私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~ 作:ろっくLWK
デスクに座る永田が何かを思案しながら、器用に指でくるくるとペンを回す。ちなつと共に職員室へと来ていた真由は顔を伏せ、じっと沈黙を貫いていた。
「……困ったことになったなぁ」
ぱちん、とペンを紙の上へ置き、永田は深々と溜め息を吐く。ちなつもそこへ一度目をやり、そしてやるせなさに唇を噛み締めた。ペンが置かれた一枚のコピー用紙。そこには秋から始まるマーチングの練習に向けて組まれたコンテ、すなわち楽隊の動きを指定するための設計図が描かれていた。
彼らを悩ませるもの。それが起こってしまったのは、今からおよそ一週間ほど前のことだった。
花火大会の終わりと共に曲北は夏休み明けを迎えた。宿題の提出。級友たちとの久々の顔合わせ。始業式の日にやることは、どこの学校でもそう変わらない。
八月も間もなく終わりを迎え、九月に入ると学内では文化祭や修学旅行など各種行事に向けての準備が本格化してくる。運動部所属の三年生は大半が夏までのうちに引退を迎えたらしいが、文化部は芸術の秋よろしくこれからが勝負の季節、といったところだ。それは真由たち吹部とて同じ。目下のところでは今週末に迫ったコンクール東北大会に向け、その為の練習がいよいよ大詰めを迎える、まさに佳境とも言える局面だった。
「奈央って、今日も学校休んでんの?」
「んだらしいな。さっき杏にも聞いたけど、まだ体調不良だって」
パート練習の休憩中、楽器を下ろしたちなつと日向がそんな会話をしているのを、真由は譜面をなぞるフリをしながら聞き耳を立てていた。花火の夜に真由の自宅前で別れたっきり、週明けを迎えてからの三日間。奈央はずっと部活に、いや学校に姿を現さなかった。
「花火の日、なんかヘンなもんでも食って
「そんなワケねえべ、それ言うなら私らだって同じもん食ってたんだし。あたるんだば皆平等に、だべ」
「奈央と私らじゃ胃腸の出来が違うって可能性は無いんですかねぇ、ちなつさん」
「それ自虐と変わんねえからな。っつうか、しれっと私まで巻き込むな」
こうした会話を重ねているのは何も彼女らばかりではない。実は宿題やってなかった説、季節外れの風邪をこじらせた説、五月病ならぬ八月病説……部員たちはめいめい好き勝手な憶測を立ててはああでもないこうでもない、と一方的に話を膨らませていた。
奈央の病欠。その真相を知っている真由としては、正直この手の話題には参加しづらい。うっかり口を滑らせれば奈央のプライバシーを損ねることになるし、かと言って丸っきり関わらないというのもあからさまに不自然だ。それは雄悦も同じらしく、奈央の話題が出る度に彼は口を真一文字に結んでむっつりと押し黙るばかりだった。
「まあ、とにかく早ええとこ治って戻ってくるといいな。東北大会まであとちょっとなんだし」
ちなつのそんな何気ない発言に、カタ、と玲亜の椅子が小さな音を立てたような気がした。反射的に真由が見やると、玲亜はユーフォを膝に置いたまま、ちなつたちから目を背けるように顔を逸らしていた。それは先輩たちの会話にさしたる興味も無かったからなのか、それとも。
「にしても、夏ももう終わりかぁ。なんか今年もあっという間だったな」
カレンダーを眺めながらしみじみと日向がこぼす。コンクールに海旅行に花火にと、確かに今年の夏は濃密過ぎて、それこそあっという間に過ぎ去ったという感じだった。
「どうだった? 真由ちゃん」
「ふぇ、」
突然話しかけてきた水月に、真由はおぼつかない返事をしてしまう。他のことに思考を割かれている真っ最中に話を振られたって、何のことやらさっぱり分からない。体裁を整えるように「何の話?」と尋ね返すと、水月はクツリと笑って人差し指を立てた。
