私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~   作:ろっくLWK

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3.認識、アジャストステップ
〈14〉不和の空気


「では、失礼します」

 恭しい一礼をしてから颯爽と、水月が音楽室を後にする。彼女に続いてぞろぞろと出て行った部員の数は、真由が見る限り、もはや一団と形容して良いほどだった。

「ど、どういうことですか部長、さっきの」

 事態を良く呑み込めていないのか、一人の部員が顔面蒼白でちなつに尋ねる。ついさっきまでは毅然と水月に対峙していたちなつも、今は困惑と憤懣に彩られたような、何とも言えぬ表情で俯いたままでいた。

「ついてけねえとか独立とか、何かそんなこと言ってらったよね」

「長澤のヤツ、最近おとなしいと思ってたら……」

「けどあの人数、ちょっとやべえっしょ。アイツ、本気で吹部転覆させる気かも」

 部員たちが口々に不安や困惑を述べるせいで、音楽室の中はすっかり恐慌状態となってしまった。真由もまた、何がどうなっているのか、これからどうなってしまうのか、何も分からずただただ愕然とするばかりだ。

「水月ちゃんってば、やっぱり」

 隣にいた奈央がぼそりと呟く。どういうこと? と反応した真由に奈央が何かを告げかけた、その時。

「はい、全員いったん落ち着く!」

 ぴしゃりと鋭い牽制に貫かれ、部員たちは一斉に口をつぐむ。それを発したのは、日向だ。いつの間にかちなつの隣に立っていた日向はまず、動揺する部員たちを押さえ込むかのようにギロリと険しい目つきを投げ掛けた。

「水月たちのことはこっちで何とかするから、みんなは練習に集中して。あと永田っちにも私らが報告するから、とりあえずこの件さはノータッチでいること。分かった?」

「……はい」

 返事をする部員たちの声はしかし、十分には納得できていないとばかりに弱々しいものだった。

「ちなつ」

「え?」

「え、でねえって。練習するべっつってんだがら、部長がちゃんと始めの挨拶さねえば」

「あ……うん」

 いつもより強めな口調の日向に、半ば放心状態だったちなつがぎこちない頷きを返す。事態が事態ゆえか、いつものちなつらしさはすっかり鳴りを潜めてしまっていた。

「それじゃ、練習始めます。今日も一日、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 全員が着座もせず、その場で挨拶の文言を吐くだけ。およそミーティングの体を成しているとは言いがたい状況の中、かくして本日の練習は強引に開始された。

「さすがヒナ先輩」

 ぽつりとこぼした奈央の言葉に、あれ、と真由は引っかかりを覚える。

「奈央ちゃん? さっきの水月ちゃんのこともだけど、さすが日向先輩、ってどういうことなの」

「あー、えっとな」

 奈央は少し言い淀み、それからふんぎりを付ける時のように、うん、と小さく首肯する。

「ちょっと長え話になるがら、個人練のついでに喋ることにする。真由ちゃんっていつもどこで練習してる?」

「えと、渡り廊下の屋上にあるテラスだけど」

「へばそこで。いちおう杏先輩に断り入れてから行くから、真由ちゃんは先に行ってて」

「分かった」

 後でね。そう返事をすると、奈央はさっそく杏たちのいるトランペットパートのところへと向かっていった。真由もまた低音パートの先輩たちに個人練の旨を伝えた後、自分のユーフォを抱え、件のテラスへと向かった。

 

 

 それから十分としないうちに、トランペットと譜面台を手にした奈央がテラスへとやって来た。

「ごめん、お待たせ」

 社交辞令的にそんな文句を口にしつつテラスの扉を閉め、奈央はきょろきょろと四方を見渡す。 

「わー、やっぱ三階のさらに上の屋上ってなると高えな。私高所恐怖症だがら、こっから下見たら足竦みそう」

「ごめんね、こんなところで」

「ううん、大丈夫。他に人が来ねえトコのが話しやすいし」

 譜面台を近くにおろした後、うっかり下を見なくて済むようにか、奈央は転落防止の手すりに背中を預けた。

「さて、したら話そっか。水月ちゃんやヒナ先輩、私らが小学生ん時のこと」

「よろしくお願いします」

 かしこまってお辞儀をすると、奈央はそんな真由の様子を面白がるようにくつくつと唇を震わせた。

「私らの出身小って、ここのすぐ近くにある(ひめ)(がみ)小学校ってトコなんだけどさ。真由ちゃんは知ってる?」

「正直言うと、あんまり」

「まあさすがの真由ちゃんでも、小学校のことなんて知らねえよね」

 トランペットのピストンをぱたぱた押下させつつ、奈央がそのベルをある方角へと向ける。

「こっからじゃ見えねえけど、あの辺にあるのが姫神小。曲北は今でこそ全国三連覇で有名になったけどさ、姫小は曲北よりもずっと前からマーチングで全国行ったりしてるトコなんだよ」

「へえ」

「人数はそんな多くねえんだけど、顧問の先生がそういう方針の人でさ。もう大会出るなら絶対トップ狙い、みでンた感じで」

 そこへ狙いを定めるように一度トランペットを構えた後、奈央はくるりと手首を返してセットアップの体勢を取った。キレの良いその所作は、彼女の言葉にウソが無いことの証左でもあるだろう。転校する際、真由が調べたのはあくまでも県内中学校の吹奏楽事情だけだった。以前に高校や社会人の話題が出た時もそうだったが、秋田県全体の音楽文化に関してはまだまだ調査不足の感が否めない。

「まあそん代わり、顧問の先生は永田先生とは比較になんねえぐれえ超スパルタだったんだけどね。そのせいで退部する人とか、中学に上がってからは他の部さ入っちゃう子もけっこう多くて。強豪校って一般的に厳しいってイメージあると思うけど、私らが居た姫小のマーチング部はそういう環境だったの」

「それは水月ちゃんも、ってこと?」

 コクリ、と奈央は真由の問いに首肯した。水月が姫小の、つまりちなつや日向と同じ小学校の出身。その所在地だとして示された箇所は確かに、いつぞや水月本人が述べていた彼女の自宅があるという方角ともおおむね一致する。

