私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~   作:ろっくLWK

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〈幕間2〉石川泰司の好きな人

「ただいまぁ」

 雑な一声で帰宅を告げ、それから泰司は足を振って靴を脱ぎ捨てる。その不精な音を聞きつけたか、居間からバタバタと母親が顔を覗かせた。

「こら泰司。靴ちゃんと揃えれって、いっつも言ってらべ」

「うっせえな、どうせ明日また履ぐんだがら別にいいべ」

「そういう話でねえの。大体オメエだば、いっつも母さんの言うごどさ文句ばり(ばっかり)言って。普段がらちゃんとやらねば他所の家さ行った時に恥かくど」

「人ん家さ行ぐ時はちゃんとしてらって。息子に対する信用ゼロかよ」

「オメエがやってねえがらだべった。言われでぐ(たく)ねがったら、普段がらちゃんとやれで」

「分がったってば。やれば良いんだべ、やれば。ったく、ネッチネチうるっせんだよ説教ババアが」

「んだとお? 親さそんた口の利き方して、まンずこのガキはよお」

 これ以上小言を言われる前にと、泰司は玄関で脱ぎ散らかした靴を乱暴に整え「メシまで部屋さ居る!」と叫んで階段を駆け上がった。部屋に入るやいなや鞄をその辺にほっぽり出し、ワイシャツとズボンを脱ぎ散らかして勉強机の椅子にどすんと腰を落とす。わざと階下の母へ聞こえるようにドカドカ物音を立てるのは、不機嫌なときの泰司が取る一種の反抗手段だ。

「はぁー。お袋マジ要らね」

 泰司の母は昔から、こんな調子で息子をどやしつける性分の人だった。さして美人でもなければお世辞にも良いとは言えない性格の持ち主である母のことを、陽気で社交的な父がどうして選んだのかはサッパリ分からない。かつて父に直接聞いた時は『成り行きでそうなった』みたいなことを言っていたのだが、少なくとも自分なら絶対にそんな選び方はしない。泰司はそう心に固く誓っていた。

 俺が選ぶなら。黙って机の引き出しを開け、嵩張るプリントの底へ仕舞ってあった一枚の写真を取り出す。それはつい先日、皆で行った男鹿旅行のときに父親から借りたデジタルカメラでこっそりと撮影した、浜辺で遊ぶ先輩たちの楽しげな姿を写したもの。参加した男子は自分と雄悦の二人だけという旅行だったので、そこにはもちろん水着姿の女子たちが幾人も写っている。けれどカメラのピントはその中央、たった一人にのみ合わされていた。

「やっぱ良いよなぁ、黒江先輩」

 白のワンピース水着に身を包む真由、彼女はいちばん最初にチューバの手ほどきをしてくれた先輩であり、従って泰司にとっては恩人と呼べる存在だ。平素はおっとりとして穏やかな彼女だが、旅行の際には珍しく皆と一緒にはしゃぐ真由の貴重な姿を拝むことが出来た。

 この写真もちょうど、他の先輩たちと波打ち際で水を掛け合って遊んでいるところを捉えたものだ。弾けるような彼女の笑顔は写真の中でさえ、今そこに在る実像であるかのように瑞々しく輝いている。そんな珠玉の一枚を、泰司は持ち帰ったその日のうちにプリンターで現像し、こうして机の引き出しに隠しておいたのだった。

 写真をいったん机の上へ置き、室内を一遍ぐるりと見渡す。壁。ラダーラック。ハンガー。そこにはプロ選手のポスターやユニフォーム、ボールなどのサッカー関連グッズがところ狭しと飾られてある。本棚の小さなトロフィーはサッカー部時代、地区大会の参加賞として部員全員に配られたもの。それ自体は何らのやくたいも無いが、ボールからチューバへと相棒を切り替えた現在となっては、かつてサッカーをやっていたことの証明書みたいなものである。

 学業用の問題集などよりも趣味のものが多勢を占める本棚には近頃、チューバの基礎教本や吹奏楽の特集誌といった音楽関係のものが増えつつある。入部して間もない頃、右も左も分からずにいた素人の自分にそれらを勧めてくれたのも真由その人だ。

『石川くんは初心者だから、最初は分かりやすくて丁寧に解説してある本が良いと思う。これとかこれなら結構とっつきやすいんじゃないかな』

 彼女の柔らかい微笑みを見る度にいつも、ずきん、と胸の奥が疼く。初めは単にきれいな先輩だな、ぐらいにしか思っていなかった。けれどとある春の夜にふと、泰司は己が胸中に宿るその想いを自覚してしまった。

 今までにもクラスの女子に何となく、そういう気持ちを抱いたことはある。けれど、これほどまでに強い情を特定の女子に抱いたのは真由が初めてだ。泰司にとっての真由とは、彼が知り得る限りのどんな女子よりも慈愛に満ち、包容力豊かで魅力溢れる、まさしく理想の女性像を体現したような存在なのだ。