「夏の思い出。大勢であちこち遊びに行けたし花火も間近に見れたしで、楽しかったんじゃない?」
まるでずっと観察していたかのような流暢さで、水月はこちらの心境を言い当ててみせた。少なくとも彼女の居る前では、誰もそこまで具体的な話をしていた覚えなど無かったのだが。一体誰から聞いたのか、と訝しがりつつも、とりあえず真由は彼女に話を合わせる。
「あ、うん、それはまあ。水月ちゃんこそ、どう過ごしてたの?」
「私も楽しんでたよ。家の事情で旅行とかはできなかったけど、今年の花火は玲亜ちゃんと一緒に見に行ったし」
「玲亜ちゃんと? そうなの?」
意外な面持ちで玲亜を覗くと、彼女は「まあそうです」とでも言うかのように殊勝な頷きをよこした。どちらかと言えば自分のそれは、水月が誰かと花火を観に行く、という行動に対する驚きだ。先の言動からして、てっきり彼女はああいうイベントを忌避しているものだとばかり思っていた。あれだけの人出の中では行き会うことこそかなわなかったものの、あの会場のどこかにはきっと、二人でひっそりと花火を楽しむ水月たちの姿もあったに違いない。
「秋からも楽しいこといっぱいあるし、今度は真由ちゃんも私たちと一緒に楽しめるといいね」
「う、うん。そうだね」
こわごわと首肯しつつ、緩やかに浮かべられた水月の微笑を、真由はサラリと撫でるように一瞥する。この時の彼女が何を考えていたか。結論から言えば、真由にはちっとも解っていなかった。
奈央がようやく部活に姿を現したのは、果たしてその翌日のことだった。
「奈央ちゃん! ずっと休んでて心配したんだよ、もう!」
ひときわの叫声が音楽室をつんざく。それはトランペットパートの女子が発したものだった。他の部員たちもにわかにどよめき声を上げたことで、部活前のミーティングは中断を余儀なくされてしまった。
「ごめんな。迷惑かけちゃって」
群がる友人たちに、奈央がいくぶん困ったような表情で応対している。元より華奢な子ではあるのだが、久しぶりに見た奈央は頬もこけ血の気もどこか薄く、まさに病み上がりと言わんばかりの相貌となっていた。
「体のほうはもう大丈夫?」
ちなつも労わるように奈央へ声を掛ける。はい、と小さく返事をして、それから奈央はこんなことを述べた。
「いやぁ、ご心配おかけしてすみません。花火の日に食あたり起こしちゃったみたいで、あれからずっと絶食状態で寝込んでたっス。昨日になってやっと落ち着いたんですけど、念のために一日様子見みたいな感じで家で過ごしてて。もう元気いっぱいなんで、今日からまたバリバリがんばります!」
快復ぶりをアピールするかのように、奈央が両手でガッツポーズを作る。なんだー。胸を撫で下ろす部員たちが安堵と共に興味の熱を失うさまが、真由にはサーモグラフィで測っているかのように見て取れた。この状況でも未だ浮かぬ顔をしているのは自分と、あとは多分、雄悦ぐらいのものだ。
「おっひさー、奈ー央ちん!」
ぱたぱた駆け寄ってきた杏が奈央にぎゅうと抱きつく。それは日頃と何ら変わりのない、仲の良い先輩後輩同士のじゃれ合いだった。少なくとも、事情をあずかり知らぬ者の目線からすれば。
「ずっと奈央ちんいなくてアタシ寂しかったよぉ。本当にもうだいじぶ?」
「はい。この大事な時期に何日も部活休んじゃって、すいませんでした」
「なんもだよー。東北大会までまだちょっとあるし、焦らねえで一緒にがんばろ!」
「はい! 私も先輩と一緒に吹けんの、楽しみにしてらったっス」
