」
火花の行方を気にするそぶりをしながら、日向が生返事をする。真由の脳内ではようやく、奈央と初めて会話した日の出来事が繋がりを見せていた。積極的に雄悦に絡んでいた奈央。つっけんどんな反応を示した雄悦。そんな二人をして「青春」と宣った日向。彼女は知っていたはずだ。奈央が雄悦に、本気で恋心を寄せていたことを。
「まあ付き合い長えからね、ウチら。あの子がそういう気持ちだってのはさすがに解る、っつうか」
むしろそれに気付けずにいたのは、部内で自分だけだったのかも知れない。今にして思うと、符合する要素は幾らでもあった。部内で奈央だけが雄悦のことを『ユウ先輩』と、彼の希望するあだ名で呼んでいたこと。奈央が男子部員の中で唯一、雄悦だけにじゃれついていたこと。それと今回の旅行に際して、奈央が参加の是非を雄悦本人に直接問うたこと。それら全てをひっくるめて考えれば、彼女が雄悦に好意を持っていない方が不自然で、遥かに考えにくいことだった。
「奈央ってさ、ああ見えて実直っつうか一途っつうか、そういう子なんだよ。小学生の頃からずっと雄悦にくっついて回って、兄貴と妹みでンた感じで面倒見てもらって。だからなんだべな、それから多分ずっと、奈央は雄悦のこと追っ掛けてんだと思う」
火花の盛りが過ぎ去った線香花火は、じくじく、とむず痒い音と共に小さく赤い玉を形作ってゆく。ほんの一吹きするだけで今にも崩れ落ちてしまいそうなほどに、脆く儚げなひと時の美。それが手の内にある以上、真由はその火の行く末を最後まで見届けるか、それともひと思いに握り潰してしまうか、どちらの選択を取ることも出来てしまう。
「知ってる? 奈央ってさ、中学で吹部入ったとき、初めは低音希望だったんだよ。ま、結局んとこは小学時代の実績を買われてトランペットに配属されたんだけど」
「そう、だったんですか」
「ンだけどそれでも仮入部期間中は低音パートさ居て、雄悦と一緒にユーフォ吹こうとしてらったんだ。だから雄悦だって、ホントは解ってる。奈央がなんで吹部に入ったか。誰を追っ掛けてここまで来てんのか」
「じゃあ、雄悦先輩は、どうして」
「――見てごらん」
日向がおもむろに人差し指を小さく伸ばした。その先には花火に興じる雄悦と杏、二人の姿がある。さっきまでの険しい表情とはうって変わって、雄悦は時おり杏を盗み見るようにしながら仄かに頬を緩ませていた。そしてその周囲のどこにも、奈央の姿は見当たらない。
まさか。
ジジ、というセミの断末魔みたいな音を立て、真由の線香花火からぽとりと火の玉が落ちる。それまで真っ赤に赤熱していた玉は乾いた砂へと吸い込まれ、あっという間に熱を失ってしまった。
「雄悦が好きなのは、杏なんだよ」