「――オメエら、吹部の女子ん中で誰がいちばん良いと思う?」

 男子部員同士で集まると、えてしてそんな会話が繰り広げられることがある。何故かは分からないが一般的に、吹部は男子の割合が少ない。それは都合百人をゆうに超す大所帯のここ曲北でも同じ。一年から三年までかき集めても男子の総数は十数名、といった按配だ。そんな彼らの間でランク高めな部内の女子、といって名が挙がるのは、おおむねこのような面々だった。

「やっぱ荒川っしょ。クールビューティーって感じだし、顔の美人度だって部内トップクラスだべ」

「俺は日向の方がいいなー。ああいうタイプって見かけは気ぃ強えけど、実際付き合ったら相手に合わせて尽くすと見た」

「あー、確かに中島先輩も良いっすね。けど俺のイチオシはやっぱし木管の秋山先輩ッス」

「木管の秋山って、サックスの?」

「でねくてクラのほうッス、二年の。やっぱ胸でけえのってロマンっすよ、男のロマン」

「オメエそれ胸しか見てねえんで無えのが、日向と言い秋山と言い」

「そんなこと無えッス。けどやっぱ巨乳って憧れッスよ。秋山先輩のなんて、制服の上からでも分かるぐれえ盛り上がってますもん。マーチングのときもぼんぼん揺れてるし」

「どう考えても胸にしか目ぇ行ってねえべ、それ」

「んだけどなあ。もし付き合ったらって思うと、あのそそっかしさはちょっとな。俺だったら姉貴のゆりの方がまだ良いな」

「ウッソでしょ先輩。秋山姉ってなんか地味ぃで暗え感じでねえスか。俺ら二年の間でもあの先輩のこと、あんま良く言ってる奴いねえッスよ」

「あのちょっと控え目で奥手な感じが良いんだって。今はそうでも男を知れば変わる、ってヤツよ」

「んなこと言って先輩、今まで誰かと付き合ったことあるんスか?」

「うっせハゲ。死ね」

「ハゲって、そりゃ幾らなんでもヒデくねえすか」

 周りがぎゃあぎゃあ言い合う中で、泰司は一人『分かってねえな』と嘆息をこぼす。本当に魅力的な女子というものは容姿、性格、器量、と三拍子を兼ね備えているものだ。自分の見る限り、それら全ての条件を満たす吹部の女子はたった一人しか存在しない。

「他に可愛い女子って誰か居だか?」

「居だっけかなー。あっそうそう、美人度って言やあ、金管低音の長澤先輩もっすかね。顔良し雰囲気良しスタイル良しのザ・お嬢様って感じで。バリサク(ウチら)とは全然絡む機会ねえもんで、人柄とかは知らねえっすけど」

「あー、アレな」

「アレは選外。見てくればっか良いったってダメだ、ああいう奴は相手にするもんでねえ」

「はあ。……前から思ってたすけど、何かあったんすか? あの先輩」

「一年は知らねったっていい。それより他にはよ?」

「あの人どうですか? トランペットの小山先輩」

「アレは可愛い可愛くねえってよりマスコット枠だべ」

「体も性格も全部ガキだしな。つか何、おめえ小山さ気でもあんの?」

「いやあ、俺も別にそんな興味は無いですけど。どっちかってば同じトランペットの松田先輩のほうが好みです」

「松田なあー。まあ顔もいいし色白だし、実はけっこう隠れファン多いよなアイツ。ちょっと男っぽい性格で損してるトコはあるどもな」

「あのサバサバした感じが却って付き合いやしくて良いと思うんスけどね。そういう先輩はどうなんスか?」

「いや、俺は特にコレっつうのはいねえけど」

「嘘つけって。コイツさあ、一年の頃からずっと、オーボエの和香さ惚れてんだよ」

「マジッスか?! 和香先輩って、あのドラムメジャーの?」

「やめれ、言うな」

「ああいうメガネの知的美女ってやつに弱えんだべ? 隠さねったって良いって」

「だがらそういうんでねえって。ただ何となく、物静かなとこが良いな、ってだけで。それに顔立ちとか雰囲気とかも割と悪くねえっていうかまあ、その……」

「やっぱ好きなんじゃん」

 ひゅーひゅー、と囃し立てる男子部員たち。そんな彼らのノリに、泰司はいつも適当に合わせているフリをする。その辺りはサッカー部に所属していた三年間によって培われた、いわゆる一つの処世術、というやつだ。