奈央の元気そうな回答に、にはー、と杏が相好を崩す。ひまわりを思わせる彼女の明るい笑顔は、この件に関して訳知りの部外者とも言える真由からしてみれば、角砂糖をそのまま噛み潰したかのような甘くどさだった。
「……連絡事項は以上。それでは練習を始めます。今日も一日よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
ミーティングも滞りなく終了し、ちなつの号令で吹部はいつも通り本日の活動を開始した。皆がぞろぞろと音楽室を出て行く中、真由は楽器を置いて席を立ち、奈央の元へと向かう。自分でも良く解らない感情が、この時の真由を突き動かしていた。
「奈央ちゃん」
「あ、真由ちゃん。こないだは面倒なってごめんね」
へら、と明るく笑いながら、奈央は真由にありきたりな謝辞を述べた。こうしていると奈央は本当にいつも通りの奈央、という感じだ。あるいはそう振る舞おうと彼女なりに努めているだけなのかも知れないが。
「体の具合、ほんとに大丈夫?」
「うん、おかげさまで。まあ昨日ようやく固形物食べれるようになったって感じだがら、まだちょっと体さチカラ入んねえとこはあるけど」
「くれぐれも、無理しないでね」
「もちろん。――あ、言っとくけど真由ちゃん家で食べたご飯のせいであたったとか、そういうことは無えよ、うん。多分だけど、屋台で買った焼き鳥か何かが生焼けだったせいだと思うがら」
気にしねえで、と手を振る奈央に真由は小さく頷く。無論、そんなことは端から心配などしていなかった。もしかしたら全て本当に奈央の言っている通りなのかも知れない。たまたま運悪く食べ物にあたっただけで、長らく学校を休んでいたのもただそれだけの理由だった、という可能性だって否定はできないだろう。
けれど。
「もし私で良かったら、いつでも話くらいは聞くからね」
「え、」
奈央の瞳がぎゅるりと揺れる。いまの一言に込めた想いを、果たして彼女は受け取ってくれただろうか。辛うじて笑顔のような表情を保ったままで少し俯き、それから奈央は「じゃあ」と、真由のことを上目遣いで覗き込んだ。
「今日部活が終わってからちょっと、付き合ってもらってもいい?」
夕暮れを迎えた表の空気はまだ八月とは思えぬほどの涼やかさで、確実に忍び寄る秋の面影を感じさせるものがある。ヒグラシの鳴き声すらどこか遠く、それは短い夏の幕切れを惜しむかのように、オレンジ色の空へカナカナと残響を放っていた。
ハア、と息を吹きかけた手をすり合わせながら、真由は正面玄関のところで時間を潰していた。もちろん今日の練習を早めに切り上げ楽器も片付け終えた後のことである。その理由は他でもない、奈央を待つためだ。
『ちょっと杏先輩と話してから行くがら、真由ちゃんは先に玄関で待ってて』
果たして奈央は杏に一体どんな用事があったのだろう。そんなことに想いを馳せつつ、真由は下校していく生徒たちの姿を一つずつ目で追っていく。夏までにはグループ単位で帰る生徒たちの方が多かったように思うのだが、今日はやけに男女二人が肩を並べて歩く光景を目にする機会が多い。それはひょっとして、部活に目処のついた上級生たちが残り少ない中学校生活を満喫すべく、今までと少し違う関係性へと一歩を踏み出したがためなのだろうか。
「ごめん、お待たせ」
振り返ると、そこには膝に手をついて息せき切らせる奈央の姿があった。どうやら彼女はあまり長いこと真由を待ちぼうけさせないようにと、音楽室からここまで文字通り駆け足で降りてきたらしい。
「私は全然大丈夫。奈央ちゃんこそ、病み上がりで大丈夫?」
「もっちろん。それより早くしねえとお店閉まっちゃうがら、さぁ行こ行こ」
