私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~ 作:ろっくLWK
「じゃあ、電気消すよー」
その声と共に、パチン、と和室の明かりが落とされる。暗闇に包まれた室内では既に全員が布団に潜って就寝の体勢を取っていた。
今日一日遊び回ってすっかりくたくたなのか、同室の女子たちも遅くまで遊び呆けるようなことはせず、比較的早めに寝静まることにしたようだ。そんな中で真由は掛け布団の端からそうっと、隣で眠っているはずの奈央の様子を窺う。花火タイムが終わり宿に戻って来てからもずっと、奈央はいつもの奈央らしさを取り戻すことは無かった。
『雄悦が好きなのは、杏なんだよ』
さっきの日向の一言を思い出すだけで、胃の辺りにキリリと尖った痛みを覚えてしまう。傍で見ていた日向ですら気付いているぐらいだ。雄悦をずっと追いかけて、雄悦のことをずっと見てきた奈央が、杏に対する彼の想いを知らぬ筈が無い。仮に今までがそうでなかったとしても、あの様子ではいやでも勘づいてしまったことだろう。そんな奈央の心中を十全に慮ることなど、恋らしい恋をしたこともない真由の身には余るものがあった。
やがてあちこちから控えめな寝息が聞こえてくる。こうして考えてばかりいたって仕方ない。自分も眠ろう。そう思って布団を被り直したその時、コンコン、と部屋の戸を叩く音がした。こんな時間に誰だろう? 周囲の女子たちは既に寝落ちたか、あるいは寝入りばなを挫かれるのを厭うたか、起きる気配すら見せない。コンコン、ともう一度ノックをされたところでやむなく、真由は布団からのっそり這い出る。
「おっす。あれー? なんで部屋ん中、真っ暗なの?」
戸の前に立っていたのは浴衣姿の杏だった。寝巻き代わりのそれは彼女の体格にあまり合っていないらしい。だぶついた袖口を、杏はお化けのようにパタパタと遊ばせていた。
「もうみんな寝ちゃいましたよ」
「えー? せっかくの旅行だってのに、みんな寝るの早過ぎね?」
不満そうな仏頂面を呈した杏がこちらの了承も得ぬままに、小脇をすり抜けどたどたと室内に上がり込んでくる。
「え、わ、ちょ」
「ほれー、みんな起ぎれー」
杏が蛍光灯の紐をグイと引っ張ると、部屋の中は再び光に満たされた。ううん、とまなこを擦りながら掛け布団をもたげた女子たちが、眠りの淵から自分を強制的に呼び戻した犯人を胡乱げな目つきで見咎める。
「誰よ、いきなり明かり点けたりして。眩しいねが……って杏先輩?!」
「どうしたんすか。私ら、もう寝るどごだったんですけど」
「ジジババじゃあるまいし、せっかく旅行さ来てらのに早寝なんて勿体ねえべ。こういう時はさあ、普段できねえようなことをやんないとって思わねえ?」
「や、良く解んないんすけど。普段できねえことって何すか?」
「だっかっらぁ、こういうトコ来たらやっぱアレっしょ。恋バナ!」
「はあ……」
相手が直属の先輩ということもあってか、周りの女子たちはもう一つ杏のノリに逆らい切れないようだ。そんな中、真由は未だ布団を被りっぱなしでいる奈央のことが気にかかって仕方が無い。目の前には彼女の恋敵とでも言うべき杏。そしてその杏があろうことか、このタイミングで恋愛トークをしようなどと言い出しているのだから、それは尚更のことで。
「ほぉら、奈央ちんも寝てないで! 起きてみんなと一緒に恋バナしよっ」
そう告げて容赦なく、杏は奈央の掛け布団をずるりと剥ぎ取ってしまう。真っ白なシーツの上で、奈央は子供がうずくまる時のように、両膝を抱いて横向きに小さく縮こまっていた。
「あや、何したの。ひょっとしてお腹痛いとか?」
「……大丈夫、ッス」
観念したように腕を解き、奈央がむくりと身を起こす。今起きたという体裁のわりに、彼女の目つきはしっかりと冴えたように焦点が定まっていた。
「それじゃあ話す順番はクジで決めるよ」
寄せ固めた敷布団の上で全員が輪を囲むようにうつ伏せとなり、その姿勢で恋バナゲームは開始された。じゃーん、と杏が紙の切れ端で作ったクジを皆の前にばら撒く。
「クジは早いもん勝ち。書かれた番号順に、恋の体験談や好きな人のことについて喋ってもらいまーす!」
「それはいいんですけど、ちなつ先輩や日向先輩はどうしたんですか? もう寝てるんだとしたら、私たちがあんまり騒ぐのってまずいんじゃ、」
「誘ったけど来なかった。ちーちんは勉強中で、ヒナちんはちーちんに『オメエは補習だ』つって取っ捕まえられてたよ」
「あー、そう言えば日向先輩、夏休みの宿題全然やってないって言ってましたね。杏先輩は宿題は?」
「残ってんのは読書感想文と数学の問題集があと二ページ分ぐれえかな。旅行中にやるようなもんでもねえし、今回は持って来なかったけど」
こう見えて、というのも甚だ失礼ながら、杏は長期休みの際でもしっかり宿題をやるタイプらしかった。真由も後で泣きを見ないようにと一応こまめに手を付けてはいるのだが、残りの分量は杏よりも少し多めといったところである。
「そんなことより、さあさあ、とっととクジ引いちゃって」
女子たちが次々とクジを引き、真由もそれに倣ってクジを拾う。開くと、そこには丸みを帯びた可愛らしい筆づかいで『3』と数字がしたためられていた。
「一番はだーれだ?」
「私です」
「ミカちんからだなー。へば、ここから恋バナゲーム開始! ルールはかんたん。回答者は他の人からの質問に絶対正直に答えること。もしウソ言ってたって後からバレたら、アタシ謹製のキッツーい罰ゲームをしてもらいます」
ひぃぃ、と隣の女子たちが怖気立ったように声を上げる。彼女らの様子から察するにもしかして、杏の罰ゲームとはかなりエグいものなのかも知れない。
「じゃあ最初の質問はアタシがするね。トップバッターのミカちん、まずは好きな人の名前をどうぞ!」
「えっと、その。……同じクラスの武内くん、です」
ミカがもじもじしながら想い人の名を打ち明けると、きゃー、と室内に黄色い声が上がる。杏は進行役を兼ねるつもりなのか、それとも単に好奇心からなのか、「それってどんな子?」「出会いはいつ?」と根掘り葉掘りでトークを促していった。
「――以上です」
「はい、ありがとー!」
ミカに続いて『メグちん』と呼ばれた女子のトークも終わり、一同がぱちぱちと控えめに拍手をする。ここまでの流れを見る感じ、あまり冷やかされるようなこともなく、意中の彼とのエピソードを聞き出してはキャアキャアはしゃぐという程度でも十分許容されるらしい。
「やー、メグちんの恋バナ、けっこう濃かったねぇ。やっぱ付き合ってる真っ最中だと話の中身もギュって詰まってるっていうか、進んでるよね」
「もう、あんま茶化さねえでけれっす」
「茶化してなんかねえっすー。しっかり勉強させていただきました。てなわけでお次、三番目のひと!」
「私です」
「おお、真由ちんかー。これは期待大だね」
ふんす、と鼻を鳴らして身を乗り出した杏に同調したように、他の女子も目を輝かせ始める。
「え、えと。どうしてみんな、そんなに前のめりに?」
「だぁってぇ、ある意味この企画の大本命だったんだもん。全国各地を渡り歩いた謎の美少女転校生、きっと色恋沙汰も多かったことでしょう。そんな真由ちんのいま現在気になっている人が今夜、ついに明かされる! さあお聞かせ願いましょー、果たして意中の彼の名は?」
「そんなふうに盛り上げられても。私、今まで好きになった人とか居ないですし」
「あー、黒江さんズッケェ。その手は無しですよね、杏先輩」
「私だってハラ決めて正直に喋った
「や、そういうんじゃなくて、ホントに居なかったの。いっつも相手のことを良く知る前に転校しちゃってたから」
「んなことってあるぅ?」
「無えべ絶対。一人か二人はいるって、この歳になったら」
「いや、だから、」
ミカとメグからごうごうと非難を浴びせられ、真由は必死に弁解を試みる。杏もさすがに納得が行かぬとばかり、童顔に似合わぬジト目でこちらを覗き込んで来た。
「ホントにホントぉ? ウソついたら罰ゲームだよ?」
「本当ですって」
「じゃあじゃあ、好きとかじゃないけど気になったって人は? あの子カッコいいーとか、きゃーイケメーン、みたいな」
「そういうのも無いです。ほら、人って見た目によらないじゃないですか。外見の良し悪しで判断してないっていうか、相手のことが良く解らないとそういう気持ちになれないっていうか」
「それだと恋バナになんねえじゃん。だったらせめてさ、こういうタイプの男子が好みとか、それなら何かあるっしょ」