「水月ちゃんも私らと同じで、小四のときにマーチング入ってさ。最初は何てことない、大人しめだけど普通の子だなって思ってた。ちなつ先輩とかヒナ先輩はその頃から低音パートで水月ちゃんとも直属の関係だったけど、そん時はまだ先輩がたもけっこう普通に面倒見てた感じでさ。けど杏先輩だけは何でか、時々ちなつ先輩たちに忠告してたみたいなんだよね。『あの子には気ぃ付けれ』って」

「それ私も言われたよ。おんなじことを、杏先輩に」

 杏と水月、二人には何か繋がりがあるのだろうか? そんな真由の疑問に、しかし奈央はふるふると首を振る。

「それが杏先輩、水月ちゃんのことは私がいくら聞いても教えてくんなくて。まあでも入部して最初の一年間は何にも無がったんだよ。だがらその頃には私も、多分ちなつ先輩らも、杏先輩の忠告なんてすっかり頭から抜けちゃってて。だけどそれからしばらくして、部内でちょっとした騒ぎが起こったのね」

「そのトラブルを起こしたのが、水月ちゃんだったってこと?」

 んだ、と肯定した奈央が表情を翳らせる。

「私らが五年生の時に水月ちゃん、大会に勝つためだけの音楽なんて何の意味があるんですか、っつって顧問の先生と衝突しだして。最初はそれだけだったんだけど、他にも厳しい練習に嫌気が差してた子が何人か、それ見て水月ちゃんに同調し始めてさ。そういう子らがまとまって、何つうか、集団ボイコットみたいなことしたんだよ」

「ボイコットっていうと、部活に出ないみたいな?」

「そンた感じ。何日も練習休んで、大会にも出場しません、みたいな」

 小学生の身分でボイコット、というのも随分とまあ凄い話だ。けれどさっきの水月を見た後でなら、それも納得できるものがある。先輩相手に少しも物怖じすることなく堂々と宣言をしてみせた水月。さっきのあの光景を思い出すだに、喉の奥を掻痒感にも似た何かが掠める。

「先生も水月ちゃんたちの反抗にすっかり怒っちゃって、『ボイコットした連中は大会には出さねえ』ってメンバーから外されちゃってさ。それでも当時の部長は何とかしねえと、って思ったんだろうね。毎日練習上がりに水月ちゃんたちのトコ行って、一人ずつ説得して回って。先生とも何とかならねえかって何べんも相談して。それでその年からは、どうしても嫌だって子は無理に練習に参加さねくても良いって方針に変わったんだよ」

「それって、けっこう大きな変化だよね」

「勿論。ただ五、六年の人たちは元々厳しい先生だって覚悟して入部してらったがら、そこまで大きな影響も無がったんだけどね。もろに直撃したのは私らの下の世代。それなら私も練習休みます、しんどいのは嫌だから辞めます、っていうのが相次いで部がスカスカんなっちゃった。そのせいで私らの代ん時、マーチングは東北で銀賞止まりだった」

 手すりから背を離し、奈央が当時を思い返すように遠い目をして空を見上げる。それを黙って見つめながら、真由はいつぞや早苗と交わした部活のあり方に関する話を思い出していた。皆が足並みを揃えなければ団体競技で結果を出すことは難しい。その例に倣って言うなれば、奈央たちの代における姫小の足並みは文字通りガタガタに崩れてしまった、ということだ。

「水月ちゃんはその間、部活はどうしてたの?」

「いちおう部には残ってらったよ。ただ方針転換してからは、自分の都合で部活休むのもしょっちゅうだったけど。顧問の先生もカンカンで、もう最初っから演奏会のメンバーに水月ちゃんは入れないって扱いで。水月ちゃんもそれ分かってて、じゃあ普段の練習も別に来なくていいですよね、っていう感じンなってた」

「それもそれで大胆っていうか、すごい話だね」

「んだもんで、ヒナ先輩とか私らの代では水月ちゃんって要注意人物みたくなっててさ。吹部ん中でもちょっとヘンな空気あったでしょ? 水月ちゃんに対しては」

「それは……うん」

 以前にも時々感じた低音パートの、いや吹部員の水月に対する冷ややかさ。それを認めないわけにはいかなかった。とりわけ全国に行きたいという気持ちでいた子にとって、部を搔き乱した中心人物である水月はさながら戦犯の如き存在でもあったのかも知れない。

「でも、そしたら水月ちゃんはどうして中学でも大会で勝ち上がるような方針の吹部に入ったんだろ。奈央ちゃんたちが中学に上がった時って、曲北はもう全国最優秀賞だったんだよね?」

「それが解んねえの。水月ちゃんも水月ちゃんで、やっぱり去年一年間はおとなしくしてたからさ」

 首を小さく傾げ、奈央は眉根を寄せた。

「吹部にいるのも何かしら理由があるんだがも知んないけど、たぶん誰にも解んねえと思う。そもそも実力不足ってことで大会メンバーからは外されてたし、そういう意味でも今まで大きい影響は無がったんだけどね」

 実力不足。人によっては残酷に聞こえる言葉だが、しかし水月ならばさもありなん、とさすがの真由でも思わずにはおれなかった。演奏もMMも、水月には基礎的な技量がずいぶんと欠けている。もしも彼女があの腕前で本番のメンバーに加わったとしたならば、その様は他の部員と比べてかなり目立ってしまう事になるだろう。それも、悪い意味で。

「水月ちゃんについては大体こんなとこかな。実を言えば私も水月ちゃんとは全然絡み無えから、そんな詳しいわけでもねえんだ。本当はもっと色々教えてあげれれば良がったんだべども、なんかゴメン」

「ううん、おかげで色々分かったよ。教えてくれてありがとう奈央ちゃん。それで、日向先輩のことなんだけど、」

「ああそうそう。てっきり真由ちゃんは知ってるもんだと思ってたんだけど、きっと聞かされてなかったんだよね。ちなつ先輩たちからは」

 何を? と首を傾げる真由へいたって滑らかに、奈央は一つの事実を打ち明けた。

「私らの一つ上の代だった当時の部長ってのが、ヒナ先輩なんだ」

 