まだ肩で息をつきながらも、奈央は真由の手を取り先へ先へと歩いていく。半ば引きずられるようにしながら学校の門を抜け、飲食店の通りを抜け。そうするうちに、いつしか二人は商店街の一角にある小さな喫茶店の前へとやって来ていた。
「ここ、私のお気に入りでさ。お母さんに連れられてけっこう良く来てんだ。さ、入るべ」
先に立つ奈央が入口のドアを開けると、しゃらりん、と瀟洒なパイプチャイムの音が店内に鳴り響く。
「いらっしゃいませ――ってアラ、松田さんとこの奈央ちゃんだねが」
カウンターに立つ女主人が、こちらを見るなり商売っ気のない口調に早変わりする。この応対の雰囲気からして、どうやら奈央や彼女の母は本当に常連客か、あるいはそれ以上の親しい間柄として認知されているらしかった。
「今日は一人? 珍しいな、お母さんと一緒でねえの?」
「そうです。あ、でも一人じゃねがった。今日は友達連れて来てて」
「あや、んだったの。まンず中さ入ってゆっくりしてちょうだい」
「ありがとうございます。さ、真由ちゃん。入るべ」
「う、うん」
奈央の後に続き店内に入った真由は、しゃらりん、とドアを閉める。白塗りで素っ気のない外観とは裏腹に、店内は豪奢なアンティーク調の内装で統一されていた。中学生の自分たちが来るには何と言うか、ずいぶん場違いな気もする。だがそれは恐らく、同級生に鉢合わせしかねない他の場所よりもここの方が奈央にとって何かと都合が良い、という判断の結果なのだろう。
「さあて、今日は何飲もっかな。真由ちゃんも好きなの頼んでよ、今日は私のオゴリだがら」
「それはさすがに悪いよ。私、自分のぶんはちゃんと払うから」
「ダメ。私から誘ったのにお茶代ぐらい奢らねえば、こっちが申し訳ねえし」
「そんなの気にしなくていいって。奢られたりすると却って気を遣っちゃうから、苦手なの」
「んなこと言われたってさあ」
「じゃあこうしよう。今日は奈央ちゃんの快気祝いも兼ねて二人で割り勘、ってことで」
「割り勘かぁ」
うーん、と奈央はひとしきり悩み、やがて諦めたように苦笑した。
「んだな。そんじゃあ今回は真由ちゃんのお言葉さ甘えて、そうしよっか」
メニューを開いて頼むものを決めた奈央と真由は「すいませーん」と女主人を呼び、それぞれの注文を口にする。真由はブレンドコーヒーを。奈央はお店いち推しのカプチーノを。晩ご飯前ということもあって、豊富なサイドメニューには二人とも手を付けなかった。それからの数分間、目の前に湯気を湛えたカップが運ばれて来るまでずっと、互いの間に会話らしい会話は無かった。
「お待ちどうさん。なんか二人とも静かだねえ。どういうご関係?」
女主人の突っ込んだ問いに、真由はぼやけた笑顔を返すのが精いっぱいだった。不自然さを生まないぐらいの絶妙なタイミングで、奈央が女主人に答える。
「部活でいっしょの友達です。今日はこの子さ相談したいことがあって。それでちょっと、お願いなんですけど」
「ああ、はいはい。女同士、二人きりで秘密のお話したいっちゅうことな」
「そンた感じです」
んだねえ、と頬に手を添え、女主人は数秒ほど何かを思案する。
「もうすぐ店も閉める
「すいません。お仕事なのに我がまま言っちゃって」
「なんもだよ、奈央ちゃんのお母さんさはいっつもご贔屓にしてもらってらしな。帰る時でもおかわりでも、用事あればいつでも呼ばってけれ」
気さくな笑顔を浮かべながら玄関のオープンボードをくるりと裏返し、女主人はカウンター奥の階段をのぼっていった。これでさして広くもない店内は真由と奈央、二人だけの貸し切り状態。辺りに漂うのは眩暈がするほど豊かなコーヒーの香りと、少し弱々しい奈央の気勢だけだ。
「さて。準備も出来たし、そろそろ話そっかな」
己に発破を掛けるようにひとりごち、それから奈央はカプチーノをひと口すする。