「タイプ、ですか。そうだなあ……」
杏にしつこく食い下がられ、真由は改めて自分の嗜好性を省みてみる。とにもかくにもそれらしい恋愛経験が一つも無い以上、好きな異性のタイプなど判ろう筈もない。それでも強いてあげつらうならば、こんなところだろうか。
「もし付き合ったりするなら、ですけど、性格の優しい男子ですかね」
「そんだけ? 他には?」
「身長は、私より高いほうがいいかも。それと趣味の合う人かな。音楽好き同士なら、二人で会話しててもあんまり苦にならなさそうですし」
「なるほどねえ」
したり顔でふむふむと頷き、そして杏は「つまり、」と前置きをした。
「真由ちんの好きなタイプってズバリ、雄悦みたいなやつのことだ!」
ぎくり、と真由の肋骨が音を立てて軋む。それは決して図星を指されたからではない。杏の声で頭を殴られたかのように、隣の奈央が微かに身じろぎをしたのが分かった。
「えぇー、マジでマジで!」
「同パート恋愛ってやつぅ?」
「いやいや。ご本人には申し訳ないですけど、雄悦先輩はちょっと違うかな。なんていうか雄悦先輩って、エイって力を入れたら折れちゃいそうな感じじゃないですか。さすがにもうちょっと頼り甲斐のある人のほうが良い、っていうか」
どうにか苦笑を編み込みつつ、真由は必死に平静を装う。それは他でもない奈央のために。そんな真由の取り繕いをどう見たか、ふぅん、と杏は研いたナイフのような猫目をこちらに向けた。
「大人しい顔してけっこうキツいとこあるんだねえ、真由ちん」
「え、そうですか?」
「あるある。もうちっとオクターブに包むかと思いきや、けっこうズブズブって来る感じ」
「杏先輩。それオクターブでねくてオブラートでねすか?」
「あれ、そだっけ。まあどっちでもいいや」
後輩の指摘を軽々といなし、へば真由ちんの番はこれで終了、と杏は宣言した。そして彼女は周囲にきょろりと目線を配る。
「では四番目――は、何を隠そうこのアタシです!」
「おっ、来た来たぁ」
「私らも隠さねえで喋ったんですから、先輩もマジトークでがっつりお願いしますよぉ」
「任せなさいって。年長者らしいオトナの恋愛観をみんなに教えてあげるわん」
『オトナ』の部分を強調するように発音を区切り、コホンと杏が小さく咳払いをする。
「それでは発表しまぁす。アタシが今現在気になってる人は」
「気になってる人はー?」
「トロンボーンの、草彅雅人クンです!」
「おおー!」
皆が興奮気味に歓声を上げる中、真由だけはぽかんと大口を開けてしまう。草彅雅人。杏の口からその名が出てくるとは全くの予想外だった。そんな真由の唖然とした様子に、んん? と杏が目を細めた。
「なになにー、どったのそのリアクション。もしかしてぇ、実は真由ちんも雅人クンのこと気になってたとかぁ?」
「あ、いえ、別にそういうんじゃ。ただ草彅くん、私と同じクラスなもので」
「ええ、マジでマジで?」
真由の発言に関心を煽られたのか、杏はずずいとこちらに顔を寄せてきた。
「雅人クンってクラスじゃ
「ちょちょ、ちょっと待ってください。そんないきなり矢継ぎ早に質問されても、」
「だって知りてえんだもん。チョー気になるしぃ。ねえったらねえ、早う教えてってば」
前のめりになった杏の追及は、さながらマシンガンの如し、だった。到底捌き切れない真由は大いに泡を食ってしまう。
「ふぇーびっくり。でも、先輩が草彅のこと好きだってのも分がんなくもねえかも。木管の一年の中にも、雅人先輩カッコいいーとか言ってるやついたし」
「ウッソ、誰よそれー」
当の杏をよそに置いて、女子二人がキャッキャと噂話に花を咲かせ始める。
「クールなとこがたまんねえとか、一人で居るとこ見てっとついつい何とかしてあげたくなるとか、色々言ってらったで。母性本能くすぐられるってやつ?」
「その子見る目あんなぁ。アタシが雅人クンのこと気になって仕方ねえのも、まんま同じ理由だもん」
「えー、でも雅人ってすんげえネクラでねえすか? 私はああいうタイプ、ちょっと苦手」
「私も。それにアイツ、先輩だがらって遠慮したりとか全然しねえし。唯我独尊っつうか、自分以外のことなんかどうだっていいって感じがどうもなあ」
「そこが良いんだよ、いや、それが良いんだよ。分がってねえなあキミたち」
ちっちっち、と杏が短い指を左右に振る。彼女の審美眼はともかく一般論として、一人孤高に佇む少年、というのは心優しい女子の目を惹くものがあるのかも知れない。いかんせん真由にはさっぱり理解できない話ではあるのだが。
「でも真由ちんが同じクラスだっつうんなら、雅人クンとの仲介役もお願いできちゃいそう。なあなあ真由ちん、アタシの恋愛成就のためにひと肌脱いでくれる?」
「えっと、それは」
ルビーのように煌めく杏の双眸を前に、真由は少々気後れしてしまう。あれ、これってどういうことだろう。三角。四角。うずまき模様。頭の中にいくつも複雑な図形が浮かび上がり、思考回路を占領しようと暴れ出す。けれど「ねえ」と杏に催促され、ひとまずここは穏便にやり過ごさなくては、と真由は咄嗟の判断を下した。
「えと、そうですね。お力になれるか分かりませんけど、出来ることがあれば」
「やったー! アタシってば恋愛の神様に愛されてるぅ」
ぴこんと両腕を伸ばした杏はいつもの如く、可愛らしいバンザイで喜びを表現した。無邪気なのは結構なことだが、さてそれにしても、と真由は心の内で一連の状況を振り返る。
杏は雅人のことが気になっていて、その杏には雄悦が想いを寄せている。この場合のそれはつまり、片思いということになるだろう。そして片思いなのは雄悦だけではない。その彼へと想いを向ける彼女もまた、同じように。決して交わることの無い、一方通行だらけの相関図。果たしてそこに出口はあるのか。夜の窓越しに響き渡る波音が、暗がりに沈む真由の胸中を著しく掻き乱す。
「さて、アタシの恋バナはこんなもんでいいかな。というわけでお待たせ五番目、最後に残った奈央ちんの番です!」
どうぞー、と杏の小判みたいな手のひらが奈央に差し向けられる。うっそりと微笑んだ奈央は、しかしどこか虚ろな空気を滲ませつつ、およそ本音とは思えぬ告白をさらりとしてみせた。
「好きだって言える人は、私もいねえッス」
あれからの寝心地は、正直あまり良いとは言えなかった。杏の恋バナゲームがいま一つすっきりしない終わり方をしたせいもあるのだが、それ以上にあの時の奈央の痛々しい姿が、一夜明けた今もまだ真由の胸に突き刺さって抜けずにいる。今朝目が覚めた時、奈央の布団は既にもぬけの殻となっていた。彼女はどこへ行ったのか。何を思いどう過ごしていたのか。ふらりと奈央が戻ってきたのは、朝ご飯も済んで一行が帰り支度を始めた頃になってようやくだった。
「せえの。二日間お世話になりました」
「お世話になりました!」
玄関のところで皆声を揃え、勝枝に元気よく別れのあいさつをする。勝枝はふくふくと笑い、そして皺を湛えた目尻を柔らかく下げた。
「こっちこそ、孫っこたちが帰って来たみでンたくて
「はい!」
「へば帰りも気をつけて。また遊びに来てたんせ」
「ありがとうございました、勝枝さん」
父兄らも勝枝に感謝と別れを告げ、続々とマイクロバスに乗り込んでいく。自分も行こう。そう思いバッグを肩に掛けたところで、ちょっとちょっと、と真由は勝枝に呼び止められた。
「お嬢ちゃんだべが? 都会がら引っ越してきた子って」
「あ、はい。都会っていうか、群馬からですけど」
「んだのなぁ。アナタのこと杏ちゃんがら聞いだったのよ。秋田さは、もう大分慣れた?」
「そうですね。まだ解らないことも多いですけど、先輩とか友達とか色んな人に優しくしてもらえて、すごく良いところだなって思ってます。もちろん今回の旅行も」
「あやぁ。そンた風に言ってもらえて、良がったなや」
満面の笑みを浮かべた勝枝が「ああそう言えば」とばかり、何かを思いついたように手を叩く。
「ところで今年来たってことだば、初めて見るでしょ。来週の花火」
そうです、と真由は頷く。毎年八月第四土曜日に開催される『大曲の花火』。多くの人から聞かされたそのスケールの大きさと賑わいぶりを、真由はこの夏初めて経験する。果たしてそれはどれほど凄いものなのか。みんなの語る目いっぱいの感動と興奮というものを、自分もちゃんと味わえるだろうか。そういった期待の念に胸をときめかせつつ、真由は近付く期日を以前から心待ちにしていたのだった。