 

 一通りの話が終わり屋上テラスを後にする奈央を見送ってから、一人残った真由は彼女から聞いた話をまとめに掛かっていた。要約すると、大体こんなところである。

 今から数年前の姫小時代、奈央や水月は強豪マーチング部に入部した。その翌年、突如として水月が顧問の方針に反旗を翻した。当時の部長だった日向が水月と顧問の間に立って調整や便宜を図った結果、姫小マーチング部はそれまでのスパルタ式をやめ緩い活動方針に転換することとなった。以後姫小マーチング部の趨勢は弱まり、この一件を知る部員たちは水月のことを警戒あるいは忌避するようになった。そしてそれは今も続いている……

 いくつかの謎が明らかになった一方で、まだ不明なところも残されている。そもそも水月はそこまでして、何故今も吹部に在籍し続けているのだろう? 部や顧問の方針と自分の都合が合わない。そういう生徒は他にもいないではない筈だが、そうなった時には概して『退部』という選択を取るものだ。なのに水月の場合、姫小の時も今回も、部内を引っ掻き回してでも部に留まることを選んでいる。彼女がそうまでする理由が、しかし真由にはどうしても解せなかった。

『私もユーフォを吹くのは好きなの』

『だから部活も、楽しくやりたいなあって思ってる』

 あれはいつのことだったか、水月はそんなことを言っていた。楽しく部活をする。そんな素朴な思いを彼女なりに実現しようと行動した結果がこの顛末だ、とでも言うのだろうか。それとも他に何かあるのか。こんな大それた形で体制に異議を唱えなければならないほどの何かが、彼女には。

「全然、分かんない……」

 フル回転させていた頭脳をはたと停め、真由は大きくうな垂れる。自分と水月とでは余りにも思考パターンが違い過ぎる。奈央から聞かされた水月の過去。それはしかし、彼女の真意を探り当てる根拠としては到底足りやしない。

「っと、もうこんな時間。そろそろ教室行かないと」

 ふと腕時計を見やった真由は、思いのほか時間を潰してしまったことに気が付いた。パート練習の開始時刻に遅れたら日向たちにどやされてしまう。慌ててテラスを出ようとしたその時、いつものように足元の方向から『シシリエンヌ』の調べが流れてきた。あんなことがあった直後だというのに、その一切をまるで意に介さぬかの如く、美しくたゆたうユーフォの音色は今日も穏やかなものだった。

 

 

「すいません、遅くなりました――って、あれ」

 駆け足で教室に飛び込んだ真由は、即座に異変を察する。ちなつはともかくとして、この時間にはいつも教室でパート練の支度を始めている筈の日向。その日向の姿も彼女の楽器もどこにも見当たらない。それに代わってという訳ではないのだろうが、お疲れ様です、と出迎えの第一声を掛けてきたのは泰司だった。

「ちなつ先輩たちは?」

「さっきのミーティングの後からずっと見てないっす。ぼうっとしてても仕方ないんで、俺らだけで個人練始めてるトコなんすけど」

「そうなんだ」

 さっきの状況を鑑みるにもしかして、ちなつと日向はどこかで個人練ついでにこっそりと、水月たちの処遇に関する協議を続けているのかも知れない。そちらはそちらでどうなっているのか気掛かりではあったが、何はともあれ遅刻を咎められずに済んだのは不幸中の幸いだ。はあ、と席に着いて楽器を置き、それから真由は畳んでいた譜面台の展開を始める。

「にしても、長澤先輩も三島もえれぇ自分勝手っすよね。練習についてけねえからこっちにゃ参加しませんなんて。特に三島なんか、春に中島先輩から注意されたの全然堪えてねえんじゃねえかって感じだし」

「そう言えば、そんなこともあったね」

「大体アイツ、人の顔見ればすぐ嫌味言ったり文句つけてきたりで、元から生意気なんすよ。だがら周りとトラブってんだっつう自覚も無えクセして、なに馬鹿くせえ事言ってんだってハナシっすよね。先輩だってそう思わねえすか?」

「んー、どうだろ。私の前では玲亜ちゃん、そんな感じでもなかったと思うんだけど」

 憤慨を隠さぬ泰司の言葉で改めて、真由は玲亜にまつわる諸々を振り返させられる。かつてちなつに真っ向から啖呵を切ってみせた玲亜。水月に諭され彼女に懐き、以後はいたって真っ当ないち部員としての立ち振る舞いをしていた玲亜。あれから何ヶ月も経ったせいか、それともこのところの玲亜がおとなしかったからか、春に起きた事件のことなんてすっかり忘れかけていた。

 そう、玲亜がおとなしかったから。

「ちょっと待って」

「はい?」

「玲亜ちゃんがちなつ先輩と言い争いしてたのって、あれいつ頃だったっけ」

「アレっすか? ええと。俺らが入部して間もない頃で、先輩たちがマーチングの練習でよく体育館行ってたりした時期だったと思うんで、確か四月の下旬ぐらいだったっすかね」

「それからの玲亜ちゃんって、パート内ではどんなふうに過ごしてた?」

「どんなふうに、ってあのアホ、いっつも俺にしつこく絡んできてマジうざかったっす。ったくアイツ、俺に何か恨みでもあんのかってぐらいで」

「ごめん、そういうことじゃなくて。パート練習中とか個人練とか、特にオーディション終わった後って、玲亜ちゃんどんな感じに練習してたの?」

「え、いや、俺、アイツの練習までは……」

 何故か答えにくそうに泰司が口ごもる。「それなんだけど、」と彼に代わって答えをくれたのは、オーディションでメンバー落ちしたコンバスの二年生女子だった。

「そもそもまともに教室さな(になど)居ねがったよ。パートで合わせる時もズタズタだったがら、注意したらすぐ長澤みてえに個人練してくるって出て行くもんで」

「それって、誰かに言われて?」

「ううん。二人とも自発的に」

 どろり、と胃の底でとぐろを巻くどす黒い苦み。彼女は今『二人とも』と言った。これは言い換えればつまり、玲亜が居ない時には水月もまたそこに居なかった、ということだ。そうやって個人練にかこつけパートから離れた二人が、どこで何をしていたのか。それを類推するのはそう難しいことではない。

