私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~   作:ろっくLWK

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〈15〉姉と妹 親しき者

 非常口のランプだけが灯された暗い階段。ここから先は恐らく雑具置き場か何か、普段使われていないスペースになっているのだろう。『立入禁止』というプレートをぶら下げたチェーン、その向こう側で、秋山楓と秋山ゆりは真っ正面から対峙していた。フロア半個分ほど低い位置から二人を目撃してしまった真由は、口を押さえて階段の陰に身を隠し、密かに事の成り行きを見守る。

「お姉ちゃんには無くても、私にはある」

 ぶるぶる震える両手を握り締めながら、それでも楓は敢然と姉に物申そうという気迫を見せている。他方、ゆりは心底うざったそうに顔を背けたままで、一つとして相手に向き合う姿勢を示さない。

「私、ずっとお姉ちゃんのこと心配してらったの」

 決然と切り出した楓には、それでもまだ幾ばくかの恐怖心が残っているのだろう。えっとな、そのな、と迷うように言葉を選びつつも、彼女は一つずつ秘めた想いを打ち明けていく。

「私、ずっとお姉ちゃんに憧れてた。お姉ちゃんみたいになりたくて、お姉ちゃんと一緒に吹きたいって思って、それで私もマーチング始めて。だけど小学校の頃はお姉ちゃんと一緒に吹けねくて、私ずっと寂しかったんだよ。その頃からお姉ちゃん、私ともあんま喋ってくれねくなって。何て言うかその、お姉ちゃんが遠くに行っちゃったみたいな気がして」

 必死に言葉を紡ごうとする楓に対し、ゆりはただ不愉快そうな表情で沈黙を貫いていた。彼女のそういった気配を感じ取るのは、あのオーディション前の対話以来だ。びりびりと全身の毛を逆立てつつも、真由はその場に留まり続けることを選ぶ。と言うよりもむしろ、場を支配する圧力と緊迫感のせいで下手に動くことが出来なくなってしまっていた。

「けどこうやって中学ではおんなじ吹部に入って、やっとお姉ちゃんと一緒に吹けるって思って。まだマーチングはあるけど、コンクールじゃこれがもう最後になるかも知んない。そう思ったらせめて明日だけでもお姉ちゃんと一緒に吹きたいって思ったの。ただ吹くんでねくて本当の意味で、お姉ちゃんと一緒に」

「……何よ、本当の意味って」

「だってお姉ちゃん、ずっと苦しそうだから」

 ぎり、と拳を握り込み、そして楓はゆりに一歩近付いた。

「音を楽しむ、って書いて音楽。なのにお姉ちゃん、いつも苦しそうに演奏してる。昔みたいに楽しんでない。私だってそんくれえ解るよ。ずっとお姉ちゃんを見てたから。ずっとお姉ちゃんのこと、心配してたんだから」

 こんなにもいたいけな楓の想いは、しかしゆりにはきっと欠片ほども届いていない。そのことはゆりの態度を見れば明らかだった。それどころか、と真由は息を呑む。今すぐこの場に割って入るべきか。それともこのまま静観を貫くべきか。いずれであっても相応の危険性を孕む選択に、思考は大きく揺さぶられる。

「今までずっとそうして来たけど、でも見てるだけじゃあ結局何にも解決しねえって思った。そんで明日がもう本番でしょ。私、このままじゃダメだって思って。それに、お姉ちゃんにもこのまま終わって欲しくなんかない。私には分かんねえけどお姉ちゃんには何かきっと、コンクールに拘る理由があるんだよね? それ、話して欲しい」

「無えよ、そんなの」

「無いわけない。お願いだからちゃんと話して。私に出来ることがあったら、何だってするから」

「アンタに、出来ること……?」

 それまで氷の温度を保っていたゆりの表情筋が、ぴくりと引き攣ったように歪む。

姉妹(きょうだい)でしょ、私たち。お姉ちゃんが何か悩んでるなら力になりたい。それがお姉ちゃんのためでねくて自分のためだってのは分かってる。軽蔑されたって良い。けど、それでお姉ちゃんが音楽の楽しさをもう一回思い出してくれるなら、私はそれで良い。苦しそうなお姉ちゃんと一緒に音楽やってるの、辛いよ」

「じゃあ正直に言えばアンタ、私の言う通りにしてくれるっての?」

 地を這うように低い声で尋ねたゆりに、もちろん、と楓が顔を輝かせる。それはいけない。反射的に真由がそう声を上げようとした矢先、ゆりの喉から信じられないほどの大音声が吐き出された。

「冗談じゃねえ!」

 怒気に漲る面相。苛立ちに震える奥歯。それは今までに見たゆりの中で最も強い恐怖を感じさせる、修羅のごとき姿だった。

「楓、アンタ本当に何にも分かってねえ。なんで私が楓のこと避けてたのか。なんで私が中学で吹部に入ろうって思ったか、なんで私がコンクールメンバーになるために必死こいてたか! 私のこと心配してた? だったら一つぐれえ言い当ててみせなさいよ。ここまで的外れな態度取って、バカにすんのもいい加減にせえよ!」

「お、姉、ちゃん……?」

 突如として豹変したゆりを前にして、何がどうなっているのかも分からぬまま、楓はただただ恐懼していた。ひとたび噴出させたことで、閉ざすべき蓋を見失ってしまったのだろう。ゆりは内側から煮えくり返る感情を遮ろうともせず、その全てを楓へと叩きつけていく。

「どうしても分かんないなら、何でか教えてあげる。それもこれも全部アンタが居たから。転校して友達もなかなか出来ねくて私が悩んでた時に、アンタはあっさり友達作ってマーチング始めて、毎日へらへら楽しそうにして。それがうざかった。アンタなんかと同じところで毎日一緒に過ごせるかって思って、だから私は小学ん時マーチング部には入らなかった」

 苛烈極まるその告白は、相手にいかほどの衝撃を与えたことだろう。細く筋肉質な楓の脚ががくがく震えているのが、この距離からでも見て取れる。さっきまでの熱っぽさは血の気と共にすっかり引け、その代わりに噴き出た脂汗がべっとりと、彼女の額を包んでいた。

「これも言っとくけど、私はあのまま音楽から離れるつもりでいた。けど中学に上がって吹部に入る気になったのは楓、アンタを見返すため。進学してまっさらな環境から始められたら私だってアンタみたいに楽しくやれる、って思ったの。実際楽しかったよ、アンタが吹部に入ってくるまではね」

「私、が?」

「そう。ブランクもあったし下手くそだったけど、それでも私は楽しかった。学校で、部活で過ごしてる間だけは、アンタのことを意識しなくて済んだから。けどそれも去年、アンタが吹部に入ってきたことで終わった。ただ入っただけじゃない。アンタはその頃から周りに認められて、コンクールでもメンバーさ選ばれて。そのせいで私がどんだけみじめだったか分かる? 姉のくせに妹よりも下手なんだーとか、優秀な妹と比べられて可哀想とか、そんなふうに言われる私の気持ちが」