「楽しみにしててけれな、他県がら来たお客さんがたも『日本一の花火だ』どって、毎年毎年見に来るぐれえだもの。見でおけば一生の宝っこンなるよ」
「はい、今からすごく楽しみです」
「へばまた今度。こンたボロっちい
ありがとうございます、とていねいにお辞儀をして勝枝と別れ、真由はバスへと向かう。またいつかきっと来たい。そう思わせる温かみを、勝枝の笑顔と言葉は確かに有していた。
トランクスペースに旅行用バッグを収納してからバスに乗り込むと、二人掛けのシートの大半は既に仲の良い子同士で占められていた。そんな中、一人ぽつんと窓際に座った奈央が、ただ静かに海辺を眺めていた。
「今日もよろしくね、奈央ちゃん」
「あ、真由ちゃん。うん、よろしく」
真由はあえて奈央の隣を選び、そこへ腰掛ける。それは真由なりのせめてもの気遣いでもあった。私はあなたの異変になんか気付いてないよ。だから今日のあなたには何も触れないよ。そういう無害な態度で接することが今の奈央にとって、幾ばくかの安らぎになるのなら。
「全員乗ったな。へば、しゅっぱーつ」
軽やかに警笛を鳴らし、バスがゆっくりと動き出す。後はこのまま大曲へ帰るだけ――かと思いきや、民宿から歩いて来ることさえできそうな程の短距離で、杏の父は近くの駐車場へとハンドルを切った。
「せっかくなんで、帰る前にちょっと寄り道していぐど」
どこへ? と思う暇も無いまま駐車場でバスを降り、真由たちはぞろぞろと連れ立ってつづら折れの坂道をのぼる。そこを越えたすぐ目の前ににょっきりと、薄白いコンクリートの建物が顔を出した。
「あれって?」
「ああそっか、真由は知らねえか。水族館なんだよ、ここ」
そうそう、と後ろにいた日向も真由とちなつの会話に混ざってきた。
「秋田の小学生はみんな、遠足とかで一回はここ来んだよなぁ。あん時は魚なんて大して興味も無がったがら、館内見て回っても『へー、ふーん』って感じしかしねがったけど」
「あれって春の遠足だっけ、それとも秋だっけ?」
「春。ちなつの隣さ座ってた男子がバス酔いしてさ、途中にあった土産屋の駐車場んとこでゲエゲエやってたんだけど、そん時に小脇さ咲いてたスミレ見っけて『キレイだなー』ってちなつと話してたの覚えてる」
「そんなんあったっけ? 良く覚えてんな、ヒナ」
先輩二人の談笑を聞いているフリをしながら列に連なって歩き、岩礁を模した入口広場を通って館内へと足を踏み入れる。エントランスホールの奥一面に覗く巨大水槽、その中ではいかにも水族館らしく、気持ち良さそうにすいすい泳ぐ大小様々な魚たちの姿が見受けられた。
「へば、今から二時間は自由行動です。ぴったし二時間後にまたここさ集合で。遅刻した人は容赦無ぐ置いていきますんで、くれぐれも時間厳守でお願いします」
「はい!」
入場ゲート前で集団の輪はいったん解散となった。ほどなくして数人ずつがグループを作り、何見よう、あっち行かね? などと打ち合わせを始める。バスでもペアなのだし、自分は奈央と回ろうかな。そう思って真由が声を掛けようとした時には既に、奈央は杏らトランペットパートの一同に連れられ入場ゲートの奥へと向かってしまっていた。
「真由は誰かと回んねえの?」
と、そこにちなつが声を掛けてくる。どうしようか。真由が迷うそぶりをしていると、ちなつの背後からひょっこりと日向が姿を現した。
「へば今回は、私らが黒江っちを案内してあげっか」
「んだな。真由はここ初めてだし、どこ見ていいか分がんねえまま一人でうろつくのもつまんねえべしな」
「じゃあお願いします。すみません、先輩方にご迷惑お掛けしちゃって」
「迷惑だなんて思ってねえよ。ま、たまにゃあ先輩風も吹かせませんとね」
「そんな。私、いつだって先輩たちのこと尊敬してますよ」
苦笑しながら小首を傾げてみせた真由に、ぅおぅ、と日向が胸を押さえて呻く。
「やべえ、黒江ちゃんのそれやべえ。破壊力が強すぎる」
「破壊力って、どういうことです?」
「天然ジゴロってこと。黒江ちゃん、さては自覚なしか?」
「自覚も何も、ジゴロっていうのがまず分からないんですけど」
「良いがら、もうやめてあげて真由。これ以上やられたらヒナが悶絶死しちゃう」
二人の言っている意味が良く解らない。とにかく行くべ、と慌て気味のちなつたちに連れられ、真由も入場ゲートをくぐった。
日向らの解説によると、二〇〇四年に内外装を改修しリニューアルされたこの男鹿水族館、その最大の目玉は真っ白な体毛に覆われたホッキョクグマの親子なのだという。つい最近になって一般公開されたというクマ一家の姿を見るためか、まだ開館から間もない時間だというのに館内には多くの先客が訪れていた。
「おわー、カラフルな魚ばっかし。久々に来たけど、ここってこンたに色んな種類の魚いたんだっけか」
「入れ替えとかで新しいヤツ増えてんのかもな。おっ、あのでっけえヤツ、父ちゃんが良く釣ってくるヤツだ。こっちはハタハタ。やっべえ、なんか鍋食いたくなってきたな」
「そういう目で見んなって。ここ生け簀でねくて水族館だべ、真由も引いてらど」
「いやその、べつに引いたりとかでは。ああっとちなつ先輩、あっちに綺麗な魚いますよ、ほら」
館内にいくつもしつらえられた水槽には、真由の良く知る海の生き物もいればそうでないものもいる。マダイ。シマフグ。ウミガメ。ペンギン。それら一つずつを眺めながら練り歩き、真由たちはマンボウの展示スペースへと差し掛かる。覗き窓みたいに小さめな水槽の只中で、上から糸ででも吊っているかのようにぴたりと動かないマンボウは、その黒いまなこで何かを訴えかけるようにじとりとこちらを見つめていた。
「何かすごいなコイツ。この存在感というか」
水槽のガラスを指でツンツンとつつきながら、ちなつが眉をひそめる。
「こうやってプカーって浮かんでて普段、どンたこと考えてんだべな」
「ハラ減ったー、メシくれー、とか?」
「それはあり得る」
日向のもっともらしい見解にちなつは一度頷き、けどさ、と言葉を紡ぐ。
「それかもしかして、こんな狭いところ嫌だー、広い海に返してー、なんて思ってたりすんのかもな」
そう言われると、マンボウのどんよりとした瞳の奥にはそのような感情が宿っているようにも見えてくる。何となく申し訳ない気持ちになりつつもその場を離れ、次の展示スペースへと移った真由たちを待っていたのは、ふよふよと水槽の中を漂うたくさんのクラゲたちだった。
「わあ、きれい」
思わずそんな声が出てしまうほど、色鮮やかなクラゲたちが水中のおぼろげな光源に晒すその姿は、えもいわれぬ不思議な美しさを保っていた。しばし見とれ、それから反射的にカメラを探した真由はしかし、こうした場所での写真撮影はいかがなものかと思いとどまる。
「何、真由ってクラゲ好きなの?」
「好きってほどじゃないんですけど、何となく、見ててきれいだなって思って」
「はぁー。私にゃ良く分かんねえけど、美的センスのあるやつが見ればそんなもんなんだべか」
「ちなつは美術の成績、あんま良くねえもんな」
「うっせえ。ヒナだって似たようなもんだべ」
「なんだとコンニャロ」
やいのやいの言い合う二人を尻目に、真由はただじっとクラゲを見つめる。当然と言うべきか、クラゲは何も応えてくれない。大海原の潮流に逆らうこと無く、その身を任せて一生を漂うクラゲ。彼らの生きざまに何となく、真由は親の都合で転校を繰り返す己の姿を重ねてしまう。
果たして彼らはままならぬ我が身の運命に何かを想うことがあるのだろうか。それとも単に流されることを楽しんでいるだけなのか。自分は自分の半生を、どんなふうに捉えているのか。そんな思いを抱く自分がちょっぴり感傷的に過ぎることを半ば自覚しながらも、真由はしばらくその場から離れられぬままでいた。
「ほらほら黒江ちゃん。次さ行ごー。ちょうど今出てきたとこだって、シロクマの赤ちゃん!」
日向の大きな呼び声ではたと我に返る。行かなくちゃ。名残を惜しみつつも、真由はクラゲの水槽からそっと離れた。
それは旅行から帰ってきた、その夜のことだった。
「花火のとき、部活のみんながうちに来たいだって?」
「うん……」
驚きの声を上げた父は、飲み掛けていたビールのグラスをいったんテーブルへ置いた。その芳しくない反応にグラスよろしく冷や汗をかきつつも、真由はおもむろに頷く。
『今年の花火もみんなして観に行くべ? ちーちんもヒナちんも』
帰りの車中、この件を最初に切り出したのはやはりと言うか、この手のイベントが好きそうな杏だった。
『別にいいけど、今年はどうすんの。去年まで集まってた