「どしたの黒江さん? 何か顔色悪りいけど」

「え、いや、何でも」

 諸々の状況と諸々の情報。それが頭の中で組み合わさるのと同時に、ある一つの恐ろしい想像が浮かび上がってくる。

 そうだ。玲亜も元々は部の方針に懐疑的な人間だった。彼女の場合は直情径行な性格が災いしてちなつと正面からぶつかり合ってしまったわけなのだが、そんな玲亜のことを水月は『思わぬ収穫』と呼んでいた。あの日、水月と二人で玲亜を追いかけ彼女の本音を聞き出したことは、今でも良く覚えている。玲亜がすっかりおとなしい態度を見せるようになったのも、あれを境にしてのことだ。

 そして水月は玲亜を指導し、玲亜は水月に懐き、今や二人は良好な先輩後輩の絆を育んでいる。今の今まで真由はそう思い込んでいた。けれど水月の過去を知った今となっては、その認識が不十分であったことを認めないわけにはいかない。先輩後輩、というのは必ずしも間違ってはいないのだがしかし、それは責任ある年長者として危なっかしい年少者を教え導くという、世間一般にありふれたかたちのものではなかったのだ。

 十中八九、水月は玲亜を懐柔していた。彼女を自分の側へ取り込むために。

 

 

 

 その後のことは少々かいつまんだ話になる。予定されていた合奏練習の直前までパートに顔を出さなかった日向とちなつは、どうやら水月たちのところへ話をしに行っていたらしかった。それが交渉と呼べるものか、はたまた探りを入れた程度なのかまでは定かでないが、水月とその一団……日向曰く『独立組』は事前に教頭を始めとした関係教員たちにも根回しをし、どの部も使っていなかった中央棟二階の集会ルームを根城としていたらしい。

「それで具体的に何人ぐれえだのよ、その独立組さ加わった(かだった)連中は」

「六十八人。コンクールのメンバーでない一年と二年が中心で、特に一年はほとんど全員ってぐらい」

 合奏が終わった後の居残り練習中、さすがに状況を見かねたらしい雄悦の問いに、日向が渋面で答える。計百三十七名の曲北吹部にあって六十八名の離反者、というのは割合的にほぼ半数を占める。幸いにして低音パートからは水月と玲亜以外に独立組へ加わる者は居なかったようだが、パートによってはかなり悲惨な状況となっているらしい。

「で、先生さは?」

「まだ言ってねえ。一応水月たちと話して、その結果次第って思って」

「長澤は何て?」

「取りつく島もなし。もう決めた事ですので後はそちらでどうぞお好きに、だとさ」

 半ば悪態をつくように、日向がとげとげしく水月の口調を真似る。

「やっぱ先生さ相談した方が良ぐねえが? コンクールだって今週末だし、それが終われば今度はマーチングの練習始まるべ。人数足らねえってなったら大会どころの話でねぐなるぞ」

「んだよなあ、やっぱ」

 そんな雄悦たちのやり取りに、ちなつは口を挟まず沈思黙考を貫いていた。その表情があまりにも暗く澱んでいたもので、真由もつい心配になってしまう。

「ちなつ先輩、大丈夫ですか」

「……え。ああ」

 真由の声ではたと我に返った様子のちなつは、しかし苦しげに口角を吊り上げてみせただけだった。こちらに心配を掛けまいとしたのかも知れないが、歪なその表情はおよそ笑顔などと呼べる出来映えではない。そうこうしているうちに日向は腹を括ったらしく、よしっ、という一声と共に立ち上がる。

「こうしてても始まんねえし、永田っちに報告だけはしておくべ。最悪アイツらがマーチングに参加しねえって可能性も考えねえとだし――ちなつ?」

 ちなつはまだ椅子に座ったまま。腕に抱えたユーフォを手放そうともしていない。いつもの彼女なら、日向に急かされるまでもなく真っ先に立って動く筈なのに。

「……やっぱ、言わねえといけねえかな」

「だがら、今そういうハナシしてらったべ」

「あのさ。とりあえずコンクールまでは今の状況でやり過ごして、そんでマーチングの練習が本格化するまでに水月らと何とか話付けるってんじゃダメかな。あの子らの中さはコンクールのメンバーもいねえんだし、無理ってことは無えべ?」

「んなこと言ったって、コンクールまであと何日も無えんだで。それにあの子らがもし東北大会さ同席しねえなんて言い出したら、その時点で永田っちにもバレるべった。どっちにしろ遅かれ早かれだぞ」

「そこは私が水月らと交渉する。これ以降は好きにしたって良いがら、東北大会さだけは何とか来てけれ、って」

 さばさばと現実的な見解を述べる日向に対し、さっきからちなつは妙に食い下がろうとしている。この騒動が永田に知れると何かまずいことでもあるのか? 真由ですらもそう勘繰ってしまうぐらい、ちなつの意見は明らかに合理性を欠いていた。

「あのな、ちなつ。そンたこと言ってる場合でねえべ。それにもしヘタに言質取られて、後になってから『あのとき部長が好きにしていいって言ったので私らは知りません』なんて水月らが言い出したら、そん時は何とするのよ? 私らの判断だけで動いて結果マーチングがガタガタんなったら、部長の責任問題なんて言ってらんねえ事態だで」

「それは解ってる。けど先生に相談する前にどうにか上手く解決できれば、これ以上大きい問題にならねえで済むがも知んねえし」

「甘えよ、それは」

 間髪入れず、日向の痛烈なひと言がちなつを穿つ。

「あの水月が主導してんだど? 追従してる連中だって腹括ってんだろうし、ちょっとやそっとで手のひら返すような状況じゃねえ。だったらだったで出来るだけ早く永田っちに報告しとかねえと、今後どうなるかなんて保証はどこにも無えど。それともこの何日間かで独立組全員を説得できる材料が、今のちなつにあるっての? それだけの根拠が」