 ぎりり、と音を立てて剥き出しにされたゆりの歯茎は、血が滲んでいるかと思うほどに真っ赤だった。怒りのボルテージは収まるどころかどんどん高まり続け、ついには目を血走らせながら、尚もゆりは叫ぶ。

「アンタもさぞかし恥ずかしかったでしょうけどね、出来の悪い姉で。心配してる、なんて良く言えたもんだよ。どうせだったら『こんな下手なお姉ちゃんなんかと一緒に吹きたくねえ』ってハッキリ言やあ良いじゃん」

「違っ。私そんな、そんなひどいこと、思ってなんか、」

 がふ、と息をつっかえさせた楓の瞳がじわじわと滲む。彼女のそんないじらしさも、今のゆりにとっては全くの逆効果。それこそ火に油を注ぐようなものだ。

「泣きてえのはこっちだよ。ここまで妹にバカにされて、本当イライラする。だがらアンタとなんか話したくなかったんだ」

 唾するように言い放ち、そしてゆりは楓に肩をぶつける勢いで詰め寄った。

「アンタが吹部に入ってから、私は絶対負けらんねえって思ってた。お父さんお母さんに怒られたって、何としてでもコンクールさ出てアンタのこと見返してやるつもりだった。もう分かったでしょ。私がこうなったのは全部アンタのせいなんだよ、楓!」

「きゃ、」

 ドン、という鈍い音と共に上がった小さな悲鳴。ゆりに突き飛ばされた楓はよろめき、階段の壁に寄りかかるようにして、なおも禍々しい形相のゆりに怯えの視線を向けていた。

「言う通りにしてくれるって? だったら私の前から消えてよ。アンタ見てると腹が立ってしょうがない。自分だけイイ子ちゃんして何にも悩まず生きてきたようなアンタに、こんな私のことなんて分かりっこねえ。分かって欲しくもねえ」

「お姉ちゃん……、お姉ちゃん……」

「それでもアンタが消えねえってんなら、私の方から居なくなる。それでいいでしょ。――もう、私に関わらねえで」

 最後のひと言を吐き捨てたゆりが、こちらへ向かって降りてくる気配。咄嗟に真由は足音を殺して階段を降り、別館につながる廊下の壁へピタリと張り付く。もしもゆりがこちらへ来たら一発でバレる――という絶体絶命の状況ではあったものの、幸いなことに彼女の向かった先は逆方向の本館側。廊下が絨毯張りだったおかげもあって、どうにか足音を悟られずにも済んだ。けれどあの子は、楓は。彼女のことが気に掛かり、真由は再び階段のふもとへと赴く。

「ごめん、ごめんな、お姉ちゃん……私、そんな……そんなつもりじゃ……」

 突き飛ばされたその場にうずくまったまま、人目も憚らず幼な子のように声を上げ、楓は泣きじゃくっていた。あまりに痛々しい結末。こんなことになるなら無理やりにでもあそこで二人を止めておけば良かった。強い後悔の念に苛まれながら、それでも今の真由には、悲嘆に暮れる楓をひとりにしてあげることしか出来なかった。

 

 

 

 水月による分裂騒動。それに伴うちなつの不調。そして秋山姉妹の確執。こうした諸々の問題を抱える曲北吹部は、さながら三重苦の様相を呈していた。こんな状況下では本番前最後のリハーサル練習も満足にこなせる筈が無い。こういう時には顧問から、何か気の利いた言葉の一つでも……そう期待する向きもあれど、結局はそれすらも無いまま、曲北は本番前最後のリハーサルを終えざるを得なかった。

「ヤバいなー。まさか今日になって木管までガタガタんなるとは」

 宿舎の部屋へと戻った日向が開口一番、大げさな溜め息を吐きながら広縁のリラックスチェアにドッカリと座り込む。当然ながらと言うべきか、ちなつは日向に言葉を返さずむっつり黙り込んだままだ。

「明日本番だで? もう立て直せるような状況でもねえし、こりゃ腹括んねえとダメかもな。なあ真由ちゃん」

「え? はい。いやその、」

 唐突に名を呼ばれ、真由はしどろもどろになってしまう。日向に『真由』呼びされるのがまだ慣れていないせいもあるが、こうなった事情を知っている身としてはどうにも返答のしづらい問い掛けであったことも確かだ。

「特にクラとサックスな。あそこがメチャメチャだと今回の自由曲は全然締まらなくなっちゃうし。昨日まではまだマシだと思ってたのに、パート内で何かあったんだべが」

 ぼやく日向をよそに、真由はリハーサル中の秋山姉妹の様子を振り返る。ゆりは憤懣やるかたなし、という様子を隠し切れず、荒ぶるサックスの音色は一切周りと調和していなかった。そして楓の方はと言えば、こちらはもっと深刻だ。定まらぬ音程に加え、ビブラートとは到底呼べない不安定なだけの音圧。いつもなら滑らかに吹きこなす連符でもことごとくつまづき、あまりの惨状を見かねた永田によっていっときの間、代理の人間がソロを吹くよう指名されてしまったほどだ。そんな二人に引っ張られたかのように、木管周りの演奏はほとんど壊滅的な事態となっていた。

「事情聴取じゃねえけど、ちょっと話聞きに行ってガス抜きした方がいいんだがも。どうするちなつ?」

「どうするって、何を」

「だがら今言ったべ。クラとサックス、どうにかした方がいいんでねえかって」

「何ともならねえよ、私なんかが出しゃばったって」

 今日のちなつは何だか随分と投げやりなことを言う。そう真由が思っていると、日向がおもむろに立ち上がり、ずかずかとちなつへにじり寄った。

「今の、どういう意味だ」

 静かに問うた日向に、ちなつは漠然と物憂げな表情を浮かべたままで口を閉ざしていた。

「オメエ部長だろ。こういう時に状況把握の一つもさねえで何とすんの。何だよ、私なんかって」

「だって私じゃ、力不足だし」

「あ?」

「そうだよ。やっぱ私なんかにゃ部長なんて出来っこねがったんだ。部がこんなガタガタになってんのも、それをどうにも出来ねえでいるのも全部、私が部長として頼りねえから。そんな私にこれ以上、何が出来るってのよ」

「ちなつ、」

 日向がその表情を大きく歪める。後ろ向きなことばかりを宣うちなつに少なからず失望の念を抱きそうになったのは、真由とて同じだった。

「私には無理だ。そんな言うんだったら、ヒナが私の代わりに行きゃあいいじゃん。私なんかと違って、ヒナにはそんだけの能力があんだから」

「ふざけんなよ、オメエ――」

「やめてください!」

 ちなつの胸ぐらに掴みかかった日向を見て、堪らず真由は声を張った。これ以上誰かが言い争うところを見るのなんてもうごめんだ。そういう思いで発した強い言葉が、日向をあと一歩のところで踏みとどまらせる。ちなつもまた呆気に取られたように、いつになく険しい顔つきの真由へ瞠目をくれていた。