『そっかー、しまった。アタシらん家じゃ河川敷から遠いしなぁ』
『俺ん家も会場さ行くってなると、歩きで一時間近くは掛かるっす』
『どっか良いトコねえかな。最悪、現地集合現地解散にする?』
『前それやろうとして、家さ帰れねぐなった先輩が補導されそうになったべ。さすがに危ねえよ』
『アタシらも内申に響くのはマズイもんなー。うーん』
『そう言や黒江ちゃん、前に言ってねがったっけ? 今住んでる家、会場から近えって』
『え、それってマジ? 真由ちん、あの辺さ住んでんの?』
『私の記憶によればだけどな。歩いて十分も掛かんねえんでねえかな、あそこからだと』
『それ最高の立地じゃん。ねえ真由ちぃん。もし良がったらアタシら、花火の晩げにちょこーっとだけおジャマさせてもらいてえなー、なんて』
『いやいや待てって、ヒナも杏も。そんなんしたら真由ん家さ迷惑掛かるべ』
『えーでもぉ、仲間同士で過ごす時間って大事だしぃー。それにアタシ、花火と関係なしに真由ちん家さ遊びに行ってみたいって前から思ってたしぃー』
『猫っ被りして見え透いたウソつくのやめれって、杏。オメエってヤツはホントよぉ』
『お、俺も先輩ん家に行ってみたいっす。いやヘンな意味でねくて』
『石川っちがそンた顔して言ってっと、ますますヘンな意味にしか聞こえねえんですケド。んでも、正直言えば私も黒江ちゃん家には興味あるかな。話に聞いた限りじゃ親御さん、めっちゃくちゃ良い人っぽいし』
『どうせならさ、真由ちんも私らと一緒に会場まで花火観に行こうよ。みんなでまとまって行動すっから迷ったりしなくて良いし、それにやっぱ会場で観る花火って格別だかんね。遅くなる前には引き払うからさぁ。ねえ?』
「……という訳なんだけど」
仔細を一通り真由が説明し終えると、ふむ、と父は眉間へしわを寄せた。
「まあ何かって時の避難所って意味でも、うちへ来ること自体は別に構わないんだが。ただうちはこの通り広くないし、あまり大人数だと入らないな。何人くらいの予定なんだ?」
「今のところは六人、かな。もしかして後から増えたり減ったりするかもだけど」
候補を指折り数えながら、真由は父の問いに答える。
「六人なら何とか、ってところか。でも大したおもてなしも出来ないぞ。本当に良いのか?」
「良いじゃないの、あなた。みんなでお祭りに出掛けるのって楽しいものだし」
「しかしな、俺も母さんもここの花火大会は初めてだろ? 俺たちが一緒についていくとしても、もし会場で子供たちとはぐれでもしたら」
「それは却って子供たちの方が詳しいんでしょうし、もう中学生なんだから任せてあげてもいいんじゃない? 下手に大人が出しゃばらなくたって、遅くなる前にはちゃんとみんな家に帰る、ってことだけ約束してもらえれば」
「だけどなあ……うーむ」
心配性の父がああだこうだ言う一方で、母は一貫して肝の据わった見解を述べている。思えばこういう時、母はいつだって真由の味方をしてくれた。それが年頃の娘に対する同性の親ならでは共感ゆえなのか、それとも娘の人生における様々な体験を応援したいという純粋な親心からのものなのか、真由にはまだ分からない。
「それに真由だって、先輩たちと一緒に近くで観てみたいでしょ? 花火」
そう母に問われた時、本心を抉り出されたような気がした。みんなと一緒に楽しみたい。素敵な時間をひとつでも多く共有したい。それはちなつと屋上で語らったあの日からずっと、真由が強く願ってきたことだったから。
「観たい」
真由のその言葉に、それまで悩ましげだった父もとうとう観念したみたいだった。――危ないことだけは絶対無いようにな。ふう、と息を吐いた父は、渋々ながらも承諾の意を示してくれた。
大曲の花火。それは『全国花火競技大会』という正式名称からも分かる通り、全国から集う花火職人たちの技を審査し優劣を付けることを主旨とした、いわば花火界のコンクール全国大会である。世の中に著名な花火大会は数あれど、競技として花火を打ち上げる大会は全国的にも僅か二つしかないらしい。たった一夜のこの催しに日本中からは花火好きが集い、そして夜空に描かれる炎と煙の美技に酔いしれるのだそうだ。
それの証左であるかのように、正午を過ぎてからこっち、通りを歩く観覧者と思しき人々の流れは次第にその勢いを増しつつあった。大会の本番は夕方以降だというのに、お昼のうちからも数え切れないほどポンポンと、花火の音が街中に鳴り響いている。さらには会場へと向かう通りのあちこちに屋台が軒を連ね、そこから漂う香ばしい焼き物の匂いがこれでもかと嗅覚を通じて胃袋を刺激してくる。普段の落ち着いた雰囲気とはうって変わって、祭事の気分に浮き立ち活気溢れる街の様相。それらは成る程、いつぞや水月が言っていた通りのものだった。
「今年の来場は何人ぐらいになんのかな。去年で七十万とかだっけ?」
「確かそんくれえ。なんか年々増えてるっていうよな」
「ホントなんだか怪しいけどなあ。っていうか何とやって数えてんだべ、そんだけの人数」
「あれでしょ、双眼鏡片手にかちかちカウンター押してさあ」
「日本野鳥の会?」
「それそれ。そうでもさねえばウン十万なんて数、数え切れっこねえべ」
「でもよ、それやったら重複する人とか出るんでねえ? 絶対十万くれえはサバ読んでるって」
「会場見れば、そんくれえの数は余裕でいるって気もするけどなあ」
こんなふうに先輩たちがわいわい語るのを小耳に挟みつつ、真由は先立って家までの道を歩いていた。待ち合わせ場所に指定された近所のイベントホール前、そこに集ったのはちなつ、日向、雄悦、泰司の四名。杏と奈央は何やら所用で遅れるらしく、真由の家に直接赴くとの事だった。そんな彼女たちのため、真由はゆうべのうちに自宅周辺の見取り図を書いたメモを渡してある。地元に暮らして長い杏と奈央であれば、あれさえあれば道に迷うということは無いだろう。
「黒江先輩ん家ってどんなトコなんすか? やっぱ総二階のガレージ付きとか、庭で犬飼ってるとか?」
「いや、うちは転勤族だし、そんなすごいところには住めないから。アパートって言ったらそんな感じなんだけど、一応はお父さんの勤め先の社宅、みたいなことになるのかな」
「そうなんっすか。アパートなのに社宅って何かすごいっすね、どんなトコなのかチョー楽しみっす」
「石川っちぃ、はしゃぎてえのは分かんだけどさ、言ってることが支離滅裂んなってるど」
日向のツッコミに「ぐぇ」と泰司が喉を詰まらせる。こうして皆が楽しく賑わっている中、雄悦だけはどうしてか、ちょっぴり浮かない様子だった。
「どうした雄悦、なんか顔色悪りいぞ。もしかして、たったここまでの歩きでもうバテてんの?」
「んなわけ無えべ。てかヒナ、どんだけ俺のこと虚弱体質だと思ってんだよ」
「どんだけも何も、家から学校までたかだか何百メートルのランニングでひいこら言ってるぐれえだしねぇ」
冷やかしめいた日向の物言いに雄悦がギリリとほぞを噛む。せっかくの祭日なのだし、険悪な空気になるのはやめていただきたい。と、そこでちょうど、向こうに真由のアパートが見えてきた。あそこです、と指を差して話題を逸らすと、不機嫌そうにしていた雄悦もはたとそちらへ目を向ける。
「思ってたより、なんつうか、普通っすね」
「どんな想像してらったのよ。アパートだ、ってさっき真由が言ってらったべ」
どこか呆然としている様子の泰司にちなつが呆れ顔を向ける。共用階段をあがり玄関のドアを開けると、そこでは母が出迎えのために待ってくれていた。
「ただいま」
「おかえり真由。そちらの皆さんが、吹奏楽部の?」
「うん。この人がいつも話してる、私の直属の先輩」
真由が手で示すと、ちなつがやや畏まったような表情をして一歩前へと進み出た。
「初めまして、吹奏楽部部長の荒川ちなつです。いつも真由さんにはお世話になってます。今日はよろしくお願いします」
皆を代表してあいさつをし、ちなつが丁寧にお辞儀をする。母はそれに「こちらこそ」と朗らかに応じた。
「真由がいつもお世話になってます。狭いところで申し訳ありませんけど、今日はゆっくりしていらして下さい」
「そんな。私たちのほうこそ大人数で押しかけてしまってすみません。お約束通りご迷惑が掛かるようなことはしませんので、どうかご安心下さい」
真由の母と面したちなつの物腰は何というべきか、対大人のやり取りに場慣れしているといった雰囲気を帯びていた。後になって気付いたことだが、この時のちなつは普段の訛り口調でなく標準語で話すなど、秋田の文化にまだまだ疎い母に合わせた気遣いの姿勢をも覗かせていた。それももしかしたら彼女の育ってきた境遇によるところが大きいのかも知れない。やや大人びたちなつの畏まりぶりを解きほぐすように母がにっこり微笑むと、安堵を得たちなつもまたその表情をホツリと緩める。