「もしかして真由ちゃんは何となく感付いてんだがも知んねえけどさ。休んでた理由、食中毒じゃねえんだ」
うん、と相づちを打ちながら真由も奈央に倣い、なみなみと注がれたブレンドコーヒーのカップを口元に近付ける。熱いこと以上に、口の中に広がる強烈な苦みは脳天に突き刺さるほどだった。たまらず真由は近くのポットから砂糖を二つまみほどカップに投入し、添え付けのミルクも黒い湖面が明るい琥珀色になるまでたっぷりと注ぎ足す。ブレンドでさえこれなら、奈央がノンシュガーで飲んでいるカプチーノの苦さは、果たしていかばかりだろう。
「実は私、花火大会ん時に失恋しちゃって」
切り出しは唐突だった。飲み掛けていたコーヒーが危うく気道に入り込みそうになってしまった真由は、んく、と奈央に頷くフリをして喉の調子を整える。
「んでフラれた理由なんだけど、相手の人にはもう他に好きな人がいるんだって。私のことはただの後輩としか見てねえし好きって言われたって困る、今まで以上の関係になるのは考えられねえ……って、ハッキリ言われちゃった」
その断り文句は思っていた以上に痛烈で、慣れ親しんだ相手にするものとは到底思えないほどの辛辣さだった。こういう時、目の前の相手にどんな言葉を掛けてあげたらいいのだろう。そんな逡巡をこっそりと抱きつつ、真由は慎重に奈央の様子を窺う。少なくとも今のところ、彼女は悲しみに泣き崩れるわけでもなければ憤りを噴出させるわけでもなさそうだった。
「まあ、フラれたこと自体はそれほどショックでもねくてさ。最初っから分がってたっつうか、私の好きな人をAさんとしたら、AさんがBさんのこと好きなんだなあってのは、薄々知ってたし」
「奈央ちゃんはそれで、諦めがついたの?」
「諦め、っつうのかな。こういう気持ちって」
どこかさばさばとした面持ちで、再び奈央がカップを口へと運ぶ。どうしようもないつらさや悲しみを抱える人が極度に辛い食べ物を求めるのは、自傷行為にも等しい。そんな話をテレビか何かで目にしたことがある。仮にそれが真理なのであれば、あるいは度を越した苦味というのも似たような効果を持つものなのかも知れない。カップの水位が下がるにつれて徐々に表情を歪める奈央を見ていると、そんなふうにも思えた。
「しょうがねえなあ、とは思うんだよ。AさんとBさんって小学校の頃からずっと一緒でさ。好きんなるのも解るっつうか、やっぱこういうのって理屈じゃないトコあるじゃん? 好きんなっちゃったんだからしょうがねえべ、みたいな」
「それは……何となく」
未だ恋愛を知らぬ真由に、あまり大それたことは言えない。ただ世間一般の凡例から鑑みて、そうしたことはまま有るものだろう。恋は盲目とは良く言ったものだ。
「でもBさんはBさんで、別の人のことが好きみてえでさ。四角関係、ってやつなのかな、これ。だけど私の状況って、まだAさんのこと好きでいて良いのか、それとももう絶対叶わねえ恋なんだか、それがどうも分がんねくて」
雄悦が奈央を振った理由。それは必ずしも杏のことが好きというだけではない。後輩としてしか見ることが出来ない、それ即ち、異性としてはこれっぽっちも意識していない。これが奈央にとってどれだけ惨たらしい通告であったかは、真由にだって理解出来る。
花火の日にあれだけ着飾って、精いっぱいのおしゃれをして。そんな奈央のことを、雄悦はたったのひと言で容赦なく斬り捨てた。そうすることは彼にとってある種の誠意なのかも知れなかった。けれどその通告は奈央にしてみれば、これまでの努力も慕情も何もかもを否定されたに等しい。そして恐らくは、これからも、ずっと。