「お願いですからやめてください。――先輩たちまでそんなふうになってるの、見てて辛いです」

「……ごめん、真由」

「私も。つい、カッとなって」

 ゆるゆるとちなつの襟から指を離し、日向はくたりとその場に座り込んだ。それを見てもう、話さずにはいられない、と真由は意を決する。

「あの、さっきの木管の話なんですけど。実は私、リハ前の散歩中に階段のところで――」

 

 

「……そんなことがあったなんて」

 一部始終を話し終えると、ちなつと日向はそれぞれ得心したように小さな唸りをこぼした。

「それにしたって、まさかあのゆりが、楓に対してそういう風に思ってたなんてな」

「おとなしい子だからね。内側に溜め込んでたっつうか、感情を上手く処理できねがったのかも」

 はい、と首肯し、それから真由は続ける。

「けど私は、楓ちゃんも必ずしも悪くなかったとは言えないのかもって思います。楓ちゃんがお姉ちゃんの、ゆり先輩のことをもうちょっとだけ理解出来てたなら、少なくともあそこまで怒らせるようなことにはならなかったんじゃないかって」

「まあ、そこは結果論みたいなトコもあるけどな。踏み込んだのが楓からだった、っつうだけで、いつどんなキッカケで爆発したっておかしくねえような状況だったんだろうし」

 冷静さを取り戻した日向は、真由の拙い説明でも秋山姉妹の内情を十全に察してくれたようだ。そのことと、場が落ち着きを取り戻したことへの安堵感から、真由はそろりと息を吐く。

「けどタイミング悪すぎたなあ。せめてコンクールシーズンに入る前か、東北大会が終わってからにしてもらえりゃあ……っていうのは私の偽らざる胸中だな」

「それは多分、私にも責任があります」

 自戒を込め、真由は二人の前で白状する。ゆりの楓に対する憤怒を知ったあの時、自分は楓にその全てを詳らかにすべきだった。例えそれで楓がショックを受けることになったとしても、あるいは姉妹の衝突を早める結果になったとしても。そうすれば楓に、吹部全体に、ここまでの深手を負わせてしまうようなことにはならなかった筈だ。

「そこは今さら言ったってしょうがねえよ。こうなるって最初っから分かってたわけでもねえんだし。真由はあんまり気に病むな」

 そんな気遣いの言葉が出てくる程度には、ちなつの精神状態も普段のそれに近いところまで回復してきたようだ。はい、と返事をした真由はしかし、ゆりと楓のことを思うと未だ複雑さを拭いきれずにいた。

「けど原因が分かったところで、じゃあどうすっかって話だよな。うちも姉ちゃんいるから分かるけど、姉妹喧嘩ってけっこう面倒くせえモンだからなあ」

 ぶはー、と息を抜いた日向が天井の蛍光灯を仰ぎ見る。

「もうこうなったらゆりに直接、とりあえず形だけでも楓さ謝れ、って説得してみるとか?」

「それはどうだべ。確かにゆりがキツいこと言ったのは良くねえって思うけど、そこだけ謝らせたって結局、根底は何も解決しねえわけだし」

「じゃあ楓を思いっ切り慰めて、無理やりにでも立ち直らせるとか」

「それも難しいと思います。楓ちゃん完全に落ち込んじゃってますし、明日の本番までにどうにかなるかって言われると……」

 考えあぐねる三人がほぼ同時に嘆息を洩らす。光明の見えぬ苛立ちからか、日向は「ぐわー」とでんぐり返りを打ち、畳敷きへ大の字に寝そべった。

「ああもう。大体ゆりにしたって、あんま小難しく考えんなって話なんだよな。妹がどうであれ自分は自分。そういう気持ちで居さえすりゃあ、楓のことなんか気に掛けなくたって済むってのに」

「そうかな。私はほんのちょっと解る気がする、ゆりの気持ち」

「どういうことです?」

 尋ねる真由にちなつは小さな苦笑を返し、そしてぽつぽつと、まるで自分語りをするように言葉をこぼし始めた。

「きっとゆりはさ、自分なりに目いっぱい頑張ってきたんだよ。転校でまっさらな環境に来て、友達もいねえところでなかなか周りに馴染めねくて、それでも頑張ろうとして、けど上手く行かなくて。そんな自分のすぐ横をスイスイ、って何の苦もなく通り抜けてった楓のことが妬ましいっつうか、羨ましかったんだと思う」

「……ちなつ」

 身を起こした日向が何かを言いたそうに口を開き、そしてまた閉じる。

「そういうのってあるじゃん? 自分なりに頑張ったのにどうにもなんねえ、何でこんな頑張ったのに報われねえんだ、どうして自分だけこんな思いしてんだ、っていうの。他の人は難なく上手にやってたり、そもそもそんな苦しい思いなんて一つもしてなかったりするの見てさ、ああ、なんで私はこうじゃなかったんだろう、ってゆりは思っちゃったんでないかな」

 ちなつによって紐解かれるゆりの心理。そこにはひとりでにちなつ自身の心理が重ねられている。真由には何故か、そんなふうに思えてならなかった。

「そう思えば思うほど、すぐ目の前で楓が楽しそうにしてんのが、きっとゆりには辛かったんだと思う。本当はゆりだって楓みたくなりたかったんだよ。けど、なれなかった。その辛さをゆりは、楓を憎む気持ちにすり替えた。他の人から見たらバカくせえって思われる話だろうけど、でも私は何か、ゆり一人を責められねえ気もする。目いっぱい頑張ったのに何一つ報われねえのって、本当に辛えことだって思うから」

 ちなつのその言葉に真由はハッとなった。努力が報われぬことの辛さ。それはついこの前、悲恋に沈んだ奈央を通じて、真由もまた直面していた問題だったから。

「ごめん、私ちょっと出て来る」

 シンと静まり返った空気を破るように、ちなつが勢い良く立ち上がった。どこへですか? と問うた真由に、ちなつは久しく見せることのなかった明度の高い笑顔を覗かせた。

「ゆりのとこ。それでちょっと二人で話してくる。問題の解決はできねえかもだけど、何か溜め込んでるものを吐き出せるところがあった方が、あの子もちょっとは気持ちが楽になるでしょ。それぐらいだったら私にも出来るかなって」

 そんなちなつの様子に日向は一瞬目を見開き、それから安堵するように、ふつりとその表情を和らげた。

「んだね。そうと決まったら行っといで、部長」

「うん。ヒナ、悪いけど留守番よろしく」

 言うが早いか、ちなつはスリッパを突っかけぱたぱたと部屋を出て行った。その背を黙して見送ったあと、あーあー、と日向が脱力したように喉を鳴らす。

「良かったです。ちなつ先輩、ちょっとだけ希望が見えたみたいな感じで」

「そだねえ。でもまあ、私としちゃあちょっと寂しいトコもあっかなー」

「寂しい、ですか?」

「手の掛かる妹がやっと自立してった、みたいな? 良く解らんけど」

「そうですか」

 きっと日向はちなつの姿勢に彼女の前進を見出したのだろう。それは小さな一歩かも知れなくとも間違いなく、彼女のこれからを大きく左右する一歩になる。そんな確信を抱いていることを、真由は日向の表情から読み取る。