「それは……」

 返答に窮するちなつの無策ぶりを見透かすように「んだべ?」と、日向は断定口調で強く言い放った。

「現状このままにしておいたら、そのぶん傷口はでっかくなる。それに今こっちさ残ってる部員だって連中の勧誘で引き抜かれる、って可能性も考えねえといけねえ。もしそうなったら大会どころか部活としてだって、しっちゃかめっちゃかになっちまうど」

 日向の主張はまさしく正論をど真ん中で行くものだった。それに返す言葉も尽きたらしいちなつはただ深く俯き、口の端にほんの僅かの躊躇いと、噛み潰せぬほどの膨大な苦悩を滲ませるばかりだ。

「そういう状況でも何とかまとめねえと、っていうちなつの考えは分かる。だけどこうなっちまったらハッキリ言って、私らだけでどうにかすんのは無理だ。とにかく今はこれからの吹部をどうするか、そこを優先的に考えて動かねえと」

「……情けねえ。私、部長なのに」

「だがら、そンたこと言ってる場合でねえべって。部長っつったって所詮は生徒なんだし。ほれ、とにかく永田っちさ報告しに行こ。私も一緒についてくから」

 うん、と頷いたちなつが楽器を机に置き、よろよろと立ち上がる。二人が出て行った後、その場には真由と雄悦の二人だけがぽつんと取り残されてしまった。

「……大丈夫でしょうか、先輩たち」

「まあ、あの二人は付き合い長えから」

 それきり再び訪れる沈黙。よくよく考えてみれば、同じパートなのに雄悦と一対一で会話する機会はこれまでのところ皆無に等しいような状況だった。それに加えて奈央の一件もある。何も喋らないのは居心地悪いが会話をするのもどこか気まずい。そういうこちらの空気を彼もそこはかとなく読み取ってくれたのか、溜め息と共にそっぽを向いた雄悦は、詮方なしとばかりにぼそぼそ喋り出した。

「あいつらは前にも痛え目見てっからな、長澤のせいで。特にちなつは小学校時代からずっと長澤と直属の先輩後輩って関係だし、長澤が部に迷惑掛けてることに対しては負い目みてえなもんもあるんだと思う」

「ちょっとだけ聞きました。先輩たちの小学生時代のお話」

「んだのが。出どころは……おおかた松田辺りか」

「まあ、ええっと」

「別に隠さねくてもいい」

 ユーフォのベルを床へかぶせるように置き、それから雄悦は身を屈めるようにして、細い指を顔の前に組んだ。

「それに対してヒナは現実派っつうか、そういうとこあるがら。ぶつかってるように見えたかも知んねえけど、お互い相手のことは良く解ってるべがら、変な心配はいらねえよ」

「――けっこうしっかり見てるんですね、雄悦先輩。ちなつ先輩たちのこと」

「腐れ縁だがらな。割と」

 真由の指摘に照れくささを覚えたのか、雄悦が組んだ指先で鼻頭をごしごしとこする。

「一つお聞きしたいんですけど、先輩が小学生だった頃って、日向先輩が姫小の部長だったんですよね」

「んだ」

「じゃあ曲北では、どうして日向先輩じゃなくてちなつ先輩が部長になったんですか? 昔部長を務めてたっていう実績もありますし、トラブルがあってもああやって冷静に対応してくれるなら、今ごろ日向先輩が部長になっててもおかしくなかったんじゃないかって思うんですけど」

「そこは聞かされてねえのか。ったく、松田も中途半端に喋んなよな」

 指組みをほどいた雄悦が、やれやれ、と椅子の背もたれに圧し掛かるようにして天井を仰ぐ。シャツの襟から覗く喉仏は、彼が歳相応の男子であることを思わせる出っぱり具合だった。

「状況としては色々あったんだどもな。最終的にヒナがちなつを推したんだよ、自分よりもちなつの方が部長向きだって」

「日向先輩本人が?」

 んだ、と上を向いたままの雄悦が顎を縦に振る。

「元部長のヒナがそう言うもんだがら、うちらの小学校出身の奴らもみんなそれに賛成してな。結局は多数決で、ちなつが部長に決まった。それまではちなつ、気は強えけど今みてえにバンバン前さ出ていくってタイプでは無がったんだ。アイツがああなったのは去年から、部長になってからだ」

 真由がまだ曲北に居なかった時分の話。それが奈央や雄悦の口からぼろぼろと零れるにつれ、真由は次第にちなつたちの、いや、曲北吹部を取り巻く様々な状況をつぶさに把握し始める。

「そっからはちなつがリーダー、ヒナがそのサポートに回る形で、うちの吹部はずっとやってきた。パートのことは勿論だけど、部長としてどう行動すべきとか、どうやって部員たちを引っ張っていくかとか、ちなつは俺らに見えてねえとこで相当ヒナに相談しながらやってきたと思う。俺らだってちなつを部長として認めるようになったのは、冬が終わるちょっと前ぐれえの話だったし」

「それまでは、ちなつ先輩が部長だってことに異論もあったんですか」

「異論ってほどじゃねえけど、ホントに大丈夫かよ、っつう声が挙がったりはしてたな。ちなつもあれで視野が狭えっつうか、こうと思い込んだら突っ走るトコあるし。特に今回みたく、部員間でやばいトラブルが起こった時にめっぽう弱えんだよな」

 それは、何となく解らないでもない。玲亜との口論然り将来への展望然り、ちなつには『こうあるべき』を貫き通す芯の強さと、それ故に柔軟な対応を欠きがちな脆さとが一緒くたに内包されている。頭が固いと言えば聞こえが悪いのだけれど、彼女のそうした気質が良い方面に発揮されているのが普段の状態なのだとすれば、今回のような事例はまさしく悪い方面での発露と言えるだろう。

「そういう時は大体ヒナが仲裁に入って、それで毎回なんとか上手く収めてきた。ンだけど今回は水月が相手だがらな。姫小の時にしたって、ヒナも散々譲歩しまくった結果があれだったし」