「そう言えばよ、例の転校生。アイツはどうよ?」

 泰司の胸がどきりと弾む。ようやくか、という思いには同時に、誰か他にも目を付けている奴がいるのでは? という警戒心も少しばかり入り混じっていた。

「ああ、低音の黒江? まあアイツもイケてるっちゃイケてるよな。顔立ちいいし、性格美人だし」

「俺はパート違うんで会話したこと無えスけど、綺麗な先輩ッスよね。ただやっぱなー、秋山先輩と比べるともう一つこう、ボリューム的に物足りねえかな」

「だがら、オメエはいったん胸の話題から離れろって」

「おっとりしてて大人しい奴だけど何つうかこう、都会のオンナ、って感じだよな。取っつきにくいっつうかさ」

「あ、それ分かる。だいたいアイツ全然訛ってねえべ? その時点で壁感じるよな」

「悪かねえんだけどさ、うちの吹部ってけっこう女子の顔面偏差値高えし。その中で言ったらまあ、中の上ぐらいって感じ?」

「上から目線ッスねえ」

 一同がゲラゲラと下卑た笑い声を上げる。そこに混じりながらも、やっぱり分かってねえ、と泰司は唾を吐くような心地がした。いざ接すれば真由は決して人を貶すことなどせず、どこまでも懇切丁寧で優しい。それにどこか芯のようなものも持ち合わせていて、温かいながらも的確に人を導いてくれる。そのうえ場にそっと華やぎを添える密やかな存在感を持ち合わせる、これこそが黒江真由という女子の本質的な良さなのだ。そして、そんな彼女が隠し持っているものはこれだけではない。

 過去の追想をやめ、泰司は手元の写真にいま一度視線を落とす。浮かぶ彼女の肢体。うっすらと栗色を帯びる長い髪。細く伸びる手足。絶妙な肉付きの腰回り。着痩せするタイプなのか、普段それほどまでには意識していなかった胸部の、艶めかしい曲線美。その内側に秘められたものを、あのとき泰司は二つの(まなこ)ではっきりと捉えていた。

 男鹿旅行のあの日、女子の部屋にうっかりノックもせず立ち入ってしまったのは確かに迂闊だった。けれど本人の両腕で遮られるまでの寸秒、目測わずか数メートル先に立っていた真由のあられもない姿を、泰司は網膜を通じて己の脳細胞へ鮮明に焼き付けることに成功していたのだった。想像していたよりも遥かに形良く美しくたわわに膨らんだ、真由の白く揺れる双丘。その刹那の映像は動揺と共に激烈なまでの昂奮をもたらす、まさに記憶の秘宝とでも呼ぶべき代物だ。

 チロリ。かさついた唇を舐めずって、それから真由の晴れやかな笑顔へと視点を固定する。それは写真の中の思い出を振り返るためではなく、記憶に基づき構築された自分だけの真由に没頭するため。そうしていると不思議なことに、真由の心地良い声色が耳を揺すってくれるのだ。

『石川くん。あんまり焦らないで、最初はゆっくり丁寧に、ね』

 高揚のボルテージはひとりでにどんどん上がっていく。練習中に掛けられた言葉を想像の真由に重ねながら、彼女の声に導かれるがままに、泰司はただひたすら耽溺する。

『あ、今のすごく良い感じ。その調子でもう一回、ちゃんとできるまで何度でも反復してみよう?』

 真由の甘美な求めに、はい、と返事をして泰司は動作を繰り返す。その度に泰司の鼻腔には、今この場に居ない真由の香りがふわりと舞い降りてくる。

『そこ、もっと強く。……うん、上手上手』

 黒江先輩、黒江先輩、とうわ言のように、食いしばった歯の奥で何度もその名を呼ばわる。あれ、先輩の下の名前って何だっけ。ああそうだ思い出した。真由だ。真由。可愛らしくて清楚で、先輩のためにあるような名前。いつか呼んでみたい。先輩のことを、下の名で。真由先輩と呼びながら、あの微笑みと柔らかさを力いっぱい抱き締めて、あのふくよかさにうずもれて、そして――

『いいよ石川くん、私と一緒に、』

「真由、せんぱいっ」

 ぎりぎりまで堪えた息と共に、全てを吐き出す。……潮が引くにつれ、それまで握り締めていた感情の滾りもまた、するすると萎びていった。

 しばし余韻に浸った泰司はいま一度、写真の中の真由に目を向ける。この笑顔がいつか、俺だけのものになったら。そんな気持ちにこの胸がずきずきと痛むのはきっと、張り裂けんばかりの恋慕と共にほんのひとつまみだけ、彼女に対して抱く小さな罪悪感のせいだった。

「泰司! もうご飯とっくに出来てるよ。早く食わねえんだば片付けちまうど!」

 階下から投げ込まれた母のがさつな声によって、陶酔のひと時はあえなく中断を余儀なくされてしまう。軽く舌打ちをした泰司は「今行くって!」と母に怒鳴り返し、それから渋々ベッドの上に広げてあった部屋着へと袖を通す。

 絶対の絶対に、母のような女とは結婚しない。改めてそう心に誓いながら想い人の写真を元通り丁寧に引き出しへと隠し、泰司はわざと蹴り下ろすようにドカドカと音を立てて階段を下りていった。誰もいなくなった部屋の片隅で、ごみ箱に丸められたティッシュの塊がかさりと虚しい音を立てた。

 

 

 

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