「先輩。私、ちなつ先輩を部長に推薦したのが日向先輩だって、ある人から聞いたんですけど」

「んあ? ちょっと誰よー、そンた大昔の話を真由ちゃんさ吹き込んだの」

「誰なのかはともかく、私それがずっと気になってて。日向先輩がちなつ先輩を部長に推薦したのって、ちなつ先輩なら吹部をしっかり引っ張っていけると思ったから、なんですか?」

「んー」

 すぐに答えぬ日向はポットのところへ這い寄り、ザラザラ、と急須に茶葉を入れた。続けてお湯を注がれた急須からは、香り豊かな日本茶の匂いがふんわりと漂う。

「ほい」

 コトリ、と目の前のテーブルに置かれる二つの湯呑み。日向はそのうちの一つを上から鷲掴みにして無作法にお茶をすすった。真由も湯呑みを傾け、いったん喉を潤してから姿勢を正す。

「これ、他の部員さは絶対言わねえでな。勿論ちなつにも」

「はい」

「私がちなつを部長にした理由はたった一つ。ズバリ、ちなつを繋ぎ止めたかったから」

「繋ぎ止める、ですか?」

 日向から出てきたのはあまりにも予想外な言葉だった。部長になることが、どうしてちなつを繋ぎ止めることになるのか。疑問を抱かずにおれぬ真由を可笑しがるように、日向は一つ含み笑いを落とす。

「ちなつのことは真由ちゃんも、もう大体分かってると思うけど。中学に上がってすぐの頃にアイツが吹奏楽やるかどうか迷ってたの、実は私気付いてたんだ。だもんで、しばらくは仮入部もしないで様子見してた。まあ要するに、ちなつが入る気無えなら私も吹部さは入らないつもりだった」

 日向の湯呑みの中ではゆらゆらと、小さな茶葉の欠片が舞い踊るように波紋を描いていた。それを眺めるでもなく、視線を落とした彼女は湯呑みを茶托へと置く。

「日向先輩はどうやって気付いたんですか、ちなつ先輩が吹部に入るつもりが無かったことに」

「女の勘、ってやつかな。理屈じゃ上手く説明できねえ。ただ何となく、小学校卒業する辺りで、コイツきっと音楽辞めるつもりなんだなって感じてさ」

 それはつまるところ、ちなつの言動や態度の端々からその空気を感じ取っていたということなのだろう。彼女たちの場合は『阿吽の呼吸』と言い換えることも出来るのかも知れないが、実際にはそう容易いものではない。

「そん時さ、ちなつが音楽から離れるかもって思った時、私は、私はね、怖かったんだよ」

「何が、です?」

「ちなつがいなくなっちゃうのが」

 緩慢に漂うお茶の香り。それが場を和ませているのか、日向はいたって落ち着いた口調を保っていた。

「私とちなつは小っちゃい頃からの幼なじみだった。だから何となく、一緒で居るのが当たり前みてえに思ってた。けどちなつの母ちゃんが亡くなって、ちなつが家事とか弟の面倒見るからっつって一緒に遊ぶ時間が極端に減った時、私からちなつが離れてったような気がしたの。仕方ねえことなんだ、ちなつん家は大変なんだ、って何べん自分に言い聞かせても、ちなつがいなくなるのがどうしてもイヤで。だから逆に色んな理由付けて、私はずっとちなつから離れないようにしてた」

 さっきお茶を飲んだばかりだというのに、急速に喉がからからに渇くような錯覚。それは日向も同じだったのかも知れない。特に意識したわけでもないのに、二人はほぼ同時に湯呑みを口へと運ぶ。

「小学校のとき、ちなつをマーチングに誘った本当の理由もソレ。一人で入部すんのが怖かったんじゃねえ。ホントのところ私は、ちなつのいない世界に飛び込むのが怖かった」

「そんな理由で、ですか?」

「おう、そんな理由よ。でも小っちぇえ頃なんてみんなそんなモンでしょ?」

 クツクツと笑い、そして日向がグイと一気にお茶を飲み干す。

「あの頃はそれでも良かった。だけどいざ中学に上がってちなつが吹部に入る気がないのかもって思った時、じゃあ私は何やろうって考えた途端、頭ん中が真っ白になっちゃってさ。びっくりするぐらい何にも無かった。音楽やりたいも、チューバやりたいも、私の中には何にも。今度はそれが怖くなった。こんなカラッポな自分ってちょっとやべえんじゃねえか、って真剣に悩んだぐらい」

 空いた湯呑み。それをころんと爪弾き、日向は自嘲の吐息をこぼした。

「だからちなつが吹部に入る気になった時はさ、嬉しいってより助かった、って気持ちだった。私はまだちなつの傍に居られる、離れ離れにならなくて済む、って。そう、あの時の私は多分ちなつに依存してた。ちなつの居ない自分ってのが解らなかったって言った方が、存外正しいんだかも知んないけどさ」

「それって、今は違うってことですか?」

「どうだろ。案外そんな変わってねえかもだし、変わったつもりでもいざちなつが居なくなったら、やっぱりカラッポな自分に気付いちゃうのかも知んねえな」

 日向が言葉を切った隙に、真由は残っていたひと口ぶんのお茶をごくりと嚥下する。ていねいに茶葉を避けたつもりなのに、舌の上には粉末のようなざらりとした感触があった。

「けど去年、先輩らが引退して次の部長を決めるってなった時、これはいい機会だなって思ったんだ。音楽から離れるつもりでいるのに音楽が好きでどうしようもねえちなつを、音楽に繋ぎ止める。それには楽器だけでねくてもう一つ、何か他に動機みたいなものが必要なんじゃねえかと思った。それが、」

「ちなつ先輩を部長にすること、ですね」

 そう、と頷いた日向が二つの湯呑みを手に取り、のそのそと膝歩きで部屋の隅にそれらを戻す。同じ姿勢で引き返しながら、日向は喋り出した。

「もともと責任感強えし頑固過ぎるくらい真面目な奴だから、人を率いる立場になったらそうそう辞めるなんて言い出さねえべ、っていう打算もあった。でもそれよりも仲間っていうものに意識を向けさせて、仲間と一緒に最高の音楽を楽しむ、そのために部長としてみんなを引っ張っていくっていう体験があれば、ちなつはまたいつか音楽をやりたくなる日が来るんじゃねえか、って」

「でも日向先輩は、それで良かったんですか?」

 真由はあえて日向に切り込んだ。ちなつが音楽を、その仲間たちを大事にする。それは確かに彼女を音楽に繋ぎ止める上では一つの手立てとして有効だろう。けれどその一方で、ちなつが音楽の道を選ぶ時、その傍らに日向がいられるという保証なんてどこにも無いことの筈だ。日向がそれにどこまでもついていく、というのならば話は別だが。