「それも聞きました。そうするとつまり、ちなつ先輩が心配してるのって、来年以降の吹部のことなんでしょうか」

「……分がんね」

 にべもなく言い放ち、それきり雄悦が黙りこくったことで、教室は再び沈黙に包まれた。雄悦に対してこれ以上の切り込みづらさを覚える真由は、代わりに日向とちなつの関係性へと思考を巡らせる。

 これまで自分はちなつを理想的なリーダーだと考えていた。より正確に言えばそのリーダーらしさはある種、天性の才覚みたいなものだとばかり思っていた。のだがしかし、それはある一側面の見方に過ぎないものだったらしい。部長としてのちなつの姿は日向によって築き上げられたものであり、その日向はちなつを裏から支え、時には彼女に代わって部員間の仲裁や橋渡しを行うことで、吹部全体を円滑にまとめ上げてきたのだ。言わば日向は吹部における調停者、縁の下の力持ちみたいな存在。そうと知っていたからこそ、ちなつと玲亜が起こした口論に日向が割って入るであろうことを、あの日の水月は確信を以て予測できていたに違いない。

「たっだーま」

 そんな真由の思索を蹴破るように、呑気さすら感じさせる口調で日向が教室に戻って来た。彼女の傍らに、ちなつの姿は無かった。

「おかえりなさい。ちなつ先輩は?」

「帰った」

「帰った、って、楽器も置いたままなのに?」

「厳密に言えば家さ帰ったんでねくて、水月ん家さ行った。いちおう後でココさは戻るつもりだっつってたけど、あんまり遅くなりそうなら私が代わりに片付けとくよ」

 などと言いつつも、日向はちなつのユーフォやら私物やらをぱたぱたとまとめに掛かり始めた。音楽室を閉めるギリギリまでちなつが帰ってくることは無い。恐らく日向はそう読んでいるのだろう。

「で、永田先生は何て?」

 いの一番で雄悦が尋ねたのはそれだった。ユーフォの管内に溜まった水を抜きながら、んー、と日向が小さく唸る。

「まあ最初の反応は、参ったなあ、って感じ。夏休みのうちにコンテも書き終えて衣装も発注してあったから、もしこの状況が続くようだば本気でやべえってさ」

 何でもないような口ぶりで放たれた日向の報告に、雄悦だけでなく真由も内心驚きを禁じ得ない。え、と二人同時に声を詰まらせたのを見て、日向がうんざりしたように鼻で長く息を吐く。

「ちょっとー。まさかこの件がそう簡単に丸く収まるなんて、アンタらまで甘く見てたわけじゃねえべな」

「いや、甘く見てたとかじゃないんですけど、それってものすごく危機的な状況なのではないか、という」

「黒江ちゃん、焦りのあまりカタコトちっくになってるど」

「でもその、実際すごく焦ってます」

「ってか、結論はよ?」

「そう急くなよ、雄悦」

 一旦ユーフォの手入れを済ませ、今度はちなつの譜面台を手際よく畳みながら、日向が続きを述べる。

「とりあえずは、ちなつの案が半分採用。ただし期限は一週間。それまでの間にちなつが独立組と直接交渉して、何とかこっちさ復帰するよう説得する。コンクールについてはどうしようもねえから、最悪独立組が参加しねくても私らメンバーだけで現地入り。んで、もし説得が上手くいかないまま交渉期限が過ぎたら、」

「過ぎたら……?」

「さあてどうすっぺ、だってさ」

 がく、と真由は乗り出していた身を盛大に滑らせてしまった。そのぐらい、永田の判断はこちらにしてみれば『梯子を外された』感がある。雄悦もそれは同じだったらしく、何だそりゃ、と白目を剥いていた。

「焦ったって良いこと無い、ってことでしょ。とにかくこの一週間は粘り強く交渉してみれってさ。んで、来週また報告しに来いと。永田っちとしては自分の方針を部員側に強要したくはねえから、顧問としての判断は本当にギリギリまで据え置きにするって。まあそれも、ちなつが出来るだけ部員同士で話し合って解決したいって言って聞かねがったがらなんだけど」

「そのギリギリっていうのは、具体的にいつまでなんですか?」

「それも分がんね。ただ最終的には独立組が全員マーチングに出ない前提でコンテ書き直す覚悟もある、って」

 絶えず口を動かしつつ、器用にちなつの荷物をまとめ終えた日向は「よっこらしょ」とそれらを小脇に抱える。

「それ聞いてちなつはすぐ水月ん家さ行って来る、って職員室飛び出してさ。だがらまあ、後は連中との交渉次第。正直望み薄だとは思うけどね」

 つまるところ、状況としては限りなく絶望的ということだ。無論、人数が少なくたって大会に出ることは出来る。その中でより上位を目指すことも決して不可能ではない。ただ果たしてそれが本当に、曲北吹部の目的である『観た人の心を芯から揺さぶる演技演奏』となり得るものなのかどうか。離反した側のみならず、残留した自分たちの側にだって、そういう葛藤はある。こんな気持ちを抱えたままで、本当に心ゆくまで自分たちの音楽を突き詰めることなど出来るのだろうか? その自問に対する適切な答えを見出すことが、今の真由にはどうしても出来なかった。

「そんなわけで今日は早く音楽室閉めることになるから、二人もあんま遅くまで居残りさねえで、良いとこで練習切り上げれな。あ、私の楽器は後で片しに来るんでご心配なく」

 へばなー、と言い残し、日向はあっさりと教室を去ってしまった。また二人だけが取り残された教室内は心なしか、夏場とは思えぬ寒々しさだった。

「……俺らも帰り支度、始めるか」

「ですね」

 何より、こんな空気の中ではとても練習になど集中していられない。諦めて楽譜ファイルを閉じた真由の気分は完全に暗澹たるものだった。春の頃には確かに感じていた、音楽をすることに沸き立つような喜びの気持ち。それをここしばらく堪能できずにいることに、真由は心のどこかで、焦げた薪が燻るような感覚を抱き始めていた。

 

 

 

 

 

 