「会場に行くのは確か、七時前ぐらいだったわよね?」
母の問いに、そうです、とちなつが頷きを返す。
「もうすぐ昼花火が始まるんですけど、私らはそれが終わった後の夜花火から会場で見るつもりなので」
「お夕飯も屋台のものだけじゃ足りないでしょう。お口に合うか分からないけど、軽くつまめるものを用意しておいたから、もし良ければ食べてってちょうだいね」
「いいんですか? お邪魔させていただく上にご飯までなんて」
「もちろん。せっかく用意したんだし、食べてくれた方が嬉しいわ」
母の快い言葉に、ちなつたちは「ごちそうになります!」と元気に頭を下げる。
「本当にすみません、何から何までお気遣いいただいて」
「いいのいいの、私も好きでやってるだけだから。さあ、どうぞ上がって」
はい、と返事をした一同がぞろぞろと敷居を跨ぐ。引っ越してからこっち、家に招き入れたことがあるのは早苗を始め幾人かのクラスメイトだけ。普段は部活の場で共に過ごす人たちがこうして我が家にいる光景というのは、なんだか不思議なくすぐったさを覚えるものがある。
「いいお母さんだな、真由」
玄関で靴を脱ぐとき、ちなつは真由にそう耳打ちをした。ありがとうございます、と返す真由に、ちなつがむっくりとした笑みを浮かべる。彼女が見せたその表情には、久方ぶりに触れた母性のぬくもりを噛み締めているかのような質感があった。
「すげえ……いいにおいっす……」
「あっちゃあ。石川っち、完全に夢の国に旅立ってるわコレ」
「でも、確かにいい匂い」
「そうっすよね荒川先輩。ヤッバイっす、俺いま猛烈に感動してるっす。黒江先輩ん家のにおい、最高っす」
「いや、私は料理の匂いのことを言ってんだけど……家って?」
どうも今ひとつ噛み合わぬ会話を背にしつつ、真由は皆をリビングへと案内する。食卓にはエビチリやら唐揚げやら、母お手製のオードブルがところ狭しと並んでいた。その一部には真由がお手伝いしたものもある。
「おわー、どれもこれもすんげえ美味そう。ヨダレが止まらん」
「こらっヒナ、行儀悪いこと言わねえの」
「母ちゃんみでンたこと言うなよ、ちなつぅ」
その軽妙な掛け合いに、真由はつい笑ってしまう。そしてそこではたと気付いた。一口に母と言っても、そこには様々な意味合いが存在している。ママみたい、と誰かに言われることは、傍から見れば大して気にするようなものでもないのかも知れない。そうと思ったときにほんの少しだけ、真由の心は軽くなった。
「やあ、どうもどうも皆さん。私が真由の父です」
皆が食卓についたタイミングで、トイレかどこかに行っていたらしい父がひょっこりとリビングに姿を現した。「お邪魔してます」と頭を下げたちなつに父はやたら改まった最敬礼を返す。祭日だからと昼過ぎから一人お酌を始めていた父は、まだ日暮れも迎えぬうちからすっかり酔っぱらってしまっていた。
「皆さんが遊びに来てくれて、ボクも本当ぉーに嬉しいです。どうか今後ともうちの真由を、黒江真由をよろしくお願いします」
「ちょっと、やめてお父さん。それはさすがに恥ずかしい」
「そうよあなた。選挙に出馬するわけでもあるまいし」
母の容赦ないひと言に、ブッ、と日向が噴き出す。直後にちなつのチョップがいい角度で日向のこめかみを捉え、「あぎゃっ」ともんどりを打った日向はそのまま床に倒れ伏した。
「もう、お父さんたら。ほらほら、この人の事は気にしないで、皆さんどんどん召し上がれ」
「じゃあすみません。お言葉に甘えて、いただきます」
「いただきます!」
わいわいと賑わいつつ、各々が小皿に料理を取っては口に運んでいく。うめー、すげー、という声があちこちからこぼれる中、真由もまたサンドイッチと母の作ったベーコンのチーズ巻きを自分のお皿に取り分ける。母に教わりながら作ってみた、ハムと玉子のサンドイッチ。照れくささからあえて皆には言わずにおくことにしたものの、果たしてその売れ行きはいかばかりだろうか。
「これ、めちゃくちゃ美味いよ。これ作んの真由も手伝ったの?」
「はい、まあ。ほんのちょっとだけですけど」
ちなつへの返答として、真由は指でその度合いを示してみせる。それは謙遜でも何でもなくただの事実だった。母の料理好きは筋金入りで、自分などは逆立ちしたって勝てそうもない。真由は常々そう思っている。
「やばいわー、ホントやばい。こんな美味えもん毎日のように食えんだったら私、将来黒江ちゃんに嫁ぎてえ」
「無理だべ。っていうか楽すること
「それが出来たら苦労しねえよぉ。それに私は、人に作ってもらったものを美味しく食べることに自信がある!」
「後輩の前で堂々とダメな宣言すんなっ」
「あぎゃっ」
ちなつたちのプチ漫才をよそに、男子二人は黙々と目の前の皿に盛った料理を口に運んでいる。特に恍惚の表情を浮かべたままでサンドイッチを頬張る泰司などは、もはや無我の境地とでも言えそうな具合だった。
「美味えっす……美味えっす……最高っす……」
何がそんなに最高なのか良く判らないが、ともあれ真由手ずからのサンドイッチも、泰司のお気には召していただけたらしい。そのことには内心感謝しつつも、真由は唐揚げの刺さったミニフォークを口元へと運ぶ雄悦の様子をちらと窺う。食べることは食べているが、どこか気もそぞろといった按配で、彼はさっきからしきりに玄関の方を見やっていた。
「どうかしたんですか、雄悦先輩」
「うん、いや、べつに何も」
「ひょっとして料理、あまりお口に合いませんでしたか?」
「何いー、ナマイキこくなよ雄悦。せっかく黒江ちゃんとお母さんが腕により掛けて、こんなご馳走作って
「んでねえって、大したことじゃねえがら。日向もいい加減なこと言うなで」
「大丈夫ですよ日向先輩。雄悦先輩もこう仰ってますし、たぶん私のカン違いです」
そう言って日向をなだめつつ、真由はひっそりと確信を抱く。雄悦が気を揉んでいるのは料理のことではない。というより料理の味などきっと、今の彼にはどうでも良いことなのだ。雄悦の関心を占めるもの。それはもうすぐここへやって来る。
ピンポーン。
「お、来たかな?」
呼び鈴の音に、来訪者を予見したらしきちなつが立ち上がろうとする。いいです先輩、と彼女を制し、真由はぱたぱたと玄関に向かった。
「おばんですぅ。小山ですけど、真由ちんのお宅でしょうか?」
「はい。今開けますね」
ノブを回して扉を開ける。そこに立っていたのはTシャツにホットデニムと、いたってラフな格好をした杏だった。何に使うつもりなのか、彼女は己の胴回りほどの大きさがあるバッグを肩に担いでいる。そして、
「うわ……」
杏の後ろに立つ奈央、その装いを一目見て、思わず真由は息を呑んだ。薄紅色を基調とした可愛らしいたんぽぽ柄の浴衣と、機能美に優れる扁平型の小町下駄。くるりとアップにした後ろ髪を留める、桜の花をあしらったかんざし。帯にはきちんと団扇までつけてある。元が華奢な分、和装姿の彼女はまさしく大和撫子と形容するに相応しいあでやかさだった。少し上気した頬に掛かった横髪をスウと指で掬うその仕草には、こう言っては失礼に当たるのかも知れないが、日頃覗かせぬ色香すら漂っている。
「ごめん真由ちゃん。これの着付けさ、思いのほか時間掛かっちゃって」
「で、奈央ちんに付き合って一緒に来たからアタシも遅れちった。みんなは?」
「もう中に入ってます。ご飯も用意してあるので、先輩たちもどうぞ」
「やったー! ちょうど腹ペコでさ。途中の屋台でなんか買おうかなって散々迷いながら、ンでもガマンしてここまで来たんだよ。ただでさえ遅れて行くのに道草食ったらみんなに悪いと思ってニャー」
おじゃぁしやぁす、と砕けた調子で杏がドタドタと室内へ上がり込む。それを見送ってから、真由は奈央へと視線を移した。浴衣を着慣れていないからなのか、それとも何かを懸案しているのか、奈央は玄関のところに突っ立ったままでもじもじするばかりだった。どうぞ、と追って声を掛けても、奈央はその場から動こうとしない。
「あ、あのな、真由ちゃん、その」
「どうしたの?」
「えっとな、これどう思う? 私の浴衣姿、ヘンでねえ?」
なるほど、奈央が気にしていたのはそれだったのか。くすりと笑い、そして真由は思ったままのことを正直に伝える。
「すごく綺麗でびっくりしちゃった。奈央ちゃん、浴衣似合うね」