「さて、そこが日向ちゃんの摩訶不思議タイムよな」

 あっけらかんと言い放ち、そして日向がそのまま広縁へと歩いていく。もうすっかり日暮れ時を迎えた窓の外の空は、薄ぼんやりとした茜色に包まれていた。

「それまではどうにかしてちなつを自分の内側に繋いでおきたい、って思ってた。それがどうして外側に繋ごうって思うようになったのか、今でも分かんない。頑張ってるちなつを見てるうちに考えが変わったのか、それとも実は私もどっかで踏ん切りつけねえとって思ってたんだか。だけどいつの間にか、こんなふうに考えるようになってた。アイツは、ちなつはこんなトコで燻ってていいような奴じゃねえ」

「勿体ない。前にそう言ってましたもんね、ちなつ先輩のこと」

「そういう見方が出来るようになった、ってことだよ。子供からだんだん大人になって来て、世の中の色んなことが見えるようになって、自分のこともちなつのことも、そういう外側目線から見れるようになったんだかな。子離れならぬちなつ離れっつうか、上手く言えねえけど多分、そういうコト」

 最後は少しあやふやな物言いで、日向は強引に言葉を結んでしまった。理屈についてはさて置くとして、彼女のその心理は分からないでもない。白から黒へ。裏から表へ。そんなふうにある点を境としてハッキリと変化することが出来るのならば苦労は無い。けれど例えば、幼虫が美しい蝶となる前には蛹の段階を経過するように、人もまたどろどろな半熟の状態を経て確立された誰かに、何かになってゆくのだろう。自分たちはまだ半熟の真っただ中。これからたくさんの経験を経て少しずつ変わってゆく、まさにその過渡期にあるのだ。

「今の私は、ちなつが本当に満足の行く生き方が出来るんならそれで良い、って思ってる。そのために私に出来ることがあるなら力を貸してやりたいし、全力で応援してやりたい。だからちなつ自身がいちばん主体的に動いてくんないとさ、私が困っちゃうってワケよ」

「手助けしたくても何をどう助けてあげたらいいのか、分かんなくなっちゃいますもんね」

「そうそう、そういうこと。真由ちゃんもずいぶん成長したもんだね。いやあ、あの頃が嘘みてえに大っきくなって」

「まだ春からそんなに時間経ってないですよ」

 くすくすと二人して笑い合い、それから日向は「さて」と壁の時計に目をやった。

「そろそろ晩ご飯だし、真由ちゃんは先に食堂行っといでよ。明日は本番なんだし、ちゃんと食ってちゃんと休まねえと体持たねえど」

「先輩はどうするんですか?」

「私? 私はここで待ってるよ、ちなつが帰って来んの」

「そうですか」

「多少遅れたって、私らは部長権限でどうとでもなるからさ。ほら、食いっぱぐれねえうちに行った行った」

「はい、それじゃお先に失礼します」

 手を振る日向に見送られ、真由は部屋の入り口へと向かう。そしてそこで振り返り、

「日向先輩」

「おん?」

「きっと、すごく良かったんだと思いますよ。ちなつ先輩にとって、日向先輩がずっと傍に居てくれたこと」

 直接言うのが照れくさかった真由は、そう言い逃げするようにして部屋を出る。――ありがとう。戸が閉まる寸前、部屋の中から微かにそんな声が聞こえた、ような気がした。

 

 

 

 

 

 

 あれから夕食を経て、ちなつは再びゆりのところへ赴き、夜遅くまで何か話し込んでいたようだった。消灯の時刻になっても部屋に戻らなかったちなつのことを、しかし真由はちっとも心配していない。それは誰あろう日向が第一に、ちなつの心配をしていなかったからだ。

『アイツはもう大丈夫。余計な気ぃ回してねえで、私らは私らのことだけ考えてるべ』

 そう言ってくれた日向には半分申し訳ないのだが、こちらとしてはそうもいかなかった。元を正せばこの一件は自分の不手際から起こったことだ。例えどんな結末を迎えようとも、それに対して自分が毅然と振る舞えるだけの覚悟を持っていたならば、こんなに多くの人が心を痛めることもなかったに違いない。それにちなつに出来るのは、あくまでゆりと膝を突き合わせて話をするところまでだ。本当の意味で問題を解決するためにはもう一つ、果たさなければならないことがある。

「すいません先輩。ちょっとお時間いいですか」

「黒江、さん?」

 それは翌朝、まだ皆が朝食に起き出すよりも前のこと。こっそりとゆりの部屋を訪れた真由は、相談したい事がある、と言ってゆりを中庭まで連れ出すことに成功していた。無言でついてくるゆりを背にして、真由の緊張の念は否応なしに強まる。けれど今さら逃げ出すことなど出来やしない。大丈夫、自分の役割はそんなに難しいことじゃない。そう何度も己に言い聞かせながら敷地内をそぞろに歩き、足元に砂利を敷かれたベンチのところで真由は振り返る。

「あの。相談の前に私、ゆり先輩に謝っておきたくて。オーディションの時、先輩を怒らせるようなことしちゃってすみませんでした」

「え。いや、別にそんな。あん時は私もオーディション前で気が立ってただけっていうか、」

 やにわに謝罪のお辞儀から入ったことで、ゆりはすっかり面食らったようにあたふたとしている。それは半ば真由の算段通りの反応だった。

「あれから私も色々考えて。私にはきょうだいが居ないので、先輩の気持ちが良く解ってませんでした。そのことがずっと引っかかってて、だから、今日の本番の前に謝っておきたいなって思いまして」

「いいよもう。私は気にしてねえし、黒江さんもあん時のことはもう忘れて」

 昨日の激昂ぶりがどこかへ飛び去ってしまったみたいに、今日のゆりはすっかり鎮まっていた。それはきっと夜更けまでとっぷりと、ちなつと語り合ったお陰もあっただろう。ただしそれは必ずしも、ゆりの心の傷が全て拭い去られたことを意味しているわけではない。ここからの発言は慎重に。ゆりから見えない角度で深く息を吸い、そして真由は勢いよく面を上げる。

「それで、ここからが本題なんですけど」

「ああ、はい。相談ね」

「えっと、上手く言えないんですけど、これは私の友達の話でして」

 ゆうべから何度も頭の中でシミュレーションしていたのに、いざ喋ろうとすると上手く呂律が回らない。頬の筋肉もどこか強張っている。しっかりしろ。ふとももを指できつく抓ね、その痛みで真由は己を律しようと努める。

「その友達にはお姉ちゃんがいるそうで、その子自身はお姉ちゃんがすごく大好きなんです。けど、とっても不器用な子で。そのせいでお姉ちゃんとすれ違ったりぶつかったりして悲しい思いをしてるんですけど、どうにかお姉ちゃんにその気持ちを伝えたいって思ってるらしくて」

 真由の話が進むにつれ、ゆりの顔つきがだんだん神妙になっていく。それは何を言いたいのかと訝しんでいるのか、それとも或いはこちらの思惑を察してのことか。どっちだって構わない。自分は自分のやるべきことをやるだけだ。

「だけど思い切って気持ちをぶつけてみたら、却ってお姉ちゃんを怒らせちゃったらしくて。もしかしたらその子にも悪いところがあったのかも知れないんですけど、その子はその子なりに必死なんです。だから、その子とお姉ちゃんがどうすればもう一度折り合えるようになるのか、それをゆり先輩から教えていただきたいっていうか」