「もちろんAさんだって途中どっかで気が変わるかも知んねえし、Bさんにフラれて諦めたりするかも知んねえ。けど、なんかさ。自分なりに一生懸命頑張ってたのに、そんなの一切意味無かったんだなあって思ったら何つうか、体が思い通りになんなくて」
「うん。そういうのは解る、気がする」
報われぬ労苦。実らぬ努力。その虚しさを十全に知っている、とは言いがたかった。そもそも最初から結果を期待するべきじゃない、などというありきたりな正論だって頭では分かっているつもりだ。けれどその一方で、取り組んだことの全てが箸にも棒にも掛からなかったという結末が、どれほど人を打ちひしがれさせることか。そういう人物を前にしてこんな残忍な論理を押し付けられるほど、真由の良心は世間擦れしていない。
「フラれた直後はもうスッパリ諦めよう、考えねえようにして明日からはいつも通りで過ごそうって思ってたんだけど、家さ帰って寝る時になって色んな事が頭ん中でぐるぐるし始めて。自分でもあんなワケ分かんねえ気持ちになるなんて思ってねくて、正直ビックリした。そのまま悩んでるうちに朝んなって、部活行かなきゃって思ってんのに、どうしてもベッドから起きれねがった」
「それでずっと休んでたんだね。部活も、学校も」
「もうこのまま辞めちゃおうか、って考えたりもした。こんな理由で辞めるなんてダメだってのは分かってたけど、だったら何をどう頑張りゃいいかももう分がんねくてさ。昨日までひと口も食べてなかったってのはホントで、部屋がらも全然出れねがったの。病院さは、さすがに行ってねえけどね」
力無く笑い、そして奈央はグイとカプチーノを飲み干す。彼女のそれに対し、自分のブレンドはあんなに甘く仕上げたにもかかわらず、まだ半分以上も残ったままだった。
「布団かぶって目ぇ瞑る度に、あの日のAさんの言葉が耳に響いてくるんだよ。ンだけど不思議なことに泣く気力も湧いてこねえっつうか、涙がぜんぜん出ねくて。あれ、ひょっとして私、単にAさんに女として見られてなかったってのがショックなだけなんじゃねえの? ホントはAさんのこと、そんな好きでも無がったんじゃね? なんて思ったりしてさ」
「それは、違うよ」
切り裂くように真由は口を開く。こちらの語気が向こうにも伝わったのだろう。それまで自嘲気味に口角を曲げていた奈央は途端、スッと真顔のような表情に戻った。
「ごめん。先に断っておくけど、私もそんな詳しいから言うわけじゃなくて。でもそんなに好きじゃなかったっていうのだけは、違うって思う」
自分にとって、色恋沙汰は縁遠い。だから真由は他のことに置き換える。自分にとっていちばん想いを寄せるもの。いちばん心血を注いできたもの。それを失った時、それまでの全てを否定された時、最も辛いと感じるもの。そうなってしまうものを強く思い描きながら。
「きっと、すごく好きだったからだよ。本気で先輩のことが好きだったから、だから奈央ちゃんはショック過ぎて、まだきちんと受け止めきれない状況なんだと思う。だって奈央ちゃん、あんなに可愛い浴衣姿だったのに。あんなに一生懸命になってたのに。それが何一つ受け入れられなかったら、何一つかなわなかったら、絶対辛いはずだよ。本当はぼろぼろ泣きたいくらい、辛い、悲しいって思って当然だよ」
「真由ちゃん……?」
奈央は呆気に取られたような顔をしてこちらを見るばかり。真由自身、自分が慰めているのか怒っているのか、それすらも良く分からなくなりつつある。けれど堰を切ったように、言葉は次から次へと勝手に溢れ出る。
「あの日の奈央ちゃん、すごくきらきらしてた。浴衣姿、ほんとに似合ってた。奈央ちゃんってこんな綺麗な子だったんだ、って見違えたくらい。先輩の好きな人に気付いたのだって、先輩のことをずっと見てきて、ずっと考えてきたからでしょ。そこまで頑張れたのも、奈央ちゃんが本当に本気で先輩のことを好きだったからだって思う」