「ホント? お世辞とかでねくて?」
「もちろん。普段の元気な奈央ちゃんも良いけど、今日の奈央ちゃんもお淑やかな感じがして、とっても素敵だよ」
「……良がったぁ」
安堵と恥じらいをない交ぜにしたみたいに、奈央は顔をうっすら赤らめた。自らが不安に思うほど渾身のおしゃれ、彼女はそれを果たして誰に見せるつもりであったのか。――そんなことは問うまでもない。からころ、と下駄を鳴らしながら玄関へと立ち入った奈央の手を、真由はただそっと優しく導いた。
皆で夕食を食べ終えた後は出発までの間、真由の自室で時間を潰すこととなった。入室するなり「おおおお……」と良く解らない感嘆のような声を洩らした泰司のことはさて置いて、日向や杏はさっそくとばかり真由のお部屋チェックに興じ始める。
「思ってたより物が少ねえっつうか、広々してんね。もしかして黒江ちゃんってミニマリスト?」
「そんなじゃないです。ただうちって引っ越しが多かったもので、使わないものは段ボールに入れてしまっておくことが多くて」
「本棚も参考書とか問題集以外には、音楽関係のヤツばっかー。真由ちんって漫画雑誌とかファッション誌とか買わないの?」
「そういうのにはあんまり興味が無くて。ファッション誌も、たまに読むぐらいです」
「ダウト! それぜーったいダウト!」
「うるせえ杏、ちょっと落ち着け」
いつもの如く跳ね回ろうとした杏を、日向が手短に諫める。何せ六帖しかない真由の自室。いくら家具が少ないとは言え、真由も含めれば総勢七名にもなる大人数を一度に収めるには少々どころでなく窮屈だ。こうした事情から一同は入れ替わり立ち替わりで起き伏しを繰り返し、時には真由のベッドをもソファ代わりにするなどして、各々の過ごすスペースを確保していた。
「おおっ!」
と、机の本立てに目を留めたちなつが、いくぶん興奮したように唸りを上げる。
「これ、やっぱ真由も持ってたんだ。『たのしいユーフォニアム』」
「あ、そうです。もしかして先輩もですか?」
「もっちろん。ていねいにユーフォの吹き方解説してくれてるし、小学校の頃はずいぶんお世話んなったよ。他にも教本はいろんなの買ったけど、これだけは今でもたまに読んでるってぐらい」
「私もです。ユーフォ吹いてる子って、最初は大抵これですよね。解りやすいけどすごくツボを突いてるっていうか、ユーフォを吹く上でいちばん大事なことが書いてあるような気がして。ときどき初心に返るつもりで読んでます」
「これ書いた進藤さん、演奏もすげえ上手いんだよな。真由も聴いたことあると思うけど」
「もちろんです、CDも何枚か持ってます。せっかくですし、いま流しますか?」
「気ぃ利くねえ。さすが真由」
お褒めの言葉に恐縮しつつも、真由はいそいそと戸棚から『Euphonium』と書かれた一枚のCDを取り出す。青を基調としたシンプルなパッケージを飾る白銀のユーフォは自分の愛器と同じ型番、同じカラーリングだ。楽器購入の際にそれを意識したという訳ではなかったのだが、このパッケージを目にしたときには心底驚いたものだった。憧れの奏者と同じ楽器を使っているのかも知れない。そう思って飛び上がりそうになるほど嬉しかったのを、真由は今でも昨日のことのように覚えている。
再生のボタンを押すと共にスピーカーから流れ出る、豊かで抑揚の利いたユーフォの美しい音色。それをじっくり噛み締めるように、ベッドの上のちなつは目を伏せ聴き入っていた。
「ああ、やっぱ良いなあ。進藤さんのユーフォ」
そんなちなつのことを、日向が少し哀しげに見つめている。きっとちなつのこういう姿を、日向は何度も何度も見てきたのだろう。だからこそ彼女はちなつの本心を知り、そしてちなつの進みゆく道を『勿体ない』と思っている。それを知っている真由もまた、今は日向と同じような気持ちだった。
「他にも進藤先生のソロ演奏集とか、トランペットとのデュオ音源もありますよ。先輩さえ良ければお貸ししますけど」
「マジ? どうしよっかな、うーん」
腕組みをして悩むちなつに、プレイヤーなら私が貸すで、と日向が気前良く胸を叩く。『姉がいる』と言っていた日向の家にはひょっとして、こういった音楽機材の類もそれなりに置いてあるのかも知れない。
「へば今度頼もうかな。今日はこのあと会場行くし、もしどっかに置き忘れたり壊したりしたらいけねえから」
「分かりました。じゃあ明後日、学校でお渡しします」
真由のその一言に、明後日? と間の抜けた声を上げたのは泰司だった。
「明後日って、何かありましたっけ?」
「えー石川ちん、そりゃちょっとトボけ過ぎでしょ。明後日からはもう休み明け、二学期開始だよ」
「え。うわ、うわ、やべえすっかり忘れてた」
杏の指摘を受けた泰司の顔色が、途端にさあっと青ざめていく。彼のそんなただならぬ様子を、目ざとい日向は見逃さなかった。
「やべえ、って石川っち。まさか宿題でも残してんの?」
「ぅえ、っと、まあ。ちょっとだけ、っすけど」
「ちょっとってどんくらいよ」
「いや、それは、そのう」
「いいがら男らしくハッキリ言え」
「はっはいっ。国語の課題が丸々と、英語、数学が半分ぐらい。……それに、他の教科も同じぐらいっす」
「オメエそれ、全然やってねえじゃん!」
やべえどころの騒ぎでねえべ、と一同が大爆笑する。その賑わいの合間に真由はふと、部屋の隅でひざを折って座る奈央と、その傍らで周囲に話を合わせるフリをしていた雄悦を交互に見やる。チラチラと雄悦に目線を送る奈央。それに対し雄悦は、彼女の浴衣姿に何一つとして触れようとはしなかった。
それから小一時間ほどが経ち、茜色の夕空が濃い紫紺へと塗り替わる頃。
『……会場にお越しの皆様に、大会本部よりお知らせがあります。間もなく夜花火の部を開催いたします。開会に先立ちまして、大会委員長よりごあいさつがございます……』
黒江家を出発し、本日の会場である雄物川河川敷へと移動した真由たちを待っていたのは、人混みなどという言葉さえ生易しく思えるほど圧倒的な群衆の大洪水だった。一キロメートル以上も伸びる河川敷の一面には巨大な桟敷席が築かれ、その背後を飾るように無数の屋台が軒を連ねる。暗闇の中でも視程を確保できるようあちこちに設けられた電飾が煌々と、まるで夜空を彩る星々のようだ。その合間を忙しなく移動する人々はさながら海中の魚群のごとく、互いに押し合いへし合いしながら縦横に行き来している。そんな状況でも危険の無いよう、場内各所に配備された警備員たちは手に持った拡声器で、階段で立ち止まらないで下さーい、ゆっくり歩いて下さーい、とひっきりなしに声を掛けていた。
これが音に聞く大曲の花火。想像を遥かに超えるその壮大さに、真由はすっかり呑み込まれる。
「さて、こっからははぐれねえように注意しねえとな」
「どうする? みんなして手でも繋いで歩く?」
「小学生じゃあるまいし、そんなの恥ずかしくてやってらんねえべ」
苦笑に口角を歪めるちなつに、へばこうするべ、と杏は手を挙げた。
「前の人さピッタシくっ付いて、適当に落ち着けそうなトコ探そうよ。もし途中で誰かが居なくなっても、十分経って合流出来ねがったらここさ迎えに来るってことで」
「お。杏にしちゃあ名案じゃん、それ」
「ひと言余計だよぅ、ちーちん。アタシの頭脳はいつだって冴えてんの」
ぶー、とむくれる杏を「まあまあ」と日向がなだめすかす。そのとき雄悦は少し熱のこもった視線で、愛嬌振りまく杏のことをただじっと見つめていた。
「したら今の採用。とりあえずどっか落ち着いて観れそうなトコ探して、うろついてみるべ」
「おー!」
こうして一行は堤防道路の大階段を降り、会場へと足を踏み入れる。八月下旬とは言え、川岸から吹きつける夜風の温度は涼しいどころかもはや肌寒い、と表現した方が近かった。それでも歩いているのと場内の熱気のおかげで、今はさほど気にならない。お気に入りのワンピースの胸元をパタパタとあおぎながら、真由は辺りを眺め回す。
「真由ちん、人混み平気?」
「大丈夫です。けどすごく蒸れてて、ちょっと動いただけで汗かいちゃいそうですね」
「今は暑いと思っても晩げになれば冷えっからね。ちょっとでも寒いって思ったら、ちゃんと持ってきたパーカー着ねえばダメだよ」
珍しく杏が忠告を垂れる。それは家を出るちょっと前、ちなつ達にも指摘されたことだった。上に一枚羽織るもの持ってきな。そう言われて、真由はかさばらないミニバッグにカメラとパーカーを詰め込んである。ボトムスだって保温効果のあるダークグレーのレギンスだ。こうした対策を用意してあるのは他の面々もおおむね同じらしく、彼らはそれぞれ予備の上着をリュックに収納していたり、あるいは腰に巻くなどしていた。