 あれから数日の間、ちなつは部活の合間合間に独立組のところへ交渉に赴き、その度に大した成果もなく戻ってくる、という不毛な日々を繰り返した。それでも足繁く通い続けたおかげか、『東北大会への同行だけはする』という条件を独立組から引き出すことに成功したのはつい昨日のことだ。

 そして現在は部員たちを分乗させた計三台の大型バスが、高速道路をひたすら北上しているさなかであった。年毎に各県持ち回りとなっているコンクール東北大会の開催地、今年は青森市の文化会館がその会場である。東北自動車道を経ること二百キロ超、片道およそ五時間は掛かるこの道のりを当日移動したのでは、部員たちの負担が大きい。そうした配慮から曲北は今回、一日早く青森市に入って一泊し、明日の本番を終えた後は再びバスに乗り夜遅くに秋田へ戻る、というスケジュールを当初から組んでいた。

 既にバスも宿舎も予約を押さえていた中で大量のキャンセル発生ともなれば、様々な方面に迷惑が掛かったことだろう。そうなるのを未然に防げただけでもちなつの努力は甲斐あった、と見るべきなのかも知れない。ただしそれは、彼女の本意とするところでは決して無かったのだろうけれど。

「……こんな空気になるぐれえなら、来ねくたって良がったって気もするけどな」

 そんな誰かの尖った呟きが、カツンと車中に跳ね返る。複数台にまたがって乗車する部員たちを、コンクールの出場メンバーとそれ以外とで選り分けることは難しい。またあからさまに独立組だけを一台のバスにまとめた場合、それはそれで悪い捉え方をされかねないという懸念もあった。結果、意見の対立する者同士が乗り合わせるかっこうとなった都合三台のバス内は、いずれもお葬式みたいにどんよりとした雰囲気に満ち満ちていた。

 いつもなら隣の席同士で会話を弾ませているはずが、今日は誰もが声を潜め、互いに様子を窺いながらひそひそと不満や苛立ちをこぼす。そんな中で何時間も過ごすことはほとんど苦行に近いものがあった。ようやく本日の宿舎に着いてバスを降りる頃にはすっかり身も心も凝り固まっていて、長距離移動はお手のものと自負していた筈の真由ですら、部屋に入るなり「どはあ」と旅行用のボストンバッグに突っ伏してしまったほどだ。

「あれれ、黒江ちゃんにしちゃあ珍しい。しかしまあ、部屋割りがこうなったのは不幸中の幸いってやつだね」

 潰れる真由を尻目に、日向とちなつがそれぞれ自分の荷物をどかりと畳の上に置く。宿の別館にあるこの閑静な和室、本来は四人部屋であるここを、今回真由たちが三人だけで使っているのには相応の理由があった。

 本番を翌日に控える中、メンバーと独立組を同じ部屋に置くのはさすがに精神衛生上よろしくない。そうした顧問判断により、部屋割りはなるべく出場メンバーの同パート員同士で固まるよう再配分されたのだそうだ。そのために急遽必要となった大部屋二つ分の料金は、これもあくまで噂でしかないのだが、やむを得ず永田がポケットマネーで支払ったとのことである。

「この後ってどういうスケジュールだっけ」

「昼メシ食ったあと、二時まで自由行動。その後もう一回玄関前に集合して、近くの公民館で明日のリハ練習」

「で、それさは独立組は来ねえって?」

「同行はするけど手伝いはさねえって。それで妥結したんだし、しょうがねえ」

 どこか事務的なちなつの態度に、フン、と日向が口をへの字に曲げる。

「ちなつ。分がってるべども、今日と明日は目の前のコンクールさだけ集中せえよ。ここまで来たら余計なこと考えたって仕方ねえんだからな」

「言われねったって分がってる」

 あの日以来、二人の会話もこんな刺々しい調子になってしまっている。それは決して二人の見解が噛み合わぬせいではない。あれこれと物言う日向に対し、ちなつがぶっきらぼうに返す。そんな二人のぎこちなさが、息も詰まるようなこの空気を醸成していた。

「さってと。せっかくの旅館なんだし、軽くその辺ぶらついて来よっかな。黒江ちゃんも一緒に来る?」

「ええと、お誘いは嬉しいんですけど、ちょっと移動で疲れちゃって……」

「何ぃ、それは良ぐねえなあ。だったらなおさら外の空気でも吸いに行かねえと」

 気だるげなこっちのことなどまるでお構いなしに、「ホレあんべ(いくぞ)」と日向がぐいぐい腕を引っ張ってくる。いや本当に勘弁して下さい、と抵抗するだけの気力も湧かず、真由は枕代わりにしていたバッグからほとんど強制的に引き剥がされてしまった。

「ほんじゃ私らちょっと出てくるから。悪いけどちなつ、留守番お願い」

「行ってらっしゃい」

 素っ気なく手を振るちなつに見送られ、真由と日向は連れ立って部屋を出た。つかつか進む日向はこの間一言も発さず、また足運びにも迷いの気配は見られない。これはまた例のお説教パターンか。そんなふうに半分諦めの境地で腹を括っていたのだがしかし、廊下の中ほどまで来たところで日向はやにわに真由の腕を放してくれた。

「黒江ちゃん。申し訳ねえけどちょっとの間、一人にしといてくれる?」

「一人に、って誰を? 日向先輩をですか?」

「私でねくて、ちなつの方」

「ああ、」

 そこでようやく、真由は日向の突飛な行動に得心がいく。

「それじゃ日向先輩はそのために、わざわざあんなこと言って私を連れ出したんですね」

「まあね。アイツもここんとこ動き過ぎで疲れてるし、合間合間に休ませねえとカラダ持たねえからさ」

「そういうの、直接ちなつ先輩に言ってあげた方が良くないですか? 今のうちに休んでおけって」

「それやると却って落ち着かなくなるんだよ、アイツの場合。『一人で休め』って言われるよりも『アタシらちょっと出てくる』つって一人で置かれた方が、緊張の糸をほぐせるタイプだがら」