「つまり、相談の相談、ってこと?」

「そういうことになります」

 用意していた文言を一通り喋り切って、それから真由はじとりとこめかみに浮かんだ冷や汗を隠すように、前髪をいじるフリをした。

「ダメ、ですか?」

「別に構わねえけど、そんな相談、どうして私に?」

「先輩、言って下さったじゃないですか。困ったことがあったら相談に乗るからって。それにこういうことって、やっぱり実際に妹が居る人に聞いてみないと分からないですし。その時に思い浮かんだのが、ゆり先輩だったんです」

 言質。春に掛けられた彼女からの温かい言葉を、すなわち真由はここで利用したのだった。ずる賢いと思われたっていい。これは画策ではなく、あくまでも相談なのだ。同じ姉の立場から、ゆりならどうすれば妹の話を聞く気になるのかという、ただそれだけの。そしてこれが相談である以上、ゆりは必ず真摯な回答をよこしてくれる筈だ。答え自体は何でも良かった。ただそこへ至るまでの思考を通じて彼女が自分を、そして楓のことを、ほんの少しでも客観的に見てくれさえすれば。

 眉を潜めるゆりは考え込むふうでもなく、ただじっとこちらの瞳を覗き込んできた。その目に怒りや憎しみといった感情の色は浮かんでいない。「お願いします」と真由が重ねて頭を下げると、やがてゆりは瞼を閉じ、何かの決断をするように鼻から息を吐いた。

「私の考えで良ければ、だけど。黒江さん、そのお友達にこう伝えてあげて」

「はい」

「きっとお姉ちゃん、今は怒ってなんかねえから。ただ自分の中のもやもやを誰かにぶつけたかっただけ。難しいこと考えないでもう一度話してみようって気になったらきっと、そのお姉ちゃんの方から謝ってくると思うよ。ひどいこと言ってごめん、って」

 そう告げるゆりの表情のあちこちには、この朝焼けの空模様みたいな清々しさと、ほんのちょっと諦観めいた侘しさのようなものが散りばめられていた。クス、と吐息を洩らしたゆりは足元の砂利を確かめるようにつま先を動かし、それからくすぐったそうに身をよじる。

「その子自身には何の悪意もなかったんでしょ? したら悪いのはそのお姉ちゃんの方だよ。本人だってそれは分かってると思う。今頃はきっと、ずっと冷たくしてごめんね、って思ってるんでねえかな」

「ゆり先輩……」

「これはあくまで私の予想な。もし外れたって責任取れねえけどって、そこはちゃんと強調しといて」

「分かりました。絶対ちゃんと伝えます、その子に」

 真由がそう返答すると、ゆりは頭の後ろに手を組んで「あー、」と反り返るように伸びをした。

「全く。人間ってどうしてこう単純なんだべ、たった一晩でこんなあっさり変わっちゃうなんて」

「どういうことですか?」

「こっちの話。何もかもアホらしくなったっていう、ただそんだけ」

 そこまでで『相談』が終わったことを、彼女もとっくに気付いていたのだろう。じゃあね、と手を振りゆりは宿舎へ戻っていく。その後ろ姿を黙って見送りながら、真由は心の中でそっと彼女へ最大級の謝辞を送った。

 

 

 その後、彼女たち姉妹の間に何があったのかは分からない。真由に出来たのは、ゆりから貰った言葉を朝食後に楓へほぼそのまま伝えたこと。それでもなお臆する楓に『きっと大丈夫』と励ましの言葉を掛けてあげたこと。それだけだ。

「フルート、全員揃ってる?」

「メンバーは全員オッケーです」

「クラは?」

「楓がまだ来てません」

 出立の準備を終えた曲北一行が玄関に集合する中、欠員がいないかの点呼において、ゆりと楓だけが何故かその場に居なかった。他は独立組も含めて全員揃っているのに。部員たちからそういう不審がるような声も上がり始め、やむなくちなつが二人の部屋まで様子を見に行ってみたものの、そこにも姉妹の姿は見当たらなかったらしい。

「部屋さいねえってなると、本館のどっか?」

「二人揃って便所かどっかに籠ってるんでねえべな」

「どうする、そろそろ出発の時間だぞ。館内放送でも掛けて貰った方が良くねえ?」

 ちなつを取り囲んだ数名のパートリーダーたちが口々に見解を述べる。そのとき真由は、背後の方に固まっている独立組の集団からこんな声が漏れ出たのを、確かに聴き取った。

 ざまあ見れって。

 昨日のリハでも調子崩してらったんでしょ、合わせる顔が無くて逃げたんだよ、きっと。

 私らのことをぞんざいに扱ってるからこういうことになるんだ。

 さあて、次の交渉で向こうはどう出るんだかな。

 ほとんど怨嗟と言って差し支えないそれらの声に、真由の胃がきゅるりと熱を伴って委縮する。己の内に沸き立つ解析不能なその感情は少なくとも、「肩身が狭い」という類のものでないことだけは確かだ。

「ごめん、みんな先にバスさ乗ってて。私はもっかい館内探してみるから、それでも出発の時間に間に合わねえようなら――」

「あっ、来た!」

 ちなつが決断を下しかけたその時、部員の一人が後方を指差す。その方角からぜえぜえと息をつきながら駆け寄って来たのは、ゆりと楓、肩を並べて走る秋山姉妹だ。

「ごめん、遅れた!」

 その場に着くなり、ゆりは皆へ向けて盛大にこうべを垂れた。遅れてすいませんでした、と楓もそれに続いたことで、それまで雑言を吐いていた独立組もやきもきしていたメンバー達も、皆一様に毒気を抜かれてしまったようだった。

「もう、大丈夫なんだが?」

 ゆりのところに近寄ってその肩に手を置き、ちなつはゆりに尋ねる。

「うん。いろいろ心配掛けて、ごめん」

「全くだで。本番終わったら二人とも、みっちり説教な」

 ニヤリとちなつが犬歯を浮かべる。ゆりと楓は互いの顔を見合わせ、はにかむように苦笑をこぼした。彼女たちのそんな姿はここにいる誰よりも美しく、そして慎ましかった。

「さあ、それじゃ移動します。今日の本番、全員悔いの残らないようにしっかりやりましょう」

「はい!」

 出場メンバーたちが意気揚々とあいさつをする中、独立組はどこか不服そうな表情のまま無言でバスへと乗り込んでいく。その折、真由は一台後ろのバスへ乗り込もうとする水月の姿を見つけた。他の独立組と違い、いたって平常通りといった態度でステップをのぼっていく水月。不遜さすら思わせる彼女のその態度は、いみじくも一つの集団をまとめ上げた首魁らしく、不気味なほどの落ち着きを保っていた。

 

 

 

「はい。えー、どうにか今年もここまで来ることが出来たわけですけれども」

 チューニング室の壇上にて、タキシード姿の永田がメンバーたちに本番前最後の声掛けをする。あと十数分もすれば、自分たちはここではなく本番のひな壇に座ることになる。その緊張みなぎるこの場に居合わせているのは出場メンバー五十名と、楽器や用具の搬入出を補助する僅かなサポート要員だけだった。