「そういう杏先輩は平気なんです? けっこう薄着ですけど」
「アタシ? アタシは大丈夫。バッグん中さはスウェット上下、それでも足りない時用のブランケットまで完備です」
にひー、と自慢げに浮かべた杏の笑顔には、彼女に良く似合う八重歯が覗いていた。あの大きなバッグの内容物は全て防寒対策の品だったのか、と真由もようやっと合点がいく。
「雄悦ー、オメエ背ぇ高えんだから、誰かはぐれねえように後ろから見てれよ」
「分がってら」
最前線を歩くちなつの声に雄悦が手を振って応じる。手を繋ぐまではしないものの、一列になって歩く真由たちはそれぞれ前の人の服や裾、ベルトや肩などを掴んで隊列を保ちながら、来場者の波間をかき分けるように進んでいく。
「どこもかしこも人でいっぱいだなあ。これ去年より観客増えてるんでね?」
「ちなつぅ、まだ見つかんねえの?」
「本当に凄いですね。ここまで人手が多いなんて思ってませんでした」
「黒江先輩はクレープとたこ焼き、どっち派すか? もし良かったら俺、あとで買って来るっす」
「こらこら石川ちん。あんま他所見してねえで、きちんと真由ちんについてってよ。奈央ちんは足元だいじぶ?」
「こっちは大丈夫っス。ユウ先輩、ちゃんと付いてきてます?」
「……おう」
こんな調子で一団は、さながらムカデのように連なりじりじりと前進を続ける。都合数百メートルは歩いただろうか、やがてちなつが「お、あそこ良いかも」とたむろできそうな場所を見繕い、真由たちはようやっと観衆の本流から抜け出ることを許された。ぶはあ、と疲労の息をついた日向が、手に持っていたジュースのボトルに口を付ける。
「あーヤバイ。移動だけでなんかもう、今日のエネルギー使い果たした気分」
「でも、何とかオープニングに間に合ったな」
移動中に大口径のスピーカーから聴こえていた主催者挨拶の類も、いつの間にか終わっていたらしい。始まるで、とちなつに肩を叩かれ、真由は会場正面の上空へと目を向けた。開始を告げる号砲の花火玉が硝煙の螺旋を描きながらひゅるひゅると昇っていき、見上げた先の頂点で眩く爆ぜる。ズドン、という強烈な衝撃に、真由の体は芯から揺さぶられた。
「凄い。なんていうか、花火の音に包まれてるみたい」
「そこに一発で気付けるとは、さっすが黒江ちゃん」
そう言って、日向は打ち上げ場所である対岸のさらに向こう側、黒々とそびえ立つ姫神山の方角を指差す。
「あっちに会場を取り囲むように山並みがあるじゃん? それのおかげで、花火の音がこっちまで反響してくるんだって。ちょうど私らが演奏する時に使うホールみでンた形状、っつうことだね」
「こうやって実際に体感しながら説明されると、すごく納得です。詳しいんですね日向先輩」
「まあ半分以上、父ちゃんからの受け売りだけどな」
にっかりと笑った日向が再び空へと視線を送った。スピーカーから流れ出す柔らかいメロディに乗せて男性ボーカルの豊かな歌声が場内に響き渡り、それを開幕の合図として大玉の花火が次々と夜空へ打ち上げられていく。
――舞い上がれ、美しく、全ての祈りを、抱き締めろ……二度とない、パノラマを、あなたの瞳に、映し留めて――
「わあ、」
視界いっぱいに広がる大輪の花、花、花。赤く青く、時に花びらや蝶の形を取って、変幻自在に飛び出す火の粉が数々の模様を描き出す。風圧さえ感じる炸裂音がおなかに響き、それが脳天にまで達した瞬間ビリビリと、言葉にできない不思議な多幸感が体中を満たしてゆく。
間近で花火を見たことはこれまでにも何度かある。けれど、ここまで強い衝撃を受けたのはこれが初めてのことだった。桟敷席の向こう側が長大な滝のごとき仕掛け花火によって真っ白になるほど光り輝くと共に、オープニングセレモニーの締めを飾る数十発ものスターマインが連続で炸裂し、大太鼓を打ち鳴らした時のような振動が次々と全身を突き抜けていく。期待を遥か上回るその圧巻の大迫力に、会場中からは最大級の歓声と万雷の拍手とが惜しみなく注がれた。
「な、ここまで見に来て良がったべ?」
「はいっ」
日向に返事をした真由の声が興奮に上擦る。気付けば息を止め、夢中になって花火を観ている自分がそこにいた。
「けど、これで満足すんなよー。大曲の花火にゃあ『大会提供』っつうのがあってさ。今のが可愛く思えるってぐれえ、すんげえ花火がドカドカ上がるんだから」
「これ以上すごいって、ちょっと想像つかないです」
「んだったら、今日は黒江ちゃんの今まで知らなかった世界が開拓できそうだねえ。私もこんな活き活きしてる黒江ちゃん初めて見るし」
「活き活き、ですか?」
そう言われてぺたぺたと、真由は自分の顔を両手で探る。それを見た日向は愉快そうに含み笑いを漏らした。
「いつもはおっとり大人しいって感じだけど、今はメチャクチャはしゃいじゃって、楽しそうだで。サンタさんからすんごいおもちゃをプレゼントしてもらった小っちぇえ子どもみてえに」
本当にそんなふうになっていたのか、自分では分からなかった。だが今までにないほど高揚し、感動している、それは否定のしようがない。
「先輩たちは小さい頃からずっと、こんなにすごい花火を観てたんですよね」
「まあ、年に一度のビッグイベントだしな。小学生ぐれえの頃は単にお祭り楽しいーってぐらいにしか思ってねがったけど、最近になってやっと花火そのものが良いなあって思えるようになってきた、かな」
「そうなんですね。何だか私、解った気がします」
「解ったって、何が?」
「ここが、曲北がどうして、マーチングで強いのか」
音と光の芸術。それは花火の何たるかを端的に表す言い回し。この素晴らしさをこうして毎年のように体感してきた彼女たちの血肉には、音と動きを融合させた美を表現する、そういう文化が脈々と息づいているのだろう。奇しくもそれは入部式の日、まっさらな新入部員たちに向けて永田が語り聞かせた言葉と同じことだった。
『観た人の心を芯から揺さぶるようなものを作ること。それが出来なければ芸術じゃありません』
それを体現するものが、まさしく目の前にはある。当代最高峰の職人たちによる、火薬と音を用いた刹那の芸術。それを意識の底に刷り込んできた人たちにはきっと、目指すべきものが自ずから分かっているのだと思う。目標と目的。その明確な違いを理屈ではなく実感として、真由は自分の心と体に刻み付けていった。
「第ぃー、九ぅー、号ぉー」
「十号、
出番を告げる太く渋い男性の声が場内に轟き、その後に続けて花火の内容および演目を女性がアナウンスしてから花火が打ち上がる。このような形式で、大会の次第は矢継ぎ早に進められてゆく。
一括りに花火と言っても、こうして見ているとその形態は様々だ。ひたすらに大きいもの。二重三重と花の芯が折り重なったもの。弾けた火花がクルクルと回りながら飛び交うもの。動物やキャラクターの絵柄を象ったもの。そのどれもが見どころあって、筆舌に尽くしがたい。なかでも散り際にゆっくり広がり降りる『しだれ柳』の醸す余韻には、胸を焦がされるような思いさえする。
「第ぃー、十ぅー、三んー、号ぉー」
「十号、芯入割物、
「お、次は地元の会社だな」
ちなつが首を伸ばしたその隣で、どうにか花火のこの綺麗さを上手く写真に収められないものか、と真由は悪戦苦闘していた。夜間の花火撮影にはいろいろと調整を利かせられる方が良い。そう見越して今宵はデジタルカメラを持ち出したわけなのだが、どう設定をいじってもボヤけたような火の玉しか映らず、なかなかこの美しさを思うように捉え切ることが出来ない。そのうち調整を試みるのにも疲れた真由はカメラをミニバッグに戻し、肉眼のみで花火を楽しみ始めていた。写真帳には残せないが、心という名のフィルムにその一瞬一瞬は焼き付いている。きっとそれで良い。花火本来の楽しみ方としては多分、こっちが正解なのだ。
「……煙が晴れますまで、今しばらくお待ちください」
打ち上げ後にこのような女性のアナウンスが入り、杏が「あーあー」と少々残念そうな声を上げる。
「さっきんトコ惜しかったね。せっかくきれいだったのに、たかった煙のせいで花火埋もれちゃってて」
「しょうがねえよ。風とかの関係もあるべし、こればっかりはな」
ちなつが手のひらを上へと伸ばす。来たときには吹いていた微風も、いつの間にかすっかり凪いでいた。おかげで寒くないのは結構なことだが、とは言え肝心の花火が煙に埋没して丸っきり見えないのでは元も子もない、とは真由も思ったことだ。