 みょんみょん、と両手で糸を伸び縮みさせるような仕草を見せる日向に、真由もくすくすと微笑する。

「日向先輩はちなつ先輩のこと、良く解ってるんですね」

「まあね。つっても、休ませてえってのは実のところ半分で、私もずっとあそこさ居るのが窮屈だがらでもあるんだけどな」

 頭の上に腕を組み、うーん、と日向が大きく上体を反らす。ボキボキ鳴らされた背骨の音は、彼女の身にもまた多大な疲労が溜まっていることを物語っていた。

「ちなつさ、アイツ、私に遠慮してるトコあるからさ」

「遠慮?」

「人から何かを譲られてる、施しをもらってる、っていうのかな、それを申し訳なく思うような気持ち。もちろん感謝の意識が強えって意味では悪りいことじゃねえんだけど、でもそれも度を越せば、頑張ってきた自分を認めてやれねえ弱さでしかねえんだよな」

 日向の言っていることが解るようで解らない。しばし怪訝な思いに囚われながら、真由は苦渋を深める日向の表情を見やる。

「人のことなんか気にさねえで、自分の思った通りやってみれば良いのに。それが出来ねえの、ホントちなつって不器用なんだがら」

 日向のそれは真由に語って聞かせるというよりは、ほとんど独白のようなものだった。それに気の利いた言葉の一つも返せぬまま、真由はただ俯くことしか出来ない。

「おっと、こっちまで暗くなってちゃダメだでな」

 肩身を狭くするこちらの様子に気付いた日向が、ポケットからじゃらじゃらと何かを取り出す。その中からふたつまみほどを取り分けると「手ぇ出して」と、それを真由に握らせた。

「ほいこれ。ヒナ先輩から黒江ちゃんへの心付け」

「心付け……ってこれ、お金じゃないですか」

「それでジュースでも買っといで。黒江ちゃんもホントは部屋で休んでたかったろうけど、無理やり連れ出しちゃったお詫びのしるし」

「いいですよそんなの。受け取れないですって」

「黒江ちゃんが良くても私が気にすんの。難しく考えねったって良いがら、先輩の言うこと聞いたご褒美ー、ぐらいに思って取っときなって」

「でも」

「でも、けど、禁句。私は杏んとこにでも行って、適当に時間潰すからさ。もし黒江ちゃんもしっかり休みてえって思ったらこっちおいで。移動の時間まで仮眠ぐらいは取れると思うし」

「……じゃあ、お言葉に甘えます。ありがとうございます」

 硬貨を握った手を胸に当てて真由が殊勝にお辞儀をすると、日向が申し訳なさそうに眉尻を下げる。

「悪いね。何の関係も無え黒江ちゃんにまで色々面倒掛けちまって」

「関係無いなんて、そんなこと無いです。私、ちなつ先輩と日向先輩の後輩ですから」

 その一言に込めた想いは、きっと彼女に伝わったのだと思う。日向は珍しく頬を紅潮させ、それと共に嬉しいような恥ずかしいような、という表情をやんわりと浮かべた。

「ありがとな、真由ちゃん」

 へばまんずね、と踵を返し、日向は廊下の向こうへと去っていった。いつもは自分のことを苗字で呼ぶ日向が、初めて名前で呼んでくれた。それがどうにもくすぐったく思えて、自ずと頬が緩むのを感じる。ほんの少しの間だけ一人で嬉しさを噛み締めた後、真由もまた振り返り、ジュースを求めて心当たりのある場所へと向かう。

 自販機は本館ロビーの脇、売店のすぐ傍に併設されていた。先ほど貰った硬貨を投入し、どれにしようかと指を迷わせた末にロイヤルミルクティーのボタンを押す。ガシャン、というけたたましい音と共に取出し口へ転げ落ちた、寸詰まりな円筒缶。それを拾い上げ、結露を始めた表面の印刷をじっと見つめる。奢られるのは苦手なのだが今回ばかりは仕方なかった。だってあそこで受け取らなかったら、却って日向の気を病ませてしまっただろうから。

 さて、これをどこで飲もう。正面ロビーのソファ……には独立組の子たちがたむろしている。彼女たちはこちらに気付いてはいないようだが、一人あの中に加わるのはバスの車中よろしく気が休まりそうに無い。さりとて杏の部屋で日向と過ごすのも、さっきの今なので何となく気が引ける。せめてミルクティーを飲み干すまでの間、どこか一人で落ち着けるところを。そう思ってしばし館内をうろついた真由が辿り着いたのは、本館の外れにある薄暗くて人けの少ない非常階段のふもとだった。

 カーペット敷きの階段に腰を下ろし、ぷしゅ、とプルタブをこじ開ける。飲み口から漂う芳醇な茶葉の香り。まず鼻腔でそれを堪能し、次に口をつけた真由は、舌の上に広がるお茶の渋味とミルクの旨味に小さな安堵を覚えた。たっぷりの糖分に心癒されつつクピクピと缶を煽るうち、疲れに濁っていた体の感覚は徐々に明瞭さを取り戻していく。

「……やめてよ」

 とその時、どこからか聞こえた何者かの喋り声に、耳がぴくりと反応した。方向からして、声がしたのは上階から。どこか聴き覚えのあるその声の出どころへ向けて、真由はそっと目を閉じ聴覚を凝らす。

「だけど、やっぱりどうしても話しておきたくて。お願いだから聞いて、お姉ちゃん」

 今度はハッキリ聴き取ることが出来た。さっきのものと良く似た声色だが、よくよく聞くと抑揚のつけ方や発音の強さが違う。お姉ちゃん。声の主は確かにそう言っていた。これはひょっとして。おもむろに立ち上がり、足音を立てぬようにそろそろと階段をのぼる。

「何の話だか知らねえけど、私、アンタと話すことなんて何も無えがら」

 二人の姿が見えぬギリギリのところまで接近した真由は、そこに身を潜めて会話の行方を探る。ここまで来る頃には、二つの声の主はもはや歴然としていた。階段の裾からちょっとだけ首を伸ばして様子を窺い、そして真由は推測を確信へと変える。

 良く似た姉妹。けれど、全然違う二人。そこで向かい合っていたのはやはり、ゆりと楓だった。

 

 

 

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