真由がまくし立てる間、奈央はさっきの表情のままでぴたりと固まっていた。もしかしたらこちらの怒涛の勢いに、彼女の中で処理が追いついていないのかも知れない。それでもいい。珍しく、だがこの時ばかりはさすがに、真由は憤っていた。
「例え先輩に通じなくたって、奈央ちゃんが頑張ってきたことが無駄になるわけじゃない。諦めなくちゃいけないかどうかは私にも判らない。けど、その気持ちまで全部無かったことにしちゃいけないよ」
胸に手をぐっと押し当て、奈央がやおら苦しげに唇を震わせる。思いの丈を吐き出し切って、はたと真由は自分が息を切らすほど取り乱していたことに気が付いた。ごくりと唾を呑んで呼吸を整え、それから残っていたカップの中身をあおる。砂糖とミルクで緩和された苦味の束は既に温く、沁み渡るように咽頭を滑り落ちてゆく。
「……ごめん。なんか、一人で喋っちゃって」
「ううん」
首を振った奈央はやにわに顔をしかめ、それからしゃくるように喉を鳴らした。
「良いのかな、私。自分なりに精いっぱい頑張ったこと、自分で認めても、良いのかな」
「良いに決まってる。――頑張ったよ、奈央ちゃんは」
「ありが、と。真由ちゃん、」
声を詰まらせた奈央の眼から、ぼろり、と大粒の涙がこぼれ出る。きっと自身も知らぬ間に封をしていた彼女の感情は、ここでようやくこじ開けられた。
「ごめん、やっぱ私、私……」
顔を歪め、瞑る瞼に押し出された水滴が、白鷺のような奈央の頬に幾つもの筋を作っていった。真由はポケットからハンカチを取り出し、それをそっと奈央の手に握らせる。そのハンカチで奈央はぐしょ濡れの顔を覆い、そのまま額を打ち付けるようにしてテーブルに突っ伏した。
私、悔しい。
引き絞るように漏れ出たその声は間違いなく、奈央の本音だった。
あれから程なくして真由と奈央は店を出た。鬱屈していた感情をひとしきり爆発させたことでようやく収まりを付けることが出来たのだろう、その頃には奈央ももうすっかり落ち着いていて、別れ際にはいつものように彼女ならではの元気な様子を窺うことも出来た。
『先輩、じゃなくてAさんのこと、やっぱり今でも諦めきれねえし。けど、だがらってどうなるもんでもねえから、当分は保留ってことにしとこうと思う。でも真由ちゃんのおかげで何か、すげえスッキリしたよ』
そう会話を結び、へばね、と手を振った奈央の笑顔には未だ、さっき飲んだカプチーノの苦味がほんのりと宿っているみたいだった。これからも彼女は雄悦のことを想い、そして今まで通り雄悦や杏と同じ時を吹部で過ごしていくのだろう。そこに辛さややるせなさといった、今までとは少し違う感情を抱きながら。けれど、この一件を通じて奈央は少しだけ強くなった。そんな彼女ならいつかきっと今日までのことを、輝かしい思い出の一つとして振り返ることが出来るようになる。それは半ばそうであって欲しいという、真由自身の願望をない交ぜにした憶測に過ぎないのだけれど。
しっとりと夜闇に包まれた街路を歩きながら、真由はずっと考えていた。奈央の『好き』という感情を、自分は自分に理解可能なものへなぞらえて話をした。ならば自分だったらどうだろう。もしも奈央と同じように、好きという感情ごとそれまで積み上げてきた全てを否定されて、全て諦めざるを得ない日が来たとしたら。そのとき自分は潔く諦めをつけることが出来るのか。それともその感情ごと保留にしたり、あるいは好きだったという己の気持ちにすら目を背け、全てを無かったことにしてしまおうとするのだろうか。
「それは、嫌だな」