「次の花火上がるまで少し時間掛かりそうですし、何だったら今のうちにジュースとか食いもんとか調達しません? 俺、ひとっ走り行って来るっす」
率先して腰を上げた泰司に「珍しく気が利くじゃん」と、日向が揶揄めいた誉め言葉を投げ掛ける。ちなつもまた、ぱんぱん、とお尻についた砂ぼこりを払いながら立ち上がった。
「泰司ひとりだと大変だべ。私とヒナも行くから、手分けしてみんなの分買ってこよ。お金は後でワリカンってことで」
「じゃあアタシらは、ここでお留守番!」
杏と奈央は持ってきたバッグを椅子代わりに『テコでも動かぬ』とばかり、どっかりと座り込む姿勢を決め込んでいる。もっとも、体躯の小さな杏がそこに占める割合は少なかった。そのほとんどは浴衣姿の奈央が窮屈な体勢で過ごさず済むように、という杏なりの配慮だったのかも知れない。
「何か食いてえもんある?」
「アタシ焼きそばー!」
「焼き鳥もあるといいかも。飲み物は、ラムネとかサイダーでもいいよな?」
「したら俺はお好み焼きの方さ行くっす。希望あれば、クレープでも何でも買ってきますよ」
用意の良いちなつは懐から取り出したメモに各々の希望を記し、そして担当区分ごとにちぎって渡していく。大まかな内訳としては泰司が粉物、日向が焼き物、そしてちなつがジュース類、という分担となった。真由を含めた残りのメンバーは揃って場所確保のための留守番係だ。
「へば行ってくるがら、杏たちは場所取りよろしくな」
「おねがーい」
人混みの中へと消えた三人を見送って、それから居残り組同士は部のことや学校生活のよもやま話など、しばし歓談のひと時を過ごした。その最中、真由はもぞりと腿をすり合わせる。夜も更け徐々に下がってきた気温と時おり感じる川風のせいで、少し近くなったみたいだ。中空に漂う煙はまだ少しそこに残っていて、次の花火が上がるまでには若干の余裕がありそうだった。
「すみません。私も今のうちにお手洗い行ってきます」
そう告げて立った真由のスカートを、杏がチョイチョイと引っ張る。
「真由ちん大丈夫? 一人でトイレ行ったりしたら迷っちゃわない?」
「トイレの場所は分かりますから。もしここに戻って来れなくなった時は、あそこの中央案内所の入口に立ってます」
「分がった、あんまり遅かったら誰か迎えに行かせるね。もうそろそろ大会提供の時間だし、
「はい。それじゃ行ってきます」
杏たちに見送られ、真由は人混みを掻き分けながらその場所を目指す。辿り着いた無数の仮設トイレの前には既に、大勢の人々が列を作り順番待ちをしていた。急ぎたいのはやまやまだが、鞍替えしたところで他所が空いているとも限らない。おとなしく最後尾に並ぶこと十数分。無事に用を済ませた真由は、来た道をそのまま遡って皆のところへ戻る……はず、だったのだが。
「あれ?」
ここだと思った場所には人影も無く、それどころか真正面の露店の配置も記憶のそれと全然違っている。途中までは合っていると思ったのに、どこかで道を一本間違えてしまったらしい。一度トイレのところまで戻り、そこからおぼろげな記憶を頼りに再び観覧場所までの道のりを辿ってみても、やはり同じところに出てしまう。おかしい。いや、迷っているというのがただの思い込みで、実は案外近くまで来ているのでは。そう思って必死に辺りを注視してみても、そのへんで留守番をしているはずの杏たちの姿は露ほども見当たらなかった。
どうしよう、迷子になっちゃった。ドンドン、と打ち鳴らされる花火が真由の焦燥感をいやおう無しに加速させる。あれだけ自信たっぷりに心配ないと豪語してみせたくせに、言った傍からあっさり迷ってしまうだなんて。さらに都合の悪いことに、焦ってあちこち彷徨ったせいで、真由は杏と約束した中央案内所の場所さえも良く分からなくなってしまっていた。こんなことなら会場見取り図の一つでも持って来れば良かった、と悔やんでも今さら後の祭りというやつである。
こうしていたって埒が明かない。どうにか会場全体を見通せるところまで行こう。そう思い立ち、真由はいったん堤防階段へと向かう。
「えっと、最初にあっちから来て、そこから流れに乗ってこっち側に進んできたから……あ、あそこだ」
高いところからなら位置関係の把握にはさほど苦労しない。現在地から筋二つ分ほどを挟んだ向こう側に『中央案内所』と大きく書かれた電光板があるのを、真由はあっさり見つけることが出来た。このまま下へ降りて大通りを道なりに進めば、杏たちのいる観覧場所へはすぐ辿り着けるはずだ。
うかうかしていると目当ての大会提供に遅れてしまう。急ごう。目的地を見定めて下り階段へ向かおうと思った矢先、どこからか聴こえくるその声に、真由はふと足を止めた。
「……何して、なんも言ってくんねえんッスか」
今の声は、ひょっとして奈央? けれど辺りを見回しても、それらしき姿は影も形も見当たらない。そもそもこの騒がしさの中で、どうやってあんなかぼそい声を聞きつけられたのか。ひょっとして幻聴だったのでは? と思い始めたその時、会場とは反対側に当たる堤防下の緑地に明るいたんぽぽ柄が一瞬揺らめいたのを、真由はハッキリと視認した。
そろりそろりと堤防を降り、近くの物陰に身を潜める。その位置からじっと目を凝らしてみると、少し離れた電柱の下に立つ女性の浴衣柄と全体的な雰囲気から、そこにいるのが間違いなく奈央であることが判別できた。いつになく真剣な表情を固める彼女の前にはもう一つ、背の高い男性らしき人影。暗がりのせいで風貌までは解らない。だがあの背格好は、もしかして。その正体を見極めるべく、真由は闇のど真ん中に向けて己の視覚と聴覚を可能な限り研ぎ澄ます。
「私、ずっと前から今日の花火、楽しみにしてらったんです。今日だけでねぐ、こないだの旅行んときだって。先輩といっしょに楽しい思い出いっぱい作れるんでねえがって」
堤防が天然の壁となって会場の音を遮ってくれているせいなのか、この距離でも奈央の声はやけにハッキリ聴き取ることが出来る。対する男性の方はぼそぼそと、声量を絞って応答しているみたいだった。何かを喋っているのか。沈黙を貫いているのか。そもそも二人の間で会話が成立しているのか。それさえも、ここからでは分からない。
「今日だって、私なりに精いっぱいおしゃれして、先輩の気持ちをちょっとでも動かせたらなって。――本当は分がってたハズです、先輩も」
「……松田」
低く、くぐもった男性の声。はっきりと聞き取れたそれはもちろん聴き覚えのある声だった。
「ですよね、ユウ先輩」
やっぱり。奈央が話していたその相手は雄悦だった。その状況にゴクリと、真由の喉が緊迫の音を鳴らす。
「もう一回言います。私、ユウ先輩のことが、好きです」
一息に奈央は言い切った。自分のことでもないというのに、真由は己の体がかあっと熱くなるのを感じる。けれど雄悦はそれに身じろぎ一つせず、それどころかこの状況を窮屈に感じているみたいに、何かを言い淀んでいる雰囲気さえあった。
「だけど、本当は私も分かってるんです。私のことなんかユウ先輩、全然見てねえってこと」
声を落とし、そして奈央がうな垂れる。彼女のそんな姿があまりにも痛々しくて、もう見ていられなかった。だと言うのに視線は勝手にそこへびたりとくぎ付けにされてしまい、瞬きさえもかなわない。
「だがらもういっそ、先輩の口からハッキリ言って欲しいんです。ユウ先輩が誰を好きなのか。何で私のこと見てくれないのか。それさえ言ってもらえたらきっと、私も、それで先輩のこと、」
諦められる。そんな言葉は、大会提供、という大音声の宣言にざらりと掠め取られた。最高潮に盛り上がった会場の熱気とは裏腹に、この周辺の空気だけがまるで真冬の夜空みたいに冷え切っている。スピーカーから流される重低音の大瀑布。夜空を彩る花火の閃光。そういう周囲の全てが今この場には何一つ影響をもたらさぬかのように、それはひどく静謐なひと時だった。
「本当に良いんだな。松田は、それで」
「はい」
決然と頷く奈央の手はしかし、ぶるぶると震えていた。顔にも血の気は無い。まるで処刑台に立った囚人のように、直後に迎えるであろう残酷な瞬間を必死に耐え忍ぼうとしているのが見て取れる。雄悦もまた覚悟を決めたのか、スウ、と小さく息を吸うような音が聞こえた。
もうやめて。奈央も雄悦も、どうか思い留まって。そう願う真由の想いは、けれど二人に届くはずも無かった。
その日、夜空に咲いた花火は、恋の砕ける音がした。