「ここんとこ色々なトラブルがあって、正直みんなも混乱してるところが多いんでねえかと思う。こういう状態で本番を迎える、っつうのは先生も音楽人生初のことです。ただあえて厳しいことを言うども、そういう身内のゴタゴタはホールに居るお客さんさは何の関係も無えことです。ステージに立って演奏したもの、それが全てであり、一度出してしまった音には言い訳も釈明も一切出来ません」

 いつになく厳しい口調で、永田は皆の顔を見渡しながら続きを紡ぐ。

「だからこそ本番を迎えたら音楽だけに集中して、全力を出し切る演奏をやらねばなんねえ。みんなの本番は今、この時だけ。後になってから後悔したって取り戻すことは出来ないんです。それは何もコンクールだけで無え。今日ここで悔いのない演奏をすることが、これからの自分にとってきっと大っきな財産になる。そう思って本番、胸を張って曲北の音楽をやり遂げましょう」

「はい!」

「時間です」

「へば移動すっか。荒川、よろしく」

「はい。みんな、行こう!」

 永田から部員たちの誘導を受け継いだちなつが、部長らしく毅然と号令を飛ばす。それに従って部員たちは真っ暗な舞台袖へと移動し、そこで前の団体の演奏を聴きながら本番の時が来るのを待った。さすが各県大会を勝ち抜いて来ただけあって、舞台上の彼らの演奏力は秋田県大会の出場校よりも数段上だ。東北大会のレベルの高さを真由も肌で感じ取る。だが他校は他校、曲北は曲北。ここまで来たら後は振り返ることなく、自分たちに出来る最高の演奏を目指す。やるべきことはただそれだけだ。

「真由ちゃん」

 その時誰かに袖を引かれ、振り返った真由は暗がりに目を細める。よくよく見れば、それはクラリネットを手にした楓だった。

「あのな、真由ちゃん。ありがとう」

「え?」

「お姉ちゃんから全部聞いた。荒川先輩や真由ちゃんに、いろいろ気付かされたって」

 楓はどこか照れくさそうにもじもじと横髪を弄る。いつもと違ってしおらしく振る舞う彼女は、それはそれである種の尊さを覚えるものがあった。

「私は何も。それより、良かったね楓ちゃん。ゆり先輩と仲直りできて」

「うん。お姉ちゃんに謝ってもらって、それで私もお姉ちゃんにごめんね、って。すぐにはお姉ちゃんのこと解ってあげられないかも知れねえけど、これからは自分の気持ちだけで突っ走るんでねくて、ちゃんと相手のことも考えながら動こうと思う」

 えへ、とこぼした楓の笑みは、気恥ずかしさに加えて心からの喜びに満ちていた。そんな彼女の笑顔を取り戻せたことは真由にとっても何よりの報酬だ。

「私、今日の本番、お姉ちゃんと一緒に目いっぱい全力で頑張る。真由ちゃんも頑張ろうね」

「うん、一緒にがんばろう」

 ファイト、とお互いにガッツポーズをし、そして真由は気を引き締める。コンクールの舞台でちなつや日向と共に吹けるのはこれが最後になるかも知れない。だからこそ後悔の無いように。永田からも戒められたその一言を強く胸に刻み、真由は吸い込んだ息を一斉に吐き出す。冴え渡る意識にやる気が漲るのを感じたのと時を同じくして前の団体が演奏を終え、ホールには大きな拍手が溢れ返った。

 下手(しもて)からぞろぞろと暗がりの舞台に踏み入り、曲北の一同は各々の席へと座る。真由の両隣にはちなつと雄悦。前方にはサックスに小さく息を吹き込むゆりや、クラリネットの指回しを確認する楓の姿もある。地区大会から一人として欠けることなくメンバー全員で迎えた今日という日。たった一日限りのこの舞台を大事にしたい。そんな思いに、真由は胸を熱く焦がされる。

「続いての演奏はプログラム十一番、秋田県代表、大仙市立大曲北中学校。課題曲Ⅰ。自由曲、『聖母に捧げる賛歌』。指揮は永田栄信です」

 アナウンスの声が場内に響き、続けてぼうっと明るみを強めたライトが自分たちを照らす。一瞬の静寂。ステージに立つときの高揚感はいつだって新鮮で、たまらない。指揮台に上った永田は一度メンバーをぐるりと眺め、それから手に持った指揮棒を高々と振り上げた。

 トランペットを主体として編まれる厳かなファンファーレ。コラール調の出だしから始まったそれは次の場面で一転、リズミカルな行進曲の様相へと姿を変える。木管の澄み渡ったメロディと共に歩みは進められ、チューバやコンバスがそこへ足跡を残すように刻みを打っていく。

 トロンボーンの勇壮な音色と共に勢いを増すと思いきや、フルートとグロッケンが軽やかにそこへ割って入り、後から追従した木管が金管の力強さに引き戻されるようにして進行は元の場面へと戻る。杏に率いられたトランペットの快活さによって曲は中盤の盛り上がりに達し、そして今度は楓らクラリネットが主体となって穏やかな曲調を描き出していく。

 その合間をひらひらと踊るピッコロの音色。再度金管が勢いを取り戻すと共に全体の音がじわりと強みを増し、三連符をもってトランペットが前面に飛び出したのを合図にリタルダンド。そこから更にティンパニーのロールを経て、階段を踏みしめるようにクレッシェンドしていく。金管中低音のオブリガートが曲を彩る中、夜明けの爽やかさを存分に主張しながら幾つもの楽器が音を重ね合わせ、課題曲の終幕は鮮やかに整えられた。

 楽器から口を離し、真由は楽譜を『聖母に捧げる賛歌』へと差し替える。譜面に入った幾つものメモ。カット箇所を覆う黒塗り。そして、ユーフォソロを指定した記号。そこへは注釈として『ちなつ先輩のソロ!』と明記してある。そのことに悔しさはない。これが彼我の実力の差であり、そうであってもなお、自分はこの曲北の面々に加わって演奏が出来ることを純粋に喜んでいる。音楽は強さじゃない。かつて誰かが言っていたそんな言葉を真由は自分なりに飲み下し、そしてまさに今この時、強烈に実感していた。

 ぷつんと糸を切るような手つきで繰り出された永田の指揮によって、冒頭を飾るフルートとクラリネットのか細い音色が場に紡がれていく。月明かりの夜闇にただひっそりと埋もれるようにして開始された第一楽章『天上からの使者』は、ホルンの呻くような音色を基調に一つずつ丁寧に音を積み上げていき、やがてトランペットとトロンボーンの豊かな響きによって黎明の時を迎えた。一つずつをゆったり詠み上げるように主題を歌う和香のオーボエソロ。そこへ引きずられていくようにサックスがなだれ込み、主題を継承した楓のクラリネットソロがシロフォンを伴って情緒豊かなメロディを奏でる。彼らの背後を支えるようにして金管は重厚なハーモニーを響かせ、聴衆を包み込んでいった。