何となく口にしたその想いの対象がどれなのかは、自分にも良く解らない。ただ、好きで打ち込んできたことにはいつの日か報われたい、そう願う自分が何処かに居るのも確かだ。それがどんな形であれ、他ならぬ自分自身が納得できるのならそれで良い。だが何一つ報われずに終わるだなんて、そんなのはイヤだ。途中までの道のりがどれだけ険しく大変だろうと構わない。けれど、悲惨な結末だけは迎えたくない。そう思うのはどうにも否定しようのない、己の本心そのものだ。
おかしいな、さっきまではあんなに奈央ちゃんに感情移入してたのに。そうと気付いて祈る時のように、真由は胸に当てた拳をもう片方の手できつく握り締める。もしかするとそれは贖いの仕草だったのかも知れない。いつの日か、自分が奈央の側に立ってしまうこと。それを明確に忌避する自分がそこに居た。
一夜明けた翌日の放課後。日直の仕事を終えて教室を出た真由は少しの間、廊下の窓辺からぼうと空を眺めていた。『秋の空は高い』という名文句通り、そこには目の覚めるような蒼天が深々と展開されている。僅かにたなびく雲はまるで何かから剥ぎ取られた薄皮みたいにおぼつかなくて、そう言えば夏空を彩る堆い入道雲をもう何処にも見掛けなくなってしまった、ということに今更ながら気付かされる。一つの季節の終わり際。そこへ向けて大きく伸びをし、改めて真由は今日からのことに思いを馳せる。
色々あったけれど、奈央もきっとあれで己の気持ちを整理できた筈だ。一件落着とまでは言い難いが、あいにく自分たちは次へと進まなければならない。まずは今週末のコンクール東北大会。そこへ向け、全力で集中する。それでなくとも来月以降はイベント演奏に文化祭へ向けた練習、全国最優秀賞という大きな目標を見据えるマーチングへの備え、とやるべきことが目白押しだ。でも焦ることなんて無い。一つひとつをきちんと頑張っていけばきっと大丈夫。そんなふうに決意を固め、真由はカツリと奥歯を噛み締めた。
階段をのぼり通路を曲がり、そうしていつものように音楽室のたもとへ辿り着く。そのとき妙に、音楽室の辺りが騒々しいことに気が付いた。賑やかなのは別段珍しくも無いが、今日の喧騒には和気あいあいとした活況の明るさではなく、どこか殺気めいたものが満ち満ちている。なんだろう。嫌な予感を覚えつつそこへ近付くと、ちょうど音楽室入口のところに奈央が立っているのが見えた。
「お疲れ、奈央ちゃん。……何かあったの?」
「真由ちゃん。その、水月ちゃんたちが、」
水月。青ざめる奈央の口からその名が出てきた時、真由の脳内には強烈に、あの日の杏の言葉がなだれ込んでいた。
アイツ、気い付けた方が良いよ。
まさか。その懸念が確信に変わるまでにそう時間は掛からなかった。すぐさま状況を確認すべく、真由は奈央の背を押しのけるようにして室内へ入る。そこにあったのは多くの部員を引き連れた水月と、彼女らに対峙するちなつの後ろ姿だった。
「――言ってることが良く分かんねえ。どういうことなの、水月」
「ですからつまり、こういうことです」
水月の後ろに居る部員たちは皆一様に、恨めしささえ感じるような鋭い目つきでちなつを睨んでいる。その集団の中には玲亜も居た。彼女らを指し示すように両手を広げ、水月は高らかにこう言い放った。
「先輩たちの押し付ける一方的な活動方針にはついていけません。ですから今後、私たちは独立して活動していきます」
かくん、と顎がひとりでに落ちるような錯覚。意表を突かれた、と言うより全く信じられないとでも表現した方が、その時の真由たちの心象としてはより正確だろう。
水月の独立宣言。その日を境に生じた吹部の分断は、曲北吹部のみならず真由の今後にも少なからぬ影響を与えることとなる、最大規模の激震だった。