 続く第二楽章『奇跡の道標』は、緩やかなテンポでもって構成された行進曲のような曲調となっている。しずしずと前進していく金管低音をベースとして、クラリネットの編み上げた心地よい和音の数々が場内を満たしていく。曲のモチーフが少しずつ形を変えて現れては消えて行き、その合間をひゅるりと抜け出でるようにしてフルートソロが涼やかな音で場面を独占する。そこへ連なるクラリネット、サックスの軽やかな足取り。さらに金管までもが加わり、演奏は混然一体のうねりとなってステージを飛び出しあまねく観衆の元にまで届けられた。

 第三楽章はそれまでの希望的な側面とは異なり、ファゴットの奏でるどこか不穏げなメロディから始まる。残酷な運命を打ち鳴らすシンバル。悲痛な叫びを上げるホルン。規律正しく鳴らされるスネアやバスドラムの振動は軍隊のそれを思わせる硬質さを孕んでいた。緊迫感を増しつつも、徐々に曲のボルテージは上がってゆく。木管の甲高い音はさながら悲鳴のように方々を飛び交い、重低音を主体とした破滅的なまでの総奏が観客席を緊張の色でべたりと塗り潰し。『裏切りと磔刑』。聖人の死を目の当たりにした人々の絶望と嘆きを存分に吹き鳴らし、そしてすうっと掻き消えた音色の只中で、隣のちなつが小さく息を吸った。

 無念さをにじませるようにして、しかし滔々と奏でられていくユーフォの美しく深い音色。すっかり聴き慣れていたはずなのに、今日のソロには普段と比べて何倍もの情感と、さっきまでの悲憤すら丸ごと呑み込む優しさとがふんだんに込められている。そんなふうに錯覚してしまうほど、ちなつの吹く主題は極限まで磨き上げられた宝石の如き圧倒的な透明感と輝きを放っていた。ユーフォソロから受け継いだメロディをよりドラマチックに演出する木管の音に乗って、金管の悲哀に満ち満ちた重奏がどっと観客席へなだれ込んでいく。その波濤の最後、微かな残滓を残すような音色で一つずつを丁寧に吹く雅人のトロンボーンソロは、あたかも太陽を失った宵闇のごとき暗澹ぶりだった。

 そしていよいよ最終楽章、『聖人の復活』。暗く哀しみの淵に沈んだところからフルートが、クラリネットが、一つずつ身を起こしていく。柔らかく差し込んだ光のような杏のトランペットソロを受けて木管の連符が細やかに動き回り、鼓動を思わせる音のさざ波を生み出す。柔らかくて暖かい日差しのようなハーモニクスの醸成。耳と息をフルに使い、真由もその豊かな広がりを膨らませていく。一つのフレーズが途切れたのと同時に楓は息を吸い、活き活きとクラリネットのソロを奏で始めた。

 その音は喜びに満ちていた。感謝に溢れ返っていた。ベースを支えるサックスの音色と共に、楓の吹くクラリネットは新しい命を得て天衣無縫の振る舞いを見せる。クラのソロが終わり、重低音は躍進を強調するようにクレッシェンドしていく。最高潮に高まった感情はホール全体を余すところなく席巻し、そして到達した頂点から一気に駆け下りた。

 堂々たる行進を思わせる大音声。高らかに打ち鳴らされるチューブラーベル。神々しさをまとった音の洪水を、自分たちがこの手で生み出している。その感覚を真由はこれでもかという程に味わい尽くす。すべてが渾然一体となったフェルマータの総奏は、完璧と呼ぶにふさわしい見事な一致ぶりだった。ぐるん、と翻る永田の腕に合わせて全ての音はぴたりと(とど)められ、全ての演奏に終止符が打たれる。

 マウスピースから唇を離した真由たち曲北を待ち受けていたのは、会場中から鳴り響く最大級の拍手だった。ちなつも日向も、ゆりも楓も、きっと今は清々しい表情に満ちているに違いない。そして、自分も。鳴りやまぬ拍手を全身で受け止めながら、肩で息をする真由がその時見ていたもの。それは恐らく、ずうっと前から真由が求めてやまぬものだった。

 

 

 

 

「……でも、そんだけ満足の行く演奏が出来ても結果がついてくるとは限らねえ、っつうのが現実の厳しいトコだよなぁ」

 そうぼやきつつ、後席の日向が肩をすくめる。今は既に帰りのバスの車中。表彰式、部の代表としてちなつが手にした曲北の結果は「東北大会金賞」と書かれたトロフィー、それだけだった。

「全国への代表権なし、か。いわゆるダメ金ってやつだけど、でも地区大会からずっとやって来て、今日が私ら最高の演奏だったって思う」

 前の席に座るちなつがしみじみと満足の意を述べた。その気持ちは少なくとも、出場したメンバーのほぼ全員が共有出来ていたに違いない。どこかつまらなさそうに静まり返る独立組はともかく、メンバーやサポートを務めてくれた面々は皆一様に笑いあるいは一様に泣き、互いを讃え合うようにして今日の本番を振り返っていた。

「ゆりのサックス、すげえ良かったと思うで。いつもあんなふうに吹いてたらもっと良いと思う」

「やだ、私なんか全然だって」

「そうやってすぐ謙遜すんの、ゆりの悪い癖だで。もっとこう胸張ってさあ、『やってやったど、えらい私!』って自分を褒めてやんねえと」

 そんなふうに隣のゆりを鼓舞してみせるちなつに、そうだそうだ! と日向も便乗する。すっかり困ったように俯いてしまうゆりの姿を見て、和香はどこか嬉しそうにクスリと吐息をこぼし、それからメガネをずらして眦を拭った。

「なんか、来る時よりもみんな仲良しって感じだね」

「んだね」

 真由もお隣の楓と顔を見合わせ、ふふっと笑い合う。もしかしたら今までの楓は不安に押しつぶされそうな日々の中で、どこか焦っていたような節があったのかも知れない。そう考えてしまうぐらい、姉と和解できた今の楓はひどく落ち着いていて、ゆりとそっくりな穏やかさを基調とした佇まいを獲得していた。

「そうそう……実は私、真由ちゃんに話しておきたいことがあってさ、それで隣の席さ座らせてもらったんだけど」

「わざわざ?」

「まあ実のとこ八割くらいは、単純に私が真由ちゃんの隣さ座りたかったから、ってだけなんだけどね」

 にへ、と照れ隠しのように一度笑い、楓はちょいちょいと真由を手招きする。いつだったかも別の人がこんなことをしたような。淡い記憶をほじくり返しつつ、真由は彼女の口元へと耳を寄せた。

「あのね、真由ちゃんに知っといてもらおうと思って。長澤さんのこと」

「長澤さんって、うちのパートの水月ちゃん?」

 ひそひそと問う真由に楓は無言で頷きを示し、それから再び、こう耳打ちをしてきた。

「ずいぶん前の話だけど、私、長澤さんと仲良くしてた時期があったんだ」

 

